老舗旅館の娘の仙田美月は、養子として育てられ旅館を手伝っていた。夫婦の間に本当の子供ができてからは家政婦のような扱いを受け、生きていく意味を見失っていた。そんなある日……突然契約結婚をすることになって……
View More『五年後。必ず迎えにえ来る』
黒々とした瞳で見つめられた私は、溶けてしまうのではないかと思った。 『今すぐ連れて帰りたいところだが、今の俺はまだ頼りなさすぎる。立派な大人になって戻ってくるから、俺を忘れないで待っていてほしい』 心臓の鼓動が暴れて頬が熱くなった。 出会って数日しか経っていないのに、彼の言葉は嘘ではなく真実に聞こえた。 私はその言葉を信じたくて、かすかに頷いた。 翌日、彼は東京に戻ってしまったけれど……。 ずっと、忘れられず、毎日を過ごしていた。 一ヶ月後、手紙が届き、慌てて読んだ。 私の体を気遣うことと、いつか迎えに行くという内容だった。 彼は、約束を果たしてくれる。そんな気がしていた。 今は辛く苦しい毎日だけど信じて持っていよう。 地獄のような日々に明るい光が差し込むようだった。 こんな私にも太陽のように暖かい日差しに包まれながら幸せな未来を過ごすことができるかもしれない。 涙がぽろぽろ流れてきて、手紙を胸に抱きしめた。 『待っています』と返事をしようとした。 ところが母親に手紙が見つかってしまった。 『なんだ、これは』 『それは……』 奪われた手紙の中身を読まれてしまい、その場でビリビリに引き裂かれたのだ。紙吹雪のように私の頭の上からその紙を浴びせてきた。 私はしゃがんで破かれた手紙を拾っていた。 頭の上から笑い声が降ってくる。 『アッハッハッハ。頭が悪いね。相手は財閥の御曹司なんだ。まさか本気で受け止めてるんじゃないだろうね? からかっているだけだから。鵜呑みにするなんて本当に馬鹿な子だね』 あまりにも悔しくて悲しくて私は下から睨み付けた。 『なんだよ、その目は。憎たらしい。あんたは私たちが決めた人と結婚する運命だよ。諦めなっ』 私が彼に手紙を書くことは許されなかったのだ。 それからも、毎日のように思い出していた。 でも、結ばれる運命ではない。 悲しいけれど、記憶から消そうと考えないようにしていた。 そして、ある日の朝、私は白無垢に着替えさせられ、契約結婚を命じられたのだ。悠一さんが帰宅した。「お帰りなさい」「ただいま。手洗いとうがいをしてくる」「はい。夕食の準備をしておきますね」「ありがとう」 いつものように夕食を出すと、彼は嬉しそうに食べて完食してくれる。 この何でもない穏やかな日々が永遠に続いてほしい。だからこそ素直に気持ちを伝えるしかないのだ。「悠一さん、大切なお話があります」 食事が終わったタイミングで私は彼にお茶を出し目の前に座った。「あぁ、何でも話を聞く。どうかしたか?」「今日、七瀬さんがいらっしゃいました」「七瀬が?」 あまりにも予想外だったのか目を大きく見開いて身を乗り出した。「悠一さんのことを大事に思うからこそ、私に話をしに来たんだと思います」「何を言っていた?」 私は言いにくかったけれど勇気を出すしかないと思いはっきりした口調で話すことにした。でも緊張して心臓がドキドキしている。「世襲制を嫌っていて、跡継ぎを欲しいとも思っていないし結婚もしたくないという考えだったと聞きました。そして、この結婚は、おじい様を安心させるために結婚したのだと」 この心に抱えている苦しい思いを解消するためには言わなければいけないと思って発言した。しかし実際に口を開くと彼は少しだけ嫌な顔をした。「世襲性を嫌っているというのは事実だ。実力主義でいかなければ生き残っていけないと思う」 私は悠一さんの言葉にじっと耳を傾ける。
「話してくれた内容は、知りませんでした。でも……」「知らないということは奥様のことを信用していないという証拠ですよね」 きつい言葉を言われて心臓が刺されたかのように痛くなった。 胃がムカムカとしてくる。「こんなに大きな財閥の副社長が簡単に離婚すると世間的に評判が悪くなると思うんです。二人でよく話し合って決めていきたいと思います」 本当は怖くて怖くてたまらなかったけれど、私は強気で言い返した。 すると彼女は眉間にしわを寄せた。「たしかに私が首を突っ込むことではありませんね。大変失礼いたしました。しかし副社長にとってどの道が一番幸せなのかということをお考えになってください」「そうですね」「このことは内密にしてください。もちろん副社長にも。それでは」 七瀬さんは立ち上がり、頭を下げて退出した。 強がってみたものの、怖くて心配で仕方がない。 悠一さんは、無理をしているのではないか。考えれば考えるほど、わからなくなってしまった。 でも落ち込んでいる場合ではない。 お腹の中には新しい命が宿っているのだ。母親としてしっかりしなければならない。 私は大きく頷いて決意をした。 今夜、悠一さんが帰ってきたら気になることを聞いて、産みたいと伝える。「どんなことがあっても、お母さんが守るからね」 子供に向かって話しかけた。
