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玖、覆水盆に返らず

Author: Mirai
last update publish date: 2026-08-30 08:53:32

 揺れている。……地震かな。

 そう思ったら目が開いた。

「あっ、起きたみたい」

「ぜえ、はあ……お、起きた……?」

 揺れがおさまった。頬に当たるシャツ生地の布越しに伝わる体温がぬくい。それに反して背中はひんやりと冷たくて、服が濡れているような気持ち悪さを覚えた。

 そして身体を起こそうとして、私はそこでようやく自分が誰かに背負われていることに気が付いた。

「え……えっ⁉︎ 何で、誰⁉︎」

「ぐえっ!」

 咄嗟に目の前の襟を掴んだせいで、私をおぶっている人が潰れたカエルみたいな声を出した。私の足を支えていた手が緩んで、落ちるようにその背中から急いで降りた。

 せ、制服じゃなくて良かった。ジャージで良かった!

「あ、あああの、どちら様ですか?」

 私をおぶっていたのは、黒髪の少し猫っ毛の男子生徒だ。全く見覚えのない外見の彼は、締まった襟元を直しながら答えた。

「げほっ……二年の小鳥遊です。先輩、途中で倒れて……もしかして覚えてない?」

「覚えてないって、何を?」

 小鳥遊くんは何とも言えない微妙な顔をした。あからさまに困っているような様子に、私は一体何を忘れたのか恐ろしくなった。

「
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  • 徒然奇縁堂日和   十三-③

     奇縁堂に到着した頃、既に玄関は夕飯を用意するいい香りに包まれていた。荷物を適当に置いて店主に挨拶を済ませてから、俺は台所へと向かった。 二人の話し声が聞こえていて、俺は何と言うか一瞬迷ったのち、ただいまと声を掛けた。「……お帰りなさい」「あっ、お帰り成海。今日は豚の生姜焼きだよ」 それで正解だったらしく、二人は嬉しそうに笑顔を見せてくれた。 伊織も凛寧も純粋だと思う。素直だとも言えるし、その笑顔の裏に打算がないのが見たら分かる。だから、俺も変に意地を張らずに済んでいた。 とりあえず台所に来てしまったが、料理工程で俺が手伝うことはもうほとんど無さそうで、後はご飯や味噌汁の盛り付けくらいだった。 俺は戸棚から人数分の茶碗と汁椀を取り出す。その隣で、凛寧が受け取ってカウンターに並べてくれた。「……成海、疲れてる?」「えっ?」 俺の顔を見上げていた凛寧が、控えめに言った。 疲れている……だろうか? あまり自覚は無いが、確かに病み上がりだし、疲れていないと言えば嘘になるけど。「……顔色が良くないよ」「そうか?」 凛寧に隠し事をしようとしたって出来ないのは分かっている。心配してくれているのを無碍にするのも心苦しいし、だから、俺は正直に話すことにした。「最近ちょっとな、犬探しを手伝ってるんだ」「へえ、どんな犬なの?」 使い終わった大きな鍋を洗いながら、伊織が俺に尋ねる。「白い柴犬らしいんだ。商店街から土手に続く道の途中にファミレスあるだろ。あの辺なんだけどさ」「うーん、見たことないなあ。川に落ちたりしていないと良いんだけどね」「いや、本当にそうなんだよな……」 コウタと初めて出会ったところから土手まではまだかなり距離がある。けれど万が一というものはいつでもつきもので、迷い犬が川に落ちて死ぬリスクはゼロじゃない。ただ、それを実際にコウタの前で口にするのは憚られて、まだ伝えたことはない。 けれども時々コウタは土手の方を見ることも増えていて、何となく子供ながらに察してはいるのかもしれない。 ……明日、バイトに行く前に川も少しだけ見てみるか。たとえ本当に川に落ちていたとしたら、上から見たくらいじゃ見つかりはしないんだろうけど。「……無理、しないでね。病み上がり、だし」「そうだよ、成海。僕らも手伝おうか?」「……確かに、そうだな。人数

