これまでずっと思い出すことのなかった記憶が、断片的に蘇り、弥生の心に波紋を広げた。あの日、瑛介は足を滑らせて川に落ちた。彼は幼い頃に溺れた経験があって、それ以来ずっと水に対して恐怖心を抱いており、泳ぎも習っていなかった。弥生と瑛介はクラスが違ったため、外出のときは大抵、弥生は自分のクラスの友達と一緒に行動していた。あの時も、隣の机の友達が「川辺で散歩に行こう」と提案してきた。二人でいざ出発したが、途中でその友達が「忘れ物をしたから、先に川辺で待ってて」と言い、弥生は一人で川辺に向かった。春先の川辺にはまだ冷気が残っており、吹きつける風に思わず肩をすくめた弥生は、「やっぱり帰って友達に、今日は寒いからやめようって言おうかな」と迷っていた。こんな寒い中で水遊びなんて、風邪をひくかもしれない。そう思いながら引き返そうとしたその時、突然「助けて!」という叫び声が聞こえた。声のする方を見ると、そこには奈々がいて、必死に叫んでいた。「誰かいませんか!助けて!川に落ちた人がいます!」誰が落ちたの?誰かが川に落ちたと気づいた弥生は、反射的に足元の靴を脱ぎ、走りながらあたりを見た。そして、川に浮かんでいるのが瑛介だと気づいた瞬間、魂が抜けるほどの恐怖に襲われた。どうして彼が川に?彼は水が怖いんじゃなかったの?そんな考えは瞬時に吹き飛び、弥生はすぐさま上着を脱ぎ捨てて薄手のインナー姿になり、なおも叫び続ける奈々の横を駆け抜けると、そのまま迷いなく川へ飛び込んだ。川の水は氷のように冷たく、飛び込んだ瞬間、体が一気に凍りつくような感覚に襲われた。それでも、瑛介を助けなければという一心で、必死に水をかき分けて進んだ。しかし、川の流れは激しく、ようやくの思いで彼のもとにたどり着いた。その時の瑛介はすでに水を呑んで気を失っていた。だが、それがかえって良かった。なぜなら溺れている人が意識を保っていると、助けようとする者にしがみついてしまい、かえって命を危険にさらすことがあるからだ。弥生は必死に彼を岸へと引っ張った。冷たい川の水の中で、手足の感覚はどんどん鈍くなっていった。ようやく瑛介を岸辺に押し上げると、奈々が駆け寄ってきて彼を引き上げた。しかし、奈々は瑛介のことだけを気にしており、弥生のことにはまったく目もく
自殺すれば瑛介の同情を引けると思っていたのに、全く効果がないとは思いもしなかった。奈々は苛立ちながら母親を見つめた。「ママ、絶対うまくいくって言ってたじゃない。なのに、今は瑛介が電話にも出てくれない。彼、私のこと本当に見限ったんじゃないの?もう二度と会ってくれないんじゃ......」母親は唇を噛みしめた。「まさか、瑛介がここまで手強い相手だったとは......」「全部ママのせいよ!」奈々は悔しそうに泣き出した。「ママが彼に薬を盛れなんて言うから、私たちの関係がこんなふうになったのよ。あんなことしなければ、私はまだ彼のそばにいられたかもしれないのに......」彼女の泣きじゃくる姿に、母親は苛立ちを募らせ、ついには目を細めて彼女を責め始めた。「そもそも、あんたが無能すぎるのが悪いんでしょ?だから私があんな手段を考えなきゃならなかったのよ。せっかく手に入れた男を自分のせいで逃がすなんて、自業自得じゃない。そんな甘ったれた態度で、よく彼のそばにいようなんて思えるわね!」母親の罵倒に、奈々は昨夜知らない男との出来事思い出し、心の底から嫌悪感がこみ上げてきた。自分自身の無力さも、余計な口出しをした母親のことも、すべてが憎らしくなった。彼女の爪は、拳を握りしめるたびに、皮膚に食い込んでいた。一方で、弥生の家では。寝る前に、ひなのがふと弥生に尋ねた。「ママ、今夜もおじさん、うちに泊まりに来るの?」弥生はその問いに、表情を崩しかけたが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。「今日は来ないわ」その答えを聞いて、ひなのはほんの少しだけがっかりしたような顔を見せた。「そうなんだ......」「どうして?来てほしかったの?」そう聞くと、ひなのはにっこりと笑って、嬉しそうにうなずいた。「うん!だって、おじさんは、ひなのとお兄ちゃんのパパになるんでしょ?そしたら、悪い人を追い払ってくれるよね!」子どもの心はいつでも素直で、思っていることをそのまま口にする。「それにね、おじさんはママにもとっても優しいし、ママだって誰かに守ってもらわなきゃ!」それを聞いて、弥生は思わず微笑み、ひなのの頭を優しく撫でた。「ママは大丈夫。ひなのと陽平をちゃんと守っていければ、それでいいの。さあ、もう寝ましょうね」「じゃあ、ママ
