【二〇一五年 杏】
老人がふと穏やかな声で提案してきた。
「私は絵を描くのが趣味でね。よければ、その目撃した男の顔をスケッチして君に渡そうか?」
思ってもいなかった申し出に、首を何度も縦に振る。
「はい! そんなの、願ってもないです。ぜひお願いします!」
嬉しくて、胸が高鳴る。
希望が見えた気がして、気持ちが一気に昂ぶった。私の様子を見て、老人は満足そうに目を細めた。
そして店員を呼び、紙と鉛筆を頼むと、テーブルの上で描き始めた。その手元を見守る私の胸は、期待と緊張でいっぱいだった。
老人は落ち着いた手つきで、迷いなく線を走らせていく。スケッチブックの代わりに使われている紙はカフェの伝票の裏だったけれど、それでもその手際は見事だった。
私は、じっとその様子を見つめながら、早く見たいという衝動をなんとか抑えていた。
二十分ほど経った頃、老人が鉛筆を置いて微笑む。「できたよ」
その言葉に、私は座ったまま身を乗り出した。
老人が手渡してくれた紙を、震える手で受け取る。「ありがとうございます……!」
待ち焦がれたその絵は、驚くほど繊細で丁寧だった。
紙の上には、まだ若い男性の顔が克明に描かれている。
目元、口元、髪の毛の一本一本まで、丁寧に描かれたその男の表情は、なぜか胸にひっかかるものがあった。「すごい……上手ですね……」
そう呟いた瞬間、私は息を呑んだ。
……この顔、どこかで見たことがある。
いや、違う。
この顔は、誰かに似ている。
「どうしたんだい?」
老人が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「え? いえ……大丈夫です。ただ、思った以上に上手で、驚いてしまって」
なんとか笑顔を作って答えたものの、自分の顔が強張っているのが分かった。
「無理しなくていいんだよ」
【二〇二五年 杏】 私は俯き、静かにつぶやいた。「お父さんは……死んだ」「……えっ」 しばらく絶句していた修司が、ようやく声を震わせながら問いかけてくる。「な、なんで?」「心筋梗塞。私が十八のとき」「……そう、だったんだ……」 修司は、何も知らない。 きっと父の死も、今初めて知ったのだろう。 ショックを受けているのが、顔にありありと浮かんでいた。 彼が父の死を知れば、傷つく。 優しい人だから。 そんなこと、わかってた。 そして、真実はもっと残酷で……。 これは絶対に知られてはいけない。 修司のためにも、知らないほうが幸せなのだ。 ああ、何で私は修司と話してしまったのだろう。 なんで、言っちゃったんだろう。 修司があまりに、昔のままで。 つい、気が緩んでしまった。 言うつもり、なかったのに。 やっぱり、修司と話すべきじゃなかった。 苦しい、胸が張り裂けそう。 辛い過去の記憶が、私の心を覆いつくそうとする。「ごめん、私、もう行く」 修司といることに耐えられなくなった私は、立ち上がった。「待って!」 去ろうとした瞬間、修司が咄嗟に私の手を掴んだ。 握られた手が――熱い。 私たちは見つめ合ったまま。 時が止まったかのように、動けなかった。 彼の切なげな瞳から、目が離せない。 修司……本当は、私。 はっとして、思考を現実へと引き戻す。 私はいったい、何を考えて! 目をぎゅっと閉じ、思考を振り払うため頭を強く振った。 そして、修司の手を乱暴に振りほどく。「はな、して!」 その勢いのまま、駆け出そうとした。 だけど、修司の悲痛な声が、私の足を止めた。「杏!! どうし
