瑛介の問いに、奈々は完全に言葉を失い、その場で呆然と立ち尽くした。しばらくしてようやく我に返った。まさか、瑛介はもう自分が彼を騙していたことに気づいたのか?いや、そんなはずはない。あの時、瑛介は助けられた直後に気を失っていたし、弥生も記憶を失っていた。二人とも、真実を知るはずがない。それに、もし本当に弥生が記憶を取り戻していたなら、とっくに自分を問い詰めていたはずだ。今まで黙っていたなんて考えにくい。だから、きっとこれは自分がさっき見た夢の影響で、過敏になっているだけかと思った。そう思い直した奈々は、これを逆手に取って、自分を悲劇のヒロインとして演出しようと考えた。今こそ、自分が哀れで一途な姿を見せれば、瑛介の心を揺さぶるチャンスだ。最悪の場合は、自分の命を使って脅すしかない。どうせここは病院なのだから、何かあってもすぐに医者が駆けつけてくれるだろうから命に支障はない。そう腹を括った奈々は、すぐさま涙ぐんだ演技を始めた。「......あの時、本当に力なんて残ってなかった。でも、それでもあなたを助けたいって気持ちが強くて......一緒にあのまま川で死ぬのは嫌だった。どうしても生きていてほしくて......その気持ちだけで、なんとかあなたを岸まで運んだの」そう語りながら、奈々は自分に酔うように感情を込めた。だが、彼女の演技とは裏腹に、瑛介の表情はまったく変わらなかった。まるで何の感情も動いていないように、静かに彼女を見ていた。「......それで、君はどうやって自分を岸に引き上げたんだ?」「それは......あなたを岸に押し上げたあと、自分で......這い上がったの......」奈々は、当時の状況を知らないまま、自分の想像で話を作った。おそらく弥生もそうやって上がったのだろうと思い、そのまま答えた。すると、瑛介は皮肉げに唇を引き上げた。「つまり、君は力を使い果たした状態で、僕を岸に押し上げて、それから自分でも這い上がったって言いたいんだな?」奈々はそれが変だとも思わず、素直にうなずいた。だが次の瞬間、瑛介の冷えきった声は部屋に響いた。「......嘘だ」奈々の顔色が一気に青ざめた。「な......なにが嘘なの?私が、嘘なんかつくはずないでしょ?信じてないの?」「川の流れが
自分は、瑛介の前では一貫して温厚な女を装ってきた。決して、いまのように怒鳴るようなことを見せたことはなかった。そんな姿を見られてしまい、奈々は一気に動揺し、慌てて布団をめくってベッドから飛び起きた。「瑛介......どうして来たの?」言いかけたところで、奈々の目から涙があふれ出した。泣きながら彼の前へ駆け寄り、すがりついた。「もう、二度と私なんて見てくれないんじゃないかって」瑛介の視線はゆっくりと下がり、奈々の手首に留まった。「なんであんなに怒鳴ってたんだ?」そう言われて、奈々は慌てて言い訳を始めた。「私......もう会ってくれないのかと思って、不安で......ごめんなさい......蓮奈、大丈夫?」蓮奈は首を横に振りながら、心の中で奈々の演技に呆れつつ、その場を離れようとした。「あっ、大丈夫です。それでは、私はこれで失礼します」そう言って、そそくさと病室から出ていき、ドアを閉めた。奈々は今が何時なのか正確にはわからなかったが、もう深夜であることは確かだった。こんな時間に瑛介が来てくれたことに、驚きと期待が入り混じっていた。「瑛介、まだ怒ってるの? 昨夜のこと......ちゃんと説明するから、外の噂なんて信じないで。あの裕翔とは、本当に何もなかったの......!」その言葉に対して、瑛介はうっすらと唇を持ち上げたが、特に反応を返さず、奈々を避けて部屋の奥の椅子へと腰を下ろした。その冷淡な態度に、奈々は不安を強くし、慌てて彼の後を追っていった。「......私のこと、信じてないの?」瑛介は黙ったまま、水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲み始めた。返事がないままの沈黙に耐えきれず、奈々は彼の向かいに座って必死に言葉を重ねた。「昨日の夜、どこにいたの? もしかして、弥生のところに行ってたの?」奈々は唇を噛みしめながら続けた。「やっぱり、まだ彼女のことを忘れられないんでしょ? でも、彼女は五年前あなたを傷つけたのよ。また同じように、あなたを捨てるに決まってる。でも私は違う、私はずっとあなたのことだけを見てる。あなたを捨てたりしないし、あなたの命を助けたんだから......」必死に縋るようにして、奈々は言い切った。「命を救った恩があるなら、私のこと信じてよ......あの時、助け
