author-banner
三毛沢しっぽ
三毛沢しっぽ
Author

Novels by 三毛沢しっぽ

余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

空が鉛色に沈む天都皇国(てんとこうこく)。 帝都・白嶺(しらみね)は長年、人を喰らう化け物〝異形〟の脅威に晒されていた。 対異形特務軍に所属する青年、白玖(はく)。 巨大な白狐に姿を変え、異形を祓う帝国最強の決戦兵器たる〝神〟である彼は、その絶大な力を振るうため、莫大な魔力を宿す〝深紅の瞳の少女〟の血肉を必要としていた。 新たに軍へ配属された十四歳の少女、藍沢緋依(あいざわ ひより)。 彼女は神の餌として育てられた〝生贄〟であり、十五歳を迎える満月の夜、その身をすべて神に捧げて喰われる運命にあった。 飄々とただの兵器として生きてきた白玖は、自ら血を差し出す彼女の異質な明るさにペースを乱されていく――。
Read
Chapter: 最終話.次の春も、その次の春も
 あれから、数年の月日が流れた。 厚い雲に覆われ、常にどこか重苦しい空気が漂っていた帝都の空は、今では嘘のように高く澄み渡っている。 暖かな春の陽射しが、復興と発展を続ける白嶺の街並みを優しく照らし出していた。 特務軍本部の最上階。総帥室の大きな窓際に立ち、鷺原は平和を取り戻した帝都の景色を静かに見下ろしていた。「鷺原総帥……」 背後から静かな足音が近づき、鷺原の銀色の長髪に舞い込んでいた一枚の桜の花びらが、そっと取り払われた。 振り返ると、そこには火野が立っていた。 彼女の右腕の袖からは、特注で作られた精巧な機械仕掛けの義手が覗いている。あの日、命と引き換えに失われた腕の代わりだった。「彼らは……まだ、どこかで生きているのでしょうか」 火野の問いかけに、鷺原は再び窓の外へと視線を戻し、ふっと目を細めた。「せっかく平和な世界になったんだ。……生きていてもらわないと困る」 ――あの日。 ジェネシスという強大な悪意が打ち倒され、すべてが終わった直後。 菫川の手配した特務軍の特別救護班が、崩落の危険が迫る海底研究所の最深部へとついに突入を果たした。 しかし、血の海と化した研究室に残されていたのは、意識を失い倒れていた鷺原と火野の二人だけだった。 絶対的な力を持っていた白玖も、彼を最期まで支え抜いた緋依の姿も、そこにはなかった。 ひび割れた冷たい金属の床には、緋依が流したであろう絶望的な量の血痕が広がっていた。 そしてその中心には、薄紅色のガラス細工の桜の破片と、雪のように白い獣の毛がいくつか落ちているだけだった。 どれほど部隊を動員して瓦礫を退けようと、二人の遺体はどこにも見つからなかった。 ただ一つ、鷺原たちが決して公にはせず、特務軍の極秘記録にも残さなかった事実がある。 研究所から地上へと続く、長く薄暗い連絡通路。 その冷たい床には、血に濡れた巨大な獣の足跡が点々と残されていた。 その足跡は途中から、もう一匹分の小さな足跡と並んでいたのだ。 巨大な獣の歩幅に合わせるように、そして、互いに寄り添いかばうように歩く、一回り小さな獣の足跡が。 その事実だけが、二人が人間という枠組みを超えて生き延びているという、鷺原たちの唯一の希望だった。 特務軍の技術研究局。 ひっそりとした個室の研究室で、菫川は分厚い資料の山に囲まれな
Last Updated: 2026-08-29
Chapter: 54.最後の選択
 腹部を貫かれた緋依の小さな身体が、無慈悲に宙へと持ち上げられた。 ジェネシスの異形化した強靭な腕が、血に染まった緋依の首根っこを乱暴に掴み上げている。「あーあ。君は次の母体にするつもりだったのに。抵抗するもんだから……致命傷になってしまったかな?」「ぐっ……うう……ッ」 緋依の口から、ごぼりと赤黒い血が溢れ落ちる。ジェネシスはつまらなそうに目を細め、血の海に沈む床を見下ろした。「出血が多いなぁ。これはダメかな? また次の母体を探さないと……」「緋依ッ!」 総帥が血を吐くような悲鳴を上げ、満身創痍の身体を引きずって駆け寄ろうとする。 だが、ジェネシスが煩わしそうに指先を振ると、亜空間から射出された二本の骨の槍が、総帥の右腕と左足を容赦なく床へと縫い留めた。「がはっ……!!」「鷺原総帥……ッ!」 動けない火野が絶望の声を上げる。 最高戦力である白玖は操られ、他の三人は瀕死の重傷。 もはや万事休す――誰もがそう死を覚悟した、まさにその時だった。『……申し訳ありません。少々、手間取ってしまいました』 突然、研究室に設置されたスピーカーから、聞き慣れた青年の声が響き渡った。 ――技術研究局の菫川主任だ。 直後、壁一面を覆っていた巨大なモニター群が激しく明滅を始め、白玖を縛っていた赤い命令コードが次々とエラーを吐き出して崩壊していく。