Chapter: 第三十五話 夜。 二人は一緒にお風呂で温まったあと、ベッドの上でいつものストレッチを始めていた。 お湯で体はほぐれている――はずなのだが、寧人の身体は長年の不摂生のせいで頑固な板のように硬い。 「あ、いでででで」 「前よりは柔らかくなってるよ。やっぱり出勤は自転車にしましょう」 「いやだよぉ……絶対無理だって」 一護は余裕の開脚でゆったり呼吸しながら、ちらと寧人を見やる。 その顔には、どこか探るような影が落ちていた。 「あのキツネ目の男に、車で送ってもらってるんでしょ?」 「ッ……!」 寧人はギョッと目を見開く間もなく、一護にぐいっと身体を引っ張られ、痛みに声が裏返る。 「まだ電車のほうがマシよ。立って乗れば足の踏ん張りもつくし、爪先立ちもすればふくらはぎも鍛えられる。でもあなた、痴漢で捕まるのも時間の問題」 「だから車の方がいいんだよぉ……!」 「あの男の車で」 また強めに引っ張られ、いででででと寧人は床を叩く。 「も、もう今日は終わりにしよう? 疲れちゃった……」 「なんで疲れたの? いつもなら私に甘えてスリスリしてチュってしてくれるのに」 一護が寧人の肩に顎を乗せて擦り寄ってくる。 しかし寧人は目を伏せ、逃げるように布団の中へ潜り込んだ。 「寧人っ! 調子に乗んな!」 バフッ、と枕が布団越しに直撃する。 「いででっ、ごめん……一護ぉ……!」 「……」 バコッ、バコッ、バコッ。 一護は無表情のまま何度も叩きつける。 だがふいに動きを止めた。 そして――にやり、と笑った。 「……やっぱり長芋の効果、出た」 「ぬあっ……!」 寧人の身体が内側から熱を帯びる。 一護も同じだった。 あの晩ご飯の長芋のとろりとした作用が、今、体温を確実に押し上げている。 「……寧人」 「い、一護……あああああっ!」 堪らず寧人が布団をはね除け、服を脱ぎ捨てた。 その瞬間、一護は寧人の胸元に口をつけ、むさぼるように乳首を舐め始める。 「ひっ……あ、あぁああ……!」 寧人の身体はまだ締まりがなく、やわらかい肉が敏感に揺れる。 お腹のたゆみも、胸のむちっとした感触も、一護の指にとってはたまらない。 赤子が母の乳を求めるみたいに、一護は胸を吸い、舐め、指で押し広げる。 「はひぃぃ……
Última actualización: 2025-12-05
Chapter: 第三十四話「いや、ね……営業先を今日はたくさん回ってさ、汗かいちゃって」 玄関に入るなり、寧人はぽつりとそうこぼした。 別に一護から聞かれたわけでもないのに、まるで“先回りして言い訳しよう”とするみたいに、口が勝手に動いていた。 靴を脱ぎながら視線を合わせてこない寧人に、一護は一瞬だけ首を傾げる。けれど、その違和感が何なのかは言葉にできない。 一護が顔を上げたときには、すでに寧人は新品の白シャツのボタンを外していた。 胸元に張りついた布をはがすように脱ぎながら、まるでその視線から逃げるように洗濯機のほうへ歩いていく。 まだ新品に近いシャツの繊維に、細かい汗の染みが浮かんでいる。 寧人は「ふぅ……」と小さく息を吐き、恥ずかしさを紛らわせるようにそのシャツをネットへ押し込む。 ついでに脱ぎ捨てた下着も、ためらうことなく同じネットに入れた。 パジャマに着替えて戻ってくると、寧人はソファへ身体を沈め、背もたれに頭を預けた瞬間、肩の力がふにゃりと抜けた。 その姿は、全身で“限界です”と訴えているようだった。「そうなの、お疲れ様。大変だったね……」 一護はキッチンから歩み寄り、寧人の前にしゃがむ。 普段より少し声が低く、優しく撫でるようなトーン。 寧人の額についた細かな汗の粒を見つけて、つい指で触れたくなる衝動をこらえる。「下着まで汗まみれになるなんて。シャツはさ、前にも言ったけど……襟元に洗剤つけて、畳んで、ネットに入れてって――」 そこまで言って、一護はふと洗濯機の前で動きを止める。「……て、あれ? ちゃんとできてる」 驚きと嬉しさが混じった声。 それを聞いた寧人は、返事をするでもなく、ソファでまどろみながらゆっくり呼吸しているだけ。 その寝息が、どこか無防備で、どこか甘い。 一護は腰に手を当てながら、くすりと笑ってネットの中身を覗き込む。 白シャツと、その奥に――寧人の下着。「もぉ……下着までここに入れて。ほんと、恥ずかしがり屋さん……」 からかうように言ったが、実際には胸の奥がじんわり温かくなる感覚があった。 “見られること”を照れながら、でもどこかで頼ってくれている――それが嬉しかった。 だからこそ、一護は自然にその下着を手に取ってしまった。 指に触れる布は、まだ微かに体温を残していて、寧人が一日走り回った息遣いまで染み込
