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三毛沢しっぽ
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Novels by 三毛沢しっぽ

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

人一倍性欲が強いのに、長い間彼氏がいないドジOLの甘崎りと。マッチングアプリで手痛い失敗をした彼女は、意を決して女性向け風俗のサイトを開く。そこでりとが目を奪われたのは、昼間自分を冷たく叱りつける完璧主義の鬼上司・鷲尾冴臣に酷似したセラピスト〝レイ〟のプロフィールだった――。
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Chapter: 最終話.呪いが解けた朝
 実を言うと、冴臣は同居を始めてからも、長らく〝恋人〟という明確な肩書きを避けていた。 愛情という目に見えない不確かなものに縛られることを、彼は心の底でひどく恐れていたのだ。自分の母親のように、愛を言い訳にして相手を搾取し、コントロールする怪物になってしまうのではないかという呪縛が、ずっと彼の心を蝕んでいたから。 けれど、数年という時間を同じ屋根の下で過ごし、共に温かい食卓を囲み、些細なことで笑い合う穏やかな生活の中で、彼の心の分厚い氷は少しずつ溶けていった。 自分は絶対に、あの母親のような怪物にはならない。 君を不幸にすることはない。 そう確信できたのか、最近になってようやく、冴臣ははっきりと、りとを〝恋人〟として認めてくれるようになったのだ。 それどころか――。「りとー! 久しぶり! 来たよ〜!」 しとしとと雨が降る週末。古民家カフェ〝ひだまり〟の引き戸が元気よく開いた。 そこに立っていたのは、傘を畳む乃々羽と、大きな身体で荷物を持つ三ツ谷、そして、二人の間をちょこちょこと歩く小さな女の子――由真だった。「乃々羽! 三ツ谷さん! わあ、由真ちゃん、いらっしゃい!」「りとちゃん、ひさしぶり〜!」 大きくなって、すっかり上手におしゃべりできるようになった由真を見て、りとは大喜びでしゃがみ込み、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。 厨房の奥から出てきた冴臣も、目元を優しく和ませて挨拶をする。「遠いところ、よく来てくれたな」「鷲尾くん、相変わらず渋くてかっこいいわね〜! みっちゃんも見習ってよね!」「こらこら、俺だって小児科じゃ人気だぞ」 賑やかな笑い声が、雨音を打ち消すようにカフェの中に響き渡る。 りとは腕を振るい、三人のために特製のランチプレートを用意した。 メインは、肉汁がたっぷりと溢れ出す和風ハンバーグ。そこへ、手作りのポテトサラダ、シャキシャキとした蓮根のきんぴら、出汁が香る分厚い厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和えを添え、熱々のナスと油揚げのお味噌汁、そしてふっくらと炊き上げた雑穀ごはんを並べた。「うわーっ、おいしそう! 由真、はんばーぐ大しゅき!」「こりゃすごいな。甘崎さん、本当に料理の腕を上げたね」「うん、めちゃくちゃ美味しい! 毎日食べられる鷲尾くんが羨ましいわ!」 三人からの大絶賛を受け、りとは「えへへ、た
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 110.私、今、すごく幸せだよ
 ――あの日から、数年の年月が過ぎ去った。 しとしとと、静かな雨音が古民家の瓦屋根を叩いている。 りとが店主を務める古民家カフェ〝ひだまり〟の厨房で、大きな小麦粉の袋を持ち上げようとした彼を見て、りとは慌てて声を上げた。「あ、だめだよ冴臣! 雨の日はただでさえ傷跡が疼くのに、そんな重いもの持ったら……っ」「大丈夫だ。もうだいぶ良くなってきている」 苦笑いしながら振り返った鷲尾冴臣の表情は、東京で張り詰めていた頃よりもずっと柔らかく、穏やかだった。 あの日、路地裏で大量の血を流して倒れた冴臣は、三ツ谷の医師としての完璧な応急処置と、その後の緊急手術によって、奇跡的に一命を取り留めた。 彼を刺した月白依織――ティフィンは、そのまま警察に逮捕された。パパ活で得た資金や、他人の人生を狂わせた悪質なストーカー行為もすべて明るみに出た彼女は、今も重い懲役刑に服しているはずだ。 一方、八尾蓮真は、一連の騒動の責任を問われヤオノードの社長を辞任。