【二〇二五年 杏】
なんだか、気まずい……。
先ほどから修司は恐い顔をしたまま何も話さない。
何考えてるの?
このレストラン……昨日雅也に告白された場所だ。
そんなところに連れてきて、どういうつもり?私も黙り込む。
しばらくすると、修司が口を開いた。「昨日は驚いたよ。
まさか……兄さんと杏が知り合いで、しかも恋人同士だなんて」可笑しそうに笑いながら下を向く修司。
だけど、その笑いはどこか苦しそうだった。やっぱり、雅也とのことを聞きにきたんだ。
いろいろ秘密も多い。
バレないように気を付けないと。心臓の音が大きくなるのを感じながら、私は慎重に言葉を選んで答えた。
「ええ、そうね……私も驚いた。
まさか、あの人があなたのお兄さんだったなんて」とぼけた口調で返すと、修司は驚いたように目と口を大きく開ける。
その反応はわざとらしくも見えた。「へえ、知らなかったんだ?」
「ええ、あの路地裏であなたに会うまでは」
「……ふーん」
不満そうな声音――表情も曇っている。
いつもとは違う空気。修司が、ちょっと怖く感じる。
「ねえ、杏はさ、本当に兄さんのことが好きなの?」
まっすぐな視線に、鼓動が跳ねた。
どうしよう。やっぱり、疑ってる?
焦りが募る。でもそれ以上に。
嘘でも、本気じゃなくても――
修司に「他の誰かが好き」なんて、言いたくなかった。なんで、そんなこと聞くのよ。
でも、もしかして……修司は、私の嘘に気づいてる?
私は動揺を悟られないように、平静を装った。
喉の奥から言葉を絞り出す。「……ええ、好きよ。好きじゃなかったら付き合わない」
チクリと、胸が痛む。
「嘘だ!」
修司が即座に叫んだ。<
【二〇二五年 修司】 先ほどまで照らしていた太陽は完全に沈み、部屋の中には暗がりが広がっていた。 まるで、杏がいなくなったことで、光まで失われたかのように。「杏……どうしてっ」 彼女の悲痛な声と表情が、何度も心に蘇り、そのたびに胸が痛んだ。 なぜだ。なぜ、俺を好きになっちゃいけない。 でも、あの言葉の裏に、彼女の本心が隠れていたのだとしたら? わずかでも、彼女の心が自分に向いていた。 その希望が胸に灯りかけた、けれど…… すぐに、冷たい現実がそれを呑み込もうとする。 それでも、嬉しかった。 離れていたあの時間に、一瞬でも杏が自分を想ってくれていたのなら――それだけで、充分だった。 気持ちを落ち着けるように深く息を吸い込む。 そして決意のこもった眼差しで前を見据え、部屋を出た。 杏はきっと、あのまま屋敷を出ていったのだろう。 もう戻ってくるとは思えなかった。 ここで俺までいなくなったら、さすがに変に思われる。 突然姿を消した杏のことも、説明しないといけない。 そう思いながら、俺はまっすぐ皆のもとへ戻っていった。 食堂へ続く扉を押し開けると、すぐに兄の声が飛んできた。「おい修司、杏はどうした? 新くんは戻ってきたのに、杏がいないぞ?」 兄が不思議そうに首を傾げる。 きっと俺が杏を探して連れてくると思っていたのだろう。 無理もない。 さっき杏が「お手洗いに」と席を立った。 すぐに新も立ち上がって姿を消した。 そして、そのあとに俺が席を立った――そう、まるで杏のあとを追うように。 兄も、それに気づいていたはずだ。 なのに戻ってきたのは新だけ。 杏は戻ってこず、代わりに俺だけがこうして部屋に入ってきた。 そりゃ不思議に思うよな。 杏はどこへ行ったって……。 俺が戻ってくるまで、ず
【二〇二五年 杏】 どうして、今になって……。 頬を熱いものが伝っていく。 修司は驚いたように目を見開き、すぐに切なげな表情に変わった。 そして、そっと私の涙を指で拭った。「杏……っ」 そのまま、修司が私を抱きしめた。 彼の腕の中に包まれた瞬間、耳元で心臓の音が大きく鳴り響く。 ドクンドクンと力強く脈打つ鼓動が、彼の想いをまっすぐに伝えてくるようだった。 私は目を閉じて、そっと祈る。 ――時よ、止まって。 このぬくもりの中で、世界が終わってしまえばいいのに。「何が、そんなに君を苦しめている? 俺は知りたい、知りたいんだ。教えてくれっ」 絞るように響いた声が、私の心をかき乱す。 もう、やめて。 次の瞬間、修司の手が私の顔を持ち上げた。 