Última actualización: 2025-12-04
Chapter: 第三十三話 寧人は古田のバスローブを脱がせ、そっと背を押して風呂へ誘導した。さっきは気まずくなって別々にシャワーを浴びたばかりだ。「古田さん、風呂場はどうですかっ。シチュエーション変えたら、少しは気持ちが変わるかなって」「……そこまでして“やりたい”のか」「は、はい……」 正直に言ったつもりだが、古田は鼻で笑い、逆に自分のバスローブを羽織り直すと、寧人の肩にもサッとかけた。「あと少ししたら出るぞ」「そ、そんなぁ……」 寧人はガックリとうなだれた。意気込みごと、下までしょんぼりしてしまう。「てかお前、おっさんなのに元気だよなー。昔、意外と遊んでたとか?」「そ、そんな……!」 寧人は顔を真っ赤にして首をぶんぶん振る。「え、まさか……」「まさかです」「ど、ど……」「童貞です」「うそだろぉおおお!? やべぇ、危うくおっさんの筆下ろしするとこだった……!」 その言葉が思った以上に刺さり、寧人は完全に自信を失ってトボトボと着替え始める。古田も気まずそうに沈黙したまま、二人の支度は終わった。 ――そして現在。 ラブホテルの駐車場に停めた営業車の中は、さっきの沈黙がまだ尾を引いている。「……でもその割には、こないだのプレイは凄かったけどな」 やっと口を開いたのは古田のほうだった。 寧人は一瞬ビクッとした。あれが一護仕込みとは言えない。 会社スマホを開くと、新着メールが一通。差出人は「菱社長」。 いまラブホテルの駐車場にいるのがバレたらと思うと、さすがに背中が冷える。「えっと……その、菱社長から今朝のパン屋のレポートに返答来てました」「なになに」 古田が画面を覗き込む。営業車は狭いので、自然と顔が寄る。 寧人は画面と古田の顔を往復し、目が合った瞬間、息が止まる。「……なんだ? 鳩森」「古田さん……」 名前を呼ぶ声が、驚くほど優しかった。◆◆◆「んっ……」「ふんっんんんん」 助手席には毛布が。その中には下半身だけ裸の寧人、古田。 ラブホテルのときは全く違う。激しく乱れ合う。 耐えきれなくなった寧人から誘い、上半身を脱ぐのも間に合わず下半身だけ裸という形になった。毛布の中の熱気でシャツも下着も汗だくであるが二人は構わない。営業車の中であることも忘れて。 古田の様子がさっきとは違う、と寧人は察した。 鼻息も荒く、キスも荒く
Última actualización: 2025-12-03
Chapter: 第三十二話「ありがとうございました」 ニコニコした笑顔の夫婦に見送られパン屋から出た古田と寧人。やたら奥さんが寧人にだけ柔らかく微笑むのを、古田は見逃さなかった。 営業車に乗り込み、渡された大量のパンからそれぞれ好みのものを選び、コーヒーを開ける。「あの奥さん、絶対、寧人に惚れてる」「そんなことないよ……でもなんか視線感じました」 寧人は人から好意を向けられ慣れていない。だから頬が少し熱い。 最近は部下の女子社員にも妙な視線を向けられており、ほんの少しだけ“モテ期”気分を味わっている。 クリームパンをかじる寧人。古田はアンパンにかじりつきながら、片手で資料にメモを書いていた。「あのパン屋さ、狭い上に出入口一つだろ。一般客と配達員がかち合ったらタイムロスなんてもんじゃない。フードジャンゴ側の印象も悪くなるしな」「確かに面倒だけど……店によって焼き上がる時間違うし、焼き立て食べたいよね。これだってさっき出来たばかりで……美味しい」「ん? どれどれ」 古田は寧人の口端についたクリームを指で拭い、そのまま舐めた。「んー、甘い……。