Chapter: 第五話あれから寧人は必死にネットで調べ、ようやく管理人に連絡を取った。だが、修理業者と立ち会った結果、ドアの修理には数日かかると言われてしまった。しかも、経年劣化が原因でも「入居者負担」とのことだった。「どうしよう……僕が壊したわけじゃないのに負担しなきゃだし、このまま壊れたまま何日もいたら……」 その瞬間、胸の奥に黒い不安が広がる。いつも通りの生活が崩れるだけで、世界の輪郭がぼやけていくようだった。 パソコンの画面を見つめても、文字が頭に入らない。息が浅くなる。視界が歪む。頭の中でノイズのように焦りが響く。「うわっ……」 次の瞬間、寧人の肩を抱きしめる腕があった。 唐突に体温を感じ、体が硬直する。驚いて目を見開いたまま動けない。「落ち着いて。大丈夫だから、ね」 低く柔らかい声。 一護の手が背中をゆっくり撫でる。呼吸を合わせるように「吸って、吐いて」と言葉を重ねられ、寧人の呼吸は次第に落ち着きを取り戻していく。 気づけば頬を伝う涙。久しく流していなかった感情の水が、堰を切ったように溢れた。 ハッと我に返り、一護から慌てて離れる。「あ、ありがとう……もう大丈夫」「よかった。こんな狭い部屋でずっと籠もってたら、そりゃ息詰まるよ」 寧人は苦笑した。「昔からこうなんだ。人前でうまく話せないし……今の会社に入れたのも奇跡みたいなもんだよ。リモートワークで、誰にも会わなくていい。それだけが救いだった」 そこへ業者が戻ってきて、応急処置のロック装置を取りつけてくれた。あくまでも一時的なものだが、それでも閉じられるドアがあるだけで安心できた。「よかったじゃん。これならとりあえず寝られるね。……ま、無理に開けようとしたらアウトだけど」「うん……助かったよ」 寧人はそう言いながら財布を取り出し、札を抜いて一護に差し出した。「今日はほんとに助けてもらった。時間も取らせたし、これ……」「いや、いいですって」「いや、受け取ってくれ。仕事抜けてまで手伝ってくれたろ」 さらに札を取り出そうとするその手を、一護が掴んで止めた。「人との関わりを、全部お金で解決しようとするのはやめなよ」「……っ」 言葉が喉の奥で詰まった。 一護の声には咎める響きはなく、ただ真っすぐで優しい。「僕がここに残ったのは、心配だったからだよ。あのままだったら、ほんとに倒れて
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 第四話「鳩森くん、すまんがその提案はもう別のものが採用されていて、すでにプロジェクトが進んでいる。そのサポートをお願いできるかな」 会議で上司にそう言われ、寧人はパソコンの前で小さくうなずいた。 まただ。 何度目だろう。 彼は提案を却下されることにも、もう驚かなくなっていた。 数日後、本部から届いたメールを見て、彼はふぅ、と息を吐いた。 「了解しました」とだけ返し、また机に戻る。自分の役割は“進んでいる何かの支え”。決して“新しい何かを生み出す側”ではない。 でもそれでいい、といつしか思うようになっていた。 昼を過ぎると、胃がきゅうっと鳴った。 反射的に開くのは「フードジャンゴ」のアプリ。 そこにはまた“麻婆丼”が上位に表示されていた。「また麻婆丼……」 苦笑しつつも、結局それを選ぶ。 あの日の味が忘れられなかった。濃いタレと山椒の香り、何より、あの“イチゴ”という青年の笑顔が頭にちらついた。 麻婆丼は、ご飯とおかずが一緒に食べられる。 洗い物も少なく、すぐ腹が満たせる。 “効率”がいい。 そう、彼にとって食事は“栄養摂取と仕事再開の間の作業”にすぎなかった。 ――もう四十歳が見えている。 恋人はいない。いや、これまで一度もいなかった。 もちろん、性の経験もない。 ただ、性欲がないわけではない。 日々の中で溜まったストレスを、空しい手慰みで発散することはある。