LOGIN肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは友達でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
翌朝。 メゾン・ド・ルミエールの302号室には、白々と夏の朝日が差し込んでいた。 りとは腫れ上がった重い瞼をこじ開け、のそりとベッドから身を起こした。隣には、昨夜からずっと泊まり込んでくれている綾が、疲れた顔で眠っている。「……会社……行かなきゃ」 フラフラと立ち上がり、クローゼットへ向かおうとしたりと腕を、起きてきた綾がガシッと掴んだ。「ダメ。自宅待機って言われたんでしょ」「でも……私……」 焦点の合わない瞳で虚ろに呟くりとを、綾は無理に励ますことはせず、ただ優しくベッドに座り直させた。「今日はアタシがいる。一人で悪い方向に考えるのは禁止。……スマホも、会社の連絡も、見る時は一緒に見よ」 綾に促され、りとは昨夜から電源を切っていたスマートフォンのことを思い出した。 電源を入れる前に、ふと、綾がサイドテーブルに置いていたタブレットの画面が目に入った。それは偶然開いたままになっていた、メロウルームのサイトだった。 一番上にあるレイのプロフィールページには、昨日まではなかった〝当面の活動休止〟という文字が赤く表示されている。「……レイ、さん……?」 血の気が引いた。自分のせいで、鷲尾がセラピストとしての仕事まで失ってしまったのだ。「どうしよう、私のせいで……っ」「違うでしょ」 青ざめて震えるりとに対し、綾は少しだけ強めの口調で言い放った。「りとのせいじゃない。りとを守るために、そいつが自分で選んだ道なんだよ。……少しは彼氏の覚悟を信じてやりなよ」 綾の力強い言葉に、りとはギュッと胸の奥を掴まれたように、ぽろぽろと涙をこぼした。 同じ頃、株式会社ウィルクエスの第一会議室。 朝一番、鷲尾は自ら葛城部長と監査委員会のメンバーに面談を申し入れていた。「……昨日、君には甘崎さんの件から完全に手を引けと言ったはずだが」 葛城部長が眉根を寄せて渋い顔をする。しかし、鷲尾は決して視線を逸らさなかった。「手は引けません。私が彼女を庇う理由は、直属の部下だからではありません。……甘崎りとは、私にとって大切な人です」 会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。 鷲尾は監査委員会の前で、自分とりとが私的な関係にあることを堂々と認めたのだ。「私情があるからこそ、この場に来ました。保身のために上司面をして彼女を見捨てる方が、よほど不誠実だと判断し
非常階段で依千と静かな誓いを交わした後、鷲尾は誰もいない執務室には戻らず、そのまま人気のないビル裏の路地へと出た。 ネクタイを緩め、スマートフォンを取り出す。そして、数回のコールの後、出張セラピスト〝メロウルーム〟の運営スタッフへと電話を繋いだ。「――レイです。急で本当に申し訳ないが、今日から当面の間、出勤を見合わせたい」 電話口のスタッフが、驚愕の声を上げる。無理もない。レイは今や店で一番予約が取れない人気セラピストであり、今夜も当然のように指名の予約がびっしりと埋まっていた。『急にどうしたんですか!? 体調不良ですか?』「……本業の都合で、これ以上続けるのが難しくなった。すでにご予約いただいているお客様には、店舗の方から順次キャンセルのご連絡をお願いしたい。もちろん、キャンセル料は一切いただかない。ポイントや前払い分はすべて全額返金か、他のセラピストへの振替で丁寧に対応してくれ」 疑似恋愛を提供し、高額な対価を得る仕事だ。雑に予約を飛ばせば、店にも客にも甚大な迷惑がかかることは重々承知している。しかし、今は一分一秒でも早く、自分自身が完全にクリーンな状態にならなければならない。 店側は必死に引き止めてきたが、鷲尾の決意が揺らぐことはなかった。 最終的に〝体調不良および本業の事情による当面の活動休止〟ということで、サイトの新規予約受付を即座に停止させる手はずを整えた。 通話を終え、鷲尾は深く息を吐き出して夜空を見上げた。 このまま事態が大きくなれば、会社の監査は厳しさを増し、いずれ自分が彼女を庇ってウィルクエスという会社そのものを辞めることになるかもしれない。 だが、そんなことはもうどうでもよかった。 キャリアも、地位も、すべてを投げ打ってでも構わない。彼女がいない世界になど、自分にとっては何の価値もないのだから。 その頃、株式会社ヤオノードの社長室。 ティフィンは、最高級の革張りソファに寝転がるようにして寛いでいた。 彼女はここ数日、パパ活で手に入れた大金を惜しげもなく使い、連日のようにレイを長時間予約していた。今夜も彼がホテルにやってくるのを、極上のワインを傾けながら楽しみに待っていたのだ。 しかし、スマートフォンの画面にメロウルームからの通知が光った。『担当セラピストのレイですが、体調不良により本日のご予約をご案内できな
激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッ
土曜日の夜。 職場である都心のオフィス街から電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた閑静なエリアにあるハイクラスホテル。 りとは広々としたスイートルームのふかふかの上質な絨毯の上で、落ち着かない様子でウロウロと歩き回っていた。 女性向け風俗、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟。 予約を完了した日から今日まで、りとは仕事中も上の空になるほど、この日のことばかりを考えていた。下着も奮発して、少し透け感のある黒のレースのランジェリーを身につけている。上には、ホテルに備え付けられていた肌触りの良いバスローブを羽織っていた。(あの写真の人……本当に鷲尾課長なのかな。いや、まさかね。いく
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げ
――そして、運命の週明け、月曜日。 朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。 亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。 視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。 土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。 あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首