そして、唇を重ねられる。 柔らかく、でも切実な、修司のキス。 荒々しさの中に、優しさがある。 彼の想いが、すべてそこに込められているようだった。 身体が動かない。 いや、動きたくなかったのかもしれない。 ただ、そのぬくもりの中に……いた。 どれほどの時間が流れたのか。 私には、それが永遠に続くように感じられた。 ――でも。 意識が、現実に引き戻される。 ダメ! 私は全力で修司を突き飛ばした。 心も頭も、ぐちゃぐちゃだった。 泣きたくなるほど、苦しくて、苦しくて。 顔を上げると、修司がいた。 その目には涙が滲んでいて。 悲しみが滲むその顔に、ぎゅっと胸が締めつけられる。「……っ」 修司が何か言いかける前に、私は声を張り上げた。「っダメなの!! 私はあなたを好きになっちゃダメなの! ダメ、なの。 お願いだから……もう私を苦しめないで。 ……さようなら、修司」
【二〇二五年 杏】 修司が私を連れやってきたのは、彼の部屋だった。 私は導かれるままに部屋へと入っていく。 なんでこんなに素直に従ってしまったのか、自分でもわからない。 ただ、彼が傷ついているような気がして、放っておけなかった。 最近は、修司のそんな顔ばかり見ている気がする。 それも全部、私のせいだね。 窓から差し込む赤みを帯びた夕暮れの光が、修司の姿を静かに照らし出す。 その横顔には、言葉にならない哀しみが滲んでいるようで――胸の奥がきゅっと痛んだ。「ねえ、杏……どうして兄さんなの? どうしてなんだよっ」 俯いた修司が苦しげに息を吐く。 その姿に胸が締めつけられる。 だけど、自分の気持ちを打ち明けることは、できない。 深く息を吸い込み、ぎゅっと口を堅く結ぶ。 いつの間にか、手のひらには強く力が入り、爪が食い込むほどに握りしめていた。「よりにもよって……」 修司は一瞬、言葉をのみ込んだ。 そして顔を上げ、真っすぐに言い放つ。「杏は、兄さんのこと本当は好きじゃないよね?」 鋭い視線が私を射抜く。 私の内側を暴こうとするその眼差しに、思わず身を引きたくなる。 だけど、動揺を見せないよう、私は平然を装った。「何で、そう思うの?」「だって、全然そう見えないからだよ。それに、好きになる理由がわからない」「人を好きになるのに、理由なんていらないわ」 言葉が、つい口をついて出た。 自分でも驚く。 それは――たぶん、私自身が修司を好きになったときに、理由なんてなかったからだ。「そうだね……理由なんて、ないのかもしれない」 修司はふっと息をつき、目を伏せた。「僕もそうだった。君を好きな理由なんて思いつかない。 ただ好きなんだ。好きで、好きで、どうしようもなくて……この想いを止められない!」 その声が
【二〇二五年 杏】「何してるの?」 そう言ったかと思うと、新は私を部屋の中へ押し込み、背後でドアを閉めた。 気づけば、薄暗い部屋の中で、ふたりきり。 窓から差し込む、赤みがかった夕暮れの光が、新の顔を照らし出す。 眉間には深い皺が寄っていた。「こんなところでウロウロしてたら、怪しまれるよ」「……わかってる。ちょっと部屋の様子を見てただけ」「父さんのこと、調べようとしてたんでしょ?」 ドキリとした。 まるで心を覗かれたようで、言葉が詰まる。 新は私の目をまっすぐに見据え、深いため息をついた。「やっぱり……姉さんはそういうこと、しないで。そういうのは僕がやるから」「僕がやるって、どういう意味?」 問い返すと同時に、私は今日ずっと気になっていたことを口にした。「ねえ、新。あなた、どうしてここにいるの? それに、びっくりした。まさか彼女が修司の妹さんだったなんて……」 新は一瞬ばつが悪そうに視線を逸らした。「……別に、いいだろ。 とにかく、姉さんはこの家の人たちと関わらないで。 大人しくしててほしい。ていうか、あいつとも別れて」「あいつって、雅也のこと?」 まさか。それを止めたくて、詩織さんと付き合ったの?「新、何考えてるの? 詩織さんとの関係、本当に……」「もういいだろ。とにかく、姉さんはこの家の人間と関わっちゃいけないんだよ」「あなたは関わってるくせに?」 問い詰めると、新は言葉に詰まりかけ—— ガチャリ。 扉の向こうから音がして、二人同時にそちらを向いた。 心臓が一瞬止まる。 ゆっくりと扉が開き、その隙間から顔を覗かせたのは……修司だった。「……二人とも、こんなところでどうしたんだ? 遅いから心配になって」 修司は私に視線を向け、少し戸惑ったように笑う。 私は、突然の