けれど、それすら“義務”のように淡々と。 恋とか愛とか、そんな情動はずっと置き去りにしてきた。 オナホールの新品を開けるときでさえ、感情は動かない。 「まぁ、出せば楽になるからいいか」 それくらいの感覚。 自分でも呆れるほど乾いていた。 両親は昔、電話のたびに「そろそろ結婚は?」と言っていたが、三十五を過ぎたあたりでその言葉も聞かなくなった。 最近は年賀状すらこない。 それでも寂しさはない――はずだった。 欲しいものも、特にない。 必要なのは仕事道具とパソコン、参考書、最低限の生活費。 あとは家賃と光熱費と通信費。 浪費も外出もしないから、貯金だけは着実に増えていく。 “使い道のないお金”が通帳に積もっていくたび、自分の人生も同じように堆積しているような気がした。 そんな時だった。「一人で、寂しくないですか?」「うわっ!」 背後から声がし
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 第三話「誰だっ!」 寧人は腰を抜かす。それも当たり前である。一人暮らしの家に人がいるのは怖い。 そして椅子から転がり落ちたのだ。古典的な漫才みたいな大袈裟な動きである。 「フードジャンゴの配達員です」 どう見てもフードジャンゴの配達員とわかるファッションである。「見ればわかるよ! なんで勝手に部屋の中に?」 確かにそうである。いきなりはいってきたのにはなぜか理由があるのだろう。泥棒の可能性もある。寧人は少し間を取っていたりもする。近くにあった定規を剣に、ノートを盾に構える。自分よりも大きな体の相手には太刀打ちできない装備である。「いや、玄関先にって書いてあったけどお隣さんの玄関先がびしょびしょで、多分水仕事か水遊びとかでかな? ここの部屋のドアの前まで水が垂れてたから置けなくて」 説明の長さに寧人は眉をしかめる。「んで、どうやって部屋に入った」 「ドアが開いてました」 驚いた寧人は慌てて部屋の前に行くと確かに部屋の前は水が伝いびしょ濡れ。 彼は隣に幼稚園児のいる親子が住んでいることを思い出した。 そしてあっ! と思い出したのは夜中のうちにゴミを出しに行ったこと。寝ぼけながらもいって、もう一つゴミがあるからとりに戻ったまま寝てしまった。その時にドアを開けっぱなしにしていたことを。「あああ、ずっと開きっぱなし……」 寧人はうずくまる。そんな様子を見て配達員はヤレヤレとした顔。「大丈夫ですよ、すこししか開いてなかったし。気をつけてくださいね……にしても部屋汚い」「うるさい、まぁとにかくここまで持ってきてくれたお礼とドアの件。ありがとう」 と寧人は財布からスッと札を抜いて配達員に渡した。配達員は再びニコッと笑った。「早く出ろよ」「はい、僕も急いでるんで!」 配達員の持ってきた麻婆丼を開ける。ほぼこぼれてない。配達員の中には乱雑に置くものや、こぼれても何も言わずにそのままのものもいる。 だから寧人はそういう配達員にクレームを出せるシステムをつけることを提案しようとしたがようやく言えた頃には他のものが提案したものが採用された。 その提案が可決されたがその内容は、クレームがそのまま本社に伝わり、その配達員の評価にフィードバックされて注意、あるいは減給、クビにもなるというかなりシビアなものであった。「……急に入ってくるのもあれだが、や
