Share

第33話:実際に少し色を試しましょうか

Author: Sunny
last update publish date: 2026-08-05 06:06:18

「最初に、全部を繋ぐ流れだけ作ります。境界ではなく、どこから入っても続けられるものを」

玲は、無意識に息を止めていた。

まだ何も描かれていない。

それでもエマの中には、すでに画面の動きが見え始めている。

完成図を押しつけず、子どもたちが自由に線を足せるようにする。

けれど、散らばったものをただ並べるのでもない。

一つの画面として成立させるための骨格だけを、最初に置く。

その判断は、作品を構成する力がなければできない。

「例えば、波ですか?」

担当者が尋ねると、エマは少し首を傾げた。

「波に見えても、風に見えてもいいものがいいと思います」

「形を決めない?」

「見る人が、少しずつ違うものを足せるように」

言葉は少ない。

けれど、エマの中にある美術への考えが、短い答えの端々から見える。

玲は、純粋な興味を覚えていた。

エマが何を描くのか。

どうやって、この巨大な黒い面を人の線へ開いていくのか。

それを知りたい。

コレクターとして、多くの作品を見てきた。

完成された画面だけではなく、制作資料や下絵、作者の思考に触れる機会も多かった。

だから分かる。

エマは、趣味で黒板を描いているだけの人間
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第94話:見せたかったもの

    ***中にはすでに十数人ほど集まっていた。美術館関係者。フェスティバルのキュレーター。財団の担当者。以前、顔だけ見たことのある人もいる。料理は町のレストランからケータリングされていた。地元の魚や野菜を使ったものが多く、立食に合わせて小さな皿へ整えられている。「朝倉さんですよね?」声をかけられた。振り返ると、美術館関係者の男性が立っていた。「はい」「やっぱり。前から一度話してみたかったんですよ」「私と、ですか?」「町では有名ですよ」嫌な予感がする。「カフェにいる美人さん。でも奏くんがいるから、なかなか話しかけられないって」エマは苦笑した。また、その話。「奏さんは店長なので、スタッフを気にかけてくださっているだけです」「そうかなあ」別の女性まで会話へ入ってくる。「千早くん、エマさんのことになると分かりやすいって聞くけど」「そんなことありませんよ」笑って流す。けれど。そこから話題は、エマが子どもたちへ絵を教えていることへ移った。「黒板の絵もエマさんなんでしょう?」「少しお手伝いしているだけです」「浜中さんも感性を褒めてましたよ」「本当に絵は描かないんですか?」一人。また一人。いつの間にか。エマの周りに人が増えている。悪意はない。むしろ好意的だった。だからこそ。逃げる理由がない。「昔、美術を勉強されてたんですか?」「いえ、そんな大したものでは」「今度、美術館の企画も見てもらいたいな」「私より適任の方が――」笑顔を保ちながら。少しずつ疲れていく。距離が近い。質問が多い。昔のような取材ではないのに。大勢の視線が自分へ集まる感覚だけが。身体の奥に残っている記憶を刺激する。その時だった。「エマさん」聞き慣れた声がした。人の間から玲が現れる。「少しよろしいですか?」「……はい」思ったより早く返事が出た。玲が周囲へ軽く頭を下げる。「すみません。少しお借りします」ごく自然だった。仕事の確認でもあるような顔で。エマをその輪から連れ出す。数歩離れたところで。「助かりました」小さく言うと。玲がこちらを見る。「やっぱり」「何がですか?」「少し疲れていらっしゃったので」エマは黙った。「そんなに分かりやすかったですか」「僕には」短い返事だった。それが。

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第93話:いつか見せてよ

    土曜日。浜中さんとの待ち合わせ時間を確認して、エマはようやく時計を見た。「……まずい」思っていたより、二十分も過ぎている。ほんの少しだけ。乾いた色の上へ、昨日から気になっていた青を置くだけのつもりだった。それなのに一度筆を持つと、次の色が気になった。その次は、光の入り方。気づけばキャンバスの前から動けなくなっていた。外から車の音が聞こえる。浜中さんだ。エマは慌ててほとんど片付けることなく、倉庫の扉を開ける。「すみません、お待たせしました」「いやいや。俺も今来たところ――」浜中さんの言葉が止まった。視線が、エマの腕へ落ちる。「……何ですか?」「袖」見れば、白いシャツの袖口に青緑の絵の具がついていた。「あ」洗う時間はない。エマは諦めて袖を一度折った。浜中さんが楽しそうに笑う。「ずいぶん夢中だったみたいだね」「時間を見ていなかっただけです」「それを夢中っていうんじゃないの」「行きましょう」誤魔化すように倉庫へ鍵をかける。「いつか見せてよ」不意に言われて。指が止まった。「……何をですか」「今描いてるもの」振り返ると。浜中さんは、いつもの穏やかな顔をしていた。「無理にとは言わないよ。あれだけ夢中になるものなら、ちょっと見てみたいだけ」エマは少しだけ迷った。以前なら。見せることはありません。そう答えていたと思う。けれど。「……まだ、見せられるようなものではないので」今日は、そう答えた。浜中さんは何も追及しなかった。「じゃあ、いつかだな」そのまま、トラックへ向かう。エマはその背中を見ながら。自分が否定しなかったことに、少し遅れて気づいた。***ビーチハウスは、町でも有名な建物だった。海岸線を少し上がった場所。コンクリートとガラスで作られた低い建物が、海へ向かって伸びている。「やっぱりここだったかあ」浜中さんがトラックを停めた。「ご存じなんですか?」「建った時は町でも話題だったからね。設計した人も有名だよ」外から見ただけでも美しい。けれど。中へ入って最初に感じたのは。生活感がない、だった。家具は必要最低限。大きなガラス窓。広い壁。何も置かれていない場所が多く、どこを見ても海へ視線が抜ける。美しい。それでも。玲が半年暮らす場所だと言われなければ、誰かの

