喫煙所の扉を開けた瞬間、こもった空気が顔を撫でた。外の湿気とは違う、ヤニと微かな芳香剤の混じったにおいが鼻に残る。灰皿は定期的に清掃されているものの、壁の隅には薄茶色のくすみがこびりついていて、それだけがここが“繰り返される場所”であることを物語っていた。
河内は無言でポケットからセブンスターの箱を取り出し、一本だけ咥えた。ライターの火を灯す動作は、ほとんど無意識だった。カチリ、という音とともに青白い炎が立ち上がり、フィルターの先端がゆっくりと赤く染まった。
最初の一吸いで、喉がわずかに詰まる。深く吸い込むつもりがなかったわけではない。だが、肺の奥まで届く前に、煙は違和感のように逆流し、軽く咳きそうになった。それを押し殺すように、もう一度浅く煙を吸い直す。
目の前には、誰もいなかった。
この時間帯、喫煙所は空いている。会議が終わってすぐ、資料をデスクに置くよりも先にここに来た。急いでいたわけではない。むしろ、何かから逃げるような足取りだった。だがそれを自覚すると、余計に息が詰まりそうになった。
「…組む、って、なにを組むんやろな」
ぽつりと呟いた声は、煙に溶けるようにして天井へと流れていった。返事はない。それが分かっていて口にした。
仕事上のペアを組む、というのは日常だ。誰と誰が噛み合うか、どこに無理が出るか、営業と制作、あるいは上司と部下、その組み合わせに意味を見出すことなど、本来なら不要だった。数字と結果が全て。性格の相性や感情の動きは、置き去りにして構わない世界だったはずだ。
だが今、自分がその選択をしたことが、妙に皮膚の裏側をざらつかせていた。
小阪を選んだ。それは事実だった。言葉にしてしまえば、ただの選定理由にすぎない。が、あの瞬間、喉の奥に詰まっていたものは、単なる業務上の都合とは、少し違っていた。
…なんで、俺は、あいつを選んだんやろな
目を閉じると、別の顔が浮かんだ。過去の恋人。学生時代の、あの町で出会った、あいつ。風呂上がりの濡れた髪を掻きながら、笑いながら、言った言葉。
「組もうな。俺と、おまえ」
夜の駐車場だ
行為が終わると、部屋の中の空気は一気に冷えていく。どちらが先に動くでもなく、しばらくは汗ばんだシーツの上に身体を投げ出し、天井を仰いでいた。小阪はやがて、ごく小さな動作でベッドの端に腰を下ろし、何も言わずタオルと着替えを手にとる。その後ろ姿は、まるで余計な空気すら纏いたくないとでも言いたげな静けさだった。バスルームのドアが閉まると、すぐにシャワーの音が響きはじめる。真夜中のホテル特有の薄い壁越しに、その水音だけがくっきりと部屋に届く。パラパラと床に落ちる水の連続音。時折、湯を手のひらで受ける音が混じる。それが妙に生活じみていて、なぜか現実感を引き寄せる。河内は裸のまま、枕元に座りなおした。汗の滲んだ身体が急に冷え、ひとつ大きく息を吐く。乱れたシーツを指先でつまむと、湿った布がぐしゃりと音を立てた。何かを言おうとしたわけではない。ただ、その空白の時間に耐えきれず、ベッドサイドの小さな灰皿を手に取る。パッケージから煙草を一本抜き、フィルターを唇に挟む。ライターを手にして親指で火花を起こそうとするが、指先が思ったように動かない。カチリ、という音が二度、三度と虚しく響く。火がつかない。焦れたように、河内は何度も指を弾いた。静寂の中、その音だけが妙に大きく感じられる。シャワーの水音は絶え間なく続く。やがて、その向こうから微かな鼻をすする音が混じった。泣いているのか、ただ鼻をすすっただけなのか、判別はつかない。河内は何度か耳を澄ませたが、確信には至らなかった。だが、その水音の合間にかすかに聞こえたその音が、胸の奥に重く残った。鏡がベッドの脇に設置されていた。