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 第二話 これは、今から半年前――寧人に起きた出来事である。 寧人(よしと)は大学を卒業して以来、ずっとベクトルユーという中堅IT企業に勤めている。職種はSE。几帳面で真面目、与えられた仕事は黙々とこなすタイプだ。いくつかのヒットしたアプリやシステムの開発にも関わってきたが、彼の名前が表に出ることはほとんどない。なぜなら、彼は人との距離を測るのが極端に下手だった。 会議で意見を求められても口ごもる。ようやく言葉にできたころには、すでに他の誰かが同じ提案をしてしまっていて、彼の言葉は空気に溶けていく。 その結果、いつの間にか「黙って指示を待つ人」として扱われるようになった。頼まれれば断れない、どこか要領の悪い男――それが職場での寧人の立ち位置だった。 そんな彼にとって、リモートワークという働き方は救いだった。誰にも会わずに済む。無言で画面を見つめ、与えられたタスクをこなす。朝から夜まで、ほとんど椅子から動かない。 それでも一番の難関は、週に数回行われるオンラインミーティングだった。画面越しのやりとり、相手の表情の間(ま)、言葉の温度――それらがどうにも掴めない。「なんで……みんな、わかってくれないんだろう」 小さくつぶやく声が、薄暗い部屋に溶けていった。 寧人は仕事そのものは丁寧にこなす。けれど、予定外のことにはとことん弱い。応用が利かない。人に何かを伝えるのも苦手。自分でも「ダメな男だ」と思っている。 そのせいで、いつの間にか彼には単純作業ばかりが回されるようになった。だが寧人にとって、それはむしろありがたかった。余計な考えをせずに済むからだ。 結果、彼は昇進のチャンスを逃し続け、同期のSEたちは次々と上に行った。気づけば彼だけが取り残され、給料もほとんど据え置きのまま。 それでも、寧人は気にしなかった。向上心という言葉が、彼の辞書にはないのだ。 部屋の中は、仕事の進捗と反比例するように荒れていた。床には空のペットボトル、脱ぎっぱなしのシャツ、山のようなレシート。 洗濯物の山の隣には、空の弁当容器が積み上がっている。だが彼はそれを見ても何とも思わない。見慣れすぎて、風景の一部と化していた。 料理など、もちろんしない。 食事はすべて宅配。冷凍食品ですら面倒で、アプリひとつで完結させる。 その日も、作業の手を止めた寧人はスマホを取り出した。「
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 第一話 とあるオフィスで、何やら言い争うような声が響いていた。 声の主は三十代半ばの男と、その上司である。上司に対しても一切遠慮のない強い口調で、男は眉間に皺を寄せ、言葉を放つたびに目がキッと吊り上がる。その鋭い眼光は、どこか闘犬のような気迫を帯びていた。「課長、いくらなんでも営業、プレゼン未経験のやつを同伴だなんて、冗談ですよね?」「まぁ、落ち着け。言いたいことは分かるが……」 上司がなだめようとするも、男の声はさらに大きくなる。 広々としたオフィスフロア。だが、デスクの間隔は広く、人の姿もまばらだ。社員たちは皆、黙々とパソコンに向かい、キーボードを叩き続けている。騒ぎに気づいていながらも、誰も視線を向けようとはしない。 今の時代、職場での小さな衝突は、チャットツールの中で済ませるのが主流になっている。直接声を荒げるのは、珍しい光景だった。 この会社――ベクトルユー株式会社は、システム構築やネットワーク運営を主な事業とする中堅企業である。全国に支店を持ち、社員数も増え続けていた。 しかし、いまの本社はどこか閑散としている。リモートワーク制度が導入されてからというもの、オフィスに姿を見せる社員は半数以下に減った。 会議も打ち合わせもオンライン。チャットやクラウドで仕事が完結する環境は、一部の社員からは「働きやすい」と好評だったが、同時に人間関係の希薄さを生んでいた。 その静かな空間の中で、声を張り上げていたのは営業担当の古田。 社内でも一、二を争う売上成績を持つ敏腕営業マンで、鋭い観察眼と巧みな話術を武器に顧客を落としてきた。だが、その反面で気性が荒く、思ったことはすぐに口に出してしまうタイプでもある。「いや、私も不安なんだよ。