【二〇二五年 杏】 私がお弁当を持ってきたことを知ると、修司は「二人きりになりたい」と言って、私を屋上へ連れて行った。「お弁当、食べていいよ。時間が無くなっちゃうと困るだろ? 食べながらでいいから、少しだけ俺と話してほしい」 屋上に着くなり、修司はベンチを指差して私を座らせると、その隣に腰を下ろした。 そして、気恥ずかしそうな笑みを向ける。 変わらない……。その優しい微笑み、穏やかな声、澄んだ瞳。 十年前と何も変わっていない修司が、そこにいた。 胸が締めつけられる。 苦しいのに、どこか嬉しかった。「じゃあ、いただきます」 修司の前でお弁当を食べるのは、ちょっと照れくさい。 でも、何かしていないと気まずくて、私は手早く包みを開いた。 緊張で、ちゃんと喉を通るのか不安だったけど。「へえ、その弁当……杏が作ったの?」 修司が私のお弁当を覗き込みながら、無邪気に目を輝かせ聞いてきた。 なんてことない一言のはずなのに、私は一瞬、答えに詰まる。「私じゃない……弟だよ」「あ……ごめん」 気まずそうに目をそらす修司に、私もなんだか気まずくなった。 普通なら、私が作った、と思うよね。 ちょっとへこむなあ。 女らしくないって思われたかな――って、いや、何を気にしてるんだ、私。 別に、修司にどう思われても関係ないのに! むしゃくしゃする気持ちを隠すように、お弁当をかきこむ。 そんな私の横顔を、修司はじっと見つめていた。 なに? なんで、そんな見つめるの? は、恥ずかしいよ~。「あのさ……そんなに見つめないでくれる? 恥ずかしいんだけど」「あ、ごめん! そうだよなっ」 修司はあわてたように笑って、視線を空に向け
【二〇二五年 杏】 仕事に集中したいのに……と私は頭を抱える。「佐原さん、聞いてますか?」「は、はい!」 先ほどから声をかけられていたのか、私がぼーっとしていたのかはわからない。 私が顔を上げると、鬼のような形相の先輩が目の前に立っていた。 女性社員から一番恐れられている、あの厳しい先輩だ。「さっきから、これ、お願いって言ってるんだけど」 ドサッ、と大量の資料が私の机に置かれた。 先輩は少し乱れた髪を手で押さえながら、大きなため息をつく。 私は目の前の資料を指差しながら、おそるおそる尋ねた。「……あの、これは」「だから! 明日までに資料、まとめといてって何度言えばいいわけ? 佐原さん、しっかりしてよね!」 目を吊り上げ、少しずれた眼鏡をくいっと押し上げながら睨んでくる先輩。 ふんっと鼻息を荒くし、私の顔にまで届きそうな勢いだ。 私が小さく頷くと、先輩は大仰に背を向け、ぷりぷりと怒ったまま立ち去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、私は大きなため息を吐いた。 駄目だな……修司に会っただけで、これだ。 意識しないでおこうと思えば思うほど、彼の存在は私の中で大きくなっていく。 どうしてこうなるんだろう。 私は視線を廊下に面したガラス窓へと向けた。 その向こうでは、先ほどから何度も警察の人たちが行き来しているのが目に入ってくる。 それが私の気力と神経をどんどん奪い取っていく。 通り過ぎるたびに、勝手に探してしまう。 またひとり、刑事らしき人物が歩いていく。 先ほども見たダークグレーの背広。 ……修司だ。 私の胸が、また激しく脈打つ。 本当に……正直だな。 我ながら、あきれる。
【二〇二五年 杏】 ……こういう予感は、当たるんだよね。 私は自分の運の悪さを、心の底から恨めしく思った。 瞳に映るのは――修司の横顔。 私の隣には彼がいる。 なんで、こんな状況になってしまったんだろう。 朝、会社に着いてすぐ、私は急いでエレベーターへ駆け込んだ。 別に、修司が会社にいるって確証があったわけじゃない。 でも、万が一ってことがある。 それに備えたかった。ただそれだけ。 できるだけ早く、自分の部署へたどり着きたかった。 よし、ここまではなんとかスムーズにこれたな……とほっとしたのも束の間。 エレベーターの扉が閉まりかけた、その瞬間。 誰かが滑り込んできた。 その姿を見た途端、息が止まる。 ――修司だ。 私が彼を見間違うはずがない。 ずっと、ずっと、忘れたくても忘れられない人。 愛しくて……苦しい。 ああ、もう……どうして、こうタイミングよく現れるかな。 思わず睨んでしまった私に、修司が気づく。 目が合った。 心臓が跳ねる。 それを必死に隠しながら、私はぺこりと会釈だけする。 修司も、驚いたように目を見開き、それから軽く会釈を返した。 エレベーターの中、すぐ隣には修司。 肩が触れそうなくらい、近い。 ドキドキドキ……。 心臓がうるさく鳴ってしまう。 意識しちゃ、だめ! 私は思考を修司からそらすため、エレベーターのボタンに集中する。 修司は何階で降りるのだろう。 さきほど彼はボタンを押さなかったってことは、今光っているボタンの中に正解はあるはず。 ボタンは三と六だけが光っている。
