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私は婚約者をインターンに譲る

私は婚約者をインターンに譲る

By:  おひつじCompleted
Language: Japanese
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結婚式の前日、婚約者は彼の女のインターンに、私たちの婚姻届を代わりに提出させた。 けれど、受け取った婚姻届受理証明書に記されていたのは、そのインターンの名前だ。 婚約者はちらりとそれを見て、淡々と言う。 「ああ、時雨(しぐれ)のドジだな。書類を間違えただけだろ。 また今度、新しく作ればいい」 私は耳を疑った。 ただの「ドジ」で、私の人生を左右する結婚が台無しになる? それでも私は泣き喚きはしなかった。ただ黙って結婚式の準備を続けた。 結婚式の日、私と指輪を交換する新郎を見て、婚約者の顔色が真っ青に変わった。 「おい、俺、婚姻届を新しく作れって言ったよな?お前、やってないのか?」 私は悔やむように言う。 「ごめん、私のドジだね。新郎を間違えちゃった。また今度、いい?」

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Chapter 1

第1話

結婚式の前日、婚約者は彼の女のインターンに、私たちの婚姻届を代わりに提出させた。

けれど、受け取った婚姻届受理証明書に記されていたのは、そのインターンの名前だ。

婚約者はちらりとそれを見て、淡々と言う。

「ああ、時雨のドジだな。書類を間違えただけだろ。

また今度、新しく作ればいい」

私は耳を疑った。

ただの「ドジ」で、私の人生を左右する結婚が台無しになる?

