Chapter: 番外編 第十六話久方ぶりの営みが、この部屋の中でよかった——。寧人は、胸元で静かな寝息を立てる愛しい一護を見下ろしながら、そう思った。指先でそっと髪をかき上げ、天井へと視線を逃がす。一緒に暮らしているからこそ、慣れや仕事の疲れに紛れて、愛し合う時間がいつの間にか簡素になっていた。そのことを、今さらのように反省する。昨夜のように、何度も、急がず、優しく、甘く、確かめ合うように抱き合ったのは本当に久しぶりだった。きっと、こういう時間が必要だったのだ。愛する人の体温。規則正しい寝息。胸に伝わる鼓動。微かに残る香り。——この旅が終わり、また二人の日常に戻ったとしても。今夜のことを、忘れずにいよう。そう心に刻みながら、寧人は再び一護を抱き寄せ、静かに目を閉じた。「おはよう、寧人! 寧人社長!!!」「はうっ――っ!? ……いでっ……お、おは……」頬に走った衝撃で、寧人は変な声を上げて目を覚ました。反射的に体を起こそうとして、全身に鈍いだるさが走る。「あ……待っ、待って……それ、今やると……」「ほら見た。だから言ったでしょ、勢いよく起きるなって」横を見ると、すでに着替え終えた一護が、呆れ半分・心配半分の顔で髪を整えながら座っていた。「……今のさ、ビンタじゃなかったよね」「うん。最初は手のひら。でも全然起きないから」「櫛?」「櫛。最終手段」ひどい。そう思いながらも、否定できないのが悔しい。どうやら一度は目を覚ましたのに、そのまま見事に二度寝したらしい。「……体、重……」「そりゃそうだよ。昨夜あれだけやっといて、しかも何回も」「ちょ、それ言わなくていい……」「事実でしょ。自覚しなよ、いい歳した社長さん」キャンピングカーじゃない、きちんとした部屋。柔らかいマットレス。静かな朝。そのせいで、昨夜の余韻が余計に体に残っている気がする。「……提供でもらったマットレスも良かったけど、ここのも相当だな……」と、だるそうに言いながらも、目だけは完全に仕事モードに入る。「メーカー違うけど、大丈夫?」「大丈夫。ちゃんと把握してます」一護は即答する。「他の部屋には、提供いただいたザノッカスのマットレス使ってるところもあるから。そこも含めて、動画で説明する」「さすが……」「感心してる場合じゃない。ほら、さっさと起きる」「……腰が……」「自業自
Terakhir Diperbarui: 2026-01-30
Chapter: 番外編 第十五話「まぁ、そういう関係ですよ」 さくらキャンパーの二人が帰り、キャンピングカー内での簡単なミーティング中。 ドラゴンがまるで天気の話でもするみたいに、さらっと言った。 あまりに雑な一言だったが、それだけで他の三人はだいたいを察する。 「既婚者だって分かってて付き合ってた。でもさ……陸斗さんの息子――宙社長の写真を見せてもらってさ。 かっこいいって言ったら、そこから嫉妬が始まったんだよ」 一息ついて、苦笑する。 「陸斗さんも十分イケメンだけど、亡くなった奥さんも美人でさ。 二人のいいとこ取り、って感じで宙社長はさらにイケメンで……」 「……なるほどね」 話を聞いていた一人が、間を置かずにまとめる。 「で、恋人の“息子”に目移りしたと思われて嫉妬されて、結果フラれた、と」 「違う!」 ドラゴンは即座に声を上げた。 「フラれてない! 嫉妬がひどすぎて……こっちから別れたんだ。 別れたくない、でも別れる、って……最悪な別れ方」 少しだけ視線を落とす。 「後になって分かった。あれ、向こうがわざと大喧嘩になるよう仕向けてたんだって。 俺に嫌われ役を押し付けて、綺麗に終わらせるために」 小さく、息を吐く。 「……結局さ、陸斗さんの方が一枚も二枚も上手だったってわけ。そっから美容師の仕事に力を入れようとしたところに一護と出会ったわけさ……」 ドラゴンは一護を見る。一護は知らなかった過去をフーンと聞いていた。 「まぁ過去は誰にでもある。知る、知らないは……プライベートのことだから踏み入れない方が良い」 と1人納得してるようだ。 寧人は立ち上がった。「よしよし。過去の話も全部聞けたし、俺はスッキリした! あとはゴールするだけだな!」「いや、それ完全に自分が一人で納得しただけだろ!」 三人から一斉に突っ込まれた。「でもさ、陸斗さんって当時も奥さんいなかったんでしょ? 宙社長も独身。どっちもフリーだよね。……まぁ宙社長はノンケだけど」 そう前置きしてから、寧人はずいっとドラゴンを見る。「やっぱり陸斗さんなんじゃないの? ドラちゃん」 ドラゴンは一瞬言葉に詰まり、耳まで赤くなった。「……そ、そうだけど。でもやっぱ無理だって」「不倫でもないしさ。陸斗さんだって、ドラちゃんのこと今も
Terakhir Diperbarui: 2026-01-29