  • 徒然奇縁堂日和   十三-②

     下校時間になるまで、特に変わり映えのない一日だったように思う。 体調はどうだと気遣ってくる先生やクラスメイトも、奇縁堂に行く前に一声掛けろと言う晴己も、最初こそ気恥ずかしさを感じたが、何度も同じことを言ってくるから適当に返事をしてやり過ごした。 帰りのホームルームが終わると、俺は教室に残らず早々に荷物を纏めて下校した。晴己が何かを言いたげだったが、先手を打って「今日は早く寝る」とだけ言うと、それ以上俺を引き留めることはしなかった。 と、ここまでは割といつものこと。よくある病み上がりのエピソードだ。 けれども俺の足は、いつもと違う帰り道を選んで歩いていた。 ギリギリ傘を差すくらいの小雨の中、普段は通らないファミレスの前を通って、公園の近くまで遠回りをする。 傘で狭まった視界の中、小さな黄色のカッパを来た背中が見えた。「コウタ」「……あっ、お兄ちゃん!」 声を掛けたのが俺だと気付いた黄色のカッパが振り返る。黒い大きな丸い目に、俺の姿が映る。「あれ……それ、どうしたの?」 コウタが俺の顔を指差す。その指先が示すものがマスクだということは容易に読み取れた。 俺は鼻下にズレたマスクを直しながら答えた。「ちょっと風邪引いたけど、もう大丈夫だ。お前も気をつけろよ」「……僕のせい?」 ——どうしてそうなるんだ。俺は首を横に振った。雨で濡れた体を温めることもせず放置した自己管理の問題なわけだし。 けれど、コウタは丸い目を伏せて柔らかい唇をきゅっと噛んだ。「僕が、ポチを探すの手伝ってってお願いしたから……」「違う違う。俺が雨の中を歩き回ったのに、ちゃんと身体を温めなかったのが悪いんだ。コウタもちゃんと風呂入って温まるんだぞ」「ちゃんと入ってるよ! 上がる前に一分間数えるんだ。僕もう百まで数えられるよ」「へー、凄いじゃんか。次は目指せ千の位だな」 他愛もない話をしながらも、俺たちの目線はそれぞれ違うところを向いている。 他所の家の塀、植え込みの影、そうやって居なくなった犬の姿を探していく。 ——事の発端は、二週間前に遡る。 雨の降っていた日の夕方。その日は、バイトがない日だった。 俺は夕飯の献立を考えながらスーパーに向かっていて、反対側の歩道へ渡るために信号待ちをしていた。 すると、突然『僕の犬を知りませんか』と通りすがりの子供に声

  • 徒然奇縁堂日和   十三、犬も歩けば棒に当たる

     翌朝、俺はすっきりと目を覚ました。 夢を見ることもないくらいぐっすり眠ったお陰か、しんどかったはずの身体は随分と元気になっていた。 俺を起こしにきたムコは何だか申し訳なさそうにしていて、そこで俺はようやく自分が結局歯磨きをせずに寝入ってしまったことを思い出した。「まあ良いって、一日くらい」「ムーン……」 携帯のスリープモードを解除すると、表示された時間は午前六時半。そして今日は木曜日。 とりあえず、店主に頼んで家に連れて帰ってもらおう。その後シャワーくらい浴びて、学校に行かないといけない。昼飯は今日はもう購買で買って済まそう。「ムコ、店主に声掛けて来てくれないか。一旦家に帰りたいんだけど……」 ムコにそう言いながら、顔を洗いに行こうと戸を開けた。「……えっ?」 すると部屋を出てすぐのところに、見覚えのある西洋人形が置かれていた。 ぞわりと背筋が冷たく震えて、俺は反射的に戸を閉めてしまった。「ムン?」「な、何でこいつが……!」 そろりとゆっくり戸を開けてみても、やっぱり目の前にある物は変わらない。金色の二つ結びのおさげ髪に、開いたままのビー玉のような水色の眼。 メリーさんだ。 昨日、店主が俺を奇縁堂に拉致する時に使っていた都市伝説の人形だ。 何で西洋人形って見た目は綺麗なのに、こうも見ると寒気がするんだろう。日本人形も同じような感想を持つ気がするけども。 でも、足元にいるムコに目を向けてみたけど、人形を警戒しているような様子はなくて。「……もしかして、これ使って帰れってことか?」 自分でも口にして、何言ってんだと呆れてしまった。 俺は恐る恐るメリーさんを手に取った。手触りは本当にただの人形だ。見た目や重さ、つるりとした冷たい温度も、まあ普通。「——私、メリーさん。今、奇縁堂の前に居るの」「えっ」 がらりと景色が変わった。しっとりとした感触に足元を見ると、濡れたアスファルトが目に入る。「私、メリーさん。今、川本商店街の前に居るの」「えっ、えっ」 ちょっと待て、俺いま裸足なんだけど。 俺の困惑を他所に、また景色が変わる。 商店街の前から、塚田通りの煙草屋の前。それからすこやか荘の階段の前へ。 昨日と全く同じ経路を辿って、俺は自分の家に帰って来ていた。 お決まりの文句を口にしていたメリーさんが途端に黙り込むが