ただな、先方からの要望で、なぜか鳩森にも来てほしいって言われたんだ。彼の提案を詳しく聞きたい、と」「なぜ鳩森の意見が……? まぁ、SEとしては腕は悪くないですけど、あいつ根暗で、人前だとまともに話せないですよ。ビデオ会議でも終始挙動不審ですし……」「しょうがないだろ。相手がそう言ってるんだ。君がメインで喋ればいい。鳩森はただの同伴だ、ああ……」 課長が言いかけたそのとき、ふと二人の視線が一点に向かう。 そこに立っていたのは、鳩森寧人(はともりよしと)――件の人物である。 ヨレヨレのスーツに、くしゃくしゃの髪。シャ
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 番外編 最終話 神奈川に戻って数日後、希望していた高校から連絡があった。 同系列の関東の高校でテストを受け、基準を満たせば二年生の夏休み明けに転校が可能だという知らせだった。 藍里はそれを聞いて、すぐに机に向かった。眠そうな目をこすりながらも、毎日必死に勉強した。 その努力が実を結び、無事に合格の通知を受け取ったとき、私は胸をなで下ろしながらも、娘の成長に目頭が熱くなった。 私自身も必死に働いた。神奈川の支店に戻ると、やはり愛知の方が活気に満ちていると感じたが、同時に長年の「マイホーム」に戻ってきた安堵もあった。慣れた土地、見慣れた景色。だが愛知の支部長の言葉通り、人事改革や設備改装は全店舗規模で動き始め、私もその渦中にいる。 忙しい合間にも、時雨くんとのメールや電話が支えになった。 「おつかれさま」「無理しないで」——その短いやりとりだけで心がほどけていく。 仕事の上では私は、誰かの性対象であり、恋人役であり、話し相手である。擬似的な愛を提供するのも役割のひとつであり、それを割り切らなければ成り立たない世界だ。 でも、時雨くんは違った。優しくて、素直で、まっすぐで……そんな彼の存在があるからこそ、辛い仕事も乗り越えられるようになった。 やがて夏休み。娘の新しい門出と同時に、私たちは愛知に引っ越した。 そして今日、仕事帰りに、久しぶりに時雨くんと再会する。 ……いろんな男を相手にした後で彼に会うのは、正直、気が引ける。彼は私の仕事を知らない。でも、きっと彼なら受け入れてくれる。そう信じたい。 待ち合わせは、最後に別れたあの駅だ。 外は雨。 頭の奥がずきずきする。けれど、不思議といつものように憂鬱ではなかった。むしろ胸が高鳴っていた。 「さくらさんー!」 ホームに響いた声。 電話越しではない、生の声。心が震える。 彼は傘を片手に、笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。 私は傘を閉じて駆け出す。濡れてもいい。ただ彼の傘の下に飛び込み、強く抱きしめた。 人目もはばからずに。 時雨くんもまた、ためらわず私を抱きしめ返してくれた。 傘を叩く雨音。滴り落ちる雫。服に沁み込む冷たさ。 それでも、彼の体温に包まれていると不思議と平気だった。 ——雨も、悪くない。 少し、雨が好きになった。 終
Last Updated: 2025-09-28
Chapter: 番外編 第二十二話 そして駅まで送ってくれた。「なんかさ、あったばかりで……僕の一目惚れで……なんていうかその……」「うん……」「でも今回限りにはしたくない」 彼の真剣な眼差しに射抜かれる。冗談でも軽い気持ちでもない、真っ直ぐな想いがそこにあった。私も胸が熱くなって、ただ黙って頷いた。 互いに連絡先を交換する。「また落ち着いたら連絡する」「神奈川だっけ……家」「うん。でも仕事でこっちに来れる……ううん、来てみせるわ」「やった」「ふふふ」「可愛い、ふふふって」 思わず笑ってしまう。けれどその笑いすら彼は愛おしそうに見つめてくる。 あ、そうだ……伝えなきゃ。