Chapter: 番外編 第十四話「社長! すいません……」 「いえいえ、こちらこそ……お返事がないまま押しかける形になってしまって」 二人の社長が同時に頭を下げ合う光景は、端から見ればどこか可笑しい。だが寧人はその様子を横目に流し、すぐに視線を逸らした。 ――ドラゴン。 さくらキャンパーの宙社長のすぐ後ろ、少し距離を取るように立っている。 向かい合う二人の社長を見ても、胸はざわつかない。スタート時に感じた、あの妙な引っかかりもない。 (……社長じゃない? じゃあ、社員の中に気まずい相手でもいるのか) その後も、さくらキャンパーのスタッフが何度か商品を運び、メンテナンスの確認に訪れたが、場の空気は終始穏やかだった。少なくとも、表面上は。 「いやいや、寧人くん。相変わらずよく動くね。中年の星だよ」 快活に笑ったのは宙社長の父、陸斗だった。寧人より十は年上のはずだが、日に焼けた肌と張りのある体つきのせいか、年齢を感じさせない。 「そんな……まだ中年ってほどでもないですよ」 そう前置きしてから、寧人は自然な流れで続けた。 「ここまで体が持つのも、彼のマッサージのおかげなんです」 視線を向けると、ドラゴンは一瞬だけこちらを見返し――すぐに目を伏せた。笑顔はなく、表情はわずかに硬い。 「ほう……」 陸斗は興味深そうに顎を撫でる。 「スタートの時、後ろの方で隠れてるみたいだったが……君が寧人くんの体を?」 その言葉に、ドラゴンの肩がほんのわずかに強張る。 寧人はその変化を、見逃さなかった。 (ははーん、まさかのまさか……宙社長じゃなくて……陸斗さんだったのかー) と思った矢先、一護も古田も確信していたようだ。 「なるほど……年上が好きだったから僕には靡かなかったんだ、ドラちゃん」 少し一護は鼻で笑った。だが年上すぎるのでは、寧人よりも上である。 「隠れなくてもわかることだったのに……でも今は落ち着いて立派な仕事しているようで何よりだよ」 「……まぁね」 気づけば2人の世界になっていた。 宙社長も何か知ってそうである。 「……息子も社長業をして数年になるからそろそろ僕も落ち着いて来たんだよね。僕もサイクリングでもしようかな、その時は君にマッサージしてもらおうかな。久しぶりに」 「……無理しないでくださ
Terakhir Diperbarui: 2026-01-29
Chapter: 番外編 第十三話その頃、ドラゴンは―― 人影もまばらなサービスエリアの公園で、山並みをぼんやりと眺めていた。 風に揺れる木々を見ているうちに、思考は勝手に過去へと滑っていく。 一護と同じ記憶を辿っていたのかどうかは、本人にもわからない。 ただ、胸の奥が重くなって、息を吐くしかなかった。 そのため息が、答えの代わりだった。さてさてとキャンピングカーに戻ろうとするとクラクションが後ろから聞こえた。 ドラゴンは自分ではないと思い振り返らなかったがもう一回鳴った。 ようやく振り返ったドラゴン。 そこにあったものを見て彼は諦めたかのように、少し笑って言った。 「……しょうがないなぁ、もう……」 ※※※ キャンピングカーの中。 古田はすでに起きており、一護も編集作業をひと段落させていた。 寧人はマットの上で黙々とストレッチをしている。 あれから、もう一時間が経っていた。 「……ドラちゃん、いい加減帰ってこないかな」 ぽつりと零した一護の視線は、無意識にテーブルへ向かう。 そこには、ドラゴンのスマホが置き去りのままだった。 連絡が取れないことは、わかっている。それでも気になってしまう。 「まぁ、そのうち戻ってくるさ」 古田は軽く受け流すように言いながら、続けて寧人を見る。 「リン、今日のスケジュールは?」 「はい……えっと……あっ」 寧人の声が裏返る。 古田はスマホを覗き込み、目を見開いた。 「……しまった。寝過ぎた」 慌ててメールを開き、指を走らせる。 「寝てる間に来てたみたいだ。今、返す」 画面に表示されていたのは、さくらキャンパー広報からの連絡だった。 他の業務との兼ね合いで、依頼されていた商品の持ち込みが―― 予定より三時間、前倒しになるという内容である。 キャンピングカーの空気が、わずかに引き締まった。 「まぁ、焦ってもしょうがないよ。向こうも自分たちの都合だし、大丈夫ですよって言ってくれてるし」 そう言う一護に、古田はすぐ首を振った。 「いえ、社長。それが一番よくないです。 どれだけ関係が良好でも、信頼は積み重ねで、逆にミスも積み重なります。今回は……僕が寝てたせいですし……」 珍しく歯切れの悪い古田。 寧人はそこまで切迫感を持っていないが、その温度
Terakhir Diperbarui: 2026-01-28
Chapter: 番外編 第十二話 編集ソフトのタイムラインを眺めながら、一護は無意識に指を止めていた。 ……何もいいことはない。 自分で言った言葉が、遅れて胸に返ってくる。視線が画面から外れ、意識が過去へ引きずられる。 ※※※ 忘れたはずの過去なのに……と一護はふと頭の中に過去がよぎった。 ドラゴンは一護が美容院とは別のビジネスで立ち上げたメンズエステ店の初期メンバーだった。美容学校卒業、美容師免許もあった彼だがマッサージの腕は確かで、口も達者で、客受けもいい。何よりよく笑った。 仕事終わり、店を閉めてから二人で飲みに行った。 最初は他愛ない愚痴と軽口だったのに、気づけば距離が縮んでいた。 若かった。二人とも……。 一護は社長として忙しく、外にもよく出ていた。人に囲まれ、酒の席も多く、誘いも断らなかった。 (僕は……好きだった、でも店をうまく切り盛りするためにって……言い訳か。でも若さが故に……あちこち手を出しすぎたり、世話好きがこうじてしまったんだ、ああ、これもいいわけだ) ドラゴンは「今日も遅いんだ?」 「ごめん。待っててね」そう言って頭を撫でれば、ドラゴンは笑った。 けれど、その笑顔が少しずつ薄くなっていくのに、気づかなかった。 あまりにも一護本位だった。 「俺のこと、好き?」 ある日そう聞かれて、一護は笑って返した。 「当たり前だろ」 それが、決定打だったのかもしれない。 