会社から事実上追放され、業界内での信用も完全に失った。刑事事件でも事情聴取を受け、依織の罪を裏付ける証言台に立ったと聞いている。 後日、りと宛てに八尾から分厚い謝罪の手紙が届いたが、りとは一度だけそれに目を通し、返事を書くことはなかった。 そして、りとの実家に入った悪質な匿名通報の件も、無事に誤解を解くことができた。 真相を暴いてくれたのは、綾と剛堂店長だった。夜の街のネットワークを駆使して調べ上げた結果、実家に電話を入れたのは依織本人ではなく、金で雇われた代行業者だったことが判明したのだ。 すべてを把握した後、りとは震える手で実家の母親へと電話をかけた。「……お母さん、ちゃんと話したいことがあるの」 りとは、隠し立てせず、事実と嘘をしっかりと分けて説明した。「夜のお店で働いていたのは本当。会社の規則を破ったのも本当だよ。それは、私が悪かった」『……っ、そんな……じゃあ、あなたずっと東京で夜の仕事を……?』「ごめんなさい。でも、男関係で会社に迷惑をかけたとか、情報漏洩の犯罪に関わったとかいうのは、全部嘘なの。私を追い詰めるために、誰かが業者を使って家に電話したの……」 電話の向こうで、母親が言葉を失っているのがわかった。「お母さんたちに、軽蔑されると思って……言うのが、すごく怖かった」 りとの絞り出
Last Updated: 2026-08-20
Chapter: 109.血に染まる門出
 肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
Last Updated: 2026-08-19
Chapter: 108.幸せな未来を切り裂く刃
 ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
Last Updated: 2026-08-18
Chapter: 107.さよなら、ウィルクエス
 数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
Last Updated: 2026-08-17
Chapter: 106.君の足で立つために
 夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは|友達《・・》でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
Last Updated: 2026-08-16
離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

最低な不倫夫を捨てたその日、花屋で働く和花(わか)は、雨が降る夜にゴミ捨て場で記憶喪失の美しい青年・理聖(りひと)を拾う。 濡れた服を脱がせると彼の背中には和彫りの刺青が! さらに鞄からは大量の札束と本物の拳銃まで見つかってしまう。もしかして、裏社会の人間……? そう分かっていたはずなのに、孤独と酔い、そして彼の色気に絆され、和花はその日のうちに彼と関係を持ってしまう。 危険な男と一夜の過ち――かと思いきや、理聖は家事を完璧にこなし、和花をどこまでも優しく甘やかしてくれる最高に過保護な同居人で!? どん底から一転、危険な彼との甘すぎる溺愛の日々が幕を開ける――!?
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Chapter: 81.愚かなピエロ
 夜の繁華街を見下ろす、古びた雑居ビルの屋上。 ネオンサインが毒々しい極彩色を放つ喧騒から遠く離れ、蘭華はコンクリートの縁へ小柄な身体を預けていた。 高性能の双眼鏡越しに、通りの向こう側をじっと眺める。 視線の先にあるのは、大翔の手によって粛清された元幹部・榊原の派閥が経営していた違法ヘルスだ。「……いたいた。榊原んとこの残りカス」 けばけばしい看板の下、店から出てきたガラの悪い男たちを見つけ、蘭華の赤い唇が楽しげに弧を描く。 暗殺者である彼女にとって、あんな下っ端の命を奪うことなど造作もない。殺すだけなら簡単だ。 けれど今夜、大翔から与えられた仕事は〝殺すこと〟ではない。残党を束ねる黒幕を炙り出すことだ。「さてさて。誰と会うつもりなのかなぁ〜?」 蘭華は雄之助から事前に共有されていた、榊原派の残党リストの画像と照らし合わせる。(あいつは山木と、新田ってやつだわ。どっちも頭を使って組織を動かすようなタイプじゃないわね) そのまま双眼鏡でじっと監視を続けていると、路地裏の暗がりから、ひょっこりと見知らぬ男が姿を現した。