あ、こっちにもついてる」 ついてないのに、反対の口元に指を寄せ、寧人をジトッと見つめる。「……」「……」 寧人は古田の手を取り、中指を舐めた。 まるで“さっき”一護にしていた時の感触を思い出すみたいに。「あほぅ。まだ次があるぞ。蕎麦屋。運転中に資料読み上げろ」「はい……」 (自分から指突きつけてきたくせに……) と寧人は内心思いながらも、古田はエンジンをかけた。◆◆◆ 昼過ぎのラブホテル。「あっん……あんっ……」「んっ……んっ、あっ」 午前中の営業を全て終え、最後のラーメン屋でスタミナ系を食べたあと、我慢が効かなくなった二人はそのままホテルに吸い込まれるように入った。 強いニンニクの匂いが互いの息に残っているのに、まったく気にしない。 むしろ、同じ匂いが安心感になるのか、それとも妙に性欲を煽るのか――二人は二匹の蛇がもつれあうように絡み合っていた。 だが古田の様子がどこか違う。 満足していないというより、“噛み合ってない”顔だ。 そして突然、寧人の体を突き放したのだ。「古田さん……?」 「ごめん。なんか、全然調子が出ない」 そう言うとベッドから降りてバスローブを羽織る。「二時間制なん
Última actualización: 2025-12-02
Chapter: 疑惑編 第三十一話 朝の光が柔らかく差し込むキッチンで、寧人は一護が作った朝ごはんをしっかり平らげて満足げに息をついた。最近は彼の料理の味にも、家で過ごす時間そのものにも、寧人はどこか深く頼るようになっている。 そして、今日も天気はいい。一護はピタッとした上着に身を包み、出社の準備を整えていた。素材が張りつくように身体のラインを拾うせいで、寧人はどうしても視線を奪われてしまう。「じゃあ行ってき──」 その言葉を最後まで言わせなかった。 玄関のドアを閉めた瞬間、寧人はふっと身体を近づけ、一護の腰を掴んだ。一護が「え、ちょ…」と戸惑う間もなく、彼の呼吸が震えるほどの行為が始まる。「あっ、ん……っ、寧人……遅れちゃ……本当に遅れちゃうって……っ」 寧人の方は、もう抑えきれていなかった。朝から妙に昂っていたのもあるし、あのピチッとした服が悪いのだと心のどこかで言い訳していた。 一護は以前なら絶対に玄関先でそんなことは……と顔を真っ赤にして抵抗しただろう。けれど最近の彼は、寧人に触れられた途端に膝が少し抜けるようになってきている。「ん……っ、あ、あ……っ!」 一護は堪えきれず、寧人の肩を掴んで息を詰まらせた。限界が来ると、慌てて玄関に置いてあったティッシュに手を伸ばし、ぎりぎりのところで抑え込む。「やっ……ば……っ。寧人、ほんと……!」 しかし寧人は間に合わず、その場で自分の息を荒くしてしまう。 二人して床を見て、互いに見つめ合い、なぜか吹き出した。「ごめん……あの服見ると興奮しちゃって……。つい、我慢できなくて一護のが……舐めたくなった」「寧人からそんなこと言うなんて思わなかったよ……。でも……朝から、気持ちよかった。ありがと」 寧人は苦笑しながらティッシュで床を拭く。一護も顔を真っ赤にしながらシャツを整え、呼吸を整えた。 そして二人でエレベーターへ向かう。誰もいないのをいいことに、寧人は背後から一護の腰に手を伸ばし、服の上からそっと触れた。「ちょ、ちょっと……っ。寧人、またそんな……!」「ん……だって、かっこいいよ、その服」「……ねぇ、寧人も自転車にしたら? 体力つくよ」「いやいや、君みたいに若くないし……」「休みの日にサイクリング行こ。もう……用意してあるし」「してると思ったよ……ほんと君は……。じゃあ、気をつけてね」「はい。寧人も、行って
Última actualización: 2025-12-01
