そのことを理解した秘書は、再び自分の仕事に取り掛かり始めた。彼がこんなにも気を使っているのを見て、京弥は心の底から一抹の喜びを感じた。どうやら、この秘書は少しは分別があるようだ。部屋にいる紗雪は、秘書か他の社員だろうと思い、あまり考えずに口を開いた。「入って」声を聞いた京弥は、迷うことなくドアを開けて入った。デスクにいる秘書と円は、顔を見合わせて好奇心から疑問に思った。この時間に、京弥が紗雪を訪ねてきたのは一体何のためだろう。とにかく、しばらく見かけなかった京弥が自ら積極的に紗雪を訪ねてくるなんて、驚きだった。京弥が入ってくると、紗雪は机に向かって急いで何かを書いていた。彼が入ってきたことにも気づかず、頭をあまり上げることなく言った。「何か用事があるなら、直接言って」紗雪は足音を聞いて、その人物がすでにオフィスに入っていることを察知したため、こう言った。京弥は意図的に黙っていた。紗雪がいつ気づくかを待っていた。紗雪はしばらく待ったが、誰も何も言わないことに少し不思議に思った。オフィスに入ってからこんなに経っているのに、何も言わないなんてどういうことだろう。疑問を抱えながら顔を上げ、ついに見覚えのある顔を見て、眉をひそめた。「どうしてあなたがここに?」その言葉を聞いて、京弥は眉をひとつ上げた。彼は紗雪がどんな反応をするかいろいろ考えていたが、まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかった。この反応には本当に驚かされた。「それがどうした?」京弥はゆっくりと紗雪に近づき、腕を紗雪の両脇に押し付け、身をすっぽりと彼女の前に立てた。後ろから見れば、まるで彼女を抱きかかえるような形になっていた。「俺がここにいるって、そんなに驚くことなのか?」紗雪は後ろに体を反らせ、二人の距離を引き離した。「別に、ただ、突然来るのはちょっと意外だなって」紗雪は意図的に距離を取って言った。「それに、あなたには他にもやるべきことがあるんじゃないの?どうして急に二川グループに来たの?」紗雪はあの日、椎名のことをどうしても思い出してしまった。あの男の冷たい態度が、今でも深く心に刻まれていた。他の人たちが見ていたにもかかわらず、目の前のこの男は、彼女に一切の配慮も示さなかった。
京弥は何も言わず、ただ一歩一歩紗雪へと近づいてきた。紗雪が異変に気づいたときには、すでに彼女はオフィスチェアと京弥の間に閉じ込められていた。逃げ場などどこにもない、まるでまな板の上の魚のように、なすがままだった。紗雪は手を伸ばして京弥の胸を押しとどめた。「何をするつもり?」「ここはオフィスよ、ふざけないで」京弥は手を伸ばして彼女の手首を掴んだ。大きな手にすっぽりと包まれた小さな手が、紗雪をますます小さく、愛らしく見せた。「俺がどうしてここにいるか、一番分かってるのは奥様の方だろ?」紗雪は頭の中が疑問符でいっぱいになった。京弥が何を言いたいのか、さっぱり分からない。「どういう意味?」京弥は紗雪の耳元に顔を寄せ、甘い吐息を吹きかけながら囁いた。「俺がさっちゃんに会いたかったからだよ」「さっちゃん、俺たちもうずっと......」その先は言葉にしなかったが、彼の手は自然と紗雪の腰に回り、彼女が倒れないように支えた。細い腰を抱き寄せると、二人の距離はさらに縮まる。