パシッ!
乾いた音が響き渡る。
私を見下ろす般若のようなミリア・アーデン侯爵夫人の顔がそこにあった。一瞬何が起こったか分からなかった。
「そこに座りなさい。皇太子殿下を置いて帰ってくるなんて何て愚かなことを」次に私の髪を鷲掴みにして引っ張られ床に座らせられた。
「この髪は何? 皇太子殿下がお前の長く綺麗な髪をお褒めになったのを忘れたの?」私は大きな勘違いをしていた。
アーデン侯爵夫人はエレナに無関心などではない。彼女が自分の思うように動いていたから、干渉してこなかっただけなのだ。
「皇太子殿下のお気持ちが離れたら、お前には何の価値もないのよ! 第一皇子に送ってもらうなんて噂でもたって婚約がなくなりでもしたらどうするの?」
侯爵夫人はアランのことは気にしているようだけど、私を送ってくれたライオットに対しては礼を尽くすどころか邪険に追い返していた。
ヒステリックに騒ぎ倒している夫人を、周りの使用人たちは驚きもせず遠巻きに見ている。
私は自分の親にも叩かれたことがない。どうしてこんな異世界で、叩かれなければいけないのか。
やられたらやり返す主義だ。
暴力には訴えないけれど、精神的ダメージをくらわしてあげる。もう一度振り上げられた侯爵夫人の手首を掴むと、侯爵夫人は驚いた表情をした。
「そうやって、人に媚をうってお母様は今欲しいものを手に入れてますか?」
やられっぱなしでいると思ったら大間違いだ。
「お前、何を言って? お前は誰なの?」
今の質問は私の正体を問うものではない、今まで反抗してこなかった娘がいったいどうしたのかということだろう。「私が、皇后になっても、お母様は皇太后にはなれませんよ?」
私がわざと嘲笑するように言うと、侯爵夫人は真っ赤になってもう片方の手を振り上げた。その手首も掴んで、私はさらに続ける。
「お母様は髪を何時間もとけば皇帝陛下の心が掴めると思っていたのに今こうしている、残念ですね」「エレナ・アーデン! 母
次の日から私はアランの執務室で彼の仕事を手伝うことになった。1番奥の大きな執務机にいる彼のところに来た貴族はもう8人目だ。私は執務机から離れた応接セットのソファーに座っていた。最初の貴族が来た時に席を譲ろうとしたが、必要ないと言われたのでそこに座っている。まだ、執務がはじまって15分だ。貴族が持ってくる提案やら何やらの問題点を、一瞥で見つけては鋭く指摘して突き返している。確かに、ソファーに座る必要はないわね。(どこが、凡人なのよ⋯⋯)昨日のアランの言葉を思い出しながら彼の仕事風景を眺めながら呟いた。「8人目もやり直しか⋯⋯」天才というものは、自分が天才ということに気がついてないのだろうか。確実に彼はスーパーコンピューターを搭載している。「リース子爵これは預かっておく。下がるように⋯⋯」リース子爵が下がるのを確認して、私がアランに近づこうと立ち上がると彼は一旦執務を中断することを扉の外の護衛騎士に伝えた。「やっと9人目にして!」私がそう言うと同時に彼はゴミ箱に書類を捨てた。私は驚きのあまりに固まってしまった。「アル、捨ててはまずいのでは?」その書類は承認したのではなかったのだろうか。「良いんだよ。そこに書かれている収支報告も全て虚偽だから。」私がパチクリしているのを見てアランが続けた。「レナ、周囲の人間はみんな詐欺師だと思った方が良いよ」「誰がそんなこと。」私が言葉を詰まらせると、彼が言った。「僕の最も尊敬する人、カルマン公爵だよ。僕の教育係だったんだ」なんて、恐ろしい教育をするの?それにカルマン公爵って皇帝に匹敵する権力を持つお方だ。(教育係ってもっと知性はあるけど下っ端貴族がするものなのではないの?)「公爵様が自らアランを教育したの?」カルマン公爵肝いりの皇太子ではないか。「そうだよ。公爵の有効な教育のお陰で半年後皇帝になっても問題ないんだ」