欲しかったのは言葉じゃなかったのかもしれない。 「……もういい」 そう言ってドラゴンは離れた。責めることも、縋ることもせず、ただ静かに。一護は引き止めなかった。いや、引き止められなかった。社長としての自分、忙しさ、プライド。全部が邪魔をした。 ※※※ 一護は小さく息を吐く。宙社長がノンケなのは本当だ。イケメンである彼に少し口説いたことがあったのは確かだ。まだ彼が社長になる前だった。彼の父親に似て、とは思っていた。 (ドラちゃんが誰かを本気で好きになるとしたら) 一護は編集画面に戻る。ほんの一瞬だけ目を伏せてから、何事もなかったように作業を続けた。 (今さら過去を掘り返しても、遅い) そう言い聞かせながら。けれど胸の奥では、あの時ちゃんと愛せなかった自分が、まだ終わっていなかった。 ふぅ……とため息しか出ない。今
Terakhir Diperbarui: 2026-01-27
Chapter: 番外編 第十一話昼。 今日は自転車旅はなく各自自由行動、という名目だったが、実際に外へ出たのはドラゴンだけだった。 キャンピングカーには、一護・古田・寧人の三人が残り、それぞれ仕事に追われている。 一護は編集作業、古田は運転席を倒して休憩、寧人はその横でスマホを弄っていた。 沈黙を破ったのは古田だった。 「……て、寧人。ドラちゃん探ってどうするの? しかも誘導、下手すぎ」 「すまん……。てか“下手”ってリンから言われるの久しぶりでゾクっと来るんだけど」 横たわったままの古田に向けてそう言うと、編集画面を見ていた一護が一瞬だけ顔を上げ、ちらりと二人を見た。 「……いや、ほんと。聞き出し方が雑だったね」 「まぁ、何かの流れで聞こうとしてるのは分かったけどさ」 「だよな……」 そう言って寧人は天井を見る。 少し間を置いて、古田がぽつりと続けた。 「……正直、僕も気になってるんだ。ドラちゃんがさくらキャンパーで何かあったのか」 「やっぱ元客と店員の関係だから、感じるもんある?」 「うーん……。普段あんなにオープンな人がさ、人に隠れるようなことしないでしょ。配信だって出たがりのはずなのに、今回だけ出ないってのがさ」 その言葉に、寧人も小さく頷く。 「確かに。スタッフが来るたびキョロキョロして、何もなかった顔して戻ってくることもあったな。でもその時、宙社長はいなかったし……」 「……まさか社長と何かあった、とか?」 「“何か”って……関係があったって意味か?」 寧人が言うと、古田は眉を寄せる。 「マッサージ店の常連なら、どこかで顔合わせてると思うけど。僕、彼を見たことないし」 二人がそのまま盛り上がり始める一方で、 一護はいつの間にかキーボードを叩く手を止めていた。 画面は見ているが、視線が定まっていない。 それに気づいた寧人が、少し言いづらそうに口を開く。 「……一護。元彼として、ドラちゃんのこと何か知ってるか? 宙社長と付き合ってたとか、そういうの」 一瞬、間が落ちる。 「……いくら元彼でも」 一護はゆっくり息を吸ってから言った。 「知らないことはたくさんあるよ。それに――宙社長はノンケだし!」 語気が強くなり、空気が張りつめる。 「ははん。一護、社長がノンケって知ってるんだ?」 古田がからかうように言う。 「まさか一
Terakhir Diperbarui: 2026-01-27
Chapter: 番外編 最終話 神奈川に戻って数日後、希望していた高校から連絡があった。 同系列の関東の高校でテストを受け、基準を満たせば二年生の夏休み明けに転校が可能だという知らせだった。 藍里はそれを聞いて、すぐに机に向かった。眠そうな目をこすりながらも、毎日必死に勉強した。 その努力が実を結び、無事に合格の通知を受け取ったとき、私は胸をなで下ろしながらも、娘の成長に目頭が熱くなった。 私自身も必死に働いた。神奈川の支店に戻ると、やはり愛知の方が活気に満ちていると感じたが、同時に長年の「マイホーム」に戻ってきた安堵もあった。慣れた土地、見慣れた景色。だが愛知の支部長の言葉通り、人事改革や設備改装は全店舗規模で動き始め、私もその渦中にいる。 忙しい合間にも、時雨くんとのメールや電話が支えになった。 「おつかれさま」「無理しないで」——その短いやりとりだけで心がほどけていく。 仕事の上では私は、誰かの性対象であり、恋人役であり、話し相手である。擬似的な愛を提供するのも役割のひとつであり、それを割り切らなければ成り立たない世界だ。 でも、時雨くんは違った。優しくて、素直で、まっすぐで……そんな彼の存在があるからこそ、辛い仕事も乗り越えられるようになった。 やがて夏休み。娘の新しい門出と同時に、私たちは愛知に引っ越した。 そして今日、仕事帰りに、久しぶりに時雨くんと再会する。 ……いろんな男を相手にした後で彼に会うのは、正直、気が引ける。彼は私の仕事を知らない。でも、きっと彼なら受け入れてくれる。そう信じたい。 待ち合わせは、最後に別れたあの駅だ。 外は雨。 頭の奥がずきずきする。けれど、不思議といつものように憂鬱ではなかった。むしろ胸が高鳴っていた。 「さくらさんー!」 ホームに響いた声。 電話越しではない、生の声。心が震える。 彼は傘を片手に、笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。 私は傘を閉じて駆け出す。濡れてもいい。ただ彼の傘の下に飛び込み、強く抱きしめた。 人目もはばからずに。 時雨くんもまた、ためらわず私を抱きしめ返してくれた。 傘を叩く雨音。滴り落ちる雫。服に沁み込む冷たさ。 それでも、彼の体温に包まれていると不思議と平気だった。 ——雨も、悪くない。 少し、雨が好きになった。 終