「……誰、あれ?」 ピントを合わせる。そこに映ったのは、極道とは似ても似つかない男だった。 根元が黒く伸びきった酷いプリン状態の色褪せたブロンド髪に、だるだるのTシャツ。 安っぽいアクセサリーをじゃらじゃらと鳴らし、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべている。(売れないバンドとかやってそうな男ね……。チンピラにしても、貧弱そうだけど。まさか、あんなやつが残党を仕切ってんの?) 蘭華は首を傾げながらもスマートフォンを取り出し、その男の顔をズームで隠し撮りした。そして、すぐさま雄之助のメッセージアプリへと画像を送信する。 数秒後。マナーモードにしていた端末が、ブルブルと震えて着信を知らせた。「はいはーい、ゆーのすけ? アタシ、仕事が早いでしょ〜」『……蘭華。そいつ、和花さんの元旦那かもしれない』「は? 元旦那ぁ!?」 予想外すぎる単語に、蘭華は思わず素っ頓狂な声を上げた。 和花の元旦那といえば、借金まみれで浮気性のどうしようもない一般人だと聞いていた。『ああ、間違いない。高橋芽流ってクズ野郎だ』 電話越しの雄之助の声は、地を這うように低く怒りに震えていた。『以前、あいつは和花さんを九条たちへ引き渡して、まとまった大
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 80.和花という駒
 蘭華の軽やかなヒールの音が遠ざかり、薄暗い廊下には再び重苦しい静寂が舞い戻った。  雄之助は深い溜め息を一つこぼし、気を引き締め直して出口へと向かって歩き出した。  この場所は、いつ誰がどこで見張っているか分からない。常に隙を見せてはならないと、武闘派として長年培ってきた直感が告げている。  しかし、その研ぎ澄まされたはずの直感すらも、〝彼〟の前では赤子同然だった。「…………芥ぁ」 突如として、首筋に氷の刃を当てられたかのような錯覚に陥った。  背後の至近距離から聞こえた、地を這うような低い声。「……っ!?」 雄之助は心臓を鷲掴みにされたようにビクッと肩を震わせ、弾かれたように振り返った。  そこには、つい数分前に組長室を出て行ったはずの大翔が、音もなく立っていた。「く、組長……っ!?」 雄之助の額から一瞬にして冷や汗が噴き出した。  数々の修羅場を潜り抜けてきた雄之助でさえ、背後を取られるまでその存在に全く気が付かなかったのだ。  息遣いも、足音も、そしてあの圧倒的な威圧感すらも完全に消し去っていた。  トップの底知れない実力に、雄之助は思わず後ずさりしそうになるのを必死に堪え、深く頭を下げた。「ど、どうされましたか……?」 大翔は感情の読めない冷徹な視線で、雄之助の顔をじっと見下ろした。「……お前も理聖も、深凪組という組織の人間だということだけは、決して忘れるな」 静かだが、ずしりと重い言葉が鼓膜を打つ。「……カタギの女と付き合うなら、それなりの覚悟はしておけ」 「……っ!!」 雄之助は息を呑んだ。  先ほど蘭華が、梓のことを自分の彼女だと大翔の前であっさり口にしていたのを思い出す。  背筋を冷たい汗が伝い落ちる。「は……はい。勿論です。……申し訳ありません」 雄之助が震える声で答えると、大翔はフッと短く鼻で笑った。「それと、もう手遅れだろうが……極力、一般人をこちらの世界に巻き込むな」 大翔は一歩だけ雄之助に近づき、その凄みのある声のトーンをさらに落とした。「だが、すでに巻き込んでしまったのなら、お前の命に代えても絶対に守るんだ。……特に、理聖の女だ。あの子は、何かと使えそうだからな」 右目を覆う黒い眼帯。残された左目が三日月の形に細められ、大翔の口元に不気味な微笑みが浮かんだ。  その笑みを見た
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 79.分かりやすい女