特に、タイトなビジネススーツに身を包んだ紗雪の胸元の柔らかな感触が、京弥の硬い胸板に押し付けられる。その柔らかな感触に、京弥は思わず息を詰めた。どうやら、彼の身体は紗雪をさらに求めているらしい。紗雪の頬にもほんのりと赤みが差した。「は、放して、何するの......」「ここはオフィスなのよ、まさか......」自分でも信じられない思いでそう問いかけた。本当にこんなことをするつもりなのか。「そうだよ、君が思ってる通りだ」その一言で、紗雪の瞳が大きく見開かれた。京弥は紗雪を抱き上げるそぶりを見せた。入ってきた時から、このオフィスに休憩室があることには目をつけていた。なら、問題ないだろう。だが、紗雪は抵抗した。あの日、彼が冷たかったことを思い出したのだ。今日こうして迫ってくるのは、あの日の埋め合わせのつもりなのか?彼女の頭は混乱して、答えを出す間もなく、京弥に担がれるようにして休憩室へと連れて行かれてしまった。「本気なの?」紗雪の問いに、京弥は低く「うん」と答え、瞳はさらに深く暗く染まった。今回こそ、彼女に自分の気持ちを証明してみせる。ここまで来ても、まだ冗談だと思うなんて、やっ
この瞬間の紗雪は、何も考えず、ただ目の前の男だけを見つめていた。認めざるを得なかった。京弥は、彼女の美的感覚に完璧に刺さる存在だった。もし相手が別の誰かだったなら、きっとこんなにも自然に受け入れることはできなかっただろう。京弥は紗雪の感情の変化に気づき、さらに情熱を込めて動きを強めた。二人の心が乱れ、空気が甘く色づき始めたその時。突然、鋭いベルの音が空気を切り裂き、甘美な雰囲気を打ち壊した。京弥は驚いて体を震わせ、紗雪の瞳にも一瞬にして冷静さが戻った。彼女は京弥を見やり、明らかに不機嫌さを滲ませた声で言った。「電話、鳴ってるよ」京弥はかすれた声で答えた。「放っておけ」電話はしばらく鳴り続けた後、ようやく切れた。二人はほぼ同時に、ほっと安堵の息を漏らした。京弥は再び続きをしようとした。だが、またしてもベルが鳴り響いた。さすがに二人の興が大きく削がれてしまった。京弥は眉間に不快感をにじませたが、着信相手を見て、仕方なく電話を取った。「......ああ、わかった。あとで教えるから」紗雪は隣で横たわりながら、電話越しに聞こえてくる声に耳を澄ませた。その声は、あまりにも聞き覚えがあった。八木沢伊澄。間違いない。相手が誰か分かった瞬間、紗雪の心に苦い痛みが広がった。結局、彼女は京弥にとって何なのだろう?こうして二人の関係の最中に、他人からの電話に遮られるような間柄で。この先も、同じようなことが繰り返されるのではないか。そんな不安が、紗雪を深く蝕んでいった。彼女が思考に沈んでいる間に、京弥は電話を切ろうとしていた。「とりあえずそういうことで。あまり心配するな」彼は適当に慰めの言葉をかけると、電話を一方的に切った。そしてまた紗雪に手を伸ばし、続きを始めようとした。だが、その時にはもう、紗雪の心はすっかり冷めていた。彼女は男の手を振り払うと、不機嫌そうな顔で体を起こした。その目に映った京弥の整った顔立ち。そして思い出したのは、伊澄のあの挑発的な笑みだった。紗雪は深く息を吸い込んだ。だが、それでも胸の痛みはどうしても拭えなかった。どうして。自分はもう悲しまないと、あんなにも誓ったのに。なぜ、こんな感情がまだ湧き上がってくるのだろう?