【二〇二五年 杏】 それぞれの思惑が絡み合っているような重い空気を感じつつ、食事は続く。 雅也と詩織さんは饒舌だったが、あとの四人は口数が少ない。 それはそうだろう。 いろいろ思うところが多いのだから。 父親の一挙手一投足に神経をとがらせながらも―― 私の心をもっともざわつかせるのは、修司の存在だった。 彼はずっと、私に視線を向けてくる。 それを感じながら、私はわざと視線を逸らし続けた。 そんな切ない顔で、そんな優しい瞳で見つめないで。 苦しいよ……。 私の心が悲鳴を上げ、胸がきゅっと締めつけられる。「ちょっとお手洗い」 そう言って、私はさりげなく席を立つ。 部屋を出ると、ドアの脇に控えていたメイドがこちらを向いた。「どうされましたか?」 笑顔でそう尋ねられ、私も笑顔を返す。「ちょっと、お手洗いに」「ではご案内いたします」「いえ、大丈夫です。場所を教えていただければ」 メイドに道順を聞いた私は、その方向へと歩き出す。 聞かなくても、本当は知っていた。 ……だって、昔ここに来たことあるんだから。 私は、静まり返った廊下をひたすらまっすぐ歩いていった。 突き当たりを曲がるとすぐにトイレがあったが、立ち寄らず、そのまま足早に通り過ぎていく。 周囲を見回しながら、怪しげな部屋を探す。 せっかくここまで来たのだ。 一つでもいい、父に関する手がかりを見つけたい。 あの男の部屋、あるいは書斎は、どこ……? 一つ、一つ、部屋を確認していく。 早くしなくちゃ、あまり長居していると、怪しまれる。 焦りながらも、静かに歩みを進めていく。 心臓が早鐘を打ち、冷や汗がにじむ。 何個目かのドアに差しかかったとき、ふと目の前の部屋に違和感を覚えた。 重厚な扉と、静かな佇
【二〇二五年 杏】 そのまま、今度は先ほど気になっていた女性の前へと導かれていく。 女性の前に立ち止まると、雅也は軽く紹介する。「この子は俺の妹」 ……妹? 初耳だった。「詩織(しおり)です。よろしくお願いいたします」 丁寧に頭を下げたその女性は、とても上品で可愛らしかった。「よろしくお願いします」 握手をしながら、私はその顔をじっと見つめる。 やっぱり、どこかで会ったことがあるような……。 記憶の糸を手繰り寄せていると、 ふいに、詩織さんが明るく声を上げた。「そうだ、私も紹介したい人がいるんですよ」 にこやかに振り返った彼女が、奥の方へ向かって手を振る。 その視線の先から、誰かがゆっくりと歩いてくる。 私は息を呑んだ。 驚きで目を見開いたまま、言葉を失う。 そこに立っていたのは…… 新だった。 気まずそうに目を伏せる彼を、私はただじっと見つめるしかなかった。 そのあとの食事は、まるで映画のワンシーンのようだった。 屋敷に着いた時間が早かったせいか、夕食の時間も少し早められた。 長いダイニングテーブルには、次々と料理が並べられていく。 私の右隣に雅也、左隣に新。 向かいの席には修司がいて、その隣に彼の父親と詩織さんが座っている。 私はできる限り修司の視線を避けた。 でも彼は、ずっと私のことを見つめていた。 重たい空気が漂う中、雅也がにこやかに口を開いた。「今日は俺の恋人を紹介するつもりだったけど、まさか妹の恋人まで紹介されるとは思わなかったよ」 その言葉に詩織さんが微笑む。「ふふっ、驚かせようと思って内緒にしてました。私からも紹介させてくださいね」 花のように可愛らしく笑う、正真正銘のお嬢様。 ——けど、なんで新と? なんで、修司の妹と新が付き合ってるの? これは、たまたま? それとも……。 驚きと混乱が入り交じったまま、私は新を見つめた。 新は前を向いたまま、こちらを一切見ようとしない。 どうして、何も言ってくれないの……。 いったい、何を考えてるのよ。「じゃあ、改めて。僕の恋人、佐原杏さん。……もうすぐ婚約者、かな」 雅也が照れくさそうに笑いながら、私を紹介する。 仕方がないので、私は立ち上がった。 そして、無理やり笑顔を作り、お辞儀する。「佐原杏です