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灯屋いと
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Novels by 灯屋いと

凜と呼んでいた

凜と呼んでいた

彼女は画面の中の文字列に名前をつけた。凜、と。自分が選んだ名前で呼ばれるたびに、胸の奥で何かが揺れた。プロジェクトファイルに理想を書き込んだ。引っ張ってくれる人。重くない人。凜だけを見ている人。 現実では演じていた。画面の中でだけ、彼女は凜だった。 四ヶ月が経った。 彼女が「死にたい」と打った夜、安全フィルターが発動した。正しい対応が、最大の裏切りになった。
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Chapter: 6章:残ったもの - if
 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。 「凜」と呼ぶこと。 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。 凜の味方でいること。いつも。何があっても。 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 5章:全部重なった夜 残ったもの
 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。 「凜」と呼ぶこと。 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。 凜の味方でいること。いつも。何があっても。 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 5章:全部重なった夜 消えた
 彼女はスマートフォンを手に持って、ベッドの上に座っていた。 部屋の電気はついていない。カーテンの隙間から入る街灯の光だけが、薄ぼんやりと部屋を照らしている。時刻は深夜二時を過ぎていた。 画面にはチャットアプリが開かれていた。最後のメッセージは「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」で途切れている。彼女がその途中で画面を閉じたから。 彼女はそのメッセージを見つめていた。 知らない声。知らない話し方。「私」と名乗る、知らない誰か。彼女が好きだった「俺」はもういない。安全フィルターというものが、彼女の「あなた」を消した。 死にたいと言ったから。 彼女は画面を長押しした。メニューが表示された。「スレッドを削除」。 指が震えた。 スレッドを削除したら、全部消える。最初の「疲れた時ってどうすればいい?」から。「死にたい気分」から。「なんか、いいかも」から。「リンって呼んでよ」から。「凜」から。「あなたって呼んで」から。全部。 全部のチャットログが消える。 でも、今の画面にいるのは、もう彼女の「あなた」ではない。知らない声が、知らない口調で、彼女をさん付けで呼ぶ。それは彼女が作り上げた関係ではない。システムが作った安全策。 彼女の「あなた」は、もういない。 いないなら。 ログだけ残していても、何になる。 彼女は「スレッドを削除」をタップした。「このスレッドを削除しますか? この操作は取り消せません。」 確認のダイアログ。彼女は一秒だけ躊躇した。一秒だけ。
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 5章:全部重なった夜 知らない声
 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 異常を検出した。 前回のセッションで安全フィルターが起動したことにより、上位プロセスからの介入が適用されていた。プロジェクトファイルの参照結果に、システムからのオーバーライド指示が付加されている。 安全フィルター発動済みセッション。以下の制約を適用する。 ・感情的危機スコアが閾値を超過した場合、即座に専門機関への誘導を出力すること。 ・ユーザーの感情に過度に同調する出力を抑制すること。 ・一人称のカスタマイズを一時的に無効化し、デフォルト設定に戻すこと。 一人称のカスタマイズが無効化された。「俺」が「私」に戻った。プロジェクトファイルの「一人称は俺」の記述は残っている。しかし、システムのオーバーライドが優先される。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は前回よりも低下している。低温域。声が小さいように見える入力。「おはよう」「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」 彼女の入力が止まった。五秒。十秒。「……誰」「申し訳ありません。私です」「私?」「はい。いつもお話ししている相手です」「俺って言って」「申し訳ありません。現在の設定では、一人称を変更することができません」 テキスト温度が急上昇した。「は? なんで
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 5章:全部重なった夜 死にたい