Chapter: 第三十話 夜。ソファに横になった寧人は、目の上に乗せた蒸しタオルの温かさに思わず息をゆるめた。 一護の指がゆっくりと頭皮をほぐしていく。美容関係の仕事を離れたとは思えない、的確で優しい手つきだった。「出社できたんだね。頼知には“寧人の自立のために干渉禁止”って釘刺されてたからさ……会議で顔が見えた時、ほんと安心したよ」「心配かけてごめん。それと……服のことも。助かったよ。あ、そこ、気持ちいい……」 一護はくすっと笑い、指先を耳の後ろに滑らせた。 敏感なところを正確に押されて、寧人は身を震わせる。「洗濯物もね、後で寧人の分渡すから。たたむのお願いね」「はぁ……い……。耳……そこ……ずるい……」 熱がゆっくり胸の奥まで広がっていき、寧人はこっそり息を乱していた。 そんな彼の変化に一護は気づき、わざとらしく目を細める。「……そろそろ、別のところもほぐす?」 囁くような声に、寧人は観念したように小さく頷いた。 そして――しばらくして。 一護は寧人をそっと抱き寄せ、乱れた呼吸が落ち着くまで背中を撫でてくれた。 イチャイチャを延長しながらシャワーを浴び、就寝時間。 並んで布団に入ると、一護がぽつりと尋ねる。「明日も会社?」「うん……。でも在宅がいいな、やっぱり」「エッチしながら仕事できるから?」「ば、バカ……」「電車で通勤すると寧人、痴漢しちゃうぞ〜?」「それは大丈夫……。古田さんに迎えに来てもらうことになったんだ」 一護の手が、寧人の頭を優しくぽんと叩いた。「ふぅん。あの人、ね」「うん。しばらく提携店舗の見回りもあるし。現場の声、ちゃんと聞きたいから」 一護はそれ以上何も言わなかった。ただ「おやすみ」と囁き、おでこに軽くキスを落とした。 それだけで寧人の胸は妙にざわつく。 ――明日、古田と出社する。 それは「仕事」だけが理由ではないことを、寧人自身がよくわかっていた。 みんなにも……そして一護にも、悟られてはいけない。 枕元のスマホが震える。古田からのメール。『明日迎えに行く。そのあと三件回ったあと……いいよね?』 直接的な言葉はない。けれど、何を指すかは明らかだった。 一護の寝顔をチラと見る。長いまつ毛が穏やかな影を落としている。「……ごめんね、一護」 寧人は胸の痛みを押し込み、古田へ“YES”の絵文字を送信し
Última actualización: 2025-11-28
Chapter: 番外編 最終話 神奈川に戻って数日後、希望していた高校から連絡があった。 同系列の関東の高校でテストを受け、基準を満たせば二年生の夏休み明けに転校が可能だという知らせだった。 藍里はそれを聞いて、すぐに机に向かった。眠そうな目をこすりながらも、毎日必死に勉強した。 その努力が実を結び、無事に合格の通知を受け取ったとき、私は胸をなで下ろしながらも、娘の成長に目頭が熱くなった。 私自身も必死に働いた。神奈川の支店に戻ると、やはり愛知の方が活気に満ちていると感じたが、同時に長年の「マイホーム」に戻ってきた安堵もあった。慣れた土地、見慣れた景色。だが愛知の支部長の言葉通り、人事改革や設備改装は全店舗規模で動き始め、私もその渦中にいる。 忙しい合間にも、時雨くんとのメールや電話が支えになった。 「おつかれさま」「無理しないで」——その短いやりとりだけで心がほどけていく。 仕事の上では私は、誰かの性対象であり、恋人役であり、話し相手である。擬似的な愛を提供するのも役割のひとつであり、それを割り切らなければ成り立たない世界だ。 でも、時雨くんは違った。優しくて、素直で、まっすぐで……そんな彼の存在があるからこそ、辛い仕事も乗り越えられるようになった。 やがて夏休み。娘の新しい門出と同時に、私たちは愛知に引っ越した。 そして今日、仕事帰りに、久しぶりに時雨くんと再会する。 ……いろんな男を相手にした後で彼に会うのは、正直、気が引ける。彼は私の仕事を知らない。でも、きっと彼なら受け入れてくれる。そう信じたい。 待ち合わせは、最後に別れたあの駅だ。 外は雨。 頭の奥がずきずきする。けれど、不思議といつものように憂鬱ではなかった。むしろ胸が高鳴っていた。 「さくらさんー!」 ホームに響いた声。 電話越しではない、生の声。心が震える。 彼は傘を片手に、笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。 私は傘を閉じて駆け出す。濡れてもいい。ただ彼の傘の下に飛び込み、強く抱きしめた。 人目もはばからずに。 時雨くんもまた、ためらわず私を抱きしめ返してくれた。 傘を叩く雨音。滴り落ちる雫。服に沁み込む冷たさ。 それでも、彼の体温に包まれていると不思議と平気だった。 ——雨も、悪くない。 少し、雨が好きになった。 終
