LOGIN御影町に住む高校生・小鳥遊成海は、幼い頃から幽霊や怪異が「視える」体質を持つ。 ある日、正体不明の化け物に追いかけられ、命の危機に陥ったところを、謎めいた和服の男・店主に助けられる。 『奇縁堂』。 そこには個性豊かな面々が暮らしている。 一人暮らしをしながら自立を保ってきた成海は当初距離を置こうとするが、一緒に食事をし、語り合ううちに、じわじわと奇縁堂の日常に溶け込んでいく。 そんな奇妙な日々の後、成海の通う高桜高校で、三年生の女子生徒が北校舎の窓から飛び降りるという事件が起きる。
View More仄かに花の香りがした。
それが、店先に咲いた桜の香りだと気付いた時、胸の奥で寂しさにも似た静寂を感じて、深く息を吸った。 「さ、店開きしようか」 背後で暖簾をかける音がした。何度も耳にしたその音が、不思議と真新しく聴こえる。 振り返ったその景色は、ほとんど変わりはしないのに。 「買い物に行かなきゃ」 「俺も行くよ。買わなきゃいけない物ってあったっけ」 見慣れた後ろ姿たちが、暖簾をくぐっていく。もう一度背後を振り返るが、探した姿はもう見えない。 春の温もりを纏った風が頬を撫でた。俺はそっと目を閉じて、店に入ろうと踵を返した。 その時、玄関の前で大人しく座っていた白い犬が鳴いた。 「わん!」 後ろ姿を見送った方角の反対側に体を向けて、ふさふさな尾を千切れんばかりに振っている。 「あ、あのう。ごめんください」 白い着物を着た女性だ。細長い指を胸の前でもじもじと絡ませて、俯きがちにこちらを見ている。 きちっと整えられた着物の裾から覗く青白い足は、地面に触れる寸前で淡く霞み、その輪郭は曖昧だった。 女性は恥ずかしさを滲ませた小さな声で、懸命に言葉を紡いだ。 「ええっと……困り事があったらここへ行きなさいって教えてもらって……」 「ああ、なるほど」 脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。 日は移ろい、同じ時は二度と存在しない。その刹那の出会い、それすなわち奇縁——あの人の口癖が、いつの日か自分の口癖になっていくのだろうか。 合縁、奇縁、袖振り合うも他生の縁。 果たして、この縁がいったい何を結ぶのか。 「いらっしゃいませ。まずは一服、それから話を伺いましょう。ようこそ、奇縁堂へ」 りん、りん、と鈴が鳴る。軽やかなその音は、まるで来客を歓迎しているかのようだ。 この音を聴く度に思い出す。 二年前の春。桜も散った終わり頃の、今も色褪せない記憶を。とんだ不運と気の迷いから始まったと思っていた、運命という言葉にするにはドラマチックすぎる摩訶不思議な縁を。 あの日も、鈴が鳴っていた。 ———— 走りながら、考えた。いわゆる『普通』とは一体何なのかを。 階段を駆け降りながら、考えた。こんなにも走らなければならない理由を。 「誰か……っ!」 小鳥遊成海は、荒れた呼吸の合間に喘ぐように叫んだ。 「助けてくれー!」 道端にいた鴉が三羽、驚いた様子で激しい羽音を響かせて飛び立った。 何でこんなことになっている。俺はいつものように校門を出たはずだ。 そして火曜日の特売に間に合うように行きつけのスーパーに向かっている最中で、信号待ちをしている時に、『それ』と目が合った。 視線が絡んだ。 たったそれだけで、俺の日常は音を立てて崩れ去ってしまった。最高に狂ってる鬼ごっこの始まりだ。 振り向く余裕は、もうとっくにない。 「クソッタレ……ッ!」 俺はただの人間だ。ちょっと幽霊が見えるってだけの。運動神経だって別に良いわけじゃない! 人気のない、車が通る気配もない横断歩道を駆け抜ける。赤く光る信号機など無視した。そんなものに構っている場合ではない。 追いつかれたらどうなるか、なんて分かりようもないが、追いつかれてはいけないということだけは、背中を這う冷たい感触が物語っていた。 気が付けば、見覚えのない十字路に差し掛かっていた。 「っどこだよここ!」 もう完全に迷子だ。何年もこの町に住んでいるというのに、いったいどこまで逃げ回ってしまったのか見当もつかない。 それでも、止まるわけにはいかない。俺は一瞬迷ったのち、とりあえず左へ足先を向けた。 振り向きざまに、背後に迫る『それ』が僅かに視界に入った。 