夫婦の間で話し合うべきことを、なぜ秘書の七瀬さんに言われなければならないのだろう。(悠一さんが指示をしたの?)「どうしてですか?」「おじい様もお亡くなりになりましたし、自由になりたいと副社長は思っております。副社長は本来結婚したいと思っていなかったのです。仕事にまっすぐに進んで、跡継ぎはいらないと思っています。世襲制を排除したいと思っているのです」 そんなことを考えていることを知らなかったが、親の敷いたレールを歩いてきたと思って辛い思いをしてきた彼にとっては、そういう考えに至っても不思議ではない。 妙に説得力があったので私は話に聞き入ってしまった。「家族が引き継いでいくのではなく、実力のあるものが社長になっていくべきだと言っています。そういう考えのもと、たくさんの人に認めてもらいたいとの気持ちで一生懸命働いているのです。秘書として私は近くで見て痛いほど気持ちがわかりました」 働いている彼の姿というのは、ほとんど見たことがない。 会社に行って社員たちと少し話しをしているのを見ただけだ。 いつもそばにいる秘書でしかわからないところも多々あるだろう。「指示されていらしたのですか?」「いえ、彼はとても優しいお方です。自分の口から言えないので、私が代弁しにやってまいりました」「……しかし」 彼は本当に私のことを大切にしてくれて、愛情表現もいっぱいしてくれた。 だからおじい様のためだけに結婚したというのは違う気がする。 不安で本当のことを聞いてこなかった自分も悪いけれど、悠一さんの態度から彼を信じたいと思うのだ。
その日の夜。 私はぼんやりとキッチンに立っていた。「……き、美月?」 名前を呼ばれていることも気がつかずに、ハッとして振り返ると彼が立っていた。「おかえりなさい」「どうしたんだ? 名前を呼んでいるのに気づかないなんて。体調でも悪いんじゃないか?」 心配そうに近づいてきて私の額に触れる。「少し熱っぽい感じもするな。無理しないで休んでいたほうがいい」「……大丈夫ですよ」 目を合わせて話すのも気まずい。 妊娠しているということを隠している自分にもイライラするし、でも伝えたところで嫌な思いをさせてしまうかもしれない。「顔色も悪い。何かあったんじゃないのか?」 私の心を見抜かれているような感じがして、顔を背けた。「もう少しで出来上がるのでちょっと待っててください」「美月……。今は言いたくないことなんだな。ちゃんと話してもいいと思う日が来たら伝えてくれ」 どのタイミングで伝えたらいいかわからず、私は思い悩んでしまう。 誰にも相談できないし不安で怖くてどうしようもない。 妊娠検査薬で陽性と出てから、二週間が過ぎていた。 いつまでもこのままにしておくわけにはいかないし、お腹の子供のことも心配なので通院したい。 勝手に病院を予約して行ってこようかとも思っている。 スマホで近くの病院を探しているとチャイムが鳴った。 訪ねてきた人は七瀬さんだった。 何か悠一さんの大切な書類でも取りに来たのだろうかと思ったがそんな感じでもない。「奥様にお話があってきました。もしよければ、少しお邪魔してもよろしいでしょうか?」 断る理由もないので、リビングに通した。「……どうぞ」 お茶を出す。 張りつめた空気が流れていた。「何かあったのでしょうか?」「とても言いにくいのですが……。そろそろ離婚をしていただけないでしょうか?」「り、離婚ですか?」 頭を金槌で殴られたかのような強い衝撃が走った。
家に戻ってきて深呼吸をしてからお手洗いに入る。 結果が出るまでそんなに長い時間ではないはずなのに永遠かと思うほど長い時間だった。 結果は陽性だった。 心から愛する人の子供がお腹の中にいるのだと思うと、体の底から湧き上がってくる歓喜に包まれる。「……赤ちゃんが、ここにいるの?」 まだ全然膨らんでいないお腹を見て不思議な気持ちになった。 お腹にそっと手を触れて何度も撫でた。 喜びと不安と困惑が一気に感情が押し寄せてきた。 まだ病院に行ってないから確実ではないけれど、タイミングからして、あのクリスマスの夜に初めて抱かれた日だろう。 愛されていると感じた聖なる夜の出来事。「……産みたい」 素直な気持ちが口に出た。 でも、もしもおじい様のために結婚したのであれば……。 亡くなってしまった今、私の存在は鬱陶しいだろうし、子供ができたことも喜んでくれないかもしれない。 もし嫌な顔をされてしまったらどうすればいいのだろうか。考えるとだんだんと怖くなってきた。 悠一さんには、すぐに知らせるべきなのか。確実になってから知らせるべきか。とても自分で勝手に病院を決めていくのも何か違うような気がする。 ホルモンバランスが崩れているせいか、考えても悪いことばかり想像してしまう。「どうしたらいいの……」 つぶやいた声は静かな部屋に消えていった。
子供ができていたとしても産むことを許してくれるだろうか。 もしかすると、産むことすら許してくれない可能性だってある。 本当に妊娠していたら私は絶対に子供を産みたい。 悠一さんの本心はわからない。私に対する愛情はないかもしれない。 でも私は彼のことを間違いなく愛しているのだ。 だんだんと気持ちが暗くなっていく。 考え込んでいても前には進めない。わかっているけれど恐怖心が支配し頭も体も動かなかった。 少し気持ちをつかせるために温かいお茶を飲んで深呼吸を繰り返した。 こんなことばかりしてはいられない……。 まずは事実確認をしなければと思い、私は妊娠検査薬を購入することにした。 外出する準備を済ませ外に出るけれど頭の中がぼんやりとしていた。 近所のドラッグストアに入ったが、妊娠検査薬がどこにあるのかすぐには探せなかった。普段迷ってしまったら店員に「どこにありますか?」と質問するけど、今回はなかなか勇気が出なくて自力で探すことにした。 やっと見つけたけれどなかなか手に持つことができない。 現実を受け止めなければいけないと思っているのに、どこか目をそむけたい自分もいる。 妊娠検査薬を手に持つと私は誰かに見られたら困ると思ってダッシュでレジまで向かった。 購入するだけでも緊張で手が震えてしまった。
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