「皇后宮の侍女ですか?」アランの機転から皇宮に到着すると、すぐに豪華な部屋に通された。貴賓のような扱いを喜びつつ、明朝私を迎えに来たアランの言葉に私は固まってしまった。「婚姻の1年前くらいから花嫁修行として皇后の侍女になるのが通例なんだけれどね」未来のお姑さんのメイドをするということ?(花嫁修行というから、紅茶の入れ方とか刺繍くらいかと思っていたのに⋯⋯)しかも、アランのお母様ってアーデン侯爵夫人の姉だよ。あの人の姉のメイドって、地獄を抜けてもまた地獄じゃない。皇后宮に到着し客間に通された。皇后と思われる肖像画が飾ってある。日本にも社長が自分の商品に自分の顔を印刷したりがあるけれど、自己主張強いなと思っていた。まさか、アーデン侯爵夫人が天使に見えるくらい強いキャラだったらどうしよう。茶髪にアランそっくりのアメジストのような紫色の瞳。紫の瞳は皇室の血が濃い証って言っていたっけ、近親婚が行われているこの世界だとカルマン公爵令嬢だった皇后も家系図をたどると皇室の血がまじっているのかしら。(アーデン侯爵夫人はエレナと同じ赤い瞳をしていた気がするけれど⋯⋯)「ねえ、アル、アーデン侯爵夫人と皇后陛下は姉妹よね」「そうだよ、異母姉妹だけれどね」アーデン侯爵夫人の血筋への強烈なこだわりとライオットへの態度は自分のコンプレックスからくるものだったのね。「僕はエレナ一筋だよ」紫色の瞳を輝かせてアランが言った。一夫多妻制の帝国の皇太子だけれど、彼は側室を持つつもりがないようだ。「あらあら、もう少し遅れて来た方がよかったかしら?」振り返ると茶髪に紫色の瞳をした皇后陛下がいた。「皇后陛下にエレナ・アーデンがお目にかかります」突然の登場に驚いたが、彼女に向き直し丁寧に挨拶をした。「久しぶりねエレナ嬢、どうぞお座りになって」身構えていたのに優しそうな皇后陛下の笑みに私は気が抜けてしまった。「奇襲にあったそ
「エレナ早く来なさい」5日目の夕刻、監禁されてた部屋の扉が突然が開いた。歓喜を隠せない表情のアーデン侯爵夫人がそこにいた。自ら私を解放しに来た彼女に連れられ階段を降りる。「エレナ、全て僕が悪かった。許すか許さないかは君が決めて良い。だから話を聞いてほしい」ヨレヨレの礼服姿で、いかにも体調が悪く寝てなさそうなアランがいた。自分のことを「僕」と呼んでいるし、いつもより幼く見える。周りの使用人が顔を見合わせて驚いている。その反応を見るに、こんなことは初めてなのだろう。侯爵夫人は帝国の皇太子が自分の娘に頭を下げているのが、嬉しくてしょうがないのか表情管理もできていない。「アラン、部屋で話そう」私は彼の震える手を引いて自分の部屋へ連れていった。ニヤつく侯爵夫人が不快で仕方がなかった。人払いをして部屋の扉を閉める。「う、げぇえー」突然、アランが口元を手でおさえながら嘔吐した。「ごめん、今使用人を呼んで」彼が弱々しい声で私に言ってくる。「大丈夫だから、上着を脱いで私がなんとかするから」これ以上、彼に恥をかかせるわけにはいかない。こんなに早く侯爵邸に来るなんて、自分の日程を終えて、皇宮にも戻らず急いでここに来たんだ。明らかに寝てないし、口調もいつもと違う。こんな風に追い詰めたかったわけじゃないのに。「本当に僕が悪かった。僕やエレナのために君がどれだけ努力をしてくれたか」彼の上着をふいている私を涙で濡れた紫色の瞳が見つめる。「僕が君の立場だったら、きっとできないことを君はしてきてくれてたのに」大粒の涙が宝石のように、溢れ落ちて目がそらせなくなる。「もし、僕が君の世界で、ある日まったく違う人になったら同じようにできるか考えた。君はずっと本当の自分を殺してエレナを演じてくれたけど、僕なら急にそんな出来事がおこった理不尽さに憤り戸惑うだけで何もできないよ」胸が締め付け
パシッ!乾いた音が響き渡る。私を見下ろす般若のようなミリア・アーデン侯爵夫人の顔がそこにあった。一瞬何が起こったか分からなかった。「そこに座りなさい。皇太子殿下を置いて帰ってくるなんて何て愚かなことを」次に私の髪を鷲掴みにして引っ張られ床に座らせられた。「この髪は何? 皇太子殿下がお前の長く綺麗な髪をお褒めになったのを忘れたの?」私は大きな勘違いをしていた。アーデン侯爵夫人はエレナに無関心などではない。彼女が自分の思うように動いていたから、干渉してこなかっただけなのだ。「皇太子殿下のお気持ちが離れたら、お前には何の価値もないのよ! 第一皇子に送ってもらうなんて噂でもたって婚約がなくなりでもしたらどうするの?」侯爵夫人はアランのことは気にしているようだけど、私を送ってくれたライオットに対しては礼を尽くすどころか邪険に追い返していた。ヒステリックに騒ぎ倒している夫人を、周りの使用人たちは驚きもせず遠巻きに見ている。私は自分の親にも叩かれたことがない。どうしてこんな異世界で、叩かれなければいけないのか。やられたらやり返す主義だ。暴力には訴えないけれど、精神的ダメージをくらわしてあげる。もう一度振り上げられた侯爵夫人の手首を掴むと、侯爵夫人は驚いた表情をした。「そうやって、人に媚をうってお母様は今欲しいものを手に入れてますか?」やられっぱなしでいると思ったら大間違いだ。「お前、何を言って? お前は誰なの?」今の質問は私の正体を問うものではない、今まで反抗してこなかった娘がいったいどうしたのかということだろう。「私が、皇后になっても、お母様は皇太后にはなれませんよ?」私がわざと嘲笑するように言うと、侯爵夫人は真っ赤になってもう片方の手を振り上げた。その手首も掴んで、私はさらに続ける。「お母様は髪を何時間もとけば皇帝陛下の心が掴めると思っていたのに今こうしている、残念ですね」「エレナ・アーデン! 母