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第92話:ビーチハウス

    『ビーチハウスで、浜中さんや美術館、フェスティバル関係者を招いて小さなパーティーをします』あの話。本当に企画したらしい。続けて。『先日お約束いただいたので、正式にお誘いします』エマは画面を見た。逃げ道がない。自分で行くと言った。『承知しました』送信。数秒後。『ありがとうございます』それだけ。仕事のようなやり取り。なのに。ふと顔を上げると。向こうで玲がこちらを見ていた。目が合う。そして。笑った。エマは思わず視線を逸らした。メールにする意味なんて。最初からなかったのではないか。***帰ろうとしたところで。「エマさん」結局、直接呼び止められた。「はい」「土曜日、ありがとうございます」「皆さんいらっしゃるのであれば」無意識に強調する。玲は苦笑した。「分かっています」「でしたら」「でも」言葉を重ねられる。「僕は、エマさんが来てくださることが一番楽しみです」また。そんなことを。「……そういうことを自然に言うの、ずるいですね」エマは小さく呟いた。玲の目が少し見開かれる。今日は。言葉が漏れすぎている。「何がずるいんですか」「何でもありません」「気になります」「忘れてください」「それも嫌です」エマはとうとう笑ってしまった。この人。こんな人だっただろうか。いや。エレナの前では。こんなところもあった。真面目で。丁寧で。それなのに、一度欲しいと思ったものについては意外なほど諦めが悪い。ただ。今。その部分を向けられているのは。エマだった。「では、土曜日に」逃げるように言う。玲は、それ以上追わなかった。「はい。お待ちしています」少し歩いてから。エマは振り返らなかった。振り返れば。まだ見られている気がしたから。***その夜。プレハブ倉庫。エマは描きかけのキャンバスの前に立っていた。玲からもらった濃い緑。浜中から譲られたオイルスティック。以前より増えた画材が、棚に並んでいる。筆を取る。最近。ここへ来る回数が明らかに増えた。描きたい。何かが動くたびに。その感情を、色へ置きたくなる。キャンバスには。少しずつ人の気配が増えている。昔のエレナの絵にはなかったもの。誰かが画面へ入ってきても。拒まない余白。エマは濃い緑を重ねた。その

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第91話:会う理由

    それから数日。玲との連絡は、不思議なくらい静かに続いた。毎日ではない。長いやり取りもしない。フェスティバルの確認事項があれば、玲から短いメールが来る。エマが返す。それだけで終わる日もあれば、最後に一文だけ、仕事とは関係のない言葉が混ざることもあった。『今日は海がかなり青いですね』『こちらは少し灰色に見えました』『エマさんの方が正しい気がします』正しいも何もないでしょう。そう思いながら。エマは、『見る場所によると思います』と返していた。そんなやり取りをする必要はない。分かっている。それなのに。玲から通知が届けば、以前より早く画面を見るようになった自分にも気づいていた。***その日の午後。フェスティバルの広場では、本番を想定した二度目の動線確認が行われていた。黒板の前には、子どもたちが描く位置を示すテープ。横には色別に分けられたチョーク。以前より資材も増え、簡易テーブルや作品を乾かす棚まで用意されている。「朝倉さん、大きいキャンバスも届きましたよ」担当者に言われ、エマが振り返った。壁際には、梱包された数枚のキャンバス。先日。玲が何気なく言っていたものだ。――必要とする人が、ほかにも出てくるかもしれませんから。結局、本当に用意したらしい。「子どもたちに使うんですか?」「自由制作で使おうかと。神崎財団から、用途は限定しなくていいと言われてます」「そうですか」それだけ返す。自分には関係ない。そう思いながら。キャンバスの大きさを無意識に測っていた。横幅。高さ。このサイズなら。オイルスティックで大きな線を入れたら綺麗だろう。そこまで考えて。エマは視線を外した。まただ。最近。何かを見ると、描くところまで考えてしまう。八年間。止め続けていたものが。一度動き始めた途端、以前より強くなっている気さえした。「気になります?」背後から聞こえた声に。肩が僅かに揺れた。振り返る。玲が立っていた。「……また、いつからいらしたんですか」思わず言うと。玲が少し笑った。「五分くらい前です」「声をかけてください」「楽しそうに見ていたので」「見ていただけです」「はい」否定しない。そのくせ。明らかに信じていない顔だった。エマは小さく息を吐いた。「神崎さん、最近少し意地悪にな