それでも私は泣き喚きはしなかった。ただ黙って結婚式の準備を続けた。

結婚式の日、私と指輪を交換する新郎を見て、婚約者の顔色が真っ青に変わった。

「おい、俺、婚姻届を新しく作れって言ったよな?お前、やってないのか?」

私は悔やむように言う。

「ごめん、私のドジだね。新郎を間違えちゃった。また今度、いい?」

……

川崎司遠(かわさき しおん)が最後の言葉を吐き捨て、書斎に入っていった。

私は固く閉ざされた書斎のドアを見つめる。

胸の奥にぽっかりと穴が開いたみたいに、呼吸のたびに痛みが広がっていく。

誇りにしてきた八年の愛情は、その「間違えただけ」の一言で、まるで平手打ちのように私の頬を叩いた。

震える指先で、私は名前をつけていない連絡先にメッセージを送る。

【十日後、私の新郎になってくれる?】

送った瞬間、スマホが二度震える。

返ってきたのは、短いひと言だ。

【いい】

私の心は、ゆっくりと沈んでいった。

スマホが再び鳴る。両親からのビデオ通話だ。

画面の向こうで、彼らは満面の笑みを浮かべている。私は胸が締めつけられる。

「飛鳥よ、今日は幸せいっぱいだろう?証明書、見せてくれないか」

私は手のひらに爪を立てて、無理やり笑顔を作る。

「ごめん、オフィスに置き忘れちゃって。次回は見せるね」

「結婚式の準備はどうだ?順調か?」

「うん、順調。明日はウェディングドレスの予約に行くよ」

ローテーブルの上には、あの婚姻届受理証明書が嫌でも目に入る。私は努めて明るい声を出す。

「今度、司遠を連れて帰ってくるよ。お父さんも婿殿に会いたがってる」

胸の奥がぎゅっと痛んだ。「最近……彼は忙しいね。時間があったら一緒に行くよ」

両親は年を取って、私と司遠が八年も付き合ってきたことを知っていた。彼らは私と司遠の結婚を心待ちにしていた。

私は、結婚を控えたこの時に、彼らに心配をかけたくない。

書斎から足音が聞こえ、私は慌てて通話を切った。

次の瞬間、司遠が眉をひそめて出てくる。「お前、婚姻届の件を両親に告げ口したのか?」

けれど私の目は、彼の手首に釘付けになった。

そこには、精巧なデザインの腕時計が輝いている。

その腕時計は空色のトレンド感あるスタイルだ。それを見た瞬間、あのインターン、朝倉時雨(あさくら しぐれ)がつけていたものが頭に浮かぶ。

ペアの腕時計だ。

胸の奥に苦しみが込み上げる。

彼はもともとアクセサリーなんて嫌っていた。私たちの約束を象徴する婚約指輪すら、いつも引き出しの奥に放り込んだままだったのに。

なのに今は、あのインターンとお揃いの腕時計を身につけている。

私は皮肉に彼を見つめる。「事実を言っただけで告げ口って言うの?」

司遠の顔色が一瞬で険しくなる。

「白坂飛鳥(しろさか あすか)、お前まだ騒ぐのか?そんなに結婚を嫌う?」

胸が鋭くえぐられるように痛くなる。

「騒ぐ?私が何をしたの?」

八年だ。すべての青春を彼に費やしてきた。欲しかったのは、ただ自分の立場を証明する一枚の証明書だけだ。それすら「騒ぐ」ことになるの?

彼は苛立ちを隠さず、眉をひそめる。「婚姻届なんていつでも直せるだろ!俺がどれだけ忙しいか分かってるよな?だから時雨に頼んだんだ。彼女は昔からそそっかしいし、間違えるのも当然だろ。その姿をわざわざ俺に見せつけて、面倒くさいと思わないのか?」

面倒くさい?

