Chapter: 弍-②それからしばらくして、出来上がった料理が居間に運ばれて来た。 「お待たせ〜。今夜は肉じゃがだよ」 伊織が四人分の皿に盛り付けた肉じゃがをちゃぶ台に置くと、途端に牛肉の良い香りが俺の鼻を伝って胃袋を刺激した。美味そうだ。 ふと、肉じゃがに釘付けになっていると、背後から視線を感じた。振り向くと、伊織の後ろにいたもう一人の姿が目に入る。 「……こんばんは」 「こ、こんばんは……」 その視線の主は、小さな女の子だった。ミルクティーのような色のショートカットの髪の毛に、こちらをジッと見つめる黄緑色の眼。 その表情にははっきりとした警戒心が宿っているのが分かって、俺は慌てて背筋を正した。 「凛寧、新しい従業員の成海。仲良くするんだぞ」 「だからまだ働くって決めたわけじゃ……小鳥遊成海です」 頭を下げると、向こうも少しだけ下げてくれた。 彼女が、凛寧……さん? ちゃん? 呼び名はともかく、この家の台所担当をこんな小さな女の子がしているなんて思いもしなかった。見たところ、小学生高学年から中学生くらいだろう。 「……凛寧でいい」 「ど、どうも」 口にしたわけではなかったが、呼び名で悩んでいるのがバレていたようだ。凛寧は店主と伊織の間に座った。 「じゃ、食べようぜ。いただきまーす!」 店主の元気の良い挨拶と共に、各々も口にしてから食べ始めた。 「いただきます」 俺も食材と作ってくれた人への感謝を込めて、しっかりと手を合わせた。 まずは茶碗に盛られた白米を一口。少し芯が残っていて硬いが、風味が良い。明らかに炊飯器では出せない香ばしさ。土鍋で炊いたのだろうか。いつも家だと炊飯器だから、いつか土鍋にもチャレンジしたいところだと思っていた。 味噌汁も一口飲む。具はわかめだけとシンプルな味噌汁だが、その分余計なものに惑わされずしっかりと味を感じることができる。 そして、ついにメインの肉じゃがに手を伸ばす。香りを嗅ぐと、若干の生臭さと青臭さを感じた。おそらく糸こんにゃくとじゃがいもの下処理が甘かったのだろう。だが、このくらい全く問題にはならない。大きく口を開けて、じゃがいもを頬張った。 「……うん、美味い」 形がしっかりとしているが、火は満遍なく通っていて美味しい。おつゆの甘みが個人的にはもう少しあって
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 弐、情けは人の為ならず 信じがたい現実が目の前にある時、一般的に、人はどんな振る舞いをするのだろうか。 俺はというと、使い古されたちゃぶ台に置かれた渋い色の湯呑みを眺めている真っ最中だ。「文福茶釜直伝の茶だぜ。美味いからゆっくり味わえよ〜」 和服の男は俺と向かい合うように自分用の湯呑みもちゃぶ台に置いて、少しよれた紫色の座布団の上にどかりと座った。文福茶釜って、何だっけ。 あの後どうなったかというと、俺は誘われるがままにこの民家へ上げられ、こうして茶を振る舞われている。 いや、俺だってすぐに帰ろうとした。こんな怪しいヤツに関わると碌なことはないって、誰かに指摘されなくたって分かることだ。『でもまだ徘徊してるかもよ、さっきの』 ところがそう言われてしまえば、逃げ出そうとしていた俺の足はぴたりと止まった。「どした、ジュースが良かった?」「……いただきます」 別に飲み物に悩んでいたわけじゃないが、世話になった以上、このまま黙っていても失礼だろう。 俺は慎重に湯気の立つ湯呑みを手に取って、少し息を吹きかけ冷ました後に口をつけた。 ふわり、香ばしい茶葉の香りが鼻をくすぐり、滑らかな舌触りがほんのりと苦みを伴って舌の上を流れて落ちる。