そう思った瞬間、彼は両手で私の手を包み込んだ。「雨もいいよね。また雨が降っても僕だけでなくて……おかみさんやスタッフさんや……一緒に来てくれた山上さん……ちょっとあの人はデリカシーないけどさ、心配してたから。みんなに優しくしてもらったことを思い出してほしいな」 私はただ頷く。事務長の名前まで覚えているなんて、やっぱりすごい人だ。さすが有名料亭の板前さんだと思った。「……本当はね、仕事で来たの。愛知に」「そうだったんだ……」 そう言って互いに見つめ合う。気づけば距離がなくなって、そっとキス。照れ笑いしながら、もう一度唇を重ねた。 けれど次に彼の舌が触れた瞬間、私は反射的に顔を離した。「ごめん」「……もうこれ以上しちゃうと、帰りたくなくなる」「そうだね……」 彼は笑ってごまかすように、トランクから荷物を出してくれる。「はい、どうぞ」 私はキャリーケースを受け取って、ようやく切り出した。「私さ……離婚したけど、子供いるのよ」「ああ、なんか話してたね。まだ小さくて、預けてもらってるとか?」「……ううん、高校生。女子高校生」「えっ」 彼の目がまん丸になる。その驚き方があまりにも素直で、私は思わず苦笑いした。やっぱり若いよなぁ……。「すごいなぁ、さくらさん……ますます応援したくなる」「ありがとう。私もあなたの仕事、応援してる」 電車のホームへ向かう私を、彼は最後まで手を振って見送ってくれた。笑顔のまま、何度も、何度も。 振り返るたびにその姿が小さくなっていくのが切なくて、胸にぽっかり穴が空いたみたいに感じた。 持っている傘はまだ雨で濡れているけれど、そのうち乾くだろう。 改
Last Updated: 2025-09-27
Chapter: 番外編 第二十一話 ピンポーン。 ドアのチャイムが鳴った。「やべっ、先輩かも」「流石に二時間もダメでしょ……早く行かなきゃ。私も小雨になったし、行くわ」 そう言いながらも、時雨くんはまだ腕を解こうとしなかった。胸に回された腕は、私を逃がす気などないかのように力強い。 だめだよ、行かなきゃ。分かっているのに、体は彼に預けたまま動けなかった。「も少し、このまま。……ほら、雨の音、聞いて」 確かにさっきより小雨になってきた。けれどまだ窓を叩く細かい水の音は絶えず、しとしとと規則的に響いている。「どう? 雨の音、いいでしょ。僕は昔から雨音が好きなんだ。名前に“雨”がつくのもあるけどさ……」「……私は、嫌いだった」「でも今はどう? 耳澄ますと、けっこう落ち着く音だと思わない?」 彼の言葉に合わせるように意識して耳を澄ますと、不思議と胸のざわつきが少しずつ鎮まっていく。嫌いだと思い込んでいたはずの音が、こんなふうに柔らかく響くなんて――。 ピンポーン。 再びチャイムが鳴る。「おい、廿原! なにやってんだ!」 ドンドンと荒い音。重たい扉越しでも、低く響く怒鳴り声に体がびくりと震えた。喉がきゅっと詰まって、声が出ない。 時雨くんは私をぎゅっと抱きしめ直して、それから少しだけ離れた。「待ってて。話してくるから」 短くそう告げると、ためらいなく玄関へ向かっていく。その背中を呼び止めたかったのに、足は一歩も動かず、唇も開かなかった。 ……私がいけないのよ。引き止めてしまって、部屋にまで上げてしまって。 耳を澄ませる。「すいません、先輩。頭痛くって」「勝手に休むなよ。連絡しろ……て、そのヒール」 あっ、私の……。「ははん、女連れ込んでるのか。スーツケースあるってことは……お取込み中か?」 しまった……!「そ、そうです」 ――時雨くん……! 胸がぎゅっと締めつけられる。「はぁ、それはそれは。一時間後には戻ってこいよな。仮病じゃなさそうだから」「はい……すいません」 やがてドアが閉まる音。私は慌てて玄関へ駆け寄った。「ごめん、時雨くん」「さくらさん、謝ることないよ。……さ、今から駅まで送っていくから」 寮を出る頃には雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から差す光が濡れたアスファルトに反射して、街全体がきらめいている。ふと見上げると、薄く虹が架か