Terakhir Diperbarui: 2025-09-28
Chapter: 番外編 第二十二話 そして駅まで送ってくれた。「なんかさ、あったばかりで……僕の一目惚れで……なんていうかその……」「うん……」「でも今回限りにはしたくない」 彼の真剣な眼差しに射抜かれる。冗談でも軽い気持ちでもない、真っ直ぐな想いがそこにあった。私も胸が熱くなって、ただ黙って頷いた。 互いに連絡先を交換する。「また落ち着いたら連絡する」「神奈川だっけ……家」「うん。でも仕事でこっちに来れる……ううん、来てみせるわ」「やった」「ふふふ」「可愛い、ふふふって」 思わず笑ってしまう。けれどその笑いすら彼は愛おしそうに見つめてくる。 あ、そうだ……伝えなきゃ。そう思った瞬間、彼は両手で私の手を包み込んだ。「雨もいいよね。また雨が降っても僕だけでなくて……おかみさんやスタッフさんや……一緒に来てくれた山上さん……ちょっとあの人はデリカシーないけどさ、心配してたから。みんなに優しくしてもらったことを思い出してほしいな」 私はただ頷く。事務長の名前まで覚えているなんて、やっぱりすごい人だ。さすが有名料亭の板前さんだと思った。「……本当はね、仕事で来たの。愛知に」「そうだったんだ……」 そう言って互いに見つめ合う。気づけば距離がなくなって、そっとキス。照れ笑いしながら、もう一度唇を重ねた。 けれど次に彼の舌が触れた瞬間、私は反射的に顔を離した。「ごめん」「……もうこれ以上しちゃうと、帰りたくなくなる」「そうだね……」 彼は笑ってごまかすように、トランクから荷物を出してくれる。「はい、どうぞ」 私はキャリーケースを受け取って、ようやく切り出した。「私さ……離婚したけど、子供いるのよ」「ああ、なんか話してたね。まだ小さくて、預けてもらってるとか?」「……ううん、高校生。女子高校生」「えっ」 彼の目がまん丸になる。その驚き方があまりにも素直で、私は思わず苦笑いした。やっぱり若いよなぁ……。「すごいなぁ、さくらさん……ますます応援したくなる」「ありがとう。私もあなたの仕事、応援してる」 電車のホームへ向かう私を、彼は最後まで手を振って見送ってくれた。笑顔のまま、何度も、何度も。 振り返るたびにその姿が小さくなっていくのが切なくて、胸にぽっかり穴が空いたみたいに感じた。 持っている傘はまだ雨で濡れているけれど、そのうち乾くだろう。 改
Terakhir Diperbarui: 2025-09-27
Chapter: 番外編 第二十一話 ピンポーン。 ドアのチャイムが鳴った。「やべっ、先輩かも」「流石に二時間もダメでしょ……早く行かなきゃ。私も小雨になったし、行くわ」 そう言いながらも、時雨くんはまだ腕を解こうとしなかった。胸に回された腕は、私を逃がす気などないかのように力強い。 だめだよ、行かなきゃ。分かっているのに、体は彼に預けたまま動けなかった。「も少し、このまま。……ほら、雨の音、聞いて」 確かにさっきより小雨になってきた。けれどまだ窓を叩く細かい水の音は絶えず、しとしとと規則的に響いている。「どう? 雨の音、いいでしょ。僕は昔から雨音が好きなんだ。名前に“雨”がつくのもあるけどさ……」「……私は、嫌いだった」「でも今はどう? 耳澄ますと、けっこう落ち着く音だと思わない?」 彼の言葉に合わせるように意識して耳を澄ますと、不思議と胸のざわつきが少しずつ鎮まっていく。嫌いだと思い込んでいたはずの音が、こんなふうに柔らかく響くなんて――。 ピンポーン。 再びチャイムが鳴る。「おい、廿原! なにやってんだ!」 ドンドンと荒い音。重たい扉越しでも、低く響く怒鳴り声に体がびくりと震えた。喉がきゅっと詰まって、声が出ない。 時雨くんは私をぎゅっと抱きしめ直して、それから少しだけ離れた。「待ってて。話してくるから」 短くそう告げると、ためらいなく玄関へ向かっていく。その背中を呼び止めたかったのに、足は一歩も動かず、唇も開かなかった。 ……私がいけないのよ。引き止めてしまって、部屋にまで上げてしまって。 耳を澄ませる。「すいません、先輩。頭痛くって」「勝手に休むなよ。連絡しろ……て、そのヒール」 あっ、私の……。「ははん、女連れ込んでるのか。スーツケースあるってことは……お取込み中か?」 しまった……!「そ、そうです」 ――時雨くん……! 胸がぎゅっと締めつけられる。「はぁ、それはそれは。一時間後には戻ってこいよな。仮病じゃなさそうだから」「はい……すいません」 やがてドアが閉まる音。私は慌てて玄関へ駆け寄った。「ごめん、時雨くん」「さくらさん、謝ることないよ。……さ、今から駅まで送っていくから」 寮を出る頃には雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から差す光が濡れたアスファルトに反射して、街全体がきらめいている。ふと見上げると、薄く虹が架か
Terakhir Diperbarui: 2025-09-26