 翌日。 フルリールでのピンクのエプロン姿から一転、雄之助は漆黒のスーツに身を包み、深凪組の本家へと足を運んでいた。 事務所特有の重苦しい空気が漂う中、最奥にある組長室の重厚な扉をノックする。「……入りなさい」 低く、地を這うような声。 雄之助が深く一礼して足を踏み入れると、革張りのソファに深く腰を掛けた大翔が、紫煙を燻らせながら冷ややかな視線を向けてきた。「組長。お耳に入れたいことがありやす」 雄之助は直立不動の姿勢を崩さず、昨夜イタリアンレストランの帰りに起きた出来事を詳細に報告した。 カタギの女性である梓が、突然黒塗りの車に乗った男たちに襲撃されたこと。そして、その男たちが、大翔の手によって粛清されたはずの幹部・榊原の残党であったこと。「……なるほど。榊原が死んだ後も、勝手に動いている連中がいると」 大翔は灰皿に煙草を押し付け、不敵に目を細めた。 榊原は生前、風俗やキャバクラなどの水商売を牛耳り、深凪組の稼ぎ頭としてかなり手広くシノギを回していた男だ。 彼が粛清されたことで、行き場を失った末端の残党どもが、手っ取り早く金になる女を狙って小遣い稼ぎに走っているのだろうか。「だけど、腑に落ちないな」 大翔が低く呟く。「ただのシノギなら、あえて理聖や芥の周囲にいるカタギの女を狙う必要はないはずだ」「……はい。俺もそう思いやす」 雄之助が深く頷いた。 記憶喪失の若頭が未だにナンバーツーの座に居座り、大翔から異常な寵愛を受けていることに対して、組内で不満を燻らせている反逆分子は多い。 残党どもが理聖や雄之助の周囲の人間を狙い撃ちにすることで、理聖への当てつけや組織内への牽制を図っている可能性は十分に考えられた。「残党どもを束ねて、裏で糸を引いている奴が必ずいるはずだ。そいつを炙り出そう」 大翔の瞳に、残酷な光が宿った。「だが、正規の組員を動かせば、ネズミどもはすぐに警戒して尻尾を隠すだろう。……こういう時は、外側にいる人間を使うのが一番だ」 大翔はそう言うと、部下にひとつ指示を出した。「天霧蘭華を呼べ」 それからしばらくして、組長室の扉がノックされた。「おっじゃましま〜す」 軽い声とともに現れたのは、腰よりも長いプラチナブロンドを揺らした小柄な女――蘭華だった。「珍しいじゃん。錦戸がアタシを呼び出すなんて」「蘭
Last Updated: 2026-09-07
Chapter: 78.シャワーだけのはずでした
 カオスな飲み会を終え、和花と理聖もマンションの自室へと帰り着いた。 玄関の鍵を閉め、靴を脱いでリビングへ向かおうとした時、理聖のコートのポケットでスマートフォンが短く震えた。 画面を確認すると、雄之助から一通のメッセージが届いていた。『若頭、今日はおつかれさまッス。いちおう報告です。さっき帰る途中で、梓さんが榊原派の残党にねらわれました。チンピラが二人いましたけど、ナイフで追い払ったんで今はだいじょぶです。でも、奴らまた来るかもしれねぇんで、若頭も気をつけてくだせぇ。和花さんも気をつけて。あと俺はだいじょぶです。ぜんぜん吐いてないです。ちょっとだけ世界がぐるぐる回ってますが。おやすみなさい若頭』「……雄之助さんからですか?」 隣から画面を覗き込んだ和花は、メッセージの内容を読むなり、サーッと顔を青ざめさせた。「梓さんが……残党に狙われた!? い、色々大丈夫でしょうか……?」「文面を見る限り、だいぶ酔っ払ってそうですが……雄之助くんがどうにか追い払ったようなので、とりあえず梓さんの身は大丈夫そうですね」 理聖はホッと息を吐きながらも、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。 榊原派の残党が、まだこの街をうろついている。 カタギの和花だけでなく、梓まで巻き込まれたという事実は、決して看過できるものではなかった。(……裏の掃除を、少し急がなければいけませんね) 決意を固めた理聖だったが、その時、隣を歩いていた和花が「あっ」と小さく声を漏らして足元をふらつかせた。 リビングのラグの縁につまずき、体勢を崩したのだ。「危ないっ」 理聖はすかさず腕を伸ばし、倒れそうになった和花の身体をガッチリと抱き留めた。「大丈夫ですか? ……どうやら、和花さんもかなり酔ってしまっているようですね」「す、すみません……。私、お酒ってあんまり強くなくて」 腕の中にすっぽりと収まった和花が見上げると、その瞳はアルコールでとろんと潤んでおり、頬はほんのりと桜色に染まっていた。 サングリアを数杯飲んだだけだが、普段お酒を飲まない彼女には十分すぎたらしい。 無防備で甘やかな表情に、理聖の胸の奥でドクンと大きな音が鳴る。「……とても、眠たそうですね。一緒にシャワーだけ浴びてしまいましょうか」「えっ……? い、一緒に……?」 予想外の提案に和花が目を丸くした瞬間、
Last Updated: 2026-09-07
Chapter: 77.俺の女に触れるな