Last Updated: 2025-09-26
Chapter: 番外編 第二十話 私はベッドを離れてシャワーを浴びた。 熱いお湯が肌に当たるたび、少しだけ体の力が抜ける。外の雨はシャワーの水音に負けないほど激しく降り続けている。どうして雨が降るの。もう、ほんとうに嫌だ──胸の中で何度も繰り返す。 タオルで髪を拭きながら、ふとカーテン越しに彼の声がした。「ねぇ、さくらさん」 思わずハッとして、私は肩越しに声のする方へ振り向いた。カーテン一枚の向こうにいるだけなのに、その距離が妙に近く感じられる。彼の声は静かで、でも確かに私を見つめているのがわかった。「なんで雨が嫌いなの……」 その一言を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな針がぎゅっと押されるようだった。言いたくないことを引き出されるような、そんな不安。 雨が嫌いな理由は、綾人のことが絡んでいる。どこからどう話し始めればいいのかわからない。順序立てて話すには、積み上げられた年月をひとつずつひも解かなくてはならない。簡単に説明できるものではなかった。 シャワーを終えてタオルを肩に掛け、私は息をついて答えた。「……ごめん、あんまり言いたくないよね。会ったばかりだし、聞くのは失礼だったよね」 それを聞くと、彼は一呼吸置いて、柔らかく言った。「そ、それはないよ。話したいなら聞くよ」 言葉はありがたかった。けれど「話す」ということは、私にとっては重い作業だった。綾人と結婚してから始まった日々、子どものこと、逃げ出した頃、役所や相談機関、弁護士や警察にまで話したこと──それらすべてをまた一から語るのかと思うと、喉が詰まった。 何度も語ってきたはずなのに、語らなければ理解してもらえない不自由さがある。 私はシャワーから出て、バスタオルで頭を拭きながらゆっくりと話し始めた。「雨の日はね、夫を迎えに行かなきゃいけなかったの」 彼の目が驚きで大きく見開かれるのが見えた。反射的に彼は声を上げる。「……夫?!」 しまった。言葉が足りなかった。「ち、違うの。もう離婚してるから、“元夫”のこと」 彼は一瞬戸惑った顔をし、そのあとで苦笑するように息を吐いた。「あ、そうか……びっくりした。人妻とやっちゃったのかと」 そのトンチンカンな反応に、私は思わず眉を寄せてしまう。彼の慌てた言い方には救われる部分もあった。テンパって言葉が絡まる様子が、変に安心をもたらす。 私はあの日々の「ルール」
Last Updated: 2025-09-25
Chapter: 番外編 第十九話 私は電車を遅らせることにした。 スマートフォンの時刻表アプリを閉じ、画面を伏せてベッドの脇に置く。帰ろうと思えばすぐにでも帰れる。けれど、帰りたくない。もう少し、ここで彼の声を聞いていたい。「……料亭はいいの?」「さくらさんこそ……もう帰りなんでしょ」 荒々しく、けれど優しさを含んでつづはらさん――時雨さんに抱かれてから、もう二時間が経つ。料亭のすぐ横にある住み込みの寮。彼の小さな部屋。再会して、預かってもらっていた服を受け取り、返して、最後にちょっとしたおみやげを買って帰るはずだった。ほんの数分のつもりだったのに、気づけば彼の部屋に誘われ、軽い冗談のように始まったキスが止まらなくなって、そして今の私たちがいる。「もう帰るなんて嫌だよ……もっとさくらさんを知りたい」 その言葉に胸がちくりとする。こんなふうになるなら、もっと早く会っていればよかったのかな、と一瞬思う。でも、それは現実にはなかったこと。