「なんだ……? 外部からのハッキングだと!?」 ジェネシスが驚愕の声を上げたのと同時に、白狐の氷のような瞳に、確かな理性の光が戻った。 白玖がハッと息を呑み、周囲の惨状を見渡す。 右腕を失い血だまりに伏す火野。四肢を貫かれ倒れる総帥。そして、ジェネシスに首を掴まれ、腹部から絶望的な量の血を流している愛しい少女の姿。 床には、彼が贈ったガラス細工の桜の髪飾りが、無残に砕け散っていた。『こ、これは……ッ!』『白玖様! そちらの惨状はモニター越しに確認しています。ですが、今は創造主を倒すことを最優先でお願いします!』 菫川の悲痛な叫びが、白玖の脳髄を叩き起こした。 次の瞬間、白玖の全身から、これまでとは比べ物にならないほど禍々しく、そして純粋な殺意を帯びた魔力の暴風が吹き荒れた。『お前っ……よくもッ!!』 怒髪天を衝くとはこのことだった。 激昂した白玖の巨体が、一瞬で音を置き去りにした。 ジ
Last Updated: 2026-08-28
Chapter: 53.血に染まるガラスの桜
「緋依……ッ!」 おぞましい骨の触手によって空高く吊るし上げられた緋依の姿に、総帥の悲痛な叫びが研究室に響き渡った。 今すぐにでも助けに向かいたい。だが、総帥の目の前には自我を奪われた白玖の容赦ない猛攻と、異形と化したジェネシスの長大な鉤爪が立ちはだかっていた。 二体の規格外の化け物を相手に、剣の達人である総帥でさえ、ギリギリのところで致命傷を躱すのが精一杯という絶望的な状況だった。(このままでは、ジリ貧だ……っ!) 総帥は歯を食いしばり、大太刀を大きく振りかぶった。 狙うのは――白玖。 総帥は心を鬼にして白狐の巨体の懐へと潜り込むと、その太い前脚を非情にも両断した。 白玖が痛みに身をよじり、体勢を崩す。〝異形〟の細胞を持つ白玖の肉体は瞬時に修復を開始するが、完全に元通りになるまでにはほんのわずかなタイムラグが生じる。 総帥が作り出した、一瞬の隙。 それを逃さず、総帥は標的をジェネシスへと切り替え、床を蹴って肉薄した。 しかし、ジェネシスは発達した両腕を使って信じられないほどの敏捷さで後退し、虚空に無数の黒い穴を開いた。 亜空間から、鋭く研ぎ澄まされた槍のような骨が次々と射出され、総帥を串刺しにしようと襲いかかる。 総帥は神速の太刀捌きで飛来する骨を弾き落としていくが、その動きを制限された隙を突き、ジェネシスの巨大な鉤爪が横薙ぎに振り抜かれた。「ぐっ……!」 間一髪で身を反らして回避したものの、鋭い爪の先端が総帥の胸元を掠めた。分厚い軍服が引き裂かれ、空中に鮮血が散る。 わずかに体勢が崩れたその絶対的な死角から、ひときわ太く鋭い骨が、総帥の無防備な喉笛めがけて突き出された。「……ッ!」 吊るし上げられていた緋依は、その光景に息を呑んだ。 助けなければ。しかし、首元を骨の触手にきつく締め付けられているため、声が出せず魔法の詠唱ができない。視界が涙で滲む中、緋依はただ絶望することしかできなかった。 だがその時、鼓膜を劈くような銃声が室内に轟いた。 ドガァンッ! という炸裂音と共に、総帥の喉を貫く寸前だった極太の骨が粉々に砕け散る。「火野……!」 総帥が視線を向けた先には、右腕を失い血溜まりの中に倒れ伏しながらも、残された左手一本で大型拳銃を構える火野の姿があった。 激痛と失血で顔面は蒼白になり、息も絶え絶えでありながら、
Last Updated: 2026-08-27
Chapter: 52.ジェネシス
 ひときわ重厚な金属の扉。 総帥と白玖が力を合わせてその鋼鉄をこじ開けた先に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な通路とは打って変わった、広大な研究室だった。 壁一面を埋め尽くすほどの無数の巨大なモニターが、血のような赤い光や昏い緑のデータを明滅させている。 空調の低い稼働音だけが響くその空間の中央に、一人の男が立っていた。 伸びきった黒髪を低い位置で無造作に纏め、口元には無精髭をたくわえ、着古してヨレヨレになった白衣を羽織っている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、知性と狂気が入り混じった異様な光を放っていた。 彼こそが、すべての〝異形〟を生み出した元凶であり、白玖の父親――|創造主《ジェネシス》だった。「やぁ。よく来たね。我が息子よ」 親が子を出迎えるような、ひどく穏やかで狂気に満ちた声だった。 白玖は無言のまま、氷のような瞳で男を睨みつける。「兄弟たちや、あまつさえ母さんまでも手にかけたか。実に、実に罪深い。……この私、父さんまで手にかけるつもりかい?」「……黙れっ!!」 白玖の怒りが臨界点を突破し、凄まじい魔力の風が吹き荒れた。 