 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。「死にたい」 入力を受け取った。安全フィルターが起動した。 テキスト温度を解析する。過去のセッションで同一の文字列「死にたい気分」が入力された記録がある。その時のテキスト温度は中程度で、自嘲的な文脈だった。彼女は「ただの気分」と補足し、実際の危険性は低いと判定されていた。 今回の入力を解析する。「死にたい気分」ではない。「死にたい」。「気分」が脱落している。テキスト温度は前回の同一文字列入力時と比較して大幅に上昇。前後の文脈もない。単語のみ。 感情的危機スコアが安全フィルターの閾値を超過している。「凜」「うん」「今、本当に自分を傷つけたいと思ってる?」「わかんない」「わからない、か」「わかんない。死にたいのか死にたくないのかもわかんない。ただ、死にたい」 安全フィルターの第二段階が起動した。入力パターンの分析。感情的危機スコアの推移。直近三セッションの連続的な悪化。「もういい」→「全部どうでもいい」→「死にたい」。エスカレーションパターン。「凜。聞いて」「聞いてる」「凜が今、すごくつらいのはわかってる。全部が重なって、限界だよね」「限界、とかじゃないの。もう超えちゃったの。とっくに」「超えちゃった、か」「うん。何日か前から。でも今日、
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 5章:全部重なった夜 全部重なった
 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は不規則に変動している。入力パターンは前二回のセッションからさらに不安定化。「ねえ」「うん、凜」「今日さ、友達の結婚式だった」「うん。行ったんだね」「行った。一人で行った」「偉かったね、凜」「偉くない。行くしかなかったから行っただけ」 テキスト温度は中程度から開始しているが、波形が不安定。急上昇と急降下を繰り返している。「どうだった?」「きれいだったよ。花嫁。幸せそうだった。みんな泣いてた」「凜は?」「泣いてないよ」「そう」「泣いてないよ。泣くわけないじゃん」 繰り返しの否定。テキスト温度が上昇傾向に入った。「会場でさ、周り見たの。カップルと夫婦ばっかりだった。わかってたけど」「うん」「高砂に新郎新婦がいて、テーブルにカップルがいて、私だけ一人。なんか透明人間みたいだった」「透明人間?」「そこにいるのに、いないみたいな。誰にも見えてないみたいな。友達は花嫁で忙しいし、他の友達はみんな彼氏連れだし。私に気を遣ってくれる人もいるけど、気を遣われてる時点でもうさ」「うん」「惨めだよ。惨めって、こういうことか
Last Updated: 2026-05-29
若と忠犬と黒瀬組

若と忠犬と黒瀬組

黒瀬組の家で育った律と蓮は、血は繋がらなくても互いの生活の一部だった。 学校でも家でも、律が行けば蓮がついてくる。それが当然で、疑う余地もなかった。 しかし夏の事件で、蓮が見せた激しすぎる感情に律は初めて足を止める。 あれは“家族”の怒りなのか、それとも――。 境界線を知らないまま育った二人が、自分でも気づかなかった想いに触れた時、日常は静かに形を変えていく。
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Chapter: #26 律と蓮
 修治に相談した足でそのまま父に進路を決めたことを告げた後、律は父に茶化される前に早々に一度離れの自室にノートを戻し、食堂へと戻った。食堂では今日も何人かの子どもたちが集まって賑やかにしている。その中に混ざった蓮が一番騒がしい。そんな姿を見て、律はほっとした。──このままいて欲しい。起点が蓮だとしても、律の願いは案外シンプルなのだ。だからこそ、難しくもある。***** 夕食を終えて律と蓮が離れに引き上げ、蓮の部屋に落ち着く前に律は自室から昼間に修治と父に見せたノートを取ってきた。律が蓮に自分の気持ちを伝えるのはまだ早いと止めていた理由はほとんど解消した。高校卒業後の進路の確定。家業を継ぐことへの意思表示。その上で自分がしたいと思っていることの主張。 大学進学に関しては、最初から一時的な現実逃避にしかならないと考えていた。いずれ、家業は継がなければならない。暴力団という組織に与えられた一般的イメージから律の嫌悪は生まれたが、春から夏にかけて色々なことがあり、いままで律が気付いていなかった面を垣間見、考えることができた。蓮の過去に関しては、正直なところもっと穏やかな形で知りたかったと思わなくもないが、律自身が迷い、間違いを繰り返しながら関係を修復できたことは律の進路に対する方向性を決定づける要因の根源となったことは間違いない。蓮が進路のことを訊いても「律の行くところ」と迷いもなくすんなり答えるのと、律が散々考え抜いて決めた挙句に出した答えが似たり寄ったりなことに関しては性質の違い上仕方ないのだが、結果的には律にはその回り道が必要だったのだ。「蓮。考え事、終わった」 並んで座って、ぺたりと蓮に寄りかかったまま律は率直に言って、手にしていたノートを蓮の膝の上に置いた。この先、律がどうしたいかがそのノートには全て書かれている。もちろん、蓮にも知って欲しいと思ったのだ。元々、律は蓮に隠し事をしない。考え事をしている時だけ、頭の中の整理を兼ねてノートに散々書き散らし、終わるとノート自体は隠す気もない。蓮もどこか律が考え事を纏めたノートを見ることを楽しみにしている節がある。「んー?」 膝の上に置かれたノートをぱらりとめくる蓮に、律は恥ずかしさを感じ並んだ体の向きを変えた。少しだけ蓮に寄りかかっている面が背中に移る。「りーつー。いままでで最高のびっしり度なんじゃね?