曲がり角にある民家の外壁からショートカットするように身を乗り出しているのは、赤みを帯びた黒い肌、そして俺に向かって伸ばされる大きく鋭い爪。 バチンッ! 強い静電気のような衝撃が走って、背を押された形になった俺は勢い余って倒れ込んだ。 その拍子、手に握っていた物を放り投げてしまい、少し先の目の前に転がった。 「御守りが——」 それは母から貰った御守りだ。 水色の布地に青い糸で俺の名前が刺繍してある、この世でたった一つしかない大切な形見だ。 それが鋭利なもので裂かれたように、真っ二つになっていて中身が覗いている。 嘆くよりも先に、より一層血の気が引いた。俺は砂利ごと御守りを拾い上げて、もうなりふり構わず逃げ出した。 「やばい、やばい……! マジでやばいヤツじゃねーかよ!」 叫んだつもりが、震えていて情けない声になっていた。 背後で奴の怒鳴ったような大声が聞こえた。すぐにまた追いかけてくるだろう。 走りながら破れた御守りを見た。 今まで何度もこれに助けられてきた。こんな風に化け物に追いかけ回されたのも、二度三度なんてものじゃない。それでも本当に危なくなると、この御守りが跳ね除けて助けてくれていた。 それが、失われた。じわりと涙が滲んだ。 ちくしょう、何よりも大切な物なのに。 叫んだところで誰も来やしない。 ここにはもう、助けてくれる友人すらもいない。 ぜえぜえと耳障りな自分の呼吸の音が、内側から響くようで気持ち悪い。 足が震えた。力が入らない。 「ッ……」 絶望的な状況に足を止めそうになった、その時。 ——りりん、りん。 ふと、どこからか鈴の音が聞こえた。俯きかけた顔を上げると、通りの右手にある古い民家が目に入った。 俺は何故だか『呼ばれている』ような気がして、その場で足を止めた。 すると当然の如く、背後から迫る化け物の足音が大きくなった。 「っしまった……!」 慌てて民家の敷地内に入ろうと足を動かしたが、相手の方が早かった。 紐のような物が俺の首に巻き付いて、あっという間に体が宙に浮いた。 「ッ……ッ……⁉︎」 息が、できない。 指で巻き付いた物を引っ掻くが、それが緩む様子は全くない。浮いた足は、もう地面に届かず虚しくバタつくだけに終わる。 「ぐっ……あ……ッ」 苦しい。 本当に、死ぬ、のか。 こわい。『これ』は、いやだ。 離して、やめて、許して。 「っかあ……さん……」 ここに居るはずのない人影が現れる。 白い手が、俺の首を絞めている。違う、幻覚だ。そんなこと、俺の人生で一度も無かった。 ……こわい、はずなのに。 これは罰なのだろうか。やっぱり、こんな風に殺されなきゃいけないような罪だったんだろうか。 ——俺が生きるということは。 徐々に視界が狭くなる。体の力が抜けて、意識を保っていられない。 ここで終わるんだ、そう思うと、急速に意識が遠のいていった。 ——パチンッ。 光の消えかけた世界に、硬質な音が響いた。 「——ウチの前で、何やってんの?」 途端、首を締め付けていたモノが弾け飛んだ。 「ゲホッ、ゲホッ!」 吊り紐を失った人形のように地面に落ち、俺は肺が破れるかと思うほどの勢いで空気を貪った。 涙で霞む視界の先に、誰かが立っている。 「珍しい鈴の鳴り方をしたから出て来てみれば……なーに人ん家の前で暴れてるわけ?」 朱色。 視界に入ったのは、目に刺さるほど鮮やかな朱色の羽織。 どこか浮世離れした、涼やかな男の声だ。対して、化け物が何か喚いたが酷くしゃがれていて聞き取れなかった。 「うるせーな、近所迷惑だ」 誰かが俺の前に立っている。 俺はそこで、ようやく余裕を持って振り向いた。そして、俺を追いかけていたモノを、目の当たりにした。 「うっ……!」 ひと目見て思うのは、巨大な獣。二足歩行をしているようだが、獣だと思った。 赤みを帯びた黒い肌はところどころ捲れ上がるように変形しており、鋭い爪は小型ナイフのような長さをしている。あんなのに切り裂かれたらたまったものではない。 そして、何よりおぞましく長い髪の毛が、うねうねと風に靡いている。気色悪い。 あんなものが俺の首に巻き付いていたと知って、思わず首の皮膚を掻く。 「そら、さっさと消えろ。営業妨害だ」 しっしっ、と犬でも追い払うかのような仕草をするその手には、白く短い棒が握られている。 それが扇子だと気付いたのは、パッと口元を隠すように開かれたからだ。 