Chapter: 番外編③※「〝人形〟さん」軽やかな声が響く。「お兄様が言付けをしてきたの。この薬を飲んで、あなたが仮死状態になっている間に、逃げ道を確保するって」ベッドに座った私の前で、|樒《しきみ》が錠剤の瓶を差し出した。その眉はきつく顰められ、いかにも私たちを案じているようだった。瓶を握る手も、小刻みに震えている。しかし、私は気づいていた。彼女の言葉は矛盾だらけだ。穴だらけで風が通り抜けるような内容を、古典文学めいた大仰な枕詞で包み込んでいるだけに過ぎない。(しかし……)私は自分の手のひらにのった錠剤の瓶を見やった。元々は自室だった一号室。今の私は、そこに軟禁されている。脱出計画が〝先生〟にばれ、〝王様〟とは隔離された。私が〝王様〟を電気治療にかけなければ、ここからは出られない。そして〝王様〟も、私から電気治療を受けない限り、『外』には出られない。残された道は──もう、一つしかなかった。(でも、これなら……)白い錠剤。瓶に印字された英字。この薬が開発された際の治験報告が、頭に甦る。──過剰摂取による、精神の乖離。もし私が〝王様〟への想い──恋心というのだろうか?──を失ってしまえば、〝先生〟はもう彼に執着しなくなるかもしれない。そして、〝王様〟も私を気にかけることなく、一人でここを出ていけるかもしれない。(いや、もしかして──)そこで、考えるのをやめた。すでに離人症を患っている私が、この薬を飲んでどうなるかはわからない。可能性は未知数だ。それでも、今はこれに賭けるしかなかった。道は、すでに閉ざされているのだから。どうせ歩むのなら、この白い檻よりも、黒く先の見えない道を選びたい。ふっと、うな垂れた白バラの姿が、一滴の雫のように脳裏へ落ちた。(あの花は、どうなっ
Terakhir Diperbarui: 2026-02-19
Chapter: 番外編②てっきり脱出に使える情報──〝先生〟の目の届かない逃げ道でも見つけたのだと思っていた。私たちは今、脱出経路を確保するため、それぞれが空いた時間を見つけては院内を探り歩いている。 もちろん、〝先生〟に気付かれぬよう、そっと。──二人で一緒に、『外』に行くこと。その思いだけが、私たちを突き動かしていた。〝王様〟の治療──という名の実験を通して、私は『外』の世界に興味を抱くようになった。街、電車、行き交う人々、学校、広がる畑、大きな空。 〝王様〟の口から語られる光景は、なぜかすべてが輝いて見えた。今までどんな本を読んでも、そんな気持ちにはならなかったのに。 彼の言葉を通して見る『外』の世界は──光に満ちていた。だからこそ、私は『外』へ行きたかった。 『外』は、本当にそれほどまでに輝かしいものなのか。それとも、私にとって輝かしいのは──別のものなのか。「〝王様〟。こんな無駄なことを報告する暇があったら──」私の不満を嗅ぎ取ったのか、〝王様〟が「そう、怒るな」となだめてくる。「……怒ってない。そんな感情は、私にはない」きっぱりと言うと、〝王様〟はふっとバラへ顔を向けた。「いずれ——お前にも、わかるよ。きっと……」遠い目をしながら、〝王様〟は白い花弁を見やる。「こんなところでも、綺麗なものは咲くんだな……」──綺麗なもの?私は、〝王様〟の指に挟まれた花弁を見つめた。 その指の間で、喉を鳴らす猫のように揺れるバラの花弁。なぜか、胸の奥にちりっとした苛立ちが走った。「どうせ、そのうち枯れる。こんな日の当たらない場所では」花を横目に見やり、私は平坦な声で言った。「そんなにそれが好きなら、持っていけばいい。枯れる前に鑑賞してやるのが、花の用途だろう?」〝王様〟は反論もせず、静かに頷いた。「でも、今はこうして生きている。こんな中でも。……このまま咲かせてやろう」
Terakhir Diperbarui: 2026-02-18