遠回りして、傷ついて、ようやく今ここにいる。 窓を打つ雨音がまた強くなった。重くのしかかるような低い音。私は無意識に眉を寄せる。やっぱり雨は苦手だ。心までじわじわと湿らせてくる。「雨、嫌いなんだよね?」「……うん」 口に出すと、気持ちがじわっと溢れそうになる。だから話題を変えるように、少し笑いながら尋ねてみた。「そういえば“しぐれ”って、時の雨で“時雨”でいいのよね?」「うん、そうだよ。変わってるでしょ」 彼は照れくさそうに笑った。「弟の名前にも“雨”がついてるんだ」 そうなんだ。名前に“雨”がつくなんて珍しい。雨が嫌いな私からしたらちょっと不思議だ。でも、彼の口から語られると、なんだかそれも特別なもののように思えてしまう。「じゃあ、時雨……くんは雨は好き?」「うーん……」 困った顔をしている。質問が重たかっただろうかと不安になる。「……まぁ、時と場合によるよね。頭は痛くなる時と、そうでもない時があるし」「私は嫌よ。嫌い」「すこぶる嫌いそうだな、恨みつらみありそう」 彼の軽口に少し救われる。けれど私は静かに言葉を落とした。「そうね……嫌なこと思い出すから」 時雨くんに抱かれているのに、前の夫のことがふと頭をよぎる。優しかったはずが一変した綾人。あの恐怖が、雨の日と一緒に蘇る。そんなの嫌だ。だから、私はぎゅっと彼を抱きしめた
Last Updated: 2025-09-24
Chapter: 番外編 第十八話 休ませてもらった後、がっつり仕事をした。 生活のため、娘のため。ほとんど毎日のように出勤した。週に一度は必ず休まなければならなかったけど、その休みさえも「休んだ気がしない」。 頭の中は常に、次の仕事と生活のことばかりだった。 でも、今回の件で知った。休むことは、やっぱり大事なんだと。 この五年間、私はがむしゃらに走り続けてきた。無理をして、それでも前に進むしかなかった。だけど――無理をしていた自分に、ようやく気づけた。 新天地での仕事は緊張したけれど、いつも通りのパフォーマンスを心がけた。数日分の遅れを取り戻すつもりで。正直、体はしんどかった。 だけど、終えた後のあの高揚感――あぁ、気持ちいい。 性を解放する場でもあるのよね、この仕事は。「すごいです、さくらさん。チップも多くて……。でも、今から休憩して夜からの稼げる時間まで回復してくださいね」「ありがとう……」 今日の調子が良かったのは――廿原さんのことを考えていたから。普段は俳優やアイドルをイメージして気持ちを上げていたけど、今日は彼。思い出すだけで体が熱くなって、自然と笑顔になれた。 あぁ、やっぱり私はちょろい。 昔からそうだった。少し優しくされたり、親切にされると……すぐに惹かれてしまう。綾人の時も、そうだった。あの優しさを信じてしまったから。 彼とはあれから会っていない。もちろん連絡先も知らない。神奈川の事務長は勝手に戻っていたし……。 ――そうだ、服を取りに行かなくちゃ。 ほんの少し親切にされただけで、ここまで気持ちをかき乱される自分が情けない。私は両手で頬を挟み、パシッと軽く叩いた。「まずは休む、休む!」 言葉にしないと、また無理をしてしまう。そう、自分に言い聞かせるように。 そして、最終日。「本当にお疲れ様でした。無理をなさらず……またここに戻ってきてくださることを期待しています」 社交辞令かもしれない。鵜呑みにしてはいけない。この業界では、と心のどこかで思いながらも……頑張った自分を労ってもらえるのはやっぱり嬉しい。 ――そう、労いの言葉。それが綾人にはなかった。「こちらこそありがとうございました。サポートがあって、ここまで頑張れました」「……早く娘さんの高校、決まるといいですね」 ……あぁ、忘れていた。まだ高校からの連絡は来ていない。胸が重くなる
Last Updated: 2025-09-23