化け物はギョロリと暗い目を俺に向けたが、やがて恨めしそうな表情を残して走ってどこかへ消えて行った。 助かった……のか……? 「さて、と」 男が扇子で口元を隠したまま、俺の方を振り向いた。 「……!」 薄紅色の瞳だった。 品定めをするような視線が、いまだに地面に尻餅をついたままの俺を見下ろす。 現代の雰囲気にそぐわない、和服姿の男だ。長い髪を簪でまとめ上げているその風貌は、声を聞かなければ女性と見間違ってもおかしくない。 どこにいても目立つ朱色の羽織の裾に、金色の鳥のような模様が風に揺れている。 彼は扇子をパチンと閉じた。いやにその乾いた音が響いて、思わず肩が跳ねる。 そして、彼は無表情のまま俺にこう告げた。 「お前、このままじゃ死ぬよ」 「……え?」 「首、吊りたくないだろ?」 「く、くび、って……?」 ——なんで、それを。 息が詰まった。何か言い返そうとして、喉から押し潰れた空気が漏れた。 男はそんな俺を見下ろしたまま、にんまりと口角を上げた。 「助けてあげよっか? その代わり、ウチで働きなよ」 「は……?」 「ようこそ、『奇縁堂』へ」 差し出された手は、幸か不幸か。 『奇縁』——この状況を表すのなら、確かにその言葉は適当だろう。 俺にとっての『普通』は、決して高望みするような特別なものじゃないはずだ。 学校に行って、可もなく不可もない成績を収めながらバイトして生活費を稼ぐこと。 毎週木曜日になるとスーパーの卵のセールがあって、今日はその日だ。今何時だ。多分もう間に合わない。 首に残る息苦しさの痕が、酷く熱い。 だから、これが気の迷いだとしても、誰も俺を責める道理などない。 わからないことだらけだが、ただ一つだけ確かな事がある。 ——さらば、俺の『普通』な毎日よ。それからしばらくして、出来上がった料理が居間に運ばれて来た。 「お待たせ〜。今夜は肉じゃがだよ」 伊織が四人分の皿に盛り付けた肉じゃがをちゃぶ台に置くと、途端に牛肉の良い香りが俺の鼻を伝って胃袋を刺激した。美味そうだ。 ふと、肉じゃがに釘付けになっていると、背後から視線を感じた。振り向くと、伊織の後ろにいたもう一人の姿が目に入る。 「……こんばんは」 「こ、こんばんは……」 その視線の主は、小さな女の子だった。ミルクティーのような色のショートカットの髪の毛に、こちらをジッと見つめる黄緑色の眼。 その表情にははっきりとした警戒心が宿っているのが分かって、俺は慌てて背筋を正した。 「凛寧、新しい従業員の成海。仲良くするんだぞ」 「だからまだ働くって決めたわけじゃ……小鳥遊成海です」 頭を下げると、向こうも少しだけ下げてくれた。 彼女が、凛寧……さん? ちゃん? 呼び名はともかく、この家の台所担当をこんな小さな女の子がしているなんて思いもしなかった。見たところ、小学生高学年から中学生くらいだろう。 「……凛寧でいい」 「ど、どうも」 口にしたわけではなかったが、呼び名で悩んでいるのがバレていたようだ。凛寧は店主と伊織の間に座った。 「じゃ、食べようぜ。いただきまーす!」 店主の元気の良い挨拶と共に、各々も口にしてから食べ始めた。 「いただきます」 俺も食材と作ってくれた人への感謝を込めて、しっかりと手を合わせた。 まずは茶碗に盛られた白米を一口。少し芯が残っていて硬いが、風味が良い。明らかに炊飯器では出せない香ばしさ。土鍋で炊いたのだろうか。いつも家だと炊飯器だから、いつか土鍋にもチャレンジしたいところだと思っていた。 味噌汁も一口飲む。具はわかめだけとシンプルな味噌汁だが、その分余計なものに惑わされずしっかりと味を感じることができる。 そして、ついにメインの肉じゃがに手を伸ばす。香りを嗅ぐと、若干の生臭さと青臭さを感じた。おそらく糸こんにゃくとじゃがいもの下処理が甘かったのだろう。だが、このくらい全く問題にはならない。大きく口を開けて、じゃがいもを頬張った。 「……うん、美味い」 形がしっかりとしているが、火は満遍なく通っていて美味しい。おつゆの甘みが個人的にはもう少しあって