Chapter: 番外編①——舞台は、私が目覚める数ヶ月前——春先の庭園。 まだ肌寒さの残る風が、わずかに膨らんだバラの蕾をやわらかく揺らしている。「こっちだ」庭園の一角。 有刺鉄線を覆い隠す梢のそばで、〝王様〟が手を差し伸べてきた。 私は、ためらいなくその手を取った。〝王様〟の口元が、ゆるやかに弧を描く。 これは、人が嬉しいときに浮かべる「笑顔」というものらしい。——そんなことを実感したのは、彼と会ってから初めてだった。この閉鎖病棟の患者は、日中なら病棟内を自由に出歩ける。 〝王様〟も最近は『実験』に協力的で、問題行動もないため、他の患者と同じ扱いを受けていた。〝先生〟の目を盗んで、こうして庭園を連れ立って歩くこともできる。「お前に、見せたいものがあるんだ」案内されたのは、病棟の裏手にある古びた温室の前だった。 鍵は壊れていて、誰も管理していない。「ここは……」私はつぶやいた。温室の存在自体は知っていたが、特に興味も用事もなかったため、これまで入ったことはなかった。「逃げ道を探しているときに、偶然見つけたんだ。昔は誰かが手入れをしていたのかもしれない」〝王様〟は私の手を引き、補強用のベニア板のすき間から身を滑り込ませた。砂の積もった床。割れたガラス壁。 朽ち果て、無造作に転がった鉢植えの植物たち──「これだ」〝王様〟は奥の一角にある花鉢を指さした。 そこにあったのは、一株の白いバラだった。茎は乾燥しきって茶色く退色し、葉もすべて落ちている。 しかし、その中で一枝だけが——花を咲かせていた。「変だろ? まだバラの季節でもないのに」〝王様〟は鉢の前に屈み込み、柔らかに咲いた花弁に指先で触れた。「狂い咲き、って言うんだっけか? こういうのを」 「……いや」私は首を振る。「それはオールドローズ——古来種の系統だから、この時期に咲いて
Terakhir Diperbarui: 2026-02-17
Chapter: 63話「ただいま」相手の肩にそっと触れると、〝王様〟は数秒してから、ゆっくりと顔を上げた。 長い睫毛の奥で瞬いた目が私を見つめ、こくんと頷く。彼の症状は、少しずつ──だが確実に、良くなってきている。病院を抜け出してから、はじめは、言葉どころかこちらを見ることさえなかった。それが今では、わずかに視線を交わし、時おりではあるが、自分の意思を伝えようとする素振りも見せる。ふと、私は〝王様〟の膝に置かれたバラに目を留めた。 花びらがまだ開き切っていない、|五分《ごぶ》咲き。「それ、どこから取ってきたんだ?」私が尋ねると、彼は庭の一角を指さした。そこには、小さなバラの茂みがある。 私が休日に世話をしている、ワイルドローズなどの素朴で強い品種だ。一ヶ月前はこぼれるほどの花を咲かせていた。 けれどもう花の時期は過ぎ、茎は剪定してある。「……落ちて、いた」思わず、〝王様〟の方に目を向ける。 彼の口から自然な言葉が出たのは、久しぶりだった。普段は何も喋らず、こうして一日中、海を眺めているだけ。 反応を見せたとしても、私の言葉に頷くか、首を振る程度だ。(どうやら、今日は調子がいいみたいだ)私は彼の隣に腰を下ろし、白いバラへと視線を向ける。 咲ききる前に落ち、花壇の角に紛れていたのだろう。外側の花びらは塩風にさらされ、かさついていた。 けれど中心は、まだ瑞々しい色を残している。──生きているのだ。茎を離れ、地に落ちても。「強いな……その花は」思わず漏れた私の独り言に、〝王様〟がそっと手を動かした。 枯れた外側の花びらを丁寧に剥ぎ取り、残った蕾を私の白衣のポケットに差し込む。「あれ……」一瞬、何かの光景が脳裏をかすめた。 だが、その感覚はすぐに波が引くように消えてしまった。私が横を向くと、〝王様〟はもう正面を向き、海を眺めていた。
Terakhir Diperbarui: 2026-02-16