ただ今、紗雪は、自分の心の中で何かが確かに変わってしまったことを、認めざるを得なかった。だからこそ、京弥を見るたびに、どうしても感情を抑えきれなくなる。人間とは本来そういうものだ。感情を抑えきれないからこそ、欲しいものがどんどん増えていく。紗雪は必死に自分に言い聞かせた。彼にはすでに初恋がいる、自分はただの道具にすぎない、と。なのに、どうして無駄に本気になろうとするのか、と。感情というものは、そもそも大勝負だ。先に本気になったほうが負けなのだ。加津也の一件で、まだ学ばなかったというのか?そう思うと、紗雪は自分の目を潰したくなるほどだった。彼女は込み上げる不快感を必死に抑え、目の前の書類に意識を集中させた。土地の件もまだ進展がないのに、感情ごときでつまずいていられない。京弥が服を整えて部屋から出てきたとき、紗雪はすでに書類に目を通していた。彼女は無表情で、縁なしのメガネをかけ、精緻な小さな顔には感情の起伏が見えず、ただ真剣なだけだった。京弥は薄い唇を引き結び、紗雪ときちんと話す決意をした。せっかくここまで来たのだ、何も得られずに帰るわけにはいかない。「さっちゃん、さっきは......」声をかけた途端、紗雪は顔も上げずに遮った。「椎名さん、特に用がないなら、お帰りください」「さっちゃん、お願いだ。ちゃんと話し合おう?」椎名さん。その呼び方は、鋭く京弥の心を刺した。以前の紗雪なら、絶対にそんなふうに呼ばなかった。その言葉に、紗雪もようやくパソコンから顔を上げた。鋭い視線で京弥を見据え、冷たく言い放つ。「椎名さん、同じことを言わせないで。私の時間は限られてる。さっきのことは、互いに同意の上、正式で合法的なもの。これ以上蒸し返さないで」「他のことにも興味はありません。忙しいので」それだけ言うと、再びパソコンの画面へ視線を戻した。その頑なな態度に、京弥もこれ以上居座ることをためらった。紗雪の性格をある程度知っている彼は、これ以上押しても、彼女の機嫌と忍耐を無駄に試すだけだと分かっていた。結局、京弥は諦めて、オフィスを後にするしかなかった。扉が閉まった後、紗雪はようやく全身の力を抜き、椅子にぐったりと身を預けた。彼女はため息をつきながらスクリーンを見
この曖昧な一言で、たちまち皆の興味は最高潮に達した。みんなは京弥を見る目に、どこか含みを持たせるようになった。だが、秘書だけは違和感を覚えた。この男の発言、妙に含みがある。こんなことを言えば、オフィスの中で何があったかなんて、誰だって察してしまうではないか。秘書が追いかけて確認しようとした時には、京弥はすでにエレベーターで降りてしまっていた。結局、秘書は諦めるしかなかった。それでも、さっき京弥が言った「会長は疲れている」という言葉を思い出し、とりあえず今日はそっとしておこうと判断した。しかし、その頃、会長である紗雪はというと、まったく仕事が手につかない状態だった。仕方なく、彼女はターゲットを取引先に切り替えることにした。会って話をすれば、情に訴えることができる。そう考えていたからこそ、紗雪は常に対面での打ち合わせを重視していた。結局、友人たちに何度も頼み込んで、ようやくジョンとの連絡先を手に入れた。当初、ジョンは紗雪と連絡を取ることに乗り気ではなかった。彼は海外で自分の会社を持ち、二川グループのことなど聞いたこともなかったのだ。紗雪も、その点は十分に理解していた。二川グループは確かに鳴り城では一定の地位を築いているが、国際的に見れば、まったく無名と言っていい。だからこそ、紗雪は海外進出を目指していた。二川グループの国際的な知名度を上げるためにも。紗雪はジョンと話す際、常に慎重だった。頭の中で何度も言葉を練ってから送信する。「初めまして、ジョンさん。以前から海外でのご活躍を伺っており、大変尊敬しております」ジョンも礼儀正しく返信した。「とんでもありません。些細なことばかりで、お恥ずかしい限りです」「ずっとお目にかかりたいと思っておりました。近々、鳴り城でパーティーがございます。もしお時間が許すようでしたら、ご参加いただけませんでしょうか」このメッセージを見て、ジョンはしばし固まった。銅色の肌に、わずかに迷いの色が浮かぶ。彼はずっと海外でビジネスをしており、国内市場への進出も考えてはいた。しかし、国内展開のパートナーに二川グループを選ぶことなど、一度も検討したことがなかった。もし紗雪が連絡してこなければ、彼女の名前すら知らなかっただろう。ジョンは、