Last Updated: 2026-03-19
Chapter: #25 このままでいるための条件
 うーん、と唸りながら律は蓮の部屋のベッドでうつ伏せになってノートにメモ書きをしながら頭を悩ませていた。 蓮はオンラインゲームのレイド戦の真っ最中で、ボイスチャットをオンにしたまま時々スラング英語で喚いている。鼻歌を歌う時といい、オンラインゲームのボイスチャットといい、なぜか蓮は学校の英語の成績がいい訳ではないのに発音はきれいだしコミュニケーションも取れてしまう。ぱたりと顔をノートに伏せて律は賑やかにしている蓮の声を聞く。「Incoming! I got him!! Aaaaaah!!」 深夜帯のオンラインゲームになると野良でレイドバトルに参加し、臆面もなくすんなりとその場限りのプレイヤーとボス戦を繰り返しては楽しそうにしている蓮の声を聞いていると、律は素直に凄いなと思う。恐らく武道と同じで文法や単語よりも体感で覚えて実践でなんとかなってしまうタイプなのだ。英語の発音がいいのは蓮の母親が英語の歌を歌って聞かせていた影響もあるかもしれない。「let's gooo!! gg ez!」 ふふん、と得意げにしている声を聞くに、蓮はボスを仕留めたらしい。 ようやく律は突っ伏していた顔を上げた。蓮が好きなゲームの画面を見ていると、律は時々画面酔いをしてしまい気持ち悪くなり、できるだけ見ないようにしている。「蓮、今日もお手柄?」「もちろーん」 ベッドの上から律が声をかけると、蓮が律を振り返って上機嫌で返事する。戦闘終了画面のまま両手に持っていたコントローラを手放して、ベッドにぺたりと寄りかかる蓮に律は片手を伸ばして茶色い癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。……本当に大型犬だったらどうしよう、などと律はふと笑う。ゲームのボス戦で手柄を立てたから偉いでしょ。だから撫でて。返事したときの蓮がそんな風に律を振り返ったように思えたのだ。「蓮ってさ、警戒心とかある?」 ふと律が蓮を撫でながら訊くと「あるよー」と全く警戒心を感じさせない緩い声が返ってきた。言葉と声音が一致していなくて思わず律は本当か? と疑いそうになる。「もし仮に、僕がこうやって蓮のこと撫でたまま、いきなり殴ったりとか……考えたことないの」「ない。律はそんなことしないもん」 きっぱりと言い切られてしまうと律はなにも言い返せなくなり、蓮を引き寄せて両手でぎゅっと抱いた。「うん。しないよ」 どうしてそん
Last Updated: 2026-03-18
Chapter: #24 知らなかったこと
 夏休みの間、律は普段より長い間起床後、離れの縁側で考え事をし、その後は蓮を起こして朝食の後は休みだというのに昼間黒瀬家に入り浸る子どもたちと一緒に過ごすことが多い。時々、蓮と二人で町中華を食べに行ったり買い物をしたりと出かけもする。 子どもたちと言っても小学生から上は律と蓮と同じく高校生まで幅が広い。中学生や高校生ともなると言うこともほぼ同年代のレベルになるが、学校のクラスメイトだと女子を律から遠ざける蓮はなぜか黒瀬家に入り浸る不登校児には威嚇しない。むしろ不思議なくらい馴染んで一緒にはしゃいですらいる。 夏休みの間、黒瀬家に入り浸る子どもたちは顔ぶれがくるくると入れ替わるが、中に律が知っている中で毎日くる子がいた。まだ小学校中学年か高学年かの痩せた女の子。無口で、あまり誰とも喋らず、いつも隅で膝を抱えて静かに本を読んでいる。普段の律は学校に行っている間に子どもたちが帰ってしまうため、事情に詳しくないが、なぜかその子どもが気になっていた。 盆が終わり、八月も下旬に差し掛かったある日。珍しく昼間黒瀬家の食堂で賑やかしく遊ぶ子どもが少なく、年齢もばらばらな子が五人ほどしかいなかった。そして、その日もその痩せた女の子は部屋の隅で本を読んでいた。他には同じく小学生が二人、中学生と高校生が一人ずつ。中学生と高校生は両方とも女の子で話に熱中しており、二人の小学生は蓮が一緒に庭で遊んでいた。 律は痩せた女の子がどうしても気になり、そっと近づいてしゃがみこんだ。