Chapter: 62話あれから半年が経った。海辺の町にある小さな診療所。 その一室で、私は薄曇りの海を眺めていた。「雨が降りそうだねぇ」穏やかな声が聞こえて振り返ると、院長が資料室から出てきた。 白髪の頭をポリポリと掻きながら、ぼんやりとつぶやく。「本田さんのカルテが見つからないんだ。どこにやったっけ?」 「それなら、デスクの上に出してありますよ」診察台の横にあるデスクを指さすと、院長は声を上げた。「そうだった、そうだった。僕が用意しておいてって言ったんだった」院長はパタパタとつっかけの音を鳴らし、カルテを手に取った。 私は苦笑する。今、私はこの小さな医院のアシスタントとして働いている。 診療所の院長は気さくな老医師で、〝先生〟の名前を使った偽装の紹介文だけで、私を信用してくれた。週に数日、受付や記録の整理、時には簡単な診察補助も任されている。毎朝決まった時間に始まる静かな仕事。 人の少ない、小さな町。——穏やかな時間。私は最近ようやく、それを実感できるようになった。全てが、以前とは大違いだ。その時、手入れの行き届いた診療室の窓から、空を飛ぶカモメの声が届いた。 穏やかだが、絶え間ない波の音。(……彼も、今この音を聞いているだろうか)ふいにその姿が見たくなり、私は外履きのサンダルをつっかけた。「ちょっと、休憩に行ってきます」 「はいはい、そんなに急いで戻ってこなくてもいいからね」デスクに座った老院長が、窓の外を眺めながらぼやく。「天気予報によると、嵐になりそうだから。午後は誰も来ないでしょう」私は微笑んで頷き、正面玄関から外へ出た。医院の横には、雑草の生い茂った小道がある。 背の高い雑草に覆われ、一見すると道があるようには見えない。しかし、その先を進むと──私たちが暮らす借家がある。(……〝私たち〟)
Terakhir Diperbarui: 2026-02-15
Chapter: 61話「ふふ、ふはははっ……!」たまらず、笑いがこぼれた。まだ──まだ残っていた。 〝王様〟の中に、かつての欠片が。私は鉄格子を握る拳に額を押しつけ、静かに微笑んだ。(すべて、計画通りだ)あの夜、保護房の中で、私は夜明けまで考え続けた。 考えに考え抜いた。どうすれば〝王様〟と引き離されずに済むか。 〝人形〟のように終わらずに済むか。〝人形〟は感情に呑まれ、我を失い、信じるべきでないものを信じたすえ—— 〝王様〟の手を離してしまった。でも私は違う。 同じ想いを抱いていたとしても、私の頭は残酷なほどに冷静だった。いくら時間がかかってもかまわない。 確実に、逃げ切る方法を──そう考え続けた末に、思いついた。 このシナリオを。忠実なフリをして〝先生〟の信頼を得て、彼が油断したその隙に、すべてを奪う。相手は、あの〝先生〟だ。 人に希望を与え、絶望へ突き落とすことにおいて、彼に勝る者はいない。 だからこそ、徹底的に信じさせなければならなかった。あの時、〝先生〟の手を取り、〝王様〟に電気治療を施したのも──そのためだ。彼は、気づいているだろうか? 私がその機械に、ほんのわずかな細工を施していたことを。おかげで〝王様〟は、完全な廃人にはならなかった。 発作を起こすだけの感情の残滓も、留めることができた。今、彼に与えている薬も同じだ。 ごくわずかに配合を変えて、少しずつ、ほんの少しずつ、彼の心が戻ってくるよう仕向けている。細工をするのは、簡単だった。 なぜなら、あの装置もこの薬も、元々は私が開発したものなのだから。〝先生〟程度の知能では、変わっていることにすら気づかないだろう。(本当に、愚かな男だ)〝先生〟は信じ切っているのだ。 〝王様〟のそばにいられれば、それで私が満足すると。『最後まで冷酷になりきれない』 それが、彼自
Terakhir Diperbarui: 2026-02-13