【二〇二五年 杏】 翌朝、耳に心地よい音が届いた。 ――トントントン。 リズムよく響く包丁の音。台所の方から聞こえてくる。 ああ、もう朝なんだな……と、ぼんやり思いながら体を起こした。 気づけば、ちゃんとベッドで眠っていたことに驚く。昨夜は泣き疲れて、そのまま眠ってしまったはずなのに。 またやらかした。 きっと、新がベッドまで運んでくれたに違いない。 よくあること。というと、なんだか情けないけど。 ほんと、どっちが年上なんだかわからない。 弟の新は、私よりよっぽどしっかりしている。 姉の私でさえ、彼のだらしない姿を見たことがなかった。 彼の強さは、歩んできた人生の中で育まれたものなのかもしれない。 母を早くに亡くし、父の事件に巻き込まれ…… 幼い頃から、理不尽な運命を背負って生きるしかなかった。 だから、新はあんなにも強いのだろうか……。 それとも、初めからそういう子だったのか。 でも、どちらにせよ、本当に立派に育ったと思う。 私はというと。 あんなにしっかりした弟を持っていながら、こんなにも頼りない姉で申し訳ない。 ……だからこそ、余計に心配になる。 新は我慢し過ぎてはいないかと。 無理をしていないかと。「姉さん、起きた?」 コンコンと軽くノックされたあと、ドアが開いて、エプロン姿の新が顔を覗かせる。「起きたよ。おはよう……」 姿を見て、どこかほっとする。 でも、昨日のことを思い出すと、少し照れくさかった。「昨日はごめんね。それと……ありがとう。すぐ支度するね」 私が笑いかけると、新も少し照れたように、でもいつもの笑顔で微笑み返してくれた。
【二〇二五年 杏】「じゃーん、どう?」 新が無邪気に笑いながら、私の目の前に料理を並べた。 小さなローテーブルの上には、こんがりと焼かれたハンバーグ。しかもその上に、見事な半熟の目玉焼きまで乗っている。 さらに私の大好物、シーザーサラダまで添えられていた。「どうしたの? 今日はやけにご馳走じゃん」 ウキウキとした気持ちを隠せず、私はハンバーグから新へと視線を移す。 けれど、さっきまで満面の笑みだった新の表情が、ふっと曇った。「うん……姉さんのこと、元気づけたくて」 新は少しうつむきながら、気まずそうに笑う。 そうか。 やっぱり、新は気づいていたんだ――今日、お墓の前での私の様子を。 いくら隠したつもりでも、新の目はごまかせない。「あ……うん、そっか。ありがとう、新。 姉さん、嬉しいよ。こんな優しい弟がいてくれて」 私はわざと明るく言葉を返す。 それでも新の表情はどこか切なげなまま、静かに自分の定位置に腰を下ろした。 わずかに気まずさを感じつつも、私は箸を手に取る。 「いただきます」と小さく呟いて、目の前のハンバーグをひと口頬張った。 肉汁がじゅわっと口の中に広がる。 すごく美味しいはずなのに……あんまり味がわからなかった。 のどがつかえて、水を一気に飲み干す。 ちらっと新の方をうかがうと、彼は静かに食事を続けている。 新の思いは、痛いほど伝わっていた。 きっと、彼の中にあるのは月ヶ瀬修司のこと。 お墓の前で、私が彼を想っていたこと。 新は全部、気づいてる。 ダメだね、私。 お姉ちゃんのくせに、弟にこんなに心配かけて。 私は食べ終わると、そっと新に向き直った。「新……」「……何?」 真剣な眼差しを向けると、新は少し戸惑いながらも、まっすぐに私を見返してくる。「ごめん