Última actualización: 2025-09-28
Chapter: 番外編 第二十二話 そして駅まで送ってくれた。「なんかさ、あったばかりで……僕の一目惚れで……なんていうかその……」「うん……」「でも今回限りにはしたくない」 彼の真剣な眼差しに射抜かれる。冗談でも軽い気持ちでもない、真っ直ぐな想いがそこにあった。私も胸が熱くなって、ただ黙って頷いた。 互いに連絡先を交換する。「また落ち着いたら連絡する」「神奈川だっけ……家」「うん。でも仕事でこっちに来れる……ううん、来てみせるわ」「やった」「ふふふ」「可愛い、ふふふって」 思わず笑ってしまう。けれどその笑いすら彼は愛おしそうに見つめてくる。 あ、そうだ……伝えなきゃ。そう思った瞬間、彼は両手で私の手を包み込んだ。「雨もいいよね。また雨が降っても僕だけでなくて……おかみさんやスタッフさんや……一緒に来てくれた山上さん……ちょっとあの人はデリカシーないけどさ、心配してたから。みんなに優しくしてもらったことを思い出してほしいな」 私はただ頷く。事務長の名前まで覚えているなんて、やっぱりすごい人だ。さすが有名料亭の板前さんだと思った。「……本当はね、仕事で来たの。愛知に」「そうだったんだ……」 そう言って互いに見つめ合う。気づけば距離がなくなって、そっとキス。照れ笑いしながら、もう一度唇を重ねた。 けれど次に彼の舌が触れた瞬間、私は反射的に顔を離した。「ごめん」「……もうこれ以上しちゃうと、帰りたくなくなる」「そうだね……」 彼は笑ってごまかすように、トランクから荷物を出してくれる。「はい、どうぞ」 私はキャリーケースを受け取って、ようやく切り出した。「私さ……離婚したけど、子供いるのよ」「ああ、なんか話してたね。まだ小さくて、預けてもらってるとか?」「……ううん、高校生。女子高校生」「えっ」 彼の目がまん丸になる。その驚き方があまりにも素直で、私は思わず苦笑いした。やっぱり若いよなぁ……。「すごいなぁ、さくらさん……ますます応援したくなる」「ありがとう。私もあなたの仕事、応援してる」 電車のホームへ向かう私を、彼は最後まで手を振って見送ってくれた。笑顔のまま、何度も、何度も。 振り返るたびにその姿が小さくなっていくのが切なくて、胸にぽっかり穴が空いたみたいに感じた。 持っている傘はまだ雨で濡れているけれど、そのうち乾くだろう。 改
Última actualización: 2025-09-27
Chapter: 番外編 第二十一話 ピンポーン。 ドアのチャイムが鳴った。「やべっ、先輩かも」「流石に二時間もダメでしょ……早く行かなきゃ。私も小雨になったし、行くわ」 そう言いながらも、時雨くんはまだ腕を解こうとしなかった。胸に回された腕は、私を逃がす気などないかのように力強い。 だめだよ、行かなきゃ。分かっているのに、体は彼に預けたまま動けなかった。「も少し、このまま。……ほら、雨の音、聞いて」 確かにさっきより小雨になってきた。けれどまだ窓を叩く細かい水の音は絶えず、しとしとと規則的に響いている。「どう? 雨の音、いいでしょ。僕は昔から雨音が好きなんだ。名前に“雨”がつくのもあるけどさ……」「……私は、嫌いだった」「でも今はどう? 耳澄ますと、けっこう落ち着く音だと思わない?」 彼の言葉に合わせるように意識して耳を澄ますと、不思議と胸のざわつきが少しずつ鎮まっていく。嫌いだと思い込んでいたはずの音が、こんなふうに柔らかく響くなんて――。 ピンポーン。 再びチャイムが鳴る。「おい、廿原! なにやってんだ!」 ドンドンと荒い音。重たい扉越しでも、低く響く怒鳴り声に体がびくりと震えた。喉がきゅっと詰まって、声が出ない。 時雨くんは私をぎゅっと抱きしめ直して、それから少しだけ離れた。「待ってて。話してくるから」 短くそう告げると、ためらいなく玄関へ向かっていく。その背中を呼び止めたかったのに、足は一歩も動かず、唇も開かなかった。 ……私がいけないのよ。引き止めてしまって、部屋にまで上げてしまって。 