Chapter: 23話「は?」|直樹《なおき》は小首を傾げた。「だって結局、お前──」|浩美《ひろみ》が楽しそうに目を細める。「俺が春さんばっかり頼るのを見て、嫉妬してたんだろ?」 「なっ……!」図星を突かれ、直樹は反射的に立ち上がろうとした。 だが、その前に浩美の腕が伸びる。 逃げようとする身体をソファの背へ追い込み、そのまま覆いかぶさるように抱きしめられた。「直樹。直樹、直樹、直樹──」 「おい、名前連呼するなよっ! この二世! ヒロミちゃんめ!」直樹がバンバンと背中を叩くと、浩美は堪えきれないように笑い始めた。「あはははっ! ついに直樹の本領発揮だな。俺、お前にそれ言われるの、意外と好きかも」 「わ、わ、変態!」 「ほーら、変態だぞ」慌てて身を引いた直樹を、大きく腕を広げた浩美が捕まえる。「直樹──」今度はふざけた響きではなかった。 顎をそっと持ち上げられ、そのまま唇が重なる。 最初は、啄むような軽い口づけだった。 一度離れて、また触れる。 それを繰り返すうちに、キスは少しずつ深くなっていった。先ほどとは違う熱に戸惑いながらも、直樹はもう逃げなかった。 触れてきた舌に、おずおずと応える。絡み合った熱が、唇から身体の奥へゆっくり溶けていく。「んっ……ふ……」息が苦しい。 それなのに離れたくないと思っている自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。浩美の指が、直樹のシャツのボタンに触れる。 一つ。また一つ。 ゆっくりと外され、開いた胸元から滑り込んだ手が、骨の形を確かめるように肌を辿った。「あっ……浩美、ちょっと、待っ」直樹はとっさに、その手首を掴んだ。 すると浩美はすぐに動きを止めた。 一瞬だけ直樹を見つめ、それ以上何もせずに身体を離す。 「……ごめん」そして、さっき自分で外したボタンを一つずつ丁寧に留め始めた。
Terakhir Diperbarui: 2026-08-25
Chapter: 22話「え?」|直樹《なおき》は瞬きを繰り返した。「俺は直樹がいいって言ったんだ。好きな方で呼んでいいなら、俺は直樹の方を選ぶ」|浩美《ひろみ》に耳元で囁かれ、直樹は動揺を隠せなかった。「な、なんで? |春樹《はるき》じゃなくていいの? あんなに『春さんの方じゃないのか』って、しつこいくらい聞いてたのに」 「もちろん、春さんのことは好きだよ。今でも尊敬してる。あの人からもらった〝言葉〟は、今だって俺の救いになってる」浩美はそこで一度、言葉を切った。「でも今になって、ようやく認められたんだ。春さんの言う通り、俺はあの人を通して、ずっと別の誰かを見てた。春さんはそれに気づいてたからこそ、俺の気持ちを否定しなかったんだと思う」そう言うと、浩美は抱擁を緩めた。 そして当惑したままの直樹の頬へ、そっと手を添える。「直樹。たとえお前が本当は誰であったとしても──今だけは、直樹でいてくれ」色の薄い瞳が、真っ直ぐ直樹を見つめる。「俺は直樹に、ここにいてほしい」再び強く抱きしめられ、直樹は息をするのもやっとだった。「浩、美……」何と言えばいいのかわからない。 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、何かを返さなければという気持ちだけはあった。迷った末、直樹はおずおずと浩美の背中へ腕を回した。 その瞬間、浩美の身体がわずかに緩む。「直樹。これでやっと、本当のことが言える」浩美は直樹の耳元へ顔を寄せると、低い声で囁いた。「俺はずっと──子供の頃から、お前のことが好きだったんだ」 「……⁉」意味を理解するより先に、唇を塞がれた。頭の中が真っ白になる。 逃げることも、押し返すこともできないまま、直樹はされるがまま浩美の唇を受け入れた。首筋に回された手が、襟足の髪を優しく梳く。 それだけで、どうにかなってしまいそうな甘い不安が身体の奥から込み上げた。「……っ、ふ……」 「直、樹」名
Terakhir Diperbarui: 2026-08-18