 レストランを出てから、どれくらい歩いた頃だろうか。  夜風が冷たく吹き抜ける人気のない裏通りを、雄之助は梓の肩を抱きかかえるようにして、フラフラと千鳥足で歩いていた。「うぷっ……だ、大丈夫ッスか……梓さん……」 胃の底から込み上げてくる強烈な吐き気と戦いながら、雄之助は虫の息で隣の女性に声をかけた。「雄之助くんこそ、大丈夫〜? ごめんねぇ、ちょっと私、飲ませすぎちゃったわねぇ」 完全に出来上がっている梓は、心配するどころか上機嫌でふわりと笑い、雄之助の太い腕にさらにギュッと抱きついてくる。  その柔らかい感触と甘い香水にドキリとしつつも、アルコールで回った脳は悲鳴を上げていた。 ――その時だった。  背後から、眩しいヘッドライトの光が急激に迫ってきた。  黒塗りの高級車がタイヤを激しく軋ませ、二人のすぐ横で乱暴に急停車する。  ガチャリとドアが開き、黒服に身を包んだ二人の男が無言で飛び出してきた。「……っ!」 極道の直感が、雄之助のアルコールで鈍った脳に強烈な警鐘を鳴らした。「梓さん、下がって!」 雄之助は咄嗟に梓を背後へと庇い、ズボンのポケットに忍ばせていたコンバットナイフを抜き放ち、逆手に構えた。  しかし、致死量に近いワインを飲まされた影響は大きかった。  足元がおぼつかず、視界がぐらぐらと揺れて、刃先が微かに震えてしまう。  男の一人が雄之助を牽制するように立ち塞がり、もう一人がその隙を突いて背後の梓へと手を伸ばした。(どういうことだ!? なんでカタギの梓さんを狙う!?) 雄之助が混乱の中で暗闇に目を凝らし、街灯のわずかな光が男たちの顔を照らし出した瞬間、その脳裏に雷に打たれたような衝撃が走った。「てめぇら……深凪組の、榊原派の残党か!」 かつて若頭である理聖と敵対し、組織のトップである大翔によって粛清された幹部・榊原。  その息がかかっていた末端のチンピラたちだった。 雄之助の頭に、以前、梓から聞かされていた誘拐事件の記憶が蘇る。  あの時、榊原の部下たちは梓の姿を見て、「いい女だ」と下劣な笑いを浮かべていたらしい。  見目麗しくスタイルの良い梓なら、風俗に沈めれば莫大な〝シノギ〟になる――そんな胸糞の悪い思惑まであったと、後から聞かされていた。  組織のゴタゴタに乗じて、今度は残党どもが小遣い稼ぎの
Last Updated: 2026-09-06
Chapter: 76.忠犬極道の黒歴史
 レストランの奥のテーブル席は、完全に異次元の空間と化していた。 静かなジャズが流れる上品な店内で、そこだけがまるで嵐の暴風雨のような騒ぎになっている。「梓ちゃ〜ん! グラスあいてるよ〜! じゃんじゃん飲んじゃお〜!」「うふふっ、蘭華ちゃんってば、すんごい気持ちいい飲みっぷりね! 私、初めて会ったわ。私のペースにしっかりついてこられる女の子なんて!」 完全に出来上がった二人の間には、すでに空になったワインボトルが三本も転がっている。 二人は肩を組み、グラスをカチンと合わせては、水でも飲むような恐ろしいペースでワインを喉へと流し込んでいた。 その向かいの席で、和花はグラスに残ったサングリアを少しだけ口に含んだ。 すでに頬はほんのりと赤く染まり、心地よいほろ酔い状態だ。 一方で、隣に座る理聖の顔色は全く変わっておらず、平然とワイングラスを傾けていた。「お酒、強いんですね。理聖さん」 和花が目を丸くして見上げると、理聖はクスリと小さく笑みをこぼした。「どうやら、記憶を失う前から強かったのかもしれませんね。まだまだ飲めそうな気がします。……まあ、あそこまで酔っ払うほど飲もうとは思いませんが」 理聖の視線の先では、ベロンベロンになった梓と蘭華がカオスな宴を繰り広げている。 梓は手元のフォークをマイク代わりに陽気なシャンソンを歌い始め、蘭華はそれに合わせてカスタネットのようにアヒージョの空き皿をカチカチと鳴らして合いの手を入れている。 周囲の客がチラチラと見ているが、二人は全く気にする素振りもない。「理聖くんっ! 和花ちゃんっ! 人生は愛とワインよ〜!」「あはははっ! 梓ちゃんウケる〜! もっと歌ってぇ〜!」 そんな惨状の中で、ただ一人地獄を見ている男がいた。 雄之助は梓を無事に家まで送り届けるため、ギリギリ酔いすぎないラインを必死に保とうとしていた。 しかし、「ほら雄之助く〜ん、私の愛のワインが飲めないのぉ?」と梓に無理やり注がれるため、すでにかなりのアルコールを摂取させられ、顔を真っ赤にしてぐったりとしている。 そんな弱り切った雄之助を見て、蘭華が悪戯っぽく目を細めた。「ねぇねぇ、梓ちゃん。ゆーのすけの恥ずかしい秘密、教えてあげよっか〜?」「えっ、なになに!? すっごく聞きたいわ!」「おまっ……や、やめろ蘭華……それ以上は……
Last Updated: 2026-09-06