Chapter: 番外編 第二十話 私はベッドを離れてシャワーを浴びた。 熱いお湯が肌に当たるたび、少しだけ体の力が抜ける。外の雨はシャワーの水音に負けないほど激しく降り続けている。どうして雨が降るの。もう、ほんとうに嫌だ──胸の中で何度も繰り返す。 タオルで髪を拭きながら、ふとカーテン越しに彼の声がした。「ねぇ、さくらさん」 思わずハッとして、私は肩越しに声のする方へ振り向いた。カーテン一枚の向こうにいるだけなのに、その距離が妙に近く感じられる。彼の声は静かで、でも確かに私を見つめているのがわかった。「なんで雨が嫌いなの……」 その一言を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな針がぎゅっと押されるようだった。言いたくないことを引き出されるような、そんな不安。 雨が嫌いな理由は、綾人のことが絡んでいる。どこからどう話し始めればいいのかわからない。順序立てて話すには、積み上げられた年月をひとつずつひも解かなくてはならない。簡単に説明できるものではなかった。 シャワーを終えてタオルを肩に掛け、私は息をついて答えた。「……ごめん、あんまり言いたくないよね。会ったばかりだし、聞くのは失礼だったよね」 それを聞くと、彼は一呼吸置いて、柔らかく言った。「そ、それはないよ。話したいなら聞くよ」 言葉はありがたかった。けれど「話す」ということは、私にとっては重い作業だった。綾人と結婚してから始まった日々、子どものこと、逃げ出した頃、役所や相談機関、弁護士や警察にまで話したこと──それらすべてをまた一から語るのかと思うと、喉が詰まった。 何度も語ってきたはずなのに、語らなければ理解してもらえない不自由さがある。 私はシャワーから出て、バスタオルで頭を拭きながらゆっくりと話し始めた。「雨の日はね、夫を迎えに行かなきゃいけなかったの」 彼の目が驚きで大きく見開かれるのが見えた。反射的に彼は声を上げる。「……夫?!」 しまった。言葉が足りなかった。「ち、違うの。もう離婚してるから、“元夫”のこと」 彼は一瞬戸惑った顔をし、そのあとで苦笑するように息を吐いた。「あ、そうか……びっくりした。人妻とやっちゃったのかと」 そのトンチンカンな反応に、私は思わず眉を寄せてしまう。彼の慌てた言い方には救われる部分もあった。テンパって言葉が絡まる様子が、変に安心をもたらす。 私はあの日々の「ルール」
Terakhir Diperbarui: 2025-09-25
Chapter: 番外編 第十九話 私は電車を遅らせることにした。 スマートフォンの時刻表アプリを閉じ、画面を伏せてベッドの脇に置く。帰ろうと思えばすぐにでも帰れる。けれど、帰りたくない。もう少し、ここで彼の声を聞いていたい。「……料亭はいいの?」「さくらさんこそ……もう帰りなんでしょ」 荒々しく、けれど優しさを含んでつづはらさん――時雨さんに抱かれてから、もう二時間が経つ。料亭のすぐ横にある住み込みの寮。彼の小さな部屋。再会して、預かってもらっていた服を受け取り、返して、最後にちょっとしたおみやげを買って帰るはずだった。ほんの数分のつもりだったのに、気づけば彼の部屋に誘われ、軽い冗談のように始まったキスが止まらなくなって、そして今の私たちがいる。「もう帰るなんて嫌だよ……もっとさくらさんを知りたい」 その言葉に胸がちくりとする。こんなふうになるなら、もっと早く会っていればよかったのかな、と一瞬思う。でも、それは現実にはなかったこと。遠回りして、傷ついて、ようやく今ここにいる。 窓を打つ雨音がまた強くなった。重くのしかかるような低い音。私は無意識に眉を寄せる。やっぱり雨は苦手だ。心までじわじわと湿らせてくる。「雨、嫌いなんだよね?」「……うん」 口に出すと、気持ちがじわっと溢れそうになる。だから話題を変えるように、少し笑いながら尋ねてみた。「そういえば“しぐれ”って、時の雨で“時雨”でいいのよね?」「うん、そうだよ。変わってるでしょ」 彼は照れくさそうに笑った。「弟の名前にも“雨”がついてるんだ」 そうなんだ。名前に“雨”がつくなんて珍しい。雨が嫌いな私からしたらちょっと不思議だ。でも、彼の口から語られると、なんだかそれも特別なもののように思えてしまう。「じゃあ、時雨……くんは雨は好き?」「うーん……」 困った顔をしている。質問が重たかっただろうかと不安になる。「……まぁ、時と場合によるよね。頭は痛くなる時と、そうでもない時があるし」「私は嫌よ。嫌い」「すこぶる嫌いそうだな、恨みつらみありそう」 彼の軽口に少し救われる。けれど私は静かに言葉を落とした。「そうね……嫌なこと思い出すから」 時雨くんに抱かれているのに、前の夫のことがふと頭をよぎる。優しかったはずが一変した綾人。あの恐怖が、雨の日と一緒に蘇る。そんなの嫌だ。だから、私はぎゅっと彼を抱きしめた
Terakhir Diperbarui: 2025-09-24