瑛介が去ったあと、弥生はしばらく玄関に立ったまま、呼吸と気持ちを整えていた。しばらくしてから、そっと手を頬に当ててみた。......まだ熱い。ただのハグだったはずなのに......それにしても、まさか瑛介が何の詰問もせず、自分の話を信じてくれるなんて思わなかった。ということは、彼の心はずっと、自分のほうを向いていたのか?「ママ?」突然、背後から陽平の声が聞こえた。弥生がハッとして振り向くと、陽平がいつの間にか起きていて、じっと彼女を見つめていた。その姿に、弥生は思わず驚いた。「陽平......どうして起きてるの?」動揺した弥生は視線を逸らしながら、どれくらい見てたのかなと心の中で思いつつ、彼のもとへ歩いて行き、しゃがみ込んで彼を抱き上げた。「外に出るのに、上着も着ないで……風邪引いちゃうよ」抱き上げられた陽平は、素直に弥生の首に腕を回した。弥生は少し後ろめたさを感じつつ尋ねた。「......いつから見てたの?」「ちょうど、おじさんを見たよ」本当に見られてたんだ......弥生は苦笑いを浮かべたが、すぐに開き直った。まあ、今さら隠すこともないか。弥生は陽平の頭を撫でながら、陽平が言い出さない限り、私も何も言わないでおこうと決めた。ところが、陽平はすぐに聞いてきた。「ママ、本当におじさんと一緒になるの?」その質問に、弥生は一瞬言葉を失った。朝、ひなのが言っていたことを思い出し、ふぅっとため息をついた。「……それはまだ分からないの。子供はあまり大人のことに首を突っ込まない方がいいのよ。結果が出たら、ママがちゃんと陽平とひなのに教えてあげるから」陽平はおとなしくうなずいた。「うん、わかった」「いい子ね」弥生は彼をベッドに戻し、布団を整えて、再び眠りにつかせた。一方で、奈々はようやく眠りについた。最初は母が付き添っていたが、瑛介が一向に現れず、疲れた母は帰宅し、家の使用人である蓮奈に付き添いを任せて帰った。蓮奈が交代してからというもの、奈々の機嫌は最悪で、水を差し出しても冷たくあしらわれ、何度も睨まれていた。しまいには蓮奈も怯えてしまい、部屋の隅で縮こまりながら、奈々に呼ばれるまで動けなくなった。奈々がようやく眠りについたことで、ようやく彼女はそっと隅か
「もういいわ」弥生はくるりと背を向けた。「どうせこんなに長い時間が経っているんだし。私が思い出さなければ、誰もが彼女があなたを助けたと思い続けてたんだから」彼女の背中を見つめながら、瑛介は唇を引き結んだ。「安心して。君の功績が他人に盗まれるようなことは、僕が絶対にさせない」それを聞いて、弥生は冷ややかに笑った。「......そんなの今さら言っても意味ないでしょ? みんな彼女があなたを助けたと思ってるし、何年も前のことなのに、今さら『助けたのは私でした』って言うの? 証拠もないのに?」「証拠は......ないか」「だったら何も変わらないじゃない」そのとき、弥生の肩に力強い感触が走った。瑛介が彼女の肩を掴み、くるりと引き寄せて彼の方へ向かせた。「証拠なんてものは、僕が本気になれば作れる」弥生は目を見開いた。「......え?」瑛介は静かに言った。「もともとは、彼女が命の恩人だから関係を断つのも憚られてた。でも......本当はそうじゃなかったなら、ただ関係を断つだけじゃ済まされない」弥生は彼をまっすぐに見つめた。少ししてから、そっぽを向いてこう言った。「それって......私には関係ないでしょ?」「弥生ちゃん......」ぼんやりとした玄関の明かりの中、瑛介が昔の愛称で彼女を呼んだ。彼女はもう長い間、その呼び方を聞いていなかった。「証拠は僕が探すから。明日、奈々の両親とはっきり話すつもりだ。それが終わったら......もう一度、チャンスをくれるか?」そう言いながら、瑛介はまた弥生の方へと近づいてきた。顔がすぐ近くに迫ってきたその瞬間、弥生はとっさに手を伸ばして彼を押し返し、数歩後ろに下がって距離を取った。その慌てた様子に、瑛介は心地よい声で笑った。「......今は答えられなくてもいい。すべて片付いたら、もう一度訊きに来る」弥生はそれ以上何も言わなかった。しばし沈黙が続いた後、瑛介が彼女を見つめて言った。「そろそろ行くよ」弥生は驚かなかった。彼はしばらくここにいたし、もう深夜だった。帰るのは当然だ。「......うん」そう答えながら、ポケットに手を入れ、冷たい表情で彼を見送る準備をした。「出る前に、少しだけ......抱きしめてもいい?」「....