瞬時に巨大な九尾の白狐へと顕現し、殺意を剥き出しにして牙を鳴らす。 緋依、総帥、火野の三人もそれぞれ武器と魔力を構え、臨戦態勢をとった。 しかし、ジェネシスは微塵も怯えることなく、むしろ口元を歪めて嗤った。「くくっ。出来損ないと言えど、貴様も私の細胞を受け継いだ我が息子であることには違いないのだよ。……個体番号127」 ジェネシスが手元のコンソールを操作すると、壁一面のモニターに不気味な文字列が高速で流れ始めた。『――創造主の意志に従い、人類を殲滅せよ』 無機質な電子音声が研究室に響き渡った瞬間だった。 顕現していた白玖の巨体が、ビクンと大きく跳ねた。氷のような瞳から光が失われ、底なしの暗闇のように濁っていく。 次の瞬間、白玖の強靭な顎が、目の前のジェネシスではなく――真横にいた総帥へと猛スピードで襲いかかったのだ。「なに……っ!?」 総帥が咄嗟に大太刀を盾にして白玖の重い一撃をいなすが、その凄まじい衝撃に後方へと弾き飛ばされる。「白玖様!?」 突然の狂行に緋依は悲鳴を上げた。火野も絶望の色を浮かべ、瞬時に銃を構える。 白玖の意志とは無関係に、彼の肉体はジェネシスの命令コードに完全に支配されて
Last Updated: 2026-08-26
Chapter: 51.マザー
 ゆっくりと上昇した防護壁の奥、昏い緑色の非常灯に照らし出されたその姿は、この世のあらゆる悪夢を煮詰めたような冒涜的な存在だった。 上半身は、真っ白な肌をした人間の女性の形を保っていた。床一面を這い回るほど長い白い髪の隙間から覗く顔立ちは、恐ろしいほどに整っている。 しかし、その顔の半分を占めるような氷の色をした大きな瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれ、絶え間なく黒い涙を流し続けていた。 だが、真に悍ましいのはその下だ。 女性の腹部は、極限まで風船を膨らませたかのように異様に張り裂けそうに膨れ上がっており、薄い皮膚の下で複数の〝異形〟の胎児たちが、ボコボコと不気味に蠢いているのが透けて見えた。 そして、腰から下は人間ではなく、赤黒い甲殻に覆われた巨大なムカデのような節足の群れへと変貌していたのだ。「キィィィィィィィィィィッ!!」 それは言葉を紡ぐことはなく、ただ鼓膜を劈くような奇声を上げた。彼女の自我はすでに失われ、膨れ上がった腹の中の〝子供たち〟を守り、近づく者を敵味方構わず排除するという原始的な本能だけで動くマザーと化していた。「うわ……っ」 想像を絶するおぞましさに、白玖が思わず後ずさった。 海への恐怖に加え、極度の虫嫌いである彼にとって、実の母親が巨大な多足の化け物になり果てているという現実は、視覚的にも精神的にも致命的なダメージだった。「臆したか、白玖! それでも貴様は神か!」 鷺原総帥の鋭い一喝が、凍りついた空気を叩き割った。「嫌だよ、あんな気持ち悪いの……!」「泣き言をほざく暇があるなら、さっさと顕現しろ!」 総帥に容赦なく叱咤され、白玖は顔を引き攣らせながらも膨大な魔力を解放し、嫌々ながら九尾の巨大な白狐へと姿を変えた。 その直後、マザーの無数の脚が床を削りながら、凄まじい速度で襲いかかってきた。巨大な外見からは想像もつかないほどの俊敏さだ。『狭いってばっ!』 白玖が狭い通路で巨体を翻して回避しようとした瞬間、その太い尻尾が背後に並んでいた巨大な培養槽に激突してしまった。 ガシャンッ、と分厚いガラスが砕け散り、緑色の液体と共に、まだ未成熟の〝異形〟の幼体たちが大量に床へとこぼれ落ちる。「おい、敵を増やしてどうする!」『うるさいなぁ! わざとじゃないしっ!』 総帥の呆れたような声に反論しながら、白玖は強靭な顎
Last Updated: 2026-08-25
Chapter: 50.世界を壊す男
 冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが
Last Updated: 2026-08-24
離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

最低な不倫夫を捨てたその日、花屋で働く和花(わか)は、雨が降る夜にゴミ捨て場で記憶喪失の美しい青年・理聖(りひと)を拾う。 濡れた服を脱がせると彼の背中には和彫りの刺青が! さらに鞄からは大量の札束と本物の拳銃まで見つかってしまう。もしかして、裏社会の人間……? そう分かっていたはずなのに、孤独と酔い、そして彼の色気に絆され、和花はその日のうちに彼と関係を持ってしまう。 危険な男と一夜の過ち――かと思いきや、理聖は家事を完璧にこなし、和花をどこまでも優しく甘やかしてくれる最高に過保護な同居人で!? どん底から一転、危険な彼との甘すぎる溺愛の日々が幕を開ける――!?