耳を澄ませる。「すいません、先輩。頭痛くって」「勝手に休むなよ。連絡しろ……て、そのヒール」 あっ、私の……。「ははん、女連れ込んでるのか。スーツケースあるってことは……お取込み中か?」 しまった……!「そ、そうです」 ――時雨くん……! 胸がぎゅっと締めつけられる。「はぁ、それはそれは。一時間後には戻ってこいよな。仮病じゃなさそうだから」「はい……すいません」 やがてドアが閉まる音。私は慌てて玄関へ駆け寄った。「ごめん、時雨くん」「さくらさん、謝ることないよ。……さ、今から駅まで送っていくから」 寮を出る頃には雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から差す光が濡れたアスファルトに反射して、街全体がきらめいている。ふと見上げると、薄く虹が架か
Última actualización: 2025-09-26
Chapter: 番外編 第二十話 私はベッドを離れてシャワーを浴びた。 熱いお湯が肌に当たるたび、少しだけ体の力が抜ける。外の雨はシャワーの水音に負けないほど激しく降り続けている。どうして雨が降るの。もう、ほんとうに嫌だ──胸の中で何度も繰り返す。 タオルで髪を拭きながら、ふとカーテン越しに彼の声がした。「ねぇ、さくらさん」 思わずハッとして、私は肩越しに声のする方へ振り向いた。カーテン一枚の向こうにいるだけなのに、その距離が妙に近く感じられる。彼の声は静かで、でも確かに私を見つめているのがわかった。「なんで雨が嫌いなの……」 その一言を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな針がぎゅっと押されるようだった。言いたくないことを引き出されるような、そんな不安。 雨が嫌いな理由は、綾人のことが絡んでいる。どこからどう話し始めればいいのかわからない。順序立てて話すには、積み上げられた年月をひとつずつひも解かなくてはならない。簡単に説明できるものではなかった。 シャワーを終えてタオルを肩に掛け、私は息をついて答えた。「……ごめん、あんまり言いたくないよね。会ったばかりだし、聞くのは失礼だったよね」 それを聞くと、彼は一呼吸置いて、柔らかく言った。「そ、それはないよ。話したいなら聞くよ」 言葉はありがたかった。けれど「話す」ということは、私にとっては重い作業だった。綾人と結婚してから始まった日々、子どものこと、逃げ出した頃、役所や相談機関、弁護士や警察にまで話したこと──それらすべてをまた一から語るのかと思うと、喉が詰まった。 何度も語ってきたはずなのに、語らなければ理解してもらえない不自由さがある。 私はシャワーから出て、バスタオルで頭を拭きながらゆっくりと話し始めた。「雨の日はね、夫を迎えに行かなきゃいけなかったの」 彼の目が驚きで大きく見開かれるのが見えた。反射的に彼は声を上げる。「……夫?!」 しまった。言葉が足りなかった。「ち、違うの。もう離婚してるから、“元夫”のこと」 彼は一瞬戸惑った顔をし、そのあとで苦笑するように息を吐いた。「あ、そうか……びっくりした。人妻とやっちゃったのかと」 そのトンチンカンな反応に、私は思わず眉を寄せてしまう。彼の慌てた言い方には救われる部分もあった。テンパって言葉が絡まる様子が、変に安心をもたらす。 私はあの日々の「ルール」
Última actualización: 2025-09-25
Chapter: 番外編 第十九話 私は電車を遅らせることにした。 スマートフォンの時刻表アプリを閉じ、画面を伏せてベッドの脇に置く。帰ろうと思えばすぐにでも帰れる。けれど、帰りたくない。もう少し、ここで彼の声を聞いていたい。「……料亭はいいの?」「さくらさんこそ……もう帰りなんでしょ」 荒々しく、けれど優しさを含んでつづはらさん――時雨さんに抱かれてから、もう二時間が経つ。料亭のすぐ横にある住み込みの寮。彼の小さな部屋。再会して、預かってもらっていた服を受け取り、返して、最後にちょっとしたおみやげを買って帰るはずだった。ほんの数分のつもりだったのに、気づけば彼の部屋に誘われ、軽い冗談のように始まったキスが止まらなくなって、そして今の私たちがいる。