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第90話:新しいもの

    エマは、手の中の顔料を見つめていた。玲から渡された箱には、見覚えのある色がいくつも並んでいる。正確には。見覚えがある、どころではない。八年前まで。自分のアトリエに、当たり前のように置かれていた色。メーカーも。顔料の粒子も。乾いた後に残る僅かな艶も知っている。玲がどこまで意図して選んだのかは、分からなかった。けれど。ひとつだけ。どうしても手を伸ばせなかった色がある。エレナが、一番好きだった緑。迷った時。最後に戻っていた色。だから。その隣にあった、少し濃い色を選んだ。――新しいものを生み出したいので。口にしてから。エマは、自分の言葉に戸惑っていた。こんなこと。玲の前で言うつもりではなかった。「……ありがとうございます」箱を閉じる。「大切に使います」「使ってくれるんですね」玲の声が、少し嬉しそうだった。エマは顔を上げる。「いただいたので」「それだけでも十分です」以前なら。何かを与えられること自体を拒んだ。今だって、本来なら受け取るべきではない。それなのに。この色を使ってみたい。そう思ってしまった。それが。何より危険だった。「もう帰ります」エマが言うと。玲は何も引き止めなかった。「送ります」「すぐそこなので大丈夫です」「分かりました」珍しく。素直に引く。「では、ここで」「はい」数歩。歩いたところで。「エマさん」呼び止められた。振り返る。玲は車のそばに立ったまま。静かにこちらを見ていた。「今日、来てくれてありがとうございました」それだけだった。食事のことも。奏のことも。何も聞かない。そのことに。エマは少しだけ安心して。なぜか。少しだけ寂しくなった。「……おやすみなさい」「おやすみなさい」背を向ける。胸に抱えた箱が。妙に重かった。***玲の車が見えなくなるまで待ってから。エマは倉庫へ戻った。鍵を開け。中へ入る。扉を閉める。補助錠を下ろした瞬間。ようやく息を吐いた。静かな倉庫。画材。資料。描きかけのキャンバス。ここだけは。誰にも見せていない自分がいる。玲からもらった箱を、作業台へ置く。開く。やはり。あの緑が目に入った。エマは指先で容器に触れた。八年前。玲はよく。エレナの使う色を見ていた。絵の知識が

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第89話:その顔が可愛くて、つい

    珍しい。いつもなら。描くことへ繋がるものを、人前で持つことさえ避ける人なのに。けれど。それより先に聞きたいことがあった。「千早さんは?」エマの眉が僅かに寄る。「……なんで奏さんが出てくるんですか」困った顔。その表情すら。可愛いと思ってしまった。愛おしい。そこまで思って。玲は自分が相当に重症なのだと悟った。「カフェに行ったので」「カフェに?」「はい。食事に行ったと聞きました」エマが僅かに視線を逸らす。「……行きましたけど」「そうですか」それ以上。聞くべきではない。分かっているのに。何を食べたのか。どこへ行ったのか。楽しかったのか。千早に何を言われたのか。全部知りたい。もう二人で出かけないでほしい、となんの立場でもないのに。つい、言いたくなってしまう。けれど。それを口にすれば、今度こそ本当に嫌われそうだった。玲は意識して視線を落とした。そこで。改めて画材が目に入る。「それ」エマが僅かに腕を引いた。「画材ですよね」「……はい」「使い方は知らないって言ってませんでした?」先日の教室。浜中さんが持ってきた、欧州では比較的使われる画材。エマは見たこともないと言った。「試してみただけです」「初めてにしては」玲はケースの端に残った顔料を見る。綺麗に溶かされ。色が均一に乗っている。「随分、ちゃんと色が乗っていますね」エマの表情が固まった。「……たまたまです」また。困った顔をする。疑うべきなのに。追及すべきなのに。先に浮かんだのは。可愛い。だった。「困らせたくないんですけど」玲は思わず笑った。「その顔が可愛くて、つい」エマが玲を見る。耳が。僅かに赤くなった。「……趣味が悪いですね」玲は一瞬、黙ったあと。笑ってしまった。「それは否定できません」「渡したいものって何ですか」明らかに話を変えられた。それさえ。今は愛おしい。***玲は車から、小さな箱を取り出した。「これです」エマが受け取る。箱を開いた瞬間。瞳の色が変わった。欧州から取り寄せた顔料。先日教室で見ていたものと同じ系統のものを中心に。いくつか別の色も加えてある。「この間、ずっと見ていたでしょう」「……だからって」「僕が勝手に持ってきただけです」エマの指が、一つずつ容

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status