ただ弥生の名前を聞いただけであんなに興奮したのだから、もし彼女が「実は子どもを二人産んでいた」と言ったら、母さんはどれだけ騒ぐかは分からない。とはいえ、その事実を瑛介はまだ伝えるつもりはなかった。なにしろ......弥生はまだ、彼を受け入れていない。彼女はいまだに、「瑛介が子どもを奪いに来るのではないか」と恐れている節がある。母のあの性格なら、子どもの存在を知ったら大喜びするに違いない。だが、もし彼女が子どもの存在を知り、それを見に行こうとした時に、間違いなく、母親を止めることはできない。母さんの過剰な好意は、きっと弥生を怯えさせてしまう。だからこそ、この件は、しばらく伏せておくつもりだった。だが、先ほどの「興奮して眠れないかもしれない」という瑛介の一言に、瑛介の母は気づいたようだった。「何か良いことでも?まさか、あの子と復縁したの?」まだ説明する間もなく、母は勝手に結論へと飛躍していった。「そうなのね?君たちが復縁したから、奈々が焦って、汚い手を使って君を縛ろうとしたのよね?当たってるでしょ?」瑛介の顔に、複雑な表情が浮かんだ。まさか母の推察力がここまで鋭いとは。まったく予想外だった。正確には、まだ弥生とは復縁していない。「......違うよ」瑛介は肩をすくめながら否定した。「違う?じゃあ、奈々が急に仕掛けてきた理由は?あの子、5年間もおとなしくそばにいたのに、最近になって急に変になったでしょ。何かきっかけがあったとしか思えないわ」「......あえて言うなら、復縁しようとしたけど断られたという感じかな」瑛介の母はしばし沈黙し、やがて冷たく言った。「......まあ、君が過去にやらかしたこと考えたら、振られて当然ね」心の中を見透かされたようで、瑛介は苦笑を漏らした。「うん、確かに......自業自得だ」それを素直に認めるしかなかった。「自業自得と言ってもしょうがないでしょ。大事なのはこれからどう償っていくか。ちゃんと誠意見せなさいよ。弥生と離婚したのも、どうせ君がろくに後始末もしなかったせいでしょ?」瑛介は何も言わず、唇を噛みしめた。もしこの言葉を、弥生と再会する前に聞いていたら、きっと全力で否定していたはずだ。離婚は、ただの契約結婚だったから。彼女の心には他の男がいた
以前、瑛介の母がどうしてか奈々に好感が持てないと感じたとき、彼女は自分の心が狭いのではないかと自責していた。だが今にして思えば、すべてにはちゃんとした理由があったのだ。そんな中、いつもは穏やかな瑛介の父が口を開いた。「実は、君があの娘に恩義を感じる必要はないんだ。あの子が命を救ってくれたのは事実だが、それからこの数年、うちの宮崎家が陰でどれだけ江口家の面倒を見てきたか。宮崎家の支えがなければ、江口家なんてとっくに倒産して、世間から消えていたはずだ」「そうよ。前に奈々の父親が引き受けた案件だって、会社が倒産しかけたところを、君のお父さんが助けたじゃない? 江口家も我々の権力を利用してきたわ。もちろん、命と引き換えになるような話じゃないけど......宮崎家が江口家にしてあげたことって、もう十分以上なのよ。今さら利益を少し分けて縁を切ることぐらい、全然おかしなことじゃないわ」瑛介の母の言葉に、瑛介の父も軽く頷いた。二人にとって、何より大切なのは息子の意思なのだ。そう言いながらも、瑛介の母はふと思い出したように顔に陰りを浮かべた。「もし今回の件がなかったら......奈々も悪い子じゃなかった。命の恩人でもあるし、君と上手くいくなら、それはそれで悪くなかったと思う。でも、もうダメね。この件が片付いたら、君自身のことを考えて、ちゃんと前を向きなさい。昔の人のことなんて、もう忘れなさい」この話題になると、瑛介の母の口調はどこか慎重になる。彼女はかつて、弥生をとても気に入っていた。しかし、二人が離婚したと知ったとき、彼女はただ静かにため息をついた。縁というのは、短命なものもあるのだ。だが弥生が去ってからの瑛介は、目に見えて元気がなくなり、まるで枯れかけた植物のように生気を失っていた。そのうち胃を壊し、入院までしてしまった。そんな息子の姿を見ていた母としては、なんとか立ち直ってほしいと願わずにはいられなかった。そのとき、奈々が誠意を見せてくれたため、瑛介の母はわずかな希望を彼女に託したのだった。でも、やはり奈々ではダメだった。そんなとき、瑛介が不意に顔を上げて母を見た。「自分でちゃんと決めるから」その言葉に、瑛介の母は思わずため息を漏らした。「ちゃんと決めるって......まさか、まだ弥生のことを考えてるんじゃ