私は手のひらをぎゅっと握りしめた。鈍い痛みが心まで広がる。

時雨が会社に来てから、司遠の口から出る私は、欠点だらけになった。

「飛鳥、食べすぎだ。また太ったぞ」

「飛鳥、そのスカートは脚が太く見える。着替えろ」

「飛鳥、いい加減にしろ。お前、自分が面倒くさいと思わないのか?」

……

それらの耳障りな言葉が頭の中で浮かぶ。けれど、私の心は静かになる。

彼が実際の行動で態度を示した。そんな誠実さを欠いた愛情なら、私ももう要らない。

司遠も、自分が言い過ぎたと気づいたのか、ため息をついて私の手のひらを軽く叩く。

「もういい。明日、一緒にウェディングドレスを試着しに行こう。婚姻届はお前が市役所で直していい」

私は何も言わず、素直に頷いた。

そうだ。私とあの人の結婚式にも、ウェディングドレスは必要なのだから。

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第1話
結婚式の前日、婚約者は彼の女のインターンに、私たちの婚姻届を代わりに提出させた。けれど、受け取った婚姻届受理証明書に記されていたのは、そのインターンの名前だ。婚約者はちらりとそれを見て、淡々と言う。「ああ、時雨のドジだな。書類を間違えただけだろ。また今度、新しく作ればいい」私は耳を疑った。ただの「ドジ」で、私の人生を左右する結婚が台無しになる?それでも私は泣き喚きはしなかった。ただ黙って結婚式の準備を続けた。結婚式の日、私と指輪を交換する新郎を見て、婚約者の顔色が真っ青に変わった。「おい、俺、婚姻届を新しく作れって言ったよな?お前、やってないのか?」私は悔やむように言う。「ごめん、私のドジだね。新郎を間違えちゃった。また今度、いい?」……川崎司遠(かわさき しおん)が最後の言葉を吐き捨て、書斎に入っていった。私は固く閉ざされた書斎のドアを見つめる。胸の奥にぽっかりと穴が開いたみたいに、呼吸のたびに痛みが広がっていく。誇りにしてきた八年の愛情は、その「間違えただけ」の一言で、まるで平手打ちのように私の頬を叩いた。震える指先で、私は名前をつけていない連絡先にメッセージを送る。【十日後、私の新郎になってくれる?】送った瞬間、スマホが二度震える。返ってきたのは、短いひと言だ。【いい】私の心は、ゆっくりと沈んでいった。スマホが再び鳴る。両親からのビデオ通話だ。画面の向こうで、彼らは満面の笑みを浮かべている。私は胸が締めつけられる。「飛鳥よ、今日は幸せいっぱいだろう?証明書、見せてくれないか」私は手のひらに爪を立てて、無理やり笑顔を作る。「ごめん、オフィスに置き忘れちゃって。次回は見せるね」「結婚式の準備はどうだ?順調か?」「うん、順調。明日はウェディングドレスの予約に行くよ」ローテーブルの上には、あの婚姻届受理証明書が嫌でも目に入る。私は努めて明るい声を出す。「今度、司遠を連れて帰ってくるよ。お父さんも婿殿に会いたがってる」胸の奥がぎゅっと痛んだ。「最近……彼は忙しいね。時間があったら一緒に行くよ」両親は年を取って、私と司遠が八年も付き合ってきたことを知っていた。彼らは私と司遠の結婚を心待ちにしていた。私は、結婚を控えたこの時に、彼らに心配を
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第2話
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第3話
テーブルには真っ白なクロスが敷かれ、ローソクの炎がゆらめいている。時雨の瞳はとろりと潤み、頬を赤らめている。その視線の端がふとこちらをかすめた瞬間、目尻にかすかな得意げな笑みが浮かぶ。彼女が身にまとっているのは、ついさっき私が試着したウェディングドレスだ。これが彼が言った「用事がある」っていうのか。このフレンチレストランは、毎年私たちの記念日に必ず訪れていた店だ。清潔で、雰囲気もロマンチックだ。でも今は、このレストランも、あのドレスも、ただ汚らわしく感じる。司遠も同じように汚らわしい。夜風が落ち葉を巻き上げ、気温がちょっと低い。私はコートをぎゅっと掻き寄せ、背後の濃い闇に身を溶かした。その夜、司遠は帰ってこなかった。残されたのは【残業で遅くなる】というぞんざいなメッセージだけ。翌朝、私は一人でホテルに行き、披露宴のメニューを確認することにした。けれど到着すると、司遠はすでにメニューを選んでいて、その隣には花のような笑顔を浮かべる時雨の姿があった。「君はこの魚の煮付けが好きだったな。それに、このクリスピーチキンも……」彼の声には、馴れきった親しみが滲んでいて、時雨の好みを細かく並べ立てていた。ねぎは嫌い、生姜は苦手、エビはアレルギー……ウェイターがペンを走らせ、彼女の好みを記録していく。私の胸の奥は、一気に氷のように冷えた。やがて司遠がメニューをめくり、きのこスープの写真を指さす。「これも良さそうだ。スープの出汁が濃くて、きっと君も好きだろ?」その瞬間、もう我慢の限界だ。私は冷たい声で割って入る。「司遠、私、きのこアレルギーよ」彼は顔を上げたが、少しの動揺もなく、「来たのか」とだけ言った。時雨がすぐに口を開く。「飛鳥さん、社長だって覚えてるよ。ただみんなに楽しんでもらおうと思っただけだよ。その料理、あなたは食べなくていいよ」笑わせる。これは私の結婚式なのに。その時、司遠のスマホが鳴る。彼は立ち上がって電話に出る。「ちょっと出る」そう言って彼は離れて、ウェイターも理由をつけて出ていった。残されたのは、私と時雨だけだ。彼女の顔から無垢な笑みが消え、ゆったりと自分にお茶を注ぐ。「飛鳥さん」彼女は湯のみを手に取ったが、お茶を飲まず、声を低くして、私だけが聞こ