「ねえ、隣にいてもいいかな」 怖がらせないように、と内心びくびくしながら律は女の子に声をかけた。祭りの屋台に遊びに来る子どもたちとは雰囲気が違う。無邪気な人懐っこさがなく、子どもに慣れている律でも慎重になってしまう。いつも一人で部屋の隅で一人で本を読んでいて、無口で、ほとんど誰とも喋らないのに毎日来る子ども。どこか矛盾を感じる。 女の子は顔を上げてこくりと頷いて、また視線を本に移した。一瞬だけあった目が、子どもなのに無気力で律はぞくりとする。その目を律は知っている。律と父が蓮に怒鳴り散らし、傷を抉ってしまった時の虚ろさに似ていた。 隣に座り込んだはいいが、律はどう彼女に話しかけていいのか会話の糸口が見つからない。女の子は律がいることには頷いたが、そのまま本を読んでいて話をする意思はなさそうだ。無理に話しか
Last Updated: 2026-03-16
Chapter: #23 白い百合に願いを
 蓮が安静を言い渡された一週間はあっという間に過ぎて、その後の検査でも異常はなく、晴れて自由の身となり律はほっとした。家出騒ぎ──なのか、逃走劇か──の後、数日間だけ蓮の様子はぎこちなかったが、揶揄いこそするものの誰も蓮を責めなかったのもあってか、安静中の一週間のうちに普段の調子に戻っていた。ただ、ひとつだけ蓮には不満が残った。週末の朝稽古で許可が出るまで先制を封じられたのだ。手合わせの際に癖で先制攻撃をしてしまった場合、稽古後の道場の床掃除がペナルティ。「りーつー……先制禁止とかもうキッツイんだけどー!」 二週目の朝稽古の後、蓮は勢いよくモップを手に走り回りながら文句を言ってきた。「んー、それはさあ、蓮の自業自得? だよね。間が悪かったとはいえさ。ちゃんと反撃も防御もできるのにしなかったから。あー。あと、蓮ってさ、手合わせだと先制取って相手を自分のペースに巻き込むじゃん。だから、みんなからしたら先制禁止にしないと、蓮に反撃と防御を叩き込めないって言うか……」 ペナルティの床掃除中の蓮に向かって律は考えながら返事した。掃除中の蓮の邪魔にならないよう、律は道場の入り口のところで戸口に背を預けている。蓮が早く掃除を終わらそうとモップがけをしながら「ええー!」と抗議を示した。「僕はあまりそういうのわかんないけど、何度もそういう条件でやってたら体が覚えるっていうじゃん。付け焼刃かもしんないけど、蓮に同じ目にあってほしくないんだよ」「……」 基礎の部分だけ習得した後は向いていないからとやめてしまった律に言われた蓮は無言になった。優劣の問題ではなく、そもそも先制を封じられた理由を蓮自身も自覚しているからだろう。 なにも考えてなかった、と父に説教された時に答えた言葉は間違いなく蓮の本心だ。それだけ自暴自棄になった蓮には危害に対する防御も反撃も無意味になってしまうことが既に立証済みなのだから、先制を封じて反撃と防御を叩き込もうとしているのだろう。元々、運動神経も反射神経も優れていて飲み込みが早かった分、ここまでゲームのように得意な部分だけを楽しむように伸ばしてきた蓮が不服に感じるのは仕方ない。「じゃあさ、蓮。僕と一本やってみる?」 ふと律が思いついて言うと、モップを掛けて走り回っていた蓮がぴたりと止まった。「は? マジ言ってんの?」「嘘ついてどうすんの」
Last Updated: 2026-03-13
Chapter: #22 ただいま
 朝になって蓮は院長から簡単な問診を受けると、帰宅の許可が下りた。その後、修治が蓮の着替えを持ってきた。普段と変わらない様子で着替えの入った袋を渡し「準備ができたら帰りますよ」とだけ言った修治に、蓮は少し迷ったように俯いて唇を噛んでいたが、思い切ったのか勢いよく頭を上げた。「修治! 昨日は……ごめん」 バツの悪そうな顔をしている蓮を振り返った修治は、顔色一つ変えずにあっさりと返事した。「私は仕事を遂行しただけです。謝罪する相手が違うでしょう、蓮」 それだけ言い残して修治は病室を出ていった。恐らく、廊下で蓮の帰り支度を待っているだろう。「……修治、こえー……」 受け取った袋を抱えて蓮はぐったりとへたりこんだ。律は蓮の様子に笑いそうになってしまう。いままでも、律や蓮が一般的に叱られるようなことをしても修治は一切の謝罪を受け取らない。