彼を忘却の海に沈めて
交通事故で頭を打った私は、魚のように短い記憶しか持てなくなった。
けれども、原川徹(はらかわ とおる)を好きだったことだけは、七年もの間、決して忘れなかった。
その想いも、彼が賭けに負け、私、吉戸美愛(よしと みあい)をひとり山頂に置き去りにした時までだった。
彼は侮蔑を込めた笑みを浮かべ、言った。
「美愛、この出来事を日記に書いておけ。二度と忘れないように、いい薬になるだろう」
零下の冬の山で、私は死の淵を彷徨った。
その後、私は徹に関するすべてを焼き捨て、脳裏に残っていた彼の記憶さえも、風化するに任せた。
だがある晩、「原川徹」と名乗る男から電話がかかってきた。
嫉妬に駆られた恋人が私の腰を押さえつけ、低く問った。
「その人は誰だ」
私は朦朧としながら首を振り、答えた。
「知らない人」
私のその一言に、電話の向こうの男は完全に取り乱した。