今の二川グループの発展の勢いは、かつてとは比べ物にならなかった。紗雪は資料をきちんと整理し、それを一つのファイルにまとめてジョンに送った。さらに一言メッセージを添えた。「ジョンさん、どうか私にチャンスをください。必ずご期待に応えます」その頃、ジョンは食事中だったため、もともとは紗雪の連絡を無視するつもりだった。だが、紗雪の送った内容が彼にとって非常に興味を引くものだったため、心を掻き乱されるような思いに駆られた。何度も躊躇いながらも、気付けばファイルを開いていた。「相手がファイルを受信しました」という表示を見た紗雪は、すでに半分は成功したと確信した。案の定、三十分後にジョンからメッセージが届いた。「二川さん、うちの秘書によると、あの日は予定が空いているそうです。必ず時間通りに伺います」ジョンからの返信を見た紗雪は、口元に一層深い笑みを浮かべた。彼女には確信があった。ジョンは必ず来る、と。紗雪はわざと十数分ほど待ってから返信を送ることにした。時には緩急をつけることが肝心だ。あまりに急ぎすぎると、こちらが必死に取り繕っているように見える。主導権を相手に握らせるのは時に必要だが、ずっと握らせ続けるわけにはいかない。これこそが二川グループに入って以来、紗雪が最も学んだ重要な教訓だった。さらにしばらくしてから、紗雪はゆったりと返信した。「はい。場所を改めてお送りしますね」対するジョンもすぐに「OK」のハンドサインのスタンプを送り、二人は友好的なやりとりを交わした。具体的にどんな話をしたかは、二人だけの秘密だった。ジョンとの連絡を終えると、紗雪は次に控えるパーティーの準備について考え始めた。どうせ人を招待するのなら、ジョン一人だけでは物足りない。紗雪は、鳴り城でも名の知れた企業の代表たちを招待するつもりだった。彼らの多くはすでに二川グループと取引関係がある。だからこそ、彼らに招待状を送る意味があった。最初、美月は紗雪の行動を少し不思議に思った。だが、紗雪の説明を聞いて納得した。「会長、パーティーを開くのは確かに手間も時間もかかります。でも、もし成功すれば、二川グループの名を一気に高めることができます」紗雪は一拍置き、続けた。「それに、今回のパーティーは特に
この二川紗雪は、どうやってジョンをこのパーティーに招待したのだろうか?周囲の人々は、羨望と困惑の入り混じった視線を紗雪に向けた。美月もまた少し驚いていた。もともと、あのプロジェクトが却下されたと聞いて、紗雪もきっと諦めるだろうと思っていた。まさか、彼女はまったく諦めておらず、裏で海外企業のディレクターと連絡を取っていたとは。美月は美しい目を細め、紗雪を見つめるその瞳には、深い賞賛の色が浮かんでいた。どうやら、彼女はまったく諦める気などなかったのだ。全員に期待されなくても、彼女にはまだ、自分自身がいる。美月はようやく悟った。この娘は、自分が信じたものをそう簡単には手放さないのだと。たとえ僅かな希望でも、決して逃さない。そう考えると、美月の心も穏やかになった。娘に向上心があるなら、それだけで十分だ。無理に何かを求める必要はない。これまで多くのことを経験してきた美月は、すでに心境の変化を遂げていた。今この瞬間、すべての視線は紗雪とジョンに注がれていた。紗雪はジョンに近づき、真剣な表情で紹介した。「ジョンさん、これがあなたを鳴り城にお招きする第一歩です」「このパーティーは私が用意したものです。ジョンさんを歓迎するための宴でもあります。私の誠意を感じていただければ嬉しいです」ジョンは微笑みながら軽く頷いた。「本当に気が利くですね。二川グループとの協力については真剣に考えさせてもらいますよ」二人のやり取りを聞いた周囲の人々は、口が閉じられないほど驚いていた。なるほど、だから紗雪はパーティーを開いたのか。これほどの出来事なら、当然だろう。しかも、ジョンは海外企業の著名な人物であり、彼と提携できれば、二川グループの名前を一気に広めることにもなる。その事実を理解したからこそ、人々の視線はますます熱を帯びていった。緒莉は群衆の中に立っていた。華やかな衣装に身を包み、精緻なメイクを施していた。紗雪が現れる前は、皆の視線は間違いなく緒莉に向けられていた。だが、紗雪とジョンが一緒に現れた瞬間、そのすべてが一変した。本来自分に向けられるはずだった注目は、今すべて紗雪に奪われていた。美月の目に浮かぶ、紗雪への認める色も、彼女はしっかりと見逃さなかった。緒莉の隣には辰琉が