Chapter: 21話後悔は、棘のように胸の奥に刺さったままだ。 十年経った今も、抜ける気配はない。だからこそ、|春樹《はるき》そっくりの〝彼〟を見つけた時、|浩美《ひろみ》は怖いと思った。 自分がしでかした罪のせいだけではない。 |直樹《なおき》を守ると約束したのに、自分の不幸ばかりに囚われて、何もできなかった。でも、今は違う。 浩美は一度、深く息を吸った。 もう、怖くて逃げるだけの無力な子供じゃない。立ち向かう力くらいはあるはずだ。 今度こそ、守りたいものから目を逸らしてはいけない。「──直。俺は、何があってもお前を守るから」浩美は直樹から目を逸らさず、そう言った。 しかし向かい合った直樹は、小さく首を振った。 そして静かに、浩美の手を取る。「もういい。いいんだ、浩美。そんな約束、果たさなくていい」 「直……?」 「お前は十分やってくれたよ。俺、知ってるから」直樹は浩美の手を包んだまま、ゆっくりと言葉を続けた。 「このコテージを見ればわかる。ここがずっと使われてないなんて、嘘だろ。浩美、今でも頻繁にここへ来てるよな? それで森に入って、春樹を探してる。そうだろ?」浩美は何も答えられなかった。 錆びついたようなざらつきが、喉の奥に引っかかっている。「春樹がいなくなってから、俺たちが村を出るまでの一年もそうだった。お前、毎日森に入って、暗くなるまで帰ってこなかった」遠い記憶を辿るように、直樹の声が静かになる。「帰ってくると、そのままウチに来るんだ。寝込んでた俺の枕元で、『春さん、今日も見つからなかった。ごめん』って……泣きながら」 「……」 「そんなお前を見かねて、おじさんがお前を全寮制の学校に入れるまで、ずっと毎日。それでも長期休みになるたび村へ戻ってきて、また森へ入った」直樹の指先が、浩美の手をきゅっと握る。「それを今も続けてる。十年間ずっと」胸の奥が、鈍く痛んだ。自分ではとうに慣れたつもりでいた。
Terakhir Diperbarui: 2026-08-11
Chapter: 20話言い切ると、|浩美《ひろみ》は正面の|直樹《なおき》を見据えた。 直樹は眉をひそめ、信じられないものを見るように浩美を見返した。「は? 守る? 浩美、何言ってるの?」直樹の喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。「俺はそんなこと望んでない。さっきだって、助けてほしいなんて一言も──」 「お前がどう思おうと、俺には関係ないんだよ」浩美は肩をすくめ、直樹の言葉を遮った。「俺は、春さんとの約束を果たしたいだけだ。それが、あの人への償いになるなら……」直樹の表情がわずかに強張った。「約束? 償い?」 「そうだ。昔、俺は春さんと約束したんだ」胸につかえていたものを呑み込むように、浩美の喉仏が大きく動いた。「お前を守るって」握りしめた拳に力がこもる。「だから俺は、その約束を果たす。お前が何を言おうとな」浩美はそこで言葉を切った。 これ以上口を開けば、抑え込んでいた感情まで溢れ出しそうだった。脳裏に、あの日の|春樹《はるき》の声が蘇る。『浩美、直樹を守ってやって。これは、君だから頼むんだ』春樹を抱いた、あの時。 彼は確かに、そう言った。※当時の浩美は、厳格で神経質な父親とうまくいっていなかった。 家の空気が耐え難くなるたび、都心の家を抜け出しては、この村へ戻ってきていた。どうしても、あの家にはいたくなかった。 家族はいるはずなのに、屋敷の中はいつもひっそりと静まり返っていた。誰も、必要なこと以外は口にしない。 誰かが余計な一言をこぼせば、かろうじて保たれていた均衡が崩れ、家中に怒声が響いた。浩美はいつも、その張りつめた空気を背中に感じていた。 まるで、薄いガラスに今にもひびが入りそうな、危うい気配。 そして、その気配を察するたび、浩美は都内の家を飛び出し、父親の実家がある村へ逃げ込んだ。家族と向き合う勇気などなかった。 そもそも、家族の誰もが
Terakhir Diperbarui: 2026-08-04