角度を変えれば、扉越しにバスルームの明かりが微かに映り込む。河内は無意識にその鏡を見つめる。視線の奥、すりガラス越しにぼんやりと揺れる小阪の影が映っていた。肩から背中へ、タオルが何度も滑る。小阪の腕が頭上に伸び、髪を無造作に拭うたび、骨ばった肩甲骨が浮かび上がった。バスルームの明かりが、一瞬だけドアの隙間から漏れた。小阪はそのまま、タオルで濡れた髪を覆いながら部屋に戻ってくる。無言。視線は落ちたまま、鏡を意識することもなく、自分の鞄の方へ歩く。その横顔に、何か感情の痕跡が残っているかどうか、河内にはわからなかった。目尻のあた
ベッドの上は、余計なものが何もなかった。白いシーツが褪せて波打ち、壁際のスタンドが淡い影を落とすだけ。空調の低い唸りと、ふたりの微かな呼吸音だけが、この空間を満たしていた。河内は、小阪の右側に体を沈め、そっとその細い肩に手を添えた。小阪は顔を横に向けていた。目は閉じているが、まつ毛の影が頬に落ち、薄暗い部屋の中でも、その輪郭だけは際立って見えた。肌は冷たかったが、じきに河内の手の熱が伝わる。首筋には、まだ微かに雨の匂いが残っている。唇が、首筋をなぞる。小阪の体がほんのわずかに反応する。だが、それは快感の表れか、単なる生理的な反射か、河内には判別がつかなかった。左手を滑らせ、Tシャツの裾を持ち上げる。小阪は抵抗もせず、ただ腕を緩めて河内に身を預ける。無音のまま、行為が始まる。河内は、できるだけ丁寧に、だがどこか執拗な手つきで小阪の身体を愛撫した。指先で鎖骨をなぞり、唇を胸骨の真上に落とす。そのたびに、小阪の呼吸が少しだけ速くなった。それだけが、唯一の反応だった。…お前、ほんまに、なんにも思ってへんのか心の奥で、声にならない問いが渦を巻く。肉体は確かに反応している。けれど、どこまでいっても、感情が伝わってこない。目を合わせようと顔を近づけても、小阪は決して視線を返さない。河内がどれだけ身体を求めても、小阪は何も求めず、ただされるがまま、その役割だけを果たしている。下着を脱がせ、脚を絡める。手のひらで太腿の内側を撫でると、小阪の指先がシーツをつかんだ。無意識に力が入る。シーツの上に、うっすらと爪の跡が残る。腕が痙攣したように震え、肩甲骨が浮かび上がる。河内はその動きに一瞬だけ欲情し、同時に苛立ちを覚えた。…ほんまに、何も思ってへんのか。せやのに、こんなに感じてる癖に河内は、わざと視線を逸らさずに小阪の顔を見つめる。だが小阪の瞳は閉じられ、表情には何も浮かばない。汗がこめかみを伝い、頬に一筋の光が生まれる。それが涙かどうか、河内にはわからなかった。見分けようと指で拭っても、小阪は何も言わなかった。唇で耳たぶを軽く噛み、背中を舐める。小阪は声を出さない。喉の奥で、時折息が詰まるような音
ホテルのロビーは夜の湿気を吸い込み、どこか埃っぽい匂いが漂っていた。フロントの奥では機械的なやりとりが続いているが、ふたりの間には、誰も介入しない静かな空気が流れていた。河内は待ち合わせ時刻の五分前に到着し、エレベーター脇の壁にもたれていた。スマートフォンを弄るでもなく、ただ無為に壁紙の質感を指でなぞっていた。ほどなくして、小阪がやって来た。黒いフードのついたパーカーの裾から、濡れた髪が覗いていた。首筋にはまだ雨の香りが残っていて、まるで外の気配をまとったまま室内に入り込んだような、そんな印象だった。小阪は何も言わない。河内も頷くだけで、互いに視線を交わすことすらしなかった。ふたりはエレベーターに乗り込む。密閉された小さな箱の中、照明がぼんやりと顔を照らしている。背中合わせのような距離感で、ただ沈黙のまま階を上がる。小阪が髪をタオルで押さえる仕草をするたび、濡れた毛先から水滴がパーカーの肩に染みこんでいった。