Read
Chapter: 180.ここから先は僕ひとりで
 深夜のオフィス街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 等間隔に並ぶ街灯の冷たい光だけが、人気のない無機質なアスファルトを照らし出している。 君代の運転するセダンは、綺麗に整備された中規模のオフィスビルの少し手前で、音もなく滑らかに停車した。「……ここよ」 ハンドルから手を離し、君代が窓の外へ視線を向けながら静かに告げた。 理聖は助手席に座ったまま、窓ガラス越しにその建物をじっと観察した。 ガラス張りのエントランス。整然と並んだ窓。どこからどう見ても、ごく普通のクリーンな一般企業にしか見えない。 本当に、こんな場所に暴力団が潜んでいて、若い女性を攫い込んでいるのだろうか。 外観だけなら、到底そんな恐ろしい噂の出所になるとは思えなかった。 ここに和花がいるという確証はどこにもない。 君代が近所で耳にしたという、単なる根も葉もない噂話に過ぎない可能性も十分にある。 それでも今の理聖にとっては、暗闇の中に垂らされた唯一の蜘蛛の糸だった。 どんなに僅かな可能性でも、今はそれに縋るしかない。「ありがとうございます。ここで結構です」 理聖がシートベルトを外し、ドアノブに手をかけた時だった。「待って」 君代が、ひどく不安そうな顔で理聖の腕に軽く触れた。「私も、一緒に行った方がいいんじゃないかしら。もし本当に怖い人たちがいたら、あなた一人じゃ……」 純粋に理聖を案じる、心優しい常連客としての申し出。 しかし理聖は、即座にそれを制止した。「いいえ。五十嵐さんは、このまま真っ直ぐご自宅へ帰ってください」「でも……」「ここまで連れてきていただいただけで、十分すぎるほどです。ただでさえ物騒な噂がある場所に、これ以上五十嵐さんを危険に巻き込むわけにはいきません」 理聖は、助手席から君代へ向けて深く頭を下げた。「本当に、ありがとうございました」 その真摯な言葉と眼差しを受け、君代はしばらく躊躇うような素振りを見せた。 やがて、小さくため息をつき、祈るように両手を握り合わせる。「……わかったわ。でも、絶対に無茶だけはしないでね。危ないと思ったら、すぐに警察を呼ぶのよ」「はい」 理聖は短く答え、車を降りた。 バタン、とドアが閉まる。 君代は運転席の窓から、冷たい夜風の中を歩き出す理聖の背中を静かに見送った。 真っ直ぐにビルへ
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 179.心当たり
「……いなくなった?」 君代の顔から、いつもの柔和な笑みがスッと消え去った。  理聖は焦燥に駆られた声で、手短に状況を説明し始めた。  閉店後の片付け中、ほんの少し目を離した隙に、和花が店から姿を消してしまったこと。  スマートフォンにかけても電源が入っておらず、まったく繋がらないこと。  フルリールの周辺をくまなく探したが見つからなかったこと。「和花さんは、自分から誰にも黙ってどこかへ行くような人ではありません。何か……事件に巻き込まれたんじゃ……」 理聖の口調には、誘拐の可能性を危惧する切実な響きが混じっていた。「警察には連絡したの?」 君代が当然の疑問として尋ねるが、理聖は苦しげに言葉を濁した。「……今の事情では、すぐに警察へは頼れない部分も多くて」 極道同士の因縁が絡んでいる以上、迂闊に表沙汰にするわけにはいかないのだ。「それに、雄之助くんや梓ちゃんには? あの子たちなら……」 「二人とも、まだ病み上がりで本調子じゃありませんから。まずは、僕ひとりで探そうと思って」 君代は両手で口元を覆い、痛ましそうに眉を寄せた。「まあ……そんな……」 表向きは、親しい花屋の女の子を純粋に心配する、気のいい常連客の顔。  しかし、その完璧な仮面の下で、君代の内心は一気に氷のように冷静さを取り戻していた。(佐伯和花が、消えた?) 君代は頭の中で、目まぐるしく情報を整理し始める。  和花は現在、深凪組と不破組の双方に絶大な影響を与える存在だ。  そして何より、自分たちの計画を完璧に遂行するための、最も重要な鍵でもある。  そんな彼女が、この緊迫した時期に偶然いなくなるはずがない。  誰かが、意図的に先に動いたのだ。 君代は即座に候補を絞り込む。  深凪側であれば、錦戸大翔が復讐の駒として和花を攫った可能性が考えられる。  だが、理聖の目の届くフルリールから、一切の物音も立てずに力ずくで彼女を連れ出すのは至難の業だ。  とすれば、和花自身がある程度警戒を解き、大人しくついていくような相手の方が遥かに自然。  そこで、君代の脳裏に一つの確信が閃く。(不破側の人間ね) 源蔵本人が直接動くとは考えにくい。  となれば、和花を守るという名目を掲げ、強引にでも彼女を安全な場所へ連れ去りそうな男は一人しかいない。 不破の若頭で
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 178.すき焼きの卵