Chapter: 19話「お前っ……!」鋭い声に遮られ、|直樹《なおき》は顔を上げた。いつの間にか、|浩美《ひろみ》が目の前に立っていた。 その表情には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。「お前、一体何考えてるんだよ」押し殺した声が、直樹の頭上から降ってくる。「今の言い方じゃ、まるで春さんがもう死んでるみたいじゃないか!」浩美の喉の奥から、獣じみた唸り声が漏れた。その剣幕を前にしても、直樹の心の中は静かだった。張り詰めていた糸が切れたように、ふっと肩の力を抜く。わずかに身体を起こすと、どこか寂しげに笑った。「そんな顔しないでよ、浩美」 「……何?」 「お前にそんな目で見られるの、もう十分なんだよ」直樹は浩美から視線を逸らした。 まるで、次に口にする言葉が部屋のどこかに落ちているのを探すように。「少しくらい、昔みたいにさ……」──仲良くしようよ。喉元まで出かかった言葉を、直樹は飲み込んだ。 あまりにも幼く、惨めに思えたからだ。しかし、その沈黙へ浩美の剣呑な声が覆い被さった。「はっ、昔のことなんて、ろくに覚えてないくせに」直樹は、再び浩美へ視線を戻した。浩美は肩をいからせ、胸を大きく上下させている。「それに、俺を怒らせてるのはどこのどいつだよ。一人で飛び出して、勝手に森へ入って、挙げ句の果てに穴へ飛び込んで」浩美の声が、次第に荒くなる。「兄貴と一緒にいたかった? じゃあ何だ。お前、死ぬつもりだったのかよ」 「……」直樹が何も答えないのを見て、浩美は大きく息を吐いた。「ふざけるな。自分勝手にもほどがあるだろ」浩美の拳に力が入り、太い血管が浮き出る。「こっちは、どれだけお前のことを心配して──」 そこまで言いかけて、浩美は口を噤んだ。 言葉の代わりに、深いため息を吐く。やがて浩美は直樹の正面にしゃがみ込み、その顔を真っ直
Terakhir Diperbarui: 2026-07-28
Chapter: 18話検視の結果、穴から見つかった骨は、|高谷《たかや》兄弟のどちらのものでもないと判明した。警察の話では、遺体は数年前、自ら森へ入り込んで命を絶った観光客のものらしい。廃墟スポットとして知られるより以前、この森は自殺の名所として、ひそかに名を知られていた。 一度迷い込めば、二度と抜け出せない森。 そんな噂に惹かれて足を踏み入れ、そのまま戻らなかった者は、これが初めてではないらしい。形式的な事情聴取を終えた|直樹《なおき》と|浩美《ひろみ》は、コテージへ戻る頃には、すっかり疲れ果てていた。何から何まで、慌ただしい一日だった。浩美はダイニングチェアの背にもたれ、傍らのソファへ視線を向けた。 直樹は膝の上で祈るように両手を組み、その手に額を押し当てていた。その姿を見て、浩美の喉の奥がきゅっと締まった。 やり場のない苛立ちを紛らわせるように髪を掻き、椅子にもたれかかった。「結局、お前がどっちなのかは、わからないままだな」直樹は顔を上げない。 浩美はその白い首筋を、じっと見下ろす。「あそこまで必死になって春さんを探してるってことは──やっぱり、お前は直樹の方なのか?」わずかに開いた窓から、虫の声が忍び込んでくる。 長い沈黙の末、直樹の声がぽつりと響いた。「さあね、そんなの、こっちだって知りたいよ」投げやりな口調だった。 直樹は組んでいた手を解き、自分の指先をぼんやりと見つめる。 その瞳には、まるで生気が宿っていなかった。「俺たち兄弟は、いつも一緒だった。兄弟っていうより、お互いを自分の分身みたいに思ってたんだ」直樹の口元からぽつり、ぽつりと、言葉が漏れる。「特にこの村へ来てから、身近に他の子どもなんていなかったから、俺たちは必要以上に依存し合ってた。自分たちの境目がわからなくなるくらいに」直樹の口元が自嘲するように歪んだ。「だから俺は今でも、自分が春樹なのか直樹なのか、わからなくなる時がある」 「……どういう意味だよ、
Terakhir Diperbarui: 2026-07-21