余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

空が鉛色に沈む天都皇国(てんとこうこく)。 帝都・白嶺(しらみね)は長年、人を喰らう化け物〝異形〟の脅威に晒されていた。 対異形特務軍に所属する青年、白玖(はく)。 巨大な白狐に姿を変え、異形を祓う帝国最強の決戦兵器たる〝神〟である彼は、その絶大な力を振るうため、莫大な魔力を宿す〝深紅の瞳の少女〟の血肉を必要としていた。 新たに軍へ配属された十四歳の少女、藍沢緋依(あいざわ ひより)。 彼女は神の餌として育てられた〝生贄〟であり、十五歳を迎える満月の夜、その身をすべて神に捧げて喰われる運命にあった。 飄々とただの兵器として生きてきた白玖は、自ら血を差し出す彼女の異質な明るさにペースを乱されていく――。
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Chapter: 最終話.次の春も、その次の春も
 あれから、数年の月日が流れた。 厚い雲に覆われ、常にどこか重苦しい空気が漂っていた帝都の空は、今では嘘のように高く澄み渡っている。 暖かな春の陽射しが、復興と発展を続ける白嶺の街並みを優しく照らし出していた。 特務軍本部の最上階。総帥室の大きな窓際に立ち、鷺原は平和を取り戻した帝都の景色を静かに見下ろしていた。「鷺原総帥……」 背後から静かな足音が近づき、鷺原の銀色の長髪に舞い込んでいた一枚の桜の花びらが、そっと取り払われた。 振り返ると、そこには火野が立っていた。 彼女の右腕の袖からは、特注で作られた精巧な機械仕掛けの義手が覗いている。あの日、命と引き換えに失われた腕の代わりだった。「彼らは……まだ、どこかで生きているのでしょうか」 火野の問いかけに、鷺原は再び窓の外へと視線を戻し、ふっと目を細めた。「せっかく平和な世界になったんだ。……生きていてもらわないと困る」 ――あの日。 ジェネシスという強大な悪意が打ち倒され、すべてが終わった直後。 菫川の手配した特務軍の特別救護班が、崩落の危険が迫る海底研究所の最深部へとついに突入を果たした。 しかし、血の海と化した研究室に残されていたのは、意識を失い倒れていた鷺原と火野の二人だけだった。 絶対的な力を持っていた白玖も、彼を最期まで支え抜いた緋依の姿も、そこにはなかった。 ひび割れた冷たい金属の床には、緋依が流したであろう絶望的な量の血痕が広がっていた。 そしてその中心には、薄紅色のガラス細工の桜の破片と、雪のように白い獣の毛がいくつか落ちているだけだった。 どれほど部隊を動員して瓦礫を退けようと、二人の遺体はどこにも見つからなかった。 ただ一つ、鷺原たちが決して公にはせず、特務軍の極秘記録にも残さなかった事実がある。 研究所から地上へと続く、長く薄暗い連絡通路。 その冷たい床には、血に濡れた巨大な獣の足跡が点々と残されていた。 その足跡は途中から、もう一匹分の小さな足跡と並んでいたのだ。 巨大な獣の歩幅に合わせるように、そして、互いに寄り添いかばうように歩く、一回り小さな獣の足跡が。 その事実だけが、二人が人間という枠組みを超えて生き延びているという、鷺原たちの唯一の希望だった。 特務軍の技術研究局。 ひっそりとした個室の研究室で、菫川は分厚い資料の山に囲まれな
Last Updated: 2026-08-29
Chapter: 54.最後の選択
 腹部を貫かれた緋依の小さな身体が、無慈悲に宙へと持ち上げられた。 ジェネシスの異形化した強靭な腕が、血に染まった緋依の首根っこを乱暴に掴み上げている。「あーあ。君は次の母体にするつもりだったのに。抵抗するもんだから……致命傷になってしまったかな?」「ぐっ……うう……ッ」 緋依の口から、ごぼりと赤黒い血が溢れ落ちる。ジェネシスはつまらなそうに目を細め、血の海に沈む床を見下ろした。「出血が多いなぁ。これはダメかな? また次の母体を探さないと……」「緋依ッ!」 総帥が血を吐くような悲鳴を上げ、満身創痍の身体を引きずって駆け寄ろうとする。 だが、ジェネシスが煩わしそうに指先を振ると、亜空間から射出された二本の骨の槍が、総帥の右腕と左足を容赦なく床へと縫い留めた。「がはっ……!!」「鷺原総帥……ッ!」 動けない火野が絶望の声を上げる。 最高戦力である白玖は操られ、他の三人は瀕死の重傷。 もはや万事休す――誰もがそう死を覚悟した、まさにその時だった。『……申し訳ありません。少々、手間取ってしまいました』 突然、研究室に設置されたスピーカーから、聞き慣れた青年の声が響き渡った。 ――技術研究局の菫川主任だ。 直後、壁一面を覆っていた巨大なモニター群が激しく明滅を始め、白玖を縛っていた赤い命令コードが次々とエラーを吐き出して崩壊していく。「なんだ……? 外部からのハッキングだと!?」 ジェネシスが驚愕の声を上げたのと同時に、白狐の氷のような瞳に、確かな理性の光が戻った。 白玖がハッと息を呑み、周囲の惨状を見渡す。 右腕を失い血だまりに伏す火野。四肢を貫かれ倒れる総帥。そして、ジェネシスに首を掴まれ、腹部から絶望的な量の血を流している愛しい少女の姿。 床には、彼が贈ったガラス細工の桜の髪飾りが、無残に砕け散っていた。『こ、これは……ッ!』『白玖様! そちらの惨状はモニター越しに確認しています。ですが、今は創造主を倒すことを最優先でお願いします!』 菫川の悲痛な叫びが、白玖の脳髄を叩き起こした。 次の瞬間、白玖の全身から、これまでとは比べ物にならないほど禍々しく、そして純粋な殺意を帯びた魔力の暴風が吹き荒れた。『お前っ……よくもッ!!』 怒髪天を衝くとはこのことだった。 激昂した白玖の巨体が、一瞬で音を置き去りにした。 ジ
Last Updated: 2026-08-28
Chapter: 53.血に染まるガラスの桜
「緋依……ッ!」 おぞましい骨の触手によって空高く吊るし上げられた緋依の姿に、総帥の悲痛な叫びが研究室に響き渡った。 今すぐにでも助けに向かいたい。だが、総帥の目の前には自我を奪われた白玖の容赦ない猛攻と、異形と化したジェネシスの長大な鉤爪が立ちはだかっていた。 二体の規格外の化け物を相手に、剣の達人である総帥でさえ、ギリギリのところで致命傷を躱すのが精一杯という絶望的な状況だった。(このままでは、ジリ貧だ……っ!) 総帥は歯を食いしばり、大太刀を大きく振りかぶった。 狙うのは――白玖。 総帥は心を鬼にして白狐の巨体の懐へと潜り込むと、その太い前脚を非情にも両断した。 白玖が痛みに身をよじり、体勢を崩す。〝異形〟の細胞を持つ白玖の肉体は瞬時に修復を開始するが、完全に元通りになるまでにはほんのわずかなタイムラグが生じる。 総帥が作り出した、一瞬の隙。 それを逃さず、総帥は標的をジェネシスへと切り替え、床を蹴って肉薄した。 しかし、ジェネシスは発達した両腕を使って信じられないほどの敏捷さで後退し、虚空に無数の黒い穴を開いた。 亜空間から、鋭く研ぎ澄まされた槍のような骨が次々と射出され、総帥を串刺しにしようと襲いかかる。 総帥は神速の太刀捌きで飛来する骨を弾き落としていくが、その動きを制限された隙を突き、ジェネシスの巨大な鉤爪が横薙ぎに振り抜かれた。「ぐっ……!」 間一髪で身を反らして回避したものの、鋭い爪の先端が総帥の胸元を掠めた。分厚い軍服が引き裂かれ、空中に鮮血が散る。 わずかに体勢が崩れたその絶対的な死角から、ひときわ太く鋭い骨が、総帥の無防備な喉笛めがけて突き出された。「……ッ!」 吊るし上げられていた緋依は、その光景に息を呑んだ。 助けなければ。しかし、首元を骨の触手にきつく締め付けられているため、声が出せず魔法の詠唱ができない。視界が涙で滲む中、緋依はただ絶望することしかできなかった。 だがその時、鼓膜を劈くような銃声が室内に轟いた。 ドガァンッ! という炸裂音と共に、総帥の喉を貫く寸前だった極太の骨が粉々に砕け散る。「火野……!」 総帥が視線を向けた先には、右腕を失い血溜まりの中に倒れ伏しながらも、残された左手一本で大型拳銃を構える火野の姿があった。 激痛と失血で顔面は蒼白になり、息も絶え絶えでありながら、
Last Updated: 2026-08-27
Chapter: 52.ジェネシス
 ひときわ重厚な金属の扉。 総帥と白玖が力を合わせてその鋼鉄をこじ開けた先に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な通路とは打って変わった、広大な研究室だった。 壁一面を埋め尽くすほどの無数の巨大なモニターが、血のような赤い光や昏い緑のデータを明滅させている。 空調の低い稼働音だけが響くその空間の中央に、一人の男が立っていた。 伸びきった黒髪を低い位置で無造作に纏め、口元には無精髭をたくわえ、着古してヨレヨレになった白衣を羽織っている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、知性と狂気が入り混じった異様な光を放っていた。 彼こそが、すべての〝異形〟を生み出した元凶であり、白玖の父親――|創造主《ジェネシス》だった。