 フルリールから帰宅した五十嵐君代は、薄暗い仏間に足を踏み入れた。  コートを脱ぎ、静かに正座をして、買ってきたばかりの花束を丁寧に解く。  白や淡い紫を基調とした、上品で落ち着いた色合いの花々を、磨き上げられた花瓶へと美しく生け直した。  線香に火を灯し、チーンと澄んだ音を鳴らす。「今日も、綺麗なのを選んでもらったのよ」 君代は手を合わせながら、黒い縁取りのされた遺影に向かって、いつもの穏やかな調子で語りかけた。「あの子たち、本当に良いお花を揃えてくれるの。……ええ、そうね。もうすぐよ」 遺影に向かって微笑むその顔は、善良で愛情深い未亡人のそれにしか見えない。  だが、その瞳の奥には、何年もの間決して消えることのない、黒く重い復讐の炎が静かに燃え続けていた。 同じ頃。  仏間から少し離れた佐竹の自室では、ひんやりとした金属音が響いていた。 チャカッ、とスライドを引く乾いた音。  佐竹は机の前に座り、オイルの染み込んだ布で拳銃の銃身を入念に磨き上げている。  弾倉を確認し、引き金の感触を確かめる。  近いうちに必ず起きるであろう、不破と深凪の全面抗争。  その混乱に乗じて、錦戸大翔の命を確実に仕留めるため、佐竹は自室で着々と殺しの準備を進めていた。 仏壇へ綺麗な花を供える母親と、そのすぐ隣の部屋で銃の手入れをする息子。  家の中に立ち込めるそんな物騒な空気とは裏腹に、仏間を出た君代は、ふわりとエプロンを身につけ、ごく普通の主婦として夕飯の支度に取り掛かっていた。  キッチンには、今日フルリールの若者たちに差し入れたものとは別に、自家製の立派な野菜が並んでいる。  みずみずしい白菜、太い長ねぎ、香りの良い春菊。「今夜は、少し冷えるから……すき焼きにでもしましょうか」 独り言を呟きながら、手際よく野菜を切り分けていく。  お正月用に買っておいた、上質な霜降りの牛肉もまだ残っている。焼き豆腐としらたきもある。  これなら十分だわと頷き、君代は冷蔵庫の扉を開けた。「……あら」 ドアポケットを見て、君代は小さく首を傾げた。  すき焼きには欠かせないはずの、卵のパックが見事に空っぽになっていたのだ。「仕方ないわね」 君代はエプロンを外し再びコートを羽織ると、佐竹の部屋のドアを軽くノックした。「景、ちょっと足りないものが
Last Updated: 2026-10-29
Chapter: 177.保護という名の監禁
「理聖さんに、連絡させて。私が無事だってことだけでも……それだけでいいから!」 和花の切実な頼みに、蒼士は一瞬だけ口をつぐんだ。 瞳の奥に幼なじみに対する申し訳なさのような色が僅かに浮かび、小さく迷いが過る。 しかし――すぐに、首を横に振った。「……ダメだ」「どうして!?」「そんなことしたら、あいつがすぐにお前を助けに来るだろうが」 理聖が和花の居場所を正確に知れば、どれほど危険な状況であっても絶対に迎えに来る。「今は、深凪と不破がいつ衝突してもおかしくない時期だ。こんなピリピリしてる時に、深凪の若頭である久世が不破の拠点にのこのこ乗り込んできたらどうなる? 余計な火種を生むだけだろ」 蒼士の言うことは、極道という組織の論理としては極めて正しかった。 ここで理聖と不破組が衝突すれば、それこそ大翔の思惑通りになってしまう。「抗争が完全に片付くまでの辛抱だ。それまでは、ここから動くな」「蒼士!」「来い。部屋に案内する」 蒼士は和花の抗議をこれ以上聞く気がないらしく、ソファから立ち上がると、和花の腕を引いた。 当然、和花は強く抵抗し、腕を振りほどこうとする。 だが、蒼士の力に敵うはずがない。 応接室を出て、表のクリーンなオフィスエリアからは完全に隔離された、建物のさらに奥へ。 重厚な扉をいくつか抜け、静まり返った無機質な廊下を進んでいく。 やがて、一番奥にある重そうな鉄扉の前で蒼士が足を止めた。 そこは、不破組が組織の裏切り者や、逆に危険が迫っている重要関係者を一時的に匿うために使っている、特殊な保護室だった。 ガチャリと扉が開かれ、中へ押し込まれる。 部屋の中は、驚くほど簡素だった。 壁際に置かれた硬そうなシングルベッド。二人用ほどの小さなローテーブル。服を数着かけられる程度の最低限の収納。そして、奥にはトイレとシャワーだけが付いた簡易的なユニットバス。 ホテルほど快適ではないが、人が数日過ごすことは十分にできる空間だった。 ただし――和花が真っ先に確認したのは、その部屋の出口だ。「……まさか、本当に私をここに?」 信じられない思いで振り返ると、蒼士はすでに扉の外に立っていた。「食事は、下の者に定期的に運ばせる。必要なものがあればそいつに言え」「そういうことじゃないでしょ! 蒼士!」「大人しくしてろよ。……お
Last Updated: 2026-10-28
Chapter: 176.綺麗事では止められない
 固く握り締めた自分の拳を見つめたまま、和花はゆっくりと首を横に振った。「……約束なんて、できないよ」 静かだが、頑なな声だった。  蒼士の眉が不機嫌そうにピクリと動く。「理聖さんは、誰かと戦おうとしてるわけじゃない」 和花は顔を上げ、蒼士の目を真っ直ぐに見返した。「大翔さんを殺そうとしているんじゃなくて、暴走を止めようとしているだけなの。お父さんのことも、大翔さんのことも、もう誰も死なせずに済む道を探すって……そう約束してくれたわ」 だからこそ、理聖はたった一人で乗り込もうとしている。  大翔に自分の意志を伝え、これ以上の復讐を思いとどまらせるために。  和花は自分なりに必死に考え、ひとつの可能性にすがりつくように言葉を紡いだ。「だったら……私もその場にいた方が、話し合いがうまくいくかもしれないじゃない。私がいれば、お父さんだって無茶はしないはずだし……」 「ダメだ」  和花の必死の提案は、蒼士の冷たい一言によって即座に切り捨てられた。 「でも――」 「あんな狂った死神の親玉が、そんな生ぬるい綺麗事で上手くまとまる相手じゃねぇんだよ」  蒼士の気怠げな瞳に、底知れぬ恐怖と怒りが入り混じったような険しい色が浮かぶ。 「錦戸大翔って男は、まともな話し合いなんか通じるような奴じゃねぇ。自分の目的のためなら、身内の命すら平気で切り捨てるような異常者だ。お前が行ったところで、どうにかなるような次元の話じゃないんだよ」 それでも引き下がろうとしない和花を見て、蒼士は大きなため息をつき、ソファの背もたれに深く体重を預けた。「……もしどうしても行くってんなら、俺はお前をここから一歩も出さねぇぞ」 「……!」 和花は目を見開いた。「道端でいきなり誘拐しただけじゃ足りなくて、今度は私をここに監禁するつもりなの?」 キッと強い視線で睨みつける。  しかし、蒼士はその鋭い視線を正面から受け止め、まったく怯む様子を見せなかった。「そう思いたきゃ、好きに思え。何と言われようが、お前をあんな地獄に放り込むよりはマシだ」 相手が大翔である以上、一度殺し合いが始まればその場がどうなるか、誰にも予測はつかない。  たしかに、和花は佐伯家に代々伝わる古武術を幼い頃から厳しく叩き込まれている。普通の人間よりも遥かに自分の身を守る術を知っているし、並の