ドアが開く。河内が先に降り、無言で足早に部屋の前に立った。キーを差し込んで解錠し、部屋のドアを開ける。手首を引くこともなく、小阪が後ろから入ってくるのを待つ。その一連の流れは、もう何度も繰り返された儀式のように無駄がなかった。部屋の照明は薄暗い。カーテンがきっちりと閉じられ、外の雨音も、街の喧騒も遮断されている。壁際にはセミダブルのベッド、簡素な机と椅子、ユニットバスの曇りガラスが淡く反射している。空気清浄機の低い唸りだけが、空間に残る音だった。バッグをソファの上に置くと、小阪は淡々とパーカーを脱ぎ、ハンガーにかける。その下には薄手のグレイのTシャツ。首もとから覗く鎖骨の下、白い肌に雨の冷たさがまだ残っているように見えた。河内はそんな様子をちらりと横目で見ながら、自分もスーツの上着を脱ぐ。「…先、浴びてええで」ほんの短い言葉だけが、空間を横切る。河内が言った。小阪は頷きもせず、わずかに眉を動かしただけで、バスルームへ向かった。ドアが閉じる音が、乾いた。河内はベッドサイドの小さなテーブルに腰かけ、手持ちのバッグから取り出した箱を確認する。避妊具と潤滑剤。どちらも、淡々とした準備の一部。中身を確認し、再びバッグの奥にしま
午前の打ち合わせが終わり、社内は一瞬だけ安堵のような空気に包まれていた。昼休憩前の、わずかな静けさ。キーボードを打つ音も途切れ、電話のベルも鳴らず、書類の束が机に置かれる音だけが、時折耳に入る。そんな時間帯だった。第三クリエイティブチームの島では、河内と小阪がそれぞれのデスクに戻っていた。隣り合っているわけではないが、間には共有の棚があり、視線を上げれば、ちょうど互いの横顔が見える距離だった。河内はノートパソコンに視線を落としたまま、右手でマウスを動かしていた。進行表を確認して、昼以降のスケジュールを見直しているふりをしていた。実際、内容はすでに頭に入っていた。だがそれでも、もう一度見直してしまうのは、意識がどこか他所に引っかかっている証拠だった。小阪は、ディスプレイの奥に沈むようにして椅子に深く腰掛けていた。姿勢はほとんど変わらず、指先がマウスを滑らせる動きだけが生きていた。顔は半分、画面の光に照らされていたが、まばたきのタイミングすら正確すぎて、まるで機械のようだった。そのときだった。ふたりの島の横を通りかかった葉山が、ふと立ち止まった。手にはiPadと書類が挟まれたバインダー。オフィスカジュアルな服装の中に、いつも通りの淡い香水がわずかに香る。「なんや、あんたら。雰囲気、ええやん」軽く言ったその声に、河内は顔を上げた。タイミングを計っていたかのように、笑みが浮かぶ。「いやあ、俺が無理言うて組ませてもろたんで。これから、こいつと組むんですわ」冗談めかしたその口調の裏に、ほんのわずかなためらいが混じっていた。笑っている顔の奥で、喉の奥に詰まった何かを押し下げるような感覚。口調は軽い。関西弁もいつものトーン。だが、笑いの形がほんの少しだけ崩れていた。葉山は「ふうん」とだけ返し、にやりと笑って去っていった。あっさりとした足取り。だが、その背中が見えなくなったあとも、場には小さなざわめきのようなものが残った。河内はすぐに視線を戻したが、その瞬間、小阪の方に目が向いてしまった。意識していたわけではない。だが、自然と視線が滑る先には、やはりあの男がいた。小阪は、何も言わなかった。顔を動かすでもな