Chapter: 番外編 第十八話 休ませてもらった後、がっつり仕事をした。 生活のため、娘のため。ほとんど毎日のように出勤した。週に一度は必ず休まなければならなかったけど、その休みさえも「休んだ気がしない」。 頭の中は常に、次の仕事と生活のことばかりだった。 でも、今回の件で知った。休むことは、やっぱり大事なんだと。 この五年間、私はがむしゃらに走り続けてきた。無理をして、それでも前に進むしかなかった。だけど――無理をしていた自分に、ようやく気づけた。 新天地での仕事は緊張したけれど、いつも通りのパフォーマンスを心がけた。数日分の遅れを取り戻すつもりで。正直、体はしんどかった。 だけど、終えた後のあの高揚感――あぁ、気持ちいい。 性を解放する場でもあるのよね、この仕事は。「すごいです、さくらさん。チップも多くて……。でも、今から休憩して夜からの稼げる時間まで回復してくださいね」「ありがとう……」 今日の調子が良かったのは――廿原さんのことを考えていたから。普段は俳優やアイドルをイメージして気持ちを上げていたけど、今日は彼。思い出すだけで体が熱くなって、自然と笑顔になれた。 あぁ、やっぱり私はちょろい。 昔からそうだった。少し優しくされたり、親切にされると……すぐに惹かれてしまう。綾人の時も、そうだった。あの優しさを信じてしまったから。 彼とはあれから会っていない。もちろん連絡先も知らない。神奈川の事務長は勝手に戻っていたし……。 ――そうだ、服を取りに行かなくちゃ。 ほんの少し親切にされただけで、ここまで気持ちをかき乱される自分が情けない。私は両手で頬を挟み、パシッと軽く叩いた。「まずは休む、休む!」 言葉にしないと、また無理をしてしまう。そう、自分に言い聞かせるように。 そして、最終日。「本当にお疲れ様でした。無理をなさらず……またここに戻ってきてくださることを期待しています」 社交辞令かもしれない。鵜呑みにしてはいけない。この業界では、と心のどこかで思いながらも……頑張った自分を労ってもらえるのはやっぱり嬉しい。 ――そう、労いの言葉。それが綾人にはなかった。「こちらこそありがとうございました。サポートがあって、ここまで頑張れました」「……早く娘さんの高校、決まるといいですね」 ……あぁ、忘れていた。まだ高校からの連絡は来ていない。胸が重くなる
Terakhir Diperbarui: 2025-09-23
Chapter: 第七話 とりあえず……? スケキヨのその後は引き取られなくても房江が他の猫と一緒に飼うことはもう決まってはいた。今まで長年たくさんの猫を育ててきた愛猫家で猫のミルクボランティアもしているほどだ。だから世話とか餌とか住処には困らない。 しかしこのままでは大島は車に轢かれて猫に転生しただけ、というストーリーを辿ることになってしまう。 別にそれも悪くはないのだがそこまで縁もゆかりもない川本家に居続けるのか、と思いながらもそういうのもありか……と半分諦めていた時だった。 「スケキヨちゃんっ!!」 房江が突然、大慌てで家に駆け込んできた。何事かと思うくらい。 「スケキヨちゃんーーー!!!」 息が荒い。切羽詰まった表情からにっこり笑顔になった。「やっぱり三葉さんが引き取りたいって!!」 「にゃーーーーー」 その瞬間、スケキヨの中にいる大島は喜びを爆発させ、飛び上がった。 『三葉とまた一緒に暮らせる!』 まさに奇跡だ。大島は心の中で叫んだ。 猫に転生した後、断られたと思っていたのに、まさかの大逆転。 もう二度と会えないと思っていたのに、また一緒に過ごせるなんて――大島はこの奇跡に大喜びした。 しかし、待てど暮らせど三葉が迎えに来る気配はなかった。スケキヨの胸には不安がよぎり始めた。 「引き取り手が決まってよかったわね……」 「そうだなぁ。でも、あんな美しい未亡人、男たちがほっとくわけがない。すぐに再婚するだろうよ」 その言葉にスケキヨの毛が逆立った。 『なぬっ!!!』 と。「そうよね……寂しさを埋めてくれる人が現れるまで、かしらね。あと子供できたら尚更……それはちょっと困るからちゃんと飼い方を教えないと」 川本夫婦の視線がスケキヨに向けられたが、大島の心はそれどころではなかった。『自分の代わりに男が現れるなんて……いやいや、そんなこと……』 大島の心は締め付けられ、激しい不安が押し寄せる。 苦しくて耐えきれず、うずくまってしまう。心拍数が上がり、呼吸が乱れ始めた。「おい、そろそろ時間だろう」「そうだったわね」 時間……大島の視界は徐々にぼやけながらも、部屋を見渡すと、どこか懐かしい光景が広がっていた。 川本家の部屋は、幼い頃に訪れた祖父母の家に似ている気がして、どこか安らぎを感じた。 「はーい、スケキヨちゃん。あーん
Terakhir Diperbarui: 2026-03-05
Chapter: 第六話 妻のところに辿り着いた経緯 半年前のことだった。 大島が猫に転生し、妻の三葉と再び一緒に過ごせるようになったきっかけは、彼の葬儀の後に川本夫婦が三葉に声をかけたことだった。 あの妊婦猫を引き取った川本夫婦は、実はボランティアが趣味で多岐にわたるボランティア活動をしていた。高校の近くでもあり、学校に関連するボランティアもしていたため大島とも認識はあった。 そしてボランティア活動の一つであったのが保護猫活動なのだ。 そんな彼らが夫を亡くした三葉を自宅に招き、彼女にこう語りかけた。 「大島先生は、いつも元気よく挨拶してくださったんです。生徒だけじゃなく、私たち近所の人にも優しくしてくださって……」 大島は、剣道部の指導のため、週に3日ほど、時には試合が近づくと2週間も学校の独身寮に泊まっていた。実のところ三葉は彼が勤める高校には一度だけしか行ったことがない。 他人から聞く夫の姿を、三葉は初めて知り、涙を流した。仕事の話は夫婦間ではあまりなかった。自慢してひけらかすような人間ではなかったので尚更である。 ふと子猫たちの鳴き声が聞こえた。妊婦猫が出産した子猫たちが、川本家の猫たちとともに遊んでいた。 