Last Updated: 2026-10-27
Chapter: 175.絶対に現場へ来るな
「逃げないって……」 和花は、その言葉が意味する残酷な現実を瞬時に理解し、ハッと息を呑んだ。「それって……また、殺し合うってこと?」 震える声で問い返す和花に対し、蒼士は目を逸らさず、一切の誤魔化しを挟まなかった。「向こうが殺す気で来るなら、こっちだって守るために戦う。極道の世界じゃ、それが当たり前なんだよ」 父である源蔵は、自分から意味のない殺しを望むような人間ではない。和花にもそれはわかっている。  だが、自分の組や、大切な家族の命が脅かされるとなれば話は別だ。  相手が狂気に満ちた錦戸大翔であれば、なおさら背を向けて逃げることなどあり得ない。「俺も、おやっさんのそばにいる」 蒼士が、静かに、だが確固たる意志を込めて告げた。「蒼士まで……?」 「当たり前だろ。俺は不破の若頭だ。親の盾になるのは、極道として当然の務めだ」 その言葉を聞いて、和花の中で一気に現実味が増し、足元から冷たい波が押し寄せてきた。  不破組のトップとして、迎え撃つ父・源蔵。  若頭として、父の盾となる幼なじみの蒼士。  そして、大翔の暴走を止めようと、たった一人で乗り込もうとしている理聖。 和花にとっての〝大切な人たち〟が、全員揃って、同じ過酷な戦場へと向かおうとしている。  誰かが傷つき、誰かが命を落とすかもしれない最悪の場所へ。「そんなの……」 和花は堪えきれず、膝の上で強く拳を握り締めた。「私だけ、何もせずに安全な場所で待ってろっていうの?」 思わずこぼれ落ちたその言葉を、蒼士は間髪入れずに叩き切った。「そうだ」 「でも……!」 「お前は来るな」 蒼士が身を乗り出し、和花の目を真っ直ぐに射抜く。「絶対にだ」 有無を言わさない、強烈で圧倒的な圧力。  和花が反発の言葉を口にしかけたところで、蒼士はふっと肩の力を抜き、少しだけ声を落とした。「俺は、久世を許してねぇ」 そのひと言に、和花は奥歯を噛み締め、押し黙った。「それはたぶん……これからも絶対に変わらない」 自分の弟である紅雅の命を奪った男。  その事実がある限り、蒼士が理聖を心から許す日など永遠に来ないだろう。  それだけは、和花にも痛いほど理解できた。簡単に飲み込めるような過去ではない。「でも……」 蒼士は自嘲するように短く鼻を鳴らした。「お前が、それでもあ
Last Updated: 2026-10-26
限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

人一倍性欲が強いのに、長い間彼氏がいないドジOLの甘崎りと。マッチングアプリで手痛い失敗をした彼女は、意を決して女性向け風俗のサイトを開く。そこでりとが目を奪われたのは、昼間自分を冷たく叱りつける完璧主義の鬼上司・鷲尾冴臣に酷似したセラピスト〝レイ〟のプロフィールだった――。
Read
Chapter: 最終話.呪いが解けた朝
 実を言うと、冴臣は同居を始めてからも、長らく〝恋人〟という明確な肩書きを避けていた。 愛情という目に見えない不確かなものに縛られることを、彼は心の底でひどく恐れていたのだ。自分の母親のように、愛を言い訳にして相手を搾取し、コントロールする怪物になってしまうのではないかという呪縛が、ずっと彼の心を蝕んでいたから。 けれど、数年という時間を同じ屋根の下で過ごし、共に温かい食卓を囲み、些細なことで笑い合う穏やかな生活の中で、彼の心の分厚い氷は少しずつ溶けていった。 自分は絶対に、あの母親のような怪物にはならない。 君を不幸にすることはない。 そう確信できたのか、最近になってようやく、冴臣ははっきりと、りとを〝恋人〟として認めてくれるようになったのだ。 それどころか――。「りとー! 久しぶり! 来たよ〜!」 しとしとと雨が降る週末。古民家カフェ〝ひだまり〟の引き戸が元気よく開いた。 そこに立っていたのは、傘を畳む乃々羽と、大きな身体で荷物を持つ三ツ谷、そして、二人の間をちょこちょこと歩く小さな女の子――由真だった。「乃々羽! 三ツ谷さん! わあ、由真ちゃん、いらっしゃい!」「りとちゃん、ひさしぶり〜!」 大きくなって、すっかり上手におしゃべりできるようになった由真を見て、りとは大喜びでしゃがみ込み、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。 厨房の奥から出てきた冴臣も、目元を優しく和ませて挨拶をする。「遠いところ、よく来てくれたな」「鷲尾くん、相変わらず渋くてかっこいいわね〜! みっちゃんも見習ってよね!」「こらこら、俺だって小児科じゃ人気だぞ」 賑やかな笑い声が、雨音を打ち消すようにカフェの中に響き渡る。 りとは腕を振るい、三人のために特製のランチプレートを用意した。 メインは、肉汁がたっぷりと溢れ出す和風ハンバーグ。そこへ、手作りのポテトサラダ、シャキシャキとした蓮根のきんぴら、出汁が香る分厚い厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和えを添え、熱々のナスと油揚げのお味噌汁、そしてふっくらと炊き上げた雑穀ごはんを並べた。「うわーっ、おいしそう! 由真、はんばーぐ大しゅき!」「こりゃすごいな。甘崎さん、本当に料理の腕を上げたね」「うん、めちゃくちゃ美味しい! 毎日食べられる鷲尾くんが羨ましいわ!」 三人からの大絶賛を受け、りとは「えへへ、た