彼の薄い唇が自分に触れたのを感じた瞬間、弥生は呼吸が止まり、反射的に顔を背けた。だが、彼の大きな手が彼女の腰をぐっと引き寄せた次の瞬間、紅い唇がしっかりと重なった。「んっ......」何が起きたのか理解した瞬間、弥生は思いきり彼を押し返した。「話してる途中でしょ、なにしてるのよ?」押し返された瑛介は、どこか名残惜しそうに彼女を見つめながら、かすれた声で言った。「嫉妬してるのが可愛くて、ついキスしたくなった」「......誰が嫉妬してるっていうのよ!」弥生は思わず反論したが、瑛介はただ笑って答えなかった。その態度に、弥生の苛立ちはさらに募った。自分は真剣に話しているというのに、彼はふざけたような態度で、まるで信じていないかのように話をはぐらかすと思うと、ますます腹が立ってきた。「......君、わざと私の注意を逸らそうとしてるんじゃない?」「変な想像しないでくれよ。僕はちゃんと君のこと、信じてる」そう言って、瑛介は彼女の頬を指先で軽くつまみながら、表情を真剣に戻した。「でも......どういうことなんだ? 僕を助けたのが奈々じゃないって、どういうこと? なんで今まで黙ってた?」ようやく彼が真面目な顔になってくれたことで、弥生も彼が本当に信じようとしていることに気づいた。だから、弥生も落ち着いた声で話し出した。「......私が君を助けて岸に引き上げたあと、体力を使い果たして、そのまま川に流されたの」その言葉に、瑛介の目がわずかに見開かれた。「なんとか岸に這い上がったけど、意識を失って......それから高熱を出して、その記憶もすっかりなくしてしまったの」弥生は彼を一瞥して続けた。「私があのとき大病をしたこと、知ってるでしょ?」瑛介は無言で、当時の記憶を思い返していた。彼が目を覚ましたとき、みんなが言っていたのは「奈々が助けてくれた」という話だった。彼が川に落ちる前、そばにいたのは確かに奈々で、意識を失う前に、誰かが飛び込んでくる姿がぼんやりと見えた。それは女の子のシルエットだったが、誰かまでは判別できなかった。だから、自然と奈々だと思い込んでいた。その後、近くで怪我人が搬送されたと聞き、見に行くとそれが弥生だった。川に落ちて高熱を出して、ずっと意識不明だったという話を聞
弥生が口を開こうとしたその瞬間、瑛介は一歩踏み込んで、勢いのままにドアを閉めた。そしてさらに数歩近づき、玄関の壁に彼女の身体を押しつけるように追い詰めた。「......さっき、僕を呼んだ?」瑛介の声は低くかすれていて、その目は夜の静けさに沈む獣のように鋭く、まるで獲物を見つけた狼のようだった。言葉にできない違和感が全身を走った。なんだか、彼は最近少しずつ距離を詰めてきている気がする。少なくとも、昨日まではこんな風に出てこなかったのに。今朝、帰る前におでこにキスまでしていったことまで思い出し、弥生は思わず手で彼を押し返した。「......なにしてるの? 言ったでしょ、間違えたって」「本当か」瑛介は彼女の手をしっかりと掴んで、自分の中に渦巻く想いをなんとか抑えながら言った。「君は冷静な人間だ。こんな時間に電話を掛け間違えるなんて、あり得ない」弥生の動きが止まった。「だから、僕に電話してきたってことは、用があったんだろう? 電話じゃ言えないことなら、直接聞きに来た。それだけだ」長年の付き合いがあったからこそ、彼は彼女の性格をよく知っていた。弥生は彼をじっと見つめたまま、口を引き結んだ。彼女の迷いに気づいた瑛介は、片眉を上げて訊いた。「どうした? 言いにくいことなのか? もしかして......」彼の勝手な想像を止めるために、弥生は慌てて言葉を挟んだ。「変な想像しないで。本当に、君に話したいことがあったの」それを聞いた瑛介は、「やっぱりな」といった表情を浮かべた。話を切り出してしまったからには、と弥生は静かに口を開いた。「私の言うこと、信じてくれる?」「もちろん」瑛介は即答した。「じゃあ......奈々と私、どっちの言うことを信じる?」その問いに、瑛介は少し困ったように眉を寄せながらも、彼女の後頭部にそっと手を添えて言った。「そんなの決まってるだろう。君だよ」その答えに、弥生は少しだけ安心した。ほんの少しでも迷ったそぶりを見せていたら、きっと彼に真実を伝えるのはやめようと思っただろう。信じてもらえないのなら、言っても意味がない。でも今の彼の反応は、悪くなかった。それでも、弥生はすぐには気を許さなかった。どれだけ信じてると言われても、これから伝えることは重すぎる。彼が