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第4話
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第5話
「うそでしょ、新郎が変わってる?」「これはドラマ撮影なの?」川崎家の親族たちの顔色が一瞬で変わり、互いに信じられないように視線を交わす。あの男が私の隣に立ち、当然のように腕を差し出す。私は一瞬の迷いもなく、その腕に手を添える。彼は本当に来たんだ。胸の奥に残っていた最後の不安が、静かに消えていった。司会者は明らかに混乱していたが、無理やり笑みを作って声を張る。「皆さま、ご静粛に!ただいまより、結婚式を開始いたします!」ウェディングマーチが鳴り響き、ざわめきを覆い隠した。無数の驚きの視線が私たちを見つめる中、私は隣の男の腕を取り、一歩ずつ誓いの場所へ進んでいく。問いかけ、誓い、そして応答した。最後に、神父が微笑み、「では、新郎新婦、指輪を交換してください」と告げた。男が優しく笑い、私の左手を取る。指輪を私の薬指にはめようとするその時。「ドンッ!」という音とともに、教会の扉が勢いよく開いた。ある人が現れた。その人は司遠だ。彼の髪は乱れ、高価なスーツがどこかに消え、白いシャツの襟ぐりが大きく開いて、しわしわと身につけられる。「やめろ!」信じられない雰囲気が一瞬で最高潮に達し、空気が凍りついた。司遠はふらつきながら駆け寄り、血走った目で私を睨む。「飛鳥、こいつは誰だ?なんでここにいる?俺、婚姻届出し直せって言ったよな?なんで行ってねぇんだ?」彼の詰問が教会中に響き渡る。私は振り返り、無実で困ったような表情で一字ずつ言う。「あら、ごめんね、私のドジだね。新郎を間違えちゃった。また今度、いい?」司遠は結局、警備員に「丁寧に」外へ連れ出された。結婚式が終わったあと、浜田家の運転手が私たちを都心の高層マンションまで送ってくれた。部屋に入った瞬間、全身の力が抜けるように疲労感が押し寄せた。背後で、カチリと鍵の音がした。私は背を向けたまま、かすれた声で言う。「川崎グループと浜田グループ、今、東原の土地を取り合ってるんだよね?だから『新郎』として現れたのも、私が渡したナイフが、ちょうど川崎司遠の心臓を刺せるから。そうでしょ?」ゆっくり振り向くと、彼の底の見えない瞳と正面からぶつかる。浜田蒼唯(はまだ あおい)はふっと笑い、突然腕を伸ばし、私の腰を強く引き寄せた。抵抗す
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第6話
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第7話
甘い時間の裏で、司遠は執拗に私たちをかき乱していた。スマホの画面には、メッセージ、ライン、着信履歴の通知が溢れかえっている。一言一言に哀願と懺悔が詰まっていて、崩れ落ちた気持ちと絶望が画面から溢れ出しそうだ。私は無表情のまま指先でそれを流し、最後には彼のすべての連絡先をブラックした。ゴミは、ゴミ箱に入っていればいい。だが、新婚旅行から帰って数日後、司遠は結局ここまで来た。インターホンに映った彼は、かつての姿とは別人のようにやつれていた。無精ひげを伸ばし、精気の抜けた顔に、もう「川崎家の御曹司」らしい意気は一片もない。隣で時雨が必死に彼の腕を引き、焦って何かを訴えている。私は眉をひそめ、警備員を呼ぼうかと思ったそのとき、蒼唯がいつの間にか背後に立っていた。画面を一瞥した彼の瞳が、瞬時に冷たくなった。「僕が行く」短くそう言って、彼が前に出ようとする。「いいよ」私は雑誌を置き、立ち上がった。声は静かだったが、動かぬ決意が滲んでいた。「今回は私が行く」私は深く息を吸って玄関へ向かい、重たい扉を開ける。鼻を突く酒の匂いが一気に流れ込んでくる。司遠は私を見るなり目を輝かせて、時雨の手を乱暴に振り払う。「飛鳥、ようやく会ってくれたな!」時雨はよろめき、暗い顔で後ろに立ち尽くす。「川崎司遠」私の声は氷を溶かしたように冷たく澄んでいた。「その人を連れて、帰って」「帰らねぇ!」彼は希望を掴むように、扉の枠にしがみついた。指の関節が力を込めて白くなる。「飛鳥、もう一度だけチャンスをくれ。君がいなきゃ、生きられない……」私は眉をわずかに上げ、冷たい笑みを浮かべ、見知らぬ人を見る目つきで言う。「私がいなきゃ生きられない?性欲を抑えられないのも、婚姻届の私の名前を別の女の名前にすり替えたのも、私のウェディングドレスを彼女に試着させたのも、結婚式の直前にあんたの愛人に頭を下げさせたのも、全部あんたがやっとことだ!あんたが、いわゆる『家』を、私が焼き払わざるを得なかったゴミ捨て場に変えたんだ!」その一言一言が、鋭い刃のように、彼の膿んだ傷を真っ直ぐに突き刺した。司遠の顔は一瞬で青ざめていく。私は彼を見下ろす視線をそらし、時雨へ向けて静かに言う。「朝倉さん、あなたも見て。これが、あなたがや
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