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 110.私、今、すごく幸せだよ
 ――あの日から、数年の年月が過ぎ去った。 しとしとと、静かな雨音が古民家の瓦屋根を叩いている。 りとが店主を務める古民家カフェ〝ひだまり〟の厨房で、大きな小麦粉の袋を持ち上げようとした彼を見て、りとは慌てて声を上げた。「あ、だめだよ冴臣! 雨の日はただでさえ傷跡が疼くのに、そんな重いもの持ったら……っ」「大丈夫だ。もうだいぶ良くなってきている」 苦笑いしながら振り返った鷲尾冴臣の表情は、東京で張り詰めていた頃よりもずっと柔らかく、穏やかだった。 あの日、路地裏で大量の血を流して倒れた冴臣は、三ツ谷の医師としての完璧な応急処置と、その後の緊急手術によって、奇跡的に一命を取り留めた。 彼を刺した月白依織――ティフィンは、そのまま警察に逮捕された。パパ活で得た資金や、他人の人生を狂わせた悪質なストーカー行為もすべて明るみに出た彼女は、今も重い懲役刑に服しているはずだ。 一方、八尾蓮真は、一連の騒動の責任を問われヤオノードの社長を辞任。会社から事実上追放され、業界内での信用も完全に失った。刑事事件でも事情聴取を受け、依織の罪を裏付ける証言台に立ったと聞いている。 後日、りと宛てに八尾から分厚い謝罪の手紙が届いたが、りとは一度だけそれに目を通し、返事を書くことはなかった。 そして、りとの実家に入った悪質な匿名通報の件も、無事に誤解を解くことができた。 真相を暴いてくれたのは、綾と剛堂店長だった。夜の街のネットワークを駆使して調べ上げた結果、実家に電話を入れたのは依織本人ではなく、金で雇われた代行業者だったことが判明したのだ。 すべてを把握した後、りとは震える手で実家の母親へと電話をかけた。「……お母さん、ちゃんと話したいことがあるの」 りとは、隠し立てせず、事実と嘘をしっかりと分けて説明した。「夜のお店で働いていたのは本当。会社の規則を破ったのも本当だよ。それは、私が悪かった」『……っ、そんな……じゃあ、あなたずっと東京で夜の仕事を……?』「ごめんなさい。でも、男関係で会社に迷惑をかけたとか、情報漏洩の犯罪に関わったとかいうのは、全部嘘なの。私を追い詰めるために、誰かが業者を使って家に電話したの……」 電話の向こうで、母親が言葉を失っているのがわかった。「お母さんたちに、軽蔑されると思って……言うのが、すごく怖かった」 りとの絞り出
Last Updated: 2026-08-20
Chapter: 109.血に染まる門出
 肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: 108.幸せな未来を切り裂く刃
 ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
Last Updated: 2026-08-18
Chapter: 107.さよなら、ウィルクエス
 数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 106.君の足で立つために
 夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは|友達《・・》でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
Last Updated: 2026-08-16
苦手な上司が義兄になりましたが、どうやら私を妹として見ていないようです

苦手な上司が義兄になりましたが、どうやら私を妹として見ていないようです

仕事は完璧、容姿端麗。だけど口を開けばお説教ばかり。 そんな冷徹部長・波多野直樹(はたのなおき)が苦手な遠藤杏(えんどうあん)。 ある日、母親から突然の再婚報告。 新しい家族との顔合わせに向かった杏だったが、なんと再婚相手の息子は、あの苦手な上司だった! まさかの義兄妹関係に戸惑う二人。 とはいえ、職場以外で顔を合わせることもないだろう。 そう安心していた杏だったが、思いがけない事情から直樹とひとつ屋根の下で暮らすことに!? 会社では相変わらず冷たいのに、家ではどこか様子がおかしい。 時折見せる優しさに、妙な距離の近さ。 苦手だったはずの上司の知らない一面に、杏の心は少しずつ乱されていく。
Read
Chapter: 03.仕事はすごくできる人だと思うよ
 昼休みが終わり、静かな活気が戻った午後の営業部。 そこに、空気を凍らせるような鋭い声が落ちた。「吉田。これでは前回の提案より明らかに質が落ちている。先方がこれで納得すると思うか?」 波多野の厳しい視線の先で、杏の同期である|吉田《よしだ》|風夏《ふうか》が身を縮こまらせていた。 風夏が担当しているのは、長年付き合いのある企業の応接室改装案件だった。つい先日、先方から急な予算削減を求められ、風夏は泣く泣く家具や照明の構成を見直していたのだ。「申し訳ありません……。ですが、ご提示いただいた予算内に収めるためには、どうしても一部の家具のグレードを下げる必要がありまして」「予算が減ったからといって、安易に提案の質を落とすのは営業として三流のやることだ」 波多野はピシャリと切り捨てた。「今日中に、当初の品質を維持したまま予算に近づけた新しい提案を作り直せ」 無慈悲な指示に、風夏は言葉を失った。 すでに複数の取引先メーカーに頭を下げ、できる限りの価格調整を重ねた上でのギリギリの提案だったのだ。 これ以上、予算と品質を両立させるのはどう考えても限界がある。 しかし、冷徹な部長を前に反論する勇気などあるはずもなく、風夏は悔しそうに俯くことしかできない。 周囲の社員たちも息を潜め、嵐が過ぎ去るのを見て見ぬふりでやり過ごそうとしていた。 ――そのときだった。「部長。それは少し、無理があると思います」 静寂を破る穏やかな声に、風夏を含めた周囲の社員たちが弾かれたように顔を上げた。 声の主は、自分のデスクからすくっと立ち上がった杏だった。「……遠藤。今は吉田と話している」 波多野がわずかに眉間を寄せるが、杏はまったく怯むことなく彼の正面へと歩み寄った。「はい。存じております。でも、吉田さんの仕事の進め方に問題があったとは思えません」 杏は普段と変わらないトーンで言葉を続ける。「品質を維持することはもちろん重要です。ですが、予算が大幅に削減された以上、すべてを以前と同じ条件で揃えるのは現実的ではありません。現状で可能な選択肢をいくつもシミュレーションして提示した吉田さんの判断は、決して間違っていないと思います」 波多野は無言で杏を見下ろしている。それでも杏は、大きな瞳で彼を真っ直ぐに見つめ返した。「それに、今日中に全部やり直せとおっしゃいま