  • 徒然奇縁堂日和   十二-③

     この子が眠りにつくのを見届けるのは、これでもう何度目になるのか。 それにしてもこの子、寝付きがいい。 特に私の柔らかボディに触れている時の寝付きの良さはとても良い。極上の毛感触だぞ。感謝しなさいよ。 カラリ、パタン。障子が閉まる音がした。奇縁堂も分かっているようだ。「……来る」 犬の遠吠えがした。それも、先ほどよりも近い距離で。 途端に、成海が呻き声を上げた。安らかに布団から投げ出されていた手がキツく握られている。「良い度胸じゃないか、私の前で」 私は成海の額に鼻をくっ付けた。そして、意識を夢の中へと潜り込ませる……。「奇縁堂、誰も部屋に入れるんじゃあないよ」 ぴしり、家鳴りが一つ。 私の意識は成海の中へと入り込む。これは食事行為ではない。 ふわふわと暗く何もない空間を漂いながら、ほの明るい光に向かって進んで行くと、そこは奇縁堂ではない建物の内部だった。 ここにも何度か来たことがある。成海が昔住んでいた家だ。 成海はダイニングに隣接する奥の部屋で、布団を敷いて眠っていた。その寝顔は今よりも幾分か幼くて、けれどもその表情は安らかとは言い難い。 眉間はキツく皺が寄り、拳を握り締め、小さな呻き声を漏らしている。「……可哀想に。夢の中でまで悪夢を見るだなんて」 だから、そっとその悪夢を取り除いてやる。 部屋の外から犬の鳴き声が聞こえた。奇縁堂の周りで遠吠えをしていたあの犬と同じ声だった。「ふん、小賢しい」 部屋の中にどうにか入れないか探っているような気配がする。だが、時々引っ掻くような音がするだけで破れないようだ。「——去ね。この子は貴様のような悪霊の餌ではない!」 私は部屋の外を徘徊する犬を怒鳴りつけた。犬は驚いたように、きゃいんと子犬のような声を出して、すぐさま走り去って行った。「まったく、何処のどいつだい」 成海もまた厄介な輩に目をつけられたものだ。どう見ても悪霊の類の気配だったし。 私は溜息を吐いて、取り除いた悪夢を丸呑みした。茶葉を入れ過ぎた煎茶のように苦く、濃い。下の奥にいつまでも残るようなエグ味。 こういった味を好む種もいると聞いたことはあるが、私は悪夢は好きではない。でもまあ、たまにはこういうのも口にしないと真の意味で美味いものは味わえない。 そう納得しながら飲み下すと、ふと私を見下ろす二つの赤い光に

  • 徒然奇縁堂日和   十二-②

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  • 徒然奇縁堂日和   十二、知らぬが仏

     その日の夕方、動けるようになった俺は、居間のちゃぶ台の前に座っていた。「なあ、店主」 目の前には湯気を立てるお茶。先日振舞われた時も同じ藍色の湯呑みだったから、もうこれは俺専用なのかもしれない。 でも、今そんなことはどうでも良くて。 ちゃぶ台を挟んだ俺の向かい側で何やら言い合いをしている店主と隠神は、俺の声掛けなど聞こえていないようで一向に会話を止める気配がない。 最初は俺を気遣ってくれていたはずなのに、どうして秒で喧嘩をし始めるんだ、コイツらは。「なあってば」「俺はこの前行ったじゃん。もう連続では行かないからね!」「俺だって普通に仕事だわ。暇なら手伝やがれ!」「なあって。無視とは良い度胸だな」「あ痛った⁉︎」 悲鳴を上げたのは店主だ。ちなみに原因は、俺がその辺にあったウェットティッシュを袋ごと店主の顔目掛けて投げつけたからだ。言うほど痛くもねーだろ。「どういうことか、ちゃんと説明しろよ」 直前まで不貞腐れた顔で睨み合っていた店主と隠神は、揃ってきょとんと目を丸くしている。「説明って、何の?」「俺の叔父を名乗って引っ越しの手続きをしてる件以外に、他に何があると思うんだよ」「ああ、それ」 隠神はわざとらしく納得したように声を上げる。それからしたり顔になったかと思うと、得意げに口を開いた。「この中じゃ俺が適任だろう? 天下の大妖怪にしてみれば人間に化けることくらい朝飯前さ。ちゃんと絶妙に似せたから血縁だって信じてもらえたよ」 そうじゃねぇよ、馬鹿野郎。誰が似てるかどうかの心配をしてると思うんだよ。 熱が下がって引いたはずの頭痛が再発して、俺は思わず頭を抱えた。ツッコまなきゃいけないのに、どうにも会話をするだけで苦痛なようだ。 俺はじっと店主を睨みつける。扇子でひらひらと顔を仰ぎながら、彼は憎たらしいほど良い笑顔を浮かべていた。この状況を面白がっているのがバレバレだ。「いやさあ、お前が熱出して寝込む未来が視えたってコイツが言うからサ。もう一人にしとくの心配だからここに住んでもらおうと思ってな」「俺の意見は?」「お前は嫌って言うじゃん。だからちょーっと強行手段を取らせてもらった」「ふざけんなよ……」 俺はここで働く経緯になったあの時を思い出す。 本当に何なんだよコイツら。俺の今後に関わることなんだから、俺の意見が最重

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