「皇子殿下、すぐにでも帰宅したいのですがお送りいただけますか?」私がライオットを訪問し、微笑みながらそう言うと彼は驚いたように返してきた。「アランは? それに、その髪!」彼は驚いたように私の髪を凝視していた。「まだ日程が残っております。皇太子殿下はまだお残りになるようです。私は負傷した私の騎士も気になりますし、先にお暇することにしました」驚くのも当然だ、私は髪をさらに短くショートカットに切ってしまっていた。「分かった準備するから、少し待ってくれ」ライオットはすぐに数名の皇子軍の騎士と馬車を準備してくれた。「私の騎士たちの様子が気になりますので、コットン男爵邸に立ち寄っていただけると助かります」騎士たちの様子が気がかりだった、容態が急変したりはしていないだろうか。「分かった⋯⋯」私を心配するような揺れる瞳で彼が見つめてくるので、すぐに馬車に乗り込みカーテンを閉めた。主人公だから魅力のパラメーターが200くらいあるのかもしれない。気がつくと彼のことを考えている。(それは今考える必要のないことなのに⋯⋯)せめて、彼を見ないようにして視覚からの情報をカットしないと。帝国貴族は、みんな表情管理が得意で能面のような顔をしているのに、彼は表情管理がほとんどできていない。笑わないようにしよう、感情を読み取られないようにしようとしているのは分かる。しかしながら黄金の瞳に感情が出てしまっていて、その面白さが私のツボにはまり魅力的に見えてしまっているだけかもしれない。今回も、彼の側が一番安全だから彼にアーデン侯爵邸に送るようにお願いしただけで側にいたいわけじゃない。私は馬車の中で情報を整理した。早く私の予想の答え合わせがしたい。エレナの部屋に戻り、メイから情報を聞き出そう。他にも有効な情報が侯爵邸に戻ればあるだろう。私はこの世界のエレナと違って、帝国で権力を持ちたいとは思っていない。ついこないだ来た帝国に対して愛着もない。
「全く何を考えているのですか、侯爵令嬢らしくない。国際問題になりますよ」ライオットがバッサリ切った髪の毛先を撫でて来る。周りを見渡すと人気のない庭園の外れまできたようだ。妖しい光をはなつ王宮が少し小さく見える。「ごめんなさい。感情的になってしまったわ」素直に謝ると頭をポンポンとされた。そんな事、誰かにされた事ないので気恥ずかしくなる。「まあ、大丈夫だよ。何か言われたらお祝いに駆けつけたのに奇襲しされて人質にさせそうになり困惑していたのですわ、って言えばいいよ」ライオットが彼らしくなく私の口真似をしながらおどけたように言うものだから、思わず私もくだけた返事をしてしまった。「うん、わかった」なぜだか彼の前にいると素の自分になってしまう。完璧令嬢エレナとはかけ離れた姿を見せてしまっているようなのに、私の正体に疑問を感じないのだろうか。6年程前までは頻繁に会っていたとメイから聞いた。私が何かおかしな事をしても、それは6年の月日が経ったからだと思っているのだろうか。まあ、婚約者乗り換えみたいな真似をしたエレナを憎むのは当たり前だし、憎まれ口を叩きながらも困った時には助けてくれる彼は優しい人なんだろう。さすが、主人公だな、そんな事を思っていると自分でも場違いな発言をしていた。「コットン令嬢とは長いんですか?」鳩が豆鉄砲をくらったような彼の表情を見て私はおかしな質問をしたことに気が付いて気恥ずかしくなった。「アランと侯爵令嬢よりは短いよ」彼が少し意地悪そうな笑みを浮かべながら返してくる。「優しくて、正義感に溢れて素敵な令嬢ですよね」ヤキモチを焼いていると誤解されてはどうしよう。言葉が明らかに脳を通過してない。これ以上は黙った方が良い。「まあ、そうだな⋯⋯」同意しただけなのに、彼が他の令嬢を誉めている事実に心臓が締め付けられる。「2人ともとってもお似合いです。似たもの同士惹かれ合うのですね」ライオットの表情