信じがたい現実が目の前にある時、一般的に、人はどんな振る舞いをするのだろうか。 俺はというと、使い古されたちゃぶ台に置かれた渋い色の湯呑みを眺めている真っ最中だ。「文福茶釜直伝の茶だぜ。美味いからゆっくり味わえよ〜」 和服の男は俺と向かい合うように自分用の湯呑みもちゃぶ台に置いて、少しよれた紫色の座布団の上にどかりと座った。文福茶釜って、何だっけ。 あの後どうなったかというと、俺は誘われるがままにこの民家へ上げられ、こうして茶を振る舞われている。 いや、俺だってすぐに帰ろうとした。こんな怪しいヤツに関わると碌なことはないって、誰かに指摘されなくたって分かることだ。『でもまだ徘徊してるかもよ、さっきの』 ところがそう言われてしまえば、逃げ出そうとしていた俺の足はぴたりと止まった。「どした、ジュースが良かった?」「……いただきます」 別に飲み物に悩んでいたわけじゃないが、世話になった以上、このまま黙っていても失礼だろう。 俺は慎重に湯気の立つ湯呑みを手に取って、少し息を吹きかけ冷ました後に口をつけた。 ふわり、香ばしい茶葉の香りが鼻をくすぐり、滑らかな舌触りがほんのりと苦みを伴って舌の上を流れて落ちる。かと思えばお茶本来の甘味が、舌に残る苦味を和らげるように広がった。「美味い……」「だろ〜?」 男は満足げに笑うと、湯呑みを口元に運ぶなりごくりと一口飲み込んだ。 熱くないんだろうかと思った矢先、「あちぃっ!」と悲鳴が上がった。もしかして馬鹿なんだろうか。「本当は茶菓子の一つでも出してやりたかったんだけど、生憎切らしてるんだ。今買いに行ってると思うから、食べたきゃもう少し待ってくれ」「いや、別にいらないですけど……」「遠慮するなって!」「遠慮しているわけじゃなくて……。ていうか、そろそろ名前を教えてもらっても良いですか? ウチで働けってさっき言ってましたけど、どういう意味ですか? 俺を襲ってきたあの化け物は一体なんだったんですか? それともう帰って良いですか?」「待て待て待て」 矢継ぎ早に質問すると、男は慌てて手を振りながら湯呑みを置いた。茶は確かに美味いが、こんな怪しいヤツをそう易々と信じるもんか。 男は湯呑を置いて、胡坐を組み直した。「まず自己紹介からしよう。俺はこの『奇縁堂』の店主だ。ちなみに名乗れるような名前はない
仄かに花の香りがした。 それが、店先に咲いた桜の香りだと気付いた時、胸の奥で寂しさにも似た静寂を感じて、深く息を吸った。「さ、店開きしようか」 背後で暖簾をかける音がした。何度も耳にしたその音が、不思議と真新しく聴こえる。 振り返ったその景色は、ほとんど変わりはしないのに。「買い物に行かなきゃ」「俺も行くよ。買わなきゃいけない物ってあったっけ」 見慣れた後ろ姿たちが、暖簾をくぐっていく。もう一度背後を振り返るが、探した姿はもう見えない。 春の温もりを纏った風が頬を撫でた。俺はそっと目を閉じて、店に入ろうと踵を返した。 その時、玄関の前で大人しく座っていた白い犬が鳴いた。 「わん!」 後ろ姿を見送った方角の反対側に体を向けて、ふさふさな尾を千切れんばかりに振っている。 「あ、あのう。ごめんください」 白い着物を着た女性だ。細長い指を胸の前でもじもじと絡ませて、俯きがちにこちらを見ている。 きちっと整えられた着物の裾から覗く青白い足は、地面に触れる寸前で淡く霞み、その輪郭は曖昧だった。 女性は恥ずかしさを滲ませた小さな声で、懸命に言葉を紡いだ。 「ええっと……困り事があったらここへ行きなさいって教えてもらって……」「ああ、なるほど」 脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。 日は移ろい、同じ時は二度と存在しない。その刹那の出会い、それすなわち奇縁——あの人の口癖が、いつの日か自分の口癖になっていくのだろうか。 合縁、奇縁、袖振り合うも他生の縁。 果たして、この縁がいったい何を結ぶのか。「いらっしゃいませ。まずは一服、それから話を伺いましょう。ようこそ、奇縁堂へ」 りん、りん、と鈴が鳴る。軽やかなその音は、まるで来客を歓迎しているかのようだ。 この音を聴く度に思い出す。 二年前の春。桜も散った終わり頃の、今も色褪せない記憶を。とんだ不運と気の迷いから始まったと思っていた、運命という言葉にするにはドラマチックすぎる摩訶不思議な縁を。 あの日も、鈴が鳴っていた。———— 走りながら、考えた。いわゆる『普通』とは一体何なのかを。 階段を駆け降りながら、考えた。こんなにも走らなければならない理由を。「誰か……っ!」 小鳥遊成海は、荒れた呼吸の合間に喘ぐように叫んだ。「助けてくれー!」 道端にいた鴉が三羽、驚いた様子