自然と三葉の目は、その光景に引き寄せられる。 「そうそう、事故があった日の夜、このお母さん猫を助けてくださったのは大島先生なんですよ」 「……主人が?」 「ええ。夜も遅く、ためらうことなくこの猫を助けてくださって。このおかげで、この子たちもこうして生きているんです」 その言葉に、三葉はさらに涙が溢れる。房江は優しく彼女の背中をさする。 子猫たちは元気にニャーニャーと鳴き声を上げている。 「二匹はもう貰い手が決まっているんですけど、あと一匹だけまだ決まってなくて……あら、スケキヨがすごく鳴いてるわ」 「スケ……キヨ……?」 パンダのような模様が特徴的で、他の猫たちとは異なる風貌をしている。三葉はその名前に反応した。 「この子、他の子たちと少し違って自己主張が強いのか、やたらと甘えん坊で……かまってちゃんなのよね」 と房江が笑いながら話す間も、スケキヨは必死で三葉に向かってニャーニャーと鳴き続けていた。 『三葉っ! 気付け! 俺だ! って……わからんよなぁ』 三葉は動き回るじっとスケキヨを見つめた。 「この子、多分、もう目が見えるわね……
Terakhir Diperbarui: 2026-03-04
Chapter: 第五話 なにもできない「もう……イタズラが過ぎるわよ。かまってちゃんなの? 酔っ払ったときの和樹さんみたい」 三葉は呆れたように言いながらも、本気で怒っているわけではないのが、抱き上げる腕の力でわかる。 困ったように笑う、その口元。大島はその表情を、どれだけ見てきただろう。『今はシラフだ……』 心の中で反論する。『てか俺、そんなに面倒くさかったのか?』 ふと記憶が蘇る。仕事帰り、コンビニで缶ビールを買ってきて。 ソファにだらしなく座り込んで。意味のない話を延々と続けて。『なあ三葉、俺さ。聞いてる? ちゃんと聞いてる?』 そのたびに三葉は、台所から顔だけ出して「はいはい」って笑った。 呆れた顔をしながら、ちゃんと最後まで聞いてくれた。 あれが日常だった。何でもない夜。何でもない会話。それが、どれだけ贅沢だったか。幸せだったか。『三葉、お前に負担かけたくないんだ』 胸の奥で、言葉が溢れる。 墓のことも、金のことも、これからのことも。本当は全部、自分がやるはずだった。 こんな素敵な妻を一人にするつもりなんて、なかった。 のだが……今は言えない。 喉の奥にあるはずの声は、形にならないまま消えていく。 三葉はスケキヨを胸に抱いたまま、破れたチラシを見下ろしている。 高級墓石の写真が、無残に裂けている。「またもらってこなきゃね。今度は邪魔しないでよ?」『わかってるよ』「ニャァ……」 情けない声だ。情けなさすぎて、自分で自分に腹が立つようだ。 三葉はふと視線を上げ、仏壇の遺影を見る。そこにいるのは、自分。「ナミさん、本当にあなたのこと心配してくれてるわよ」 三葉の指先が、スケキヨの背中をゆっくり撫でる。 大島は妹を思い出す。両親を亡くしてから、二人きりになった時間。強がっていたのは、いつも自分のほうだった。 兄だから。男だから。泣くのはみっともないと思っていた。 ナミが北海道に嫁ぐ日。父親代わりに挨拶をしたとき、声が震えた。 途中から何を言っているのか自分でもわからなくなって、最後はぐしゃぐしゃに泣いた。 そのときナミは、涙を浮かべながら笑った。「兄ちゃん、大丈夫だよ」 あの笑顔。あの言葉。 今も、支えられているのは自分のほうかもしれない。 三葉とナミが、電話やLINEで連絡を取り合い、互いを気遣いながら話を進めている。 自分
Terakhir Diperbarui: 2026-03-03
Chapter: 第四話 墓はいらない 大島には妹のナミがいる。 結婚して北海道で農業を営んでいる。広い空と土に囲まれた暮らしだ。 だが彼女には持病があり、長距離の移動は難しい。それでも三葉とは頻繁に連絡を取り合い、関係は良好だった。金銭面の整理も、弁護士を通して淡々と、けれど丁寧に進められている。 もめる気配はない。それが逆に、大島には寂しかった。自分の死が、きちんと片付けられていく。大島には妹家族以外に身寄りはない。三葉もまた、両親を数年前に亡くしている。残された者同士。 「ナミさんがね、お墓はどんなのでもいいって。私に任せるって言うのよ……困るわよね」 三葉はテーブルいっぱいに広げた墓石のチラシを見つめている。 和室に差し込む午後の光が、白黒の墓石写真をやけにくっきりと浮かび上がらせていた。 墓地は近くの天狗山麓の霊園。整備されたばかりで空きがあるという。若い管理者が入り、清掃も行き届いているらしいと、先日訪ねてきた業者が熱心に語っていた。 値段は、正直安くはない。それでも三葉は予約を入れた。 駅からは遠い。けれど車なら十分行ける距離。 生前、マンションを選ぶときは大島が妙に頑固で、少しでも安く、少しでも条件のいい物件をと粘りに粘った。そのせいで契約までにずいぶん時間がかかった。 だが今回は違う。三葉ひとりだと、決断は早かった。それが、妙に胸に刺さる。 『もし俺が生きてたら……って高すぎるだろ。石っころだぞ、これ』 追心でそう思ってしまう大島。 「仏壇あるんだから十分だろ」とか、どうでもいい理屈を並べて、決断を先延ばしにしていたに違いない。仏壇にはまだ自分の骨壷がある。それを思うだけで、胸の奥がざらつく。 スケキヨは三葉の横に寄り添い、チラシを覗き込む。鼻先をぐい、と紙に押しつける。 『こんな立派なの、いらない。三葉に負担かけるな』 クイッ、と前足で引き寄せる。 「ちょ、スケキヨ」 チラシが三葉の手から外れた。 「もぉ……おもちゃじゃないのよ?」 「ニャー!」 抗議のつもりだった。だが出るのは猫の声だけ。悔しい。 人間の言葉が喉の奥に詰まっているのに、どうしても出てこない。 スケキヨは跳んだ。自分でも驚くほど軽い身体。信じられない跳躍力。一瞬でテーブルの端に乗り、爪を立てる。 ビリッ。 高級