かと思えばお茶本来の甘味が、舌に残る苦味を和らげるように広がった。「美味い……」「だろ〜?」 男は満足げに笑うと、湯呑みを口元に運ぶなりごくりと一口飲み込んだ。 熱くないんだろうかと思った矢先、「あちぃっ!」と悲鳴が上がった。もしかして馬鹿なんだろうか。「本当は茶菓子の一つでも出してやりたかったんだけど、生憎切らしてるんだ。今買いに行ってると思うから、食べたきゃもう少し待ってくれ」「いや、別にいらないですけど……」「遠慮するなって!」「遠慮しているわけじゃなくて……。ていうか、そろそろ名前を教えてもらっても良いですか? ウチで働けってさっき言ってましたけど、どういう意味ですか? 俺を襲ってきたあの化け物は一体なんだったんですか? それともう帰って良いですか?」「待て待て待て」 矢継ぎ早に質問すると、男は慌てて手を振りながら湯呑みを置いた。茶は確かに美味いが、こんな怪しいヤツをそう易々と信じるもんか。 男は湯呑を置いて、胡坐を組み直した。「まず自己紹介からしよう。俺はこの『奇縁堂』の店主だ。ちなみに名乗れるような名前はない
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 壱、袖振り合うも他生の縁 仄かに花の香りがした。 それが、店先に咲いた桜の香りだと気付いた時、胸の奥で寂しさにも似た静寂を感じて、深く息を吸った。「さ、店開きしようか」 背後で暖簾をかける音がした。何度も耳にしたその音が、不思議と真新しく聴こえる。 振り返ったその景色は、ほとんど変わりはしないのに。「買い物に行かなきゃ」「俺も行くよ。買わなきゃいけない物ってあったっけ」 見慣れた後ろ姿たちが、暖簾をくぐっていく。もう一度背後を振り返るが、探した姿はもう見えない。 春の温もりを纏った風が頬を撫でた。俺はそっと目を閉じて、店に入ろうと踵を返した。 その時、玄関の前で大人しく座っていた白い犬が鳴いた。 「わん!」 後ろ姿を見送った方角の反対側に体を向けて、ふさふさな尾を千切れんばかりに振っている。 「あ、あのう。ごめんください」 白い着物を着た女性だ。細長い指を胸の前でもじもじと絡ませて、俯きがちにこちらを見ている。 きちっと整えられた着物の裾から覗く青白い足は、地面に触れる寸前で淡く霞み、その輪郭は曖昧だった。 女性は恥ずかしさを滲ませた小さな声で、懸命に言葉を紡いだ。 「ええっと……困り事があったらここへ行きなさいって教えてもらって……」「ああ、なるほど」 脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。 日は移ろい、同じ時は二度と存在しない。その刹那の出会い、それすなわち奇縁——あの人の口癖が、いつの日か自分の口癖になっていくのだろうか。 合縁、奇縁、袖振り合うも他生の縁。 果たして、この縁がいったい何を結ぶのか。「いらっしゃいませ。まずは一服、それから話を伺いましょう。ようこそ、奇縁堂へ」 りん、りん、と鈴が鳴る。軽やかなその音は、まるで来客を歓迎しているかのようだ。 この音を聴く度に思い出す。 二年前の春。桜も散った終わり頃の、今も色褪せない記憶を。とんだ不運と気の迷いから始まったと思っていた、運命という言葉にするにはドラマチックすぎる摩訶不思議な縁を。 あの日も、鈴が鳴っていた。———— 走りながら、考えた。いわゆる『普通』とは一体何なのかを。 階段を駆け降りながら、考えた。こんなにも走らなければならない理由を。「誰か……っ!」 小鳥遊成海は、荒れた呼吸の合間に喘ぐように叫んだ。「助けてくれー!」 道端にいた鴉が三羽、驚いた様子
Last Updated: 2026-07-29