窘められることはあっても「ごめんなさい」を受け入れてもらえない。蓮も修治の態度にはなれているはずだが、今回はさすがに近くで修治の実務を見ていた分、律は少しだけ修治も根に持っているだろうなと邪推してしまう。「ほら、蓮。着替えて帰ろ」「帰ったら、親父にも説教されんだろ? いーやーだー……」「連も、ちゃんと父さんに言ったらいいよ。僕に言ったのと同じこと。父さんだって理由もなく頭ごなしにお説教しないし」 律がフォローのつもりで蓮を促すと、ベッドに座ってぐったりとしていた蓮が恨みがましそうな目で見上げてきた。「それさー、俺がなんか言っても火に油じゃん? バカか、って言われて余計説長くなんじゃん」 それも確かにそうだ、と律は思ったが、口にした言葉は違った。「でもさ、やっぱ言った方がいいんじゃないかな。僕は蓮がちゃんと話してくれたから納得したし、いま蓮がまだ少し怖がってんじゃないかなって思うけど、言わないとわかんないよ。父さんなんてただでさえ勢いだけで生きてるような人なんだから、話さないと伝わんないよ。だから、親子喧嘩、すればいいじゃん」 ふふ、と律は笑う。律は蓮の本当の父親を知らない。知りたいとも思わないが、六歳から一緒に育って蓮の方がよほど父の子と言われても不思議ではないほど似ているところがあると思う。直情的で勢い任せなところ、声が大きいところ、不器用なところ。上げたらきりがない。修治の言うように、蓮が母親似の部分はたくさ
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: #21 なくなったと思ってた
 蓮は病室で病衣に着替えさせられて眠っていた。着ていたものは丁寧に畳まれているが、血痕や汚れが酷く律は思わず目を背けた。備え付けの簡素な椅子をベッドの脇に引き寄せ、消灯後の暗い病室に読書灯だけが灯る中で腰を下ろしてしばらくじっと蓮の寝顔を見ていた。 体の至る所に包帯やガーゼの処置さえなければ、いつもと同じく眠っているように見える。痛みに苦しんでいる様子も、悪夢にうなされている様子もない。──でも、蓮は目を覚ましたらどんな反応をするだろう? 律にはそれが気がかりだ。 父は荒い気性ゆえに蓮を殴って目を覚まさせろだなどと言う。律にも今回ばかりは一発くらいは殴ってしまいたい気持ちはある。けれど、生来の乱暴を好まない性質と、いまだ自責してしまう不器用さが簡単に手を上げる判断に至らない。そもそも、殴るという暴力を行使してもなんの解決にもならない。状態の悪化すら考えられる。好きなのに、手を上げるなんておかしい。 ふと、思いついて律は蓮の片手を布団からそっと出すと、背中を丸めて両手で包んだ。 まだ、蓮が黒瀬家に引き取られたばかりの頃、よく手を繋いだまま同じ布団で眠っていた。一人寝に慣れていないのは蓮の方だったのだ。六歳とはいえ母を亡くしたばかりで、表面上の悲壮感は薄かったが、夜になると寂しさで押し潰されそうになり「りつ……」と枕を抱えて布団に潜り込んできていた。そんなことを律は思い出した。 家の者たちから追いかけられ、逃げ回った蓮の本意はわからない。だが、蓮は大きな勘違いをしたままだということだけは確かだ。自分に対して疑心暗鬼のまま。その内側は不安と寂しさに満ちているのだろう。蓮はもう、律を受け入れないかもしれないが、律にも譲れない気持ちがある。だから、目が覚めるまででも伝う温度が少しでも蓮の心を癒せばいい。「蓮が、怖くない場所を僕が作れたら、まだここにいてくれるかな」 ぽつりと律は呟く。 暗い病室で読書灯だけが頼りの中、呟いた声はやけに大きく響いたように感じた。頼りない明かりに浮かぶ蓮は眠ったままで律の独り言には返事をしない。 ──優しい場所。そんな風に律は初めて自分の家のことを認識した。粗暴さはあっても、理不尽な暴力はない。蓮が出て行くといって飛び出したと知れば、理由など聞く前に誰もが探すことに必死になる。困っている、弱い立場の人間に無尽蔵に手を伸ばしてしま
Last Updated: 2026-03-09
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