Last Updated: 2026-10-24
Chapter: 02.このどら焼きを、ひとつ持ち帰りで
 やがて杏のテーブルに、美しい焼き色がついたどら焼きと、湯気を立てる緑茶が運ばれてきた。  ふっくらとした生地の間には、艶やかな粒あんがたっぷりと挟まっている。  たまらず頬を緩ませ、さっそくひと口かじりついた。  しっとりした生地の優しい甘さと、小豆の豊かな風味が口いっぱいに広がる。「ん〜っ……!」 あまりの美味しさに、思わずとろけるような声が漏れた。  その瞬間、斜め向かいから強い視線を感じた。  ハッとして顔を上げると、まさに串に刺さったみたらし団子を口へ運ぼうとしていた波多野と、ばっちり目が合ってしまった。(しまった……!) 見つからないように息を潜めていたのに、自ら台無しにしてしまった。  波多野も一瞬、ピタリと動きを止めた。  まさか自分の部下に見られているとは思わなかったのだろう。常に冷静沈着な鉄仮面が、ほんのわずかに崩れたように見えた。「……遠藤?」 「こ、こんにちは。部長」 「……ああ」 何とも言えない気まずい沈黙が、二人の間にふわりと降り下りる。  波多野は手にしていた団子の串を静かに小皿へ戻すと、誤魔化すようにコホンと軽く咳払いをした。「遠藤。昼飯はちゃんと栄養のあるものを食べたほうがいい」 「それ、お団子を食べている部長が言います?」 杏はすかさず、彼の目の前に置かれたみたらし団子の皿を見つめた。波多野もつられたように視線を落とす。「俺は……今日はたまたま食欲がなかっただけだ」 「私は食欲ありますよ。このどら焼き、とっても美味しいですし」 「そういう問題じゃないだろう」 「部長だってお団子だけじゃないですか」 杏が小首を傾げて反論すると、波多野は珍しく言葉に詰まった。  普段のオフィスなら息もつかせぬ正論の連発で部下を完膚なきまでに論破する上司が、たかが昼食のメニューごときで言い返せなくなっている。  その不器用な姿がなんだかとてもおかしくて、杏はふふっと小さく吹き出してしまった。  波多野は目を丸くして杏を見つめ、すぐに気まずそうにスッと視線を逸らす。「……笑うな」 「すみません。でも部長も、こういう和菓子屋さんとかに来るんですね」 「悪いか」 「いえ。ちょっと意外だっただけです」 杏の中の波多野は、昼休みも高級なビジネスランチで優雅に商談をしているイメージだった。  少な
Last Updated: 2026-10-24
Chapter: 01.波多野部長は容赦がない
 ――|遠藤《えんどう》|杏《あん》、27歳。 家具や照明、空間デザインなどをトータルで手がける総合インテリアメーカー〝株式会社いろのわ〟に勤めて、今年で3年目になる営業部社員だ。 幼い頃に両親が離婚してからは母子家庭で育ち、現在は都内の小さなアパートで一人暮らしをしている。 仕事はそれなりに順調で、やりがいも感じている。 ただ一つ、直属の上司である|波多野《はたの》|直樹《なおき》営業部長との相性がすこぶる悪いことだけが、会社生活における唯一の悩みの種だった。 顔を合わせれば小言を言われ、冷たい視線で射抜かれる。 仕事ができるのは認めているけれど、どうにも苦手な相手だ。「遠藤。この見積書、どういうつもりだ?」 営業部のオフィスに、波多野の低く冷ややかな声が響いた。 提出したばかりの見積書を指差され、杏は小さく瞬きをする。 それは、取引先から依頼されたオフィス改装用の家具や照明のリストだった。先方の要望を最大限に取り入れた結果、一部の輸入家具が予算を少しオーバーしてしまっているのだ。「先方の予算は確認したのか?」「はい。ですので、品質を落とさずに価格を抑えられる代替案もご用意しています」 杏が手元のファイルから別の資料を差し出そうとすると、波多野はそれを目で制した。「ならば最初から比較できる資料としてまとめろ。相手に判断を委ねるつもりなら、必要な情報をひと目でわかるように揃えるのが先だ」「……おっしゃる通りです。申し訳ありません、すぐに修正します」 杏は反論することなく、素直に頭を下げた。 特に落ち込むこともなく、杏が資料の修正に取りかかろうとしたときだった。 波多野が背を向けて歩き去った途端、近くにいた男性社員たちがわらわらと杏のデスクに集まってきた。「遠藤さん、大丈夫? また波多野部長に絞られてたね」「あの人、遠藤さんにだけ当たりキツくない? 資料の修正、俺も手伝おうか?」「俺、ちょうど午後の予定空いてるからさ。手分けしようよ」 次々とかけられる労いの言葉に、杏はきょとんと首を傾げた。「ありがとうございます。でも、資料をまとめるだけなので、これくらい自分でできますよ」 杏は柔らかく微笑んで、気遣いを丁重に断った。 男性社員たちは、そんな彼女の反応にかえって鼻の下を伸ばしている。 杏は少し吊り上がり気味の切れ長
Last Updated: 2026-10-24
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status