瑛介の両親が自分のために呼び戻されたと聞いて、奈々の心中には不安が広がっていた。もしかして......今朝の時点で、瑛介はもう昨夜のことを知っていたのかもしれない。考えてみれば、きっとそうだろう。ただ、彼は今になっても会いに来てくれず、電話にも一度も出てくれない。両親をいきなり呼び戻したというのは、その理由が自分のためとは思えない。むしろ、昨夜の件を片付けるためではないか......その可能性に思い至ると、奈々はさらに不安に駆られ、瑛介の母の腕にすがりついては、ひたすら涙ながらに自分の無実と誠意を訴え続けた。瑛介の母は、病室で奈々を慰めた後、その場を後にした。病院を出て車に乗り込むと、瑛介の父がすぐに眉をひそめて口を開いた。「どうして、ここまで話がこじれてるんだ?」瑛介の母は病室で見せていた憂いを引っ込め、すっと表情を引き締めた。「どうも様子がおかしいのよ。あれだけの騒ぎがあったんだから、たとえ息子が奈々のことを好いてなかったとしても、病室に顔くらい見せるでしょう? でもさっき、病室にはあの子の姿はなかったわ」その言葉に、瑛介の父も目を細めた。「つまり、この騒動のために我々を呼んだわけではないということか」瑛介の母は意味深な笑みを浮かべた。「直接聞いてみましょう。彼が何を考えているのか」夜、瑛介の両親がソファに腰を下ろすと、その前には片手をポケットに突っ込んだ瑛介が立っていた。彼の表情は冷たく、唇がきつく結ばれ、まるで氷のような雰囲気を纏っていた。重たい沈黙の中、瑛介ははっきりと言った。「明日、奈々との関係を完全に断つことをする。どう?」その瞬間、客間の空気が一変した。しかし、両親の顔には驚きというよりも、むしろ既に予想していたかのような、どこか冷静な表情が浮かんでいた。しばらく無言の時間が流れた後、口を開いたのは瑛介の父だった。「関係を断つなら、君は世間からの非難を受ける覚悟はあるということだな?」瑛介は唇をわずかに引き上げ、どこか皮肉を含んだ笑みを浮かべた。息子のこの表情を見て、瑛介の母はすぐに悟った。この子はもう、覚悟を決めている。彼は昔から、一度決めたことは誰に何を言われようとも変えない。だからこそ、彼を止めるのは無意味だと、母として分かっていた。瑛介の母はため息
奈々の母の威圧の前に、奈々の父は何も言えなくなり、肩を落として病室を出ていった。彼が出て行ったあと、奈々は伏し目がちに小さな声で尋ねた。「ママ......私、本当にパパの言うとおりにして、もう瑛介を諦めた方がいいのかな?」「パパの言うことなんて聞かないで。あの人は男心ってものがまるで分かってないのよ。奈々、瑛介を手に入れることが、どれだけ大きなチャンスか分かってる?彼を救ったのはこの世であなただけなのよ。彼にとって、あなたは永遠に特別な存在なのよ」「......でも、彼は私の言うことを聞いてくれるかな......」奈々の母は冷笑した。「聞くわよ。そうしないと、恩知らずの男ってことになる」奈々は唇を噛みしめた。「ママの言うとおりにすれば間違いないわ。こんなチャンス二度とない。瑛介が来たら死ぬと脅してでも、結婚を約束させなさい。たとえあとで彼が怒ったとしても、夫婦になってしまえば、機嫌なんて取ればどうとでもなるわよ。男なんてそんなものよ。体さえ把握すれば、あの時のことなんて忘れるに決まってる」母の言葉に、奈々の表情に明るさが戻り、すでに瑛介との未来を夢見るような顔をしていた。だが、どれだけ奈々の母が連絡を取ろうとしても、瑛介には一切繋がらなかった。母娘は病室の中でしだいに沈んだ空気に包まれていく。夜も更けた頃、外で見張っていた奈々の父が突然ドアを開けて入ってきた。「瑛介の両親がきた」奈々の母は目を細めた。「瑛介の両親?今は海外に住んでいるじゃなかった?」「うん、今日戻ってきたばかりらしい。奈々が倒れたって聞いて、空港から真っすぐここへ来たって」この話を聞いた奈々の母の中に、ふたたび希望の光が灯った。「じゃあ、早くお通しして」まもなく、瑛介の両親は病室に招き入れられた。瑛介の母の姿を見るや、奈々は泣きながら飛びついた。「こんにちは!」突然抱きつかれた瑛介の母は少し戸惑い、身体をこわばらせた。宙に浮かせた手をしばらく迷った末、ようやく奈々の頭を軽く撫でた。「......いい子ね。辛い思いをしたのね」言葉には優しさを込めたが、どこか表情に迷いがあった。奈々が息子を救ってくれた恩人であることは理解している。それでも、なぜかこの娘にはあまり好感を持てないのだ。別に嫌いというわけ