Cルームと呼ばれるサブ会議室は、普段は空調の調整すら放置されているような場所だった。壁のクロスはところどころ色が褪せており、長机も天板に小さな傷が無数に走っている。午前十時過ぎ、会議室の中にはふたりだけ。河内と小阪。その配置は、先日の会議で正式に決まったプロジェクトの“核”となるはずの組み合わせだった。静かだった。パソコンの起動音も、コピー用紙が擦れる音も、とっくに収まっていた。机の中央に広げられた資料に、小阪の視線が落ちている。まばたきの間隔も一定で、姿勢を崩す様子はない。ただ椅子に腰かけ、指先でペンを転がしているだけだった。河内は、その向かい側に座っていた。背筋をやや伸ばした姿勢で、モニターを見つめては資料を確認し、視線を小阪へ滑らせる。その一連の流れは、どこか演技めいていた。あえて“業務の体裁”を守るための所作。だが、何かを探るような意識が、仕草の端々に滲んでいた。「小阪くん」呼びかけに、小阪は反応した。けれども顔を上げることはせず、ペンを持ったまま指を止めた。「このアイキャッチの扱いなんやけど、あんたやったら、どういうふうに考える?」“主語”をつけた。それが意識的なものだったことに、河内自身も気づいていた。小阪という人間を、単なる“デザイナー”としてではなく、あくまで“一対一の相手”として認識しようとした言葉。ビジネスの文脈にひそやかに混ぜ込んだ個の輪郭。小阪は、しばらく何も言わなかった。机上の資料に、視線を固定したまま。わずかに指先が動き、ペン先を紙の縁に当てた。カリ、と音がする。まるで、沈黙に傷をつけるような音だった。それから、ほんの少しだけ、まぶたが下がった。まばたきではなく、意識的な遮断のような、思考に沈む前の一瞬の目の動きだった。「……たぶん、こうです」その言葉が、紙の上に降りてきた。小さく、だが確かにそこに落ちた。声の調子は変わらない。無感情でも、投げやりでもない。ただ、必要最低限の語彙と、ぎりぎりの呼吸で構成された返答。
喫煙所の扉を開けた瞬間、こもった空気が顔を撫でた。外の湿気とは違う、ヤニと微かな芳香剤の混じったにおいが鼻に残る。灰皿は定期的に清掃されているものの、壁の隅には薄茶色のくすみがこびりついていて、それだけがここが“繰り返される場所”であることを物語っていた。河内は無言でポケットからセブンスターの箱を取り出し、一本だけ咥えた。ライターの火を灯す動作は、ほとんど無意識だった。カチリ、という音とともに青白い炎が立ち上がり、フィルターの先端がゆっくりと赤く染まった。最初の一吸いで、喉がわずかに詰まる。深く吸い込むつもりがなかったわけではない。だが、肺の奥まで届く前に、煙は違和感のように逆流し、軽く咳きそうになった。それを押し殺すように、もう一度浅く煙を吸い直す。目の前には、誰もいなかった。この時間帯、喫煙所は空いている。会議が終わってすぐ、資料をデスクに置くよりも先にここに来た。急いでいたわけではない。むしろ、何かから逃げるような足取りだった。だがそれを自覚すると、余計に息が詰まりそうになった。「…組む、って、なにを組むんやろな」ぽつりと呟いた声は、煙に溶けるようにして天井へと流れていった。返事はない。それが分かっていて口にした。仕事上のペアを組む、というのは日常だ。誰と誰が噛み合うか、どこに無理が出るか、営業と制作、あるいは上司と部下、その組み合わせに意味を見出すことなど、本来なら不要だった。数字と結果が全て。性格の相性や感情の動きは、置き去りにして構わない世界だったはずだ。だが今、自分がその選択をしたことが、妙に皮膚の裏側をざらつかせていた。小阪を選んだ。それは事実だった。言葉にしてしまえば、ただの選定理由にすぎない。が、あの瞬間、喉の奥に詰まっていたものは、単なる業務上の都合とは、少し違っていた。…なんで、俺は、あいつを選んだんやろな目を閉じると、別の顔が浮かんだ。過去の恋人。学生時代の、あの町で出会った、あいつ。風呂上がりの濡れた髪を掻きながら、笑いながら、言った言葉。「組もうな。俺と、おまえ」夜の駐車場だ