Terakhir Diperbarui: 2026-03-02
Chapter: 第三話 一年後 その猫……スケキヨは、今日も飼い主の三葉の足元で丸くなっていた。 彼女が川本夫妻からこの猫を引き取ってから、もう半年が経つ。 スケキヨはこの世に生まれて一年目でもある。猫の顔は、目の周りが黒く、どこかパンダのようにも見える。 しかし、三葉が引き取った時、川中さんの夫が 「こりゃスケキヨだな」 と勝手にそう呼んだのがきっかけで、その名が定着してしまった。 (ちなみに川本の奥さん、房江は「パンダ」かあるいはパンダに似ているから「シャンシャン」とか「リンリン」がよかったらしいが……) 三葉は少し戸惑いながらも、結局そのまま「スケキヨ」と呼ぶことにした。 「スケキヨ、何だかあなた、似てるのよね……くつろぐ姿がさ。それに、いつもあの人がいた場所でくつろいでるし」 三葉は、そう言いながらスケキヨを撫でた。その「あの人」とは、もちろん亡くなった夫、大島和樹のことだ。 その猫に転生した大島は、彼女の言葉を聞くたびに心の中でため息をつく。(もちろん転生したことは三葉も周りも誰も知らない。) この「スケキヨ」という名前もどうにかならなかったのか、と。 彼はパンダのような顔を自覚しているが、なぜ「スケキヨ」と呼ばれなければならないのか。しかし、猫の姿になった今、名前に文句をつけることもできない。 『諦めるしかない……ああ。今更ネコスケとかオカカとか猫特有の名前をつけられても困る。』 転生して一年が経ったが、彼は未だにこの不条理な状況を完全には受け入れられずにいた。それでも、こうして三葉のそばにいられることは、ありがたいとも感じている。 もしあの時、自分が助けた母猫が死んでいたら、今ここに自分も存在していなかったかもしれない。 『命を救ったから恩返しとしてこの猫に転生したのだろうか』 と自分に言い聞かせていた。 『まさか、スケキヨなんて名前で呼ばれるとはな……』 大島は苦笑しながらも、三葉の温かい手の感触に少しだけ癒されていた。 妻に自分の正体を伝える手段はないが、彼女が自分を撫でるたび、心の奥で再び繋がっているのだと感じる瞬間がある。名前こそ「スケキヨ」だが、今のこの平穏な日常は、彼にとって大切なものになりつつあった。 しかし、ふと視線を仏壇に向けると、彼の心はまた別の不安が襲う。 このマンションに置かれた小
Terakhir Diperbarui: 2026-03-01
Chapter: 第二話 意外と受け入れるのが早い主人公「おう、可愛い……可愛い」 声が聞こえた。大島は突然の意識の途切れから目覚め、ぼんやりとその声に耳を澄ました。「房江さん、早くタオル持ってきてくれ!」 次に聞こえたのは、どこか聞き覚えのある男性の声だと。『この声は!!!』「ニャーニャー」 と周りからか細い鳴き声が響いている。生臭い匂いが鼻を突き、大島はますます不安になる。何も見えない。視界が真っ暗だ。『ああ、そうだ……俺、車に轢かれたんだ……』 ぼんやりとした記憶が甦る。車が突っ込んできた瞬間、そして血がじわりと流れ出る感触――剣道の道場で、子どもの頃に階段から転げ落ちた時の出血を思い出させるような感覚であった。 だが今は、それ以上に混乱していた。『周りの猫の鳴き声、鼻をつく血や肉の匂い――これが一体、何なんだ? たく、なんだよ……全然見えねぇし、クセェし。なんで俺の周りに猫が集まってるんだ?』 大島は体を動かそうとするが、思うように動かない。ねちゃねちゃした感触に包まれ、どこか狭く、湿っぽい。何かがおかしい。 すると突然、体が軽くなり、ふわっと宙に浮いたような感覚がした。「この子、真っ白で目の周りが黒いわね。まるで……パンダみたい」 女性の声がそう言いながら、大島は何かに持ち上げられていた。『え? なんだ、浮いてる!?』 大島は焦り、ますます混乱する。視界は真っ暗で、耳だけがやけに敏感に反応する。 そして聞こえてくるのは、「この子」という言葉……まさか、自分のことを言っているのか?「目の周り、拭いてあげましょうね」 そう言うと、突然大きな布で顔をグリグリと拭かれた。布がざらついていて、少し痛い。『ああっ、苦しい! 加減してくれよ! ……って、川本さん!? さっき猫引き取った川本さんか!?』 しかし、彼がそう叫んでも、口から出てくるのは「ふギャァッ」「ふにゃあ」といった情けない声だけだった。『声が……声が……なんでだ!?』 パニックになる大島。 そして、彼はついに気づいてしまった。『……この体、俺じゃない……!』 大島は絶望と混乱の中で思わず叫んだ。 しかし、何も見えないまま、時間だけが過ぎていった。 視界は暗く、ただ生臭さと小さな猫たちの鳴き声に囲まれながら、彼は自分が自分ではない何かになってしまったことを否応なしに受け入れざるを得なかった。 なにか
Terakhir Diperbarui: 2026-03-01