「やぁ。よく来たね。我が息子よ」 親が子を出迎えるような、ひどく穏やかで狂気に満ちた声だった。 白玖は無言のまま、氷のような瞳で男を睨みつける。「兄弟たちや、あまつさえ母さんまでも手にかけたか。実に、実に罪深い。……この私、父さんまで手にかけるつもりかい?」「……黙れっ!!」 白玖の怒りが臨界点を突破し、凄まじい魔力の風が吹き荒れた。 瞬時に巨大な九尾の白狐へと顕現し、殺意を剥き出しにして牙を鳴らす。 緋依、総帥、火野の三人もそれぞれ武器と魔力を構え、臨戦態勢をとった。 しかし、ジェネシスは微塵も怯えることなく、むしろ口元を歪めて嗤った。「くくっ。出来損ないと言えど、貴様も私の細胞を受け継いだ我が息子であることには違いないのだよ。……個体番号127」 ジェネシスが手元のコンソールを操作すると、壁一面のモニターに不気味な文字列が高速で流れ始めた。『――創造主の意志に従い、人類を殲滅せよ』 無機質な電子音声が研究室に響き渡った瞬間だった。 顕現していた白玖の巨体が、ビクンと大きく跳ねた。氷のような瞳から光が失われ、底なしの暗闇のように濁っていく。 次の瞬間、白玖の強靭な顎が、目の前のジェネシスではなく――真横にいた総帥へと猛スピードで襲いかかったのだ。「なに……っ!?」 総帥が咄嗟に大太刀を盾にして白玖の重い一撃をいなすが、その凄まじい衝撃に後方へと弾き飛ばされる。「白玖様!?」 突然の狂行に緋依は悲鳴を上げた。火野も絶望の色を浮かべ、瞬時に銃を構える。 白玖の意志とは無関係に、彼の肉体はジェネシスの命令コードに完全に支配されて
Last Updated: 2026-08-26
Chapter: 51.マザー
 ゆっくりと上昇した防護壁の奥、昏い緑色の非常灯に照らし出されたその姿は、この世のあらゆる悪夢を煮詰めたような冒涜的な存在だった。 上半身は、真っ白な肌をした人間の女性の形を保っていた。床一面を這い回るほど長い白い髪の隙間から覗く顔立ちは、恐ろしいほどに整っている。 しかし、その顔の半分を占めるような氷の色をした大きな瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれ、絶え間なく黒い涙を流し続けていた。 だが、真に悍ましいのはその下だ。 女性の腹部は、極限まで風船を膨らませたかのように異様に張り裂けそうに膨れ上がっており、薄い皮膚の下で複数の〝異形〟の胎児たちが、ボコボコと不気味に蠢いているのが透けて見えた。 そして、腰から下は人間ではなく、赤黒い甲殻に覆われた巨大なムカデのような節足の群れへと変貌していたのだ。「キィィィィィィィィィィッ!!」 それは言葉を紡ぐことはなく、ただ鼓膜を劈くような奇声を上げた。彼女の自我はすでに失われ、膨れ上がった腹の中の〝子供たち〟を守り、近づく者を敵味方構わず排除するという原始的な本能だけで動くマザーと化していた。「うわ……っ」 想像を絶するおぞましさに、白玖が思わず後ずさった。 海への恐怖に加え、極度の虫嫌いである彼にとって、実の母親が巨大な多足の化け物になり果てているという現実は、視覚的にも精神的にも致命的なダメージだった。「臆したか、白玖! それでも貴様は神か!」 鷺原総帥の鋭い一喝が、凍りついた空気を叩き割った。「嫌だよ、あんな気持ち悪いの……!」「泣き言をほざく暇があるなら、さっさと顕現しろ!」 総帥に容赦なく叱咤され、白玖は顔を引き攣らせながらも膨大な魔力を解放し、嫌々ながら九尾の巨大な白狐へと姿を変えた。 その直後、マザーの無数の脚が床を削りながら、凄まじい速度で襲いかかってきた。巨大な外見からは想像もつかないほどの俊敏さだ。『狭いってばっ!』 白玖が狭い通路で巨体を翻して回避しようとした瞬間、その太い尻尾が背後に並んでいた巨大な培養槽に激突してしまった。 ガシャンッ、と分厚いガラスが砕け散り、緑色の液体と共に、まだ未成熟の〝異形〟の幼体たちが大量に床へとこぼれ落ちる。「おい、敵を増やしてどうする!」『うるさいなぁ! わざとじゃないしっ!』 総帥の呆れたような声に反論しながら、白玖は強靭な顎
Last Updated: 2026-08-25
Chapter: 50.世界を壊す男
 冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが
Last Updated: 2026-08-24
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