「もう帰るなんて嫌だよ……もっとさくらさんを知りたい」 その言葉に胸がちくりとする。こんなふうになるなら、もっと早く会っていればよかったのかな、と一瞬思う。でも、それは現実にはなかったこと。遠回りして、傷ついて、ようやく今ここにいる。 窓を打つ雨音がまた強くなった。重くのしかかるような低い音。私は無意識に眉を寄せる。やっぱり雨は苦手だ。心までじわじわと湿らせてくる。「雨、嫌いなんだよね?」「……うん」 口に出すと、気持ちがじわっと溢れそうになる。だから話題を変えるように、少し笑いながら尋ねてみた。「そういえば“しぐれ”って、時の雨で“時雨”でいいのよね?」「うん、そうだよ。変わってるでしょ」 彼は照れくさそうに笑った。「弟の名前にも“雨”がついてるんだ」 そうなんだ。名前に“雨”がつくなんて珍しい。雨が嫌いな私からしたらちょっと不思議だ。でも、彼の口から語られると、なんだかそれも特別なもののように思えてしまう。「じゃあ、時雨……くんは雨は好き?」「うーん……」 困った顔をしている。質問が重たかっただろうかと不安になる。「……まぁ、時と場合によるよね。頭は痛くなる時と、そうでもない時があるし」「私は嫌よ。嫌い」「すこぶる嫌いそうだな、恨みつらみありそう」 彼の軽口に少し救われる。けれど私は静かに言葉を落とした。「そうね……嫌なこと思い出すから」 時雨くんに抱かれているのに、前の夫のことがふと頭をよぎる。優しかったはずが一変した綾人。あの恐怖が、雨の日と一緒に蘇る。そんなの嫌だ。だから、私はぎゅっと彼を抱きしめた
Última actualización: 2025-09-24
Chapter: 番外編 第十八話 休ませてもらった後、がっつり仕事をした。 生活のため、娘のため。ほとんど毎日のように出勤した。週に一度は必ず休まなければならなかったけど、その休みさえも「休んだ気がしない」。 頭の中は常に、次の仕事と生活のことばかりだった。 でも、今回の件で知った。休むことは、やっぱり大事なんだと。 この五年間、私はがむしゃらに走り続けてきた。無理をして、それでも前に進むしかなかった。だけど――無理をしていた自分に、ようやく気づけた。 新天地での仕事は緊張したけれど、いつも通りのパフォーマンスを心がけた。数日分の遅れを取り戻すつもりで。正直、体はしんどかった。 だけど、終えた後のあの高揚感――あぁ、気持ちいい。 性を解放する場でもあるのよね、この仕事は。「すごいです、さくらさん。チップも多くて……。でも、今から休憩して夜からの稼げる時間まで回復してくださいね」「ありがとう……」 今日の調子が良かったのは――廿原さんのことを考えていたから。普段は俳優やアイドルをイメージして気持ちを上げていたけど、今日は彼。思い出すだけで体が熱くなって、自然と笑顔になれた。 あぁ、やっぱり私はちょろい。 昔からそうだった。少し優しくされたり、親切にされると……すぐに惹かれてしまう。綾人の時も、そうだった。あの優しさを信じてしまったから。 彼とはあれから会っていない。もちろん連絡先も知らない。神奈川の事務長は勝手に戻っていたし……。 ――そうだ、服を取りに行かなくちゃ。 ほんの少し親切にされただけで、ここまで気持ちをかき乱される自分が情けない。私は両手で頬を挟み、パシッと軽く叩いた。「まずは休む、休む!」 言葉にしないと、また無理をしてしまう。そう、自分に言い聞かせるように。 そして、最終日。「本当にお疲れ様でした。無理をなさらず……またここに戻ってきてくださることを期待しています」 社交辞令かもしれない。鵜呑みにしてはいけない。この業界では、と心のどこかで思いながらも……頑張った自分を労ってもらえるのはやっぱり嬉しい。 ――そう、労いの言葉。それが綾人にはなかった。「こちらこそありがとうございました。サポートがあって、ここまで頑張れました」「……早く娘さんの高校、決まるといいですね」 ……あぁ、忘れていた。まだ高校からの連絡は来ていない。胸が重くなる
Última actualización: 2025-09-23