辰琉は未練がましく紗雪から視線を外し、緒莉に向かって慰めるように言った。「いってらっしゃい。ここで待ってるから」緒莉は素直にうなずき、バッグを手にトイレへ向かった。鏡に映った自分の顔を見た瞬間、彼女は思わず身を引いた。鏡に映るこの醜い顔は、本当に自分なのか?もっと注目されたい。それだけだったのに、それがそんなにいけないことなのか?すべては紗雪のせいだ。あの女がいなければ、自分がこんな嫉妬深く醜くなることなんてなかったはずだ。「海外のプロジェクトを手に入れたいって?」緒莉は真っ赤な唇を吊り上げた。「安心して。あんたが欲しいだというのなら、絶対に渡さないわ」彼女は顔に浮かんだ醜悪な笑みを消し去り、落ち着き払った様子で高級ブランドのリップを取り出して化粧を直した。トイレから出てきた時には、再び輝くようなオーラをまとった緒莉に戻っていた。7センチのハイヒールを履いた彼女は、まるで別人のような気品を纏っていた。そんな緒莉を見た辰琉は、少し戸惑いを覚えた。たったトイレに行っただけなのに、なんでこんなに変わったんだ?「どうしたの?」緒莉は辰琉のじっとした視線を受け止め、くすりと笑いながら尋ねた。辰琉はすぐに我に返り、「いや、なんでもない。ただ、今日の君はすごく綺麗だなって」と答えた。緒莉は心の中で冷笑した。さっきまであんなに紗雪ばかり見ていたくせに。「こんなに長く一緒にいるのに、なんで急に......」緒莉はわざと恥ずかしそうに顔を赤らめた。その仕草を見て、辰琉の中に残っていたわずかな違和感も完全に消えた。一方その頃、紗雪はジョンを連れて、出席者たちの前に立った。そして堂々と紹介を始めた。「本日は、二川グループのパーティーにお越しいただき、誠にありがとうございます。本日の主役は、こちらにいらっしゃるLC社のディレクター、ジョンさんです」紗雪は手を伸ばし、ジョンを紹介した。ジョンもにこやかに会釈し、「皆さん、初めまして。ジョンです」と挨拶した。紗雪はさらに続けた。「ジョンさんのことは、皆さんもご存知でしょう。彼は海外でもいくつもの大きなプロジェクトを成功させた方です。皆さんも耳にしたことがあるはずです」紗雪の言葉に、ジョンは少し恥ずかしそうな顔をしたが、心
「もう分かってる」紗雪はうなずき、このことについて理解したということを伝えた。彼女の態度がこんなに投げやりだったので、京弥の心の中も少し胸が苦しくなった。彼も少し不満を感じていたが、紗雪に対して怒ることはできない。結局、黙って「そう」と一言だけ言って、部屋に戻った。紗雪も髪を乾かす手を放し、まるで空気が抜けた風船のように肩の力が抜けた。確かにさっきまで威厳を保っていたが、実際のところ、それはただ無理をしていただけだった。京弥が部屋に戻ると、心の中はますます苦しくなった。こんなに長い間、彼がどうやって説得しても、紗雪は受け入れてくれなかった。京弥はスマホをベッドに投げ捨て、手で眉間を押さえて深くため息をついた。心が疲れていた。長い時間がかけて築いたこの関係が、伊澄のせいで、壊れてしまうのか?そう考えると、京弥は非常に惜しいと思った。しかし、次の日、紗雪と和解しようとした京弥は、彼女が客室にいないことに気づいた。その瞬間、京弥は少し苛立ってきた。夜、家に帰った时、伊澄は二人の間に不穏な空気が漂っていることに気づいた。何となく、微妙な感じがした。しかし、具体的にどこが違うのかは、彼女には言葉にできなかった。そして、伊澄は、二人が家に入ってから、まったく会話を交わしていないことに気づいた。これはおかしい。以前なら、京弥が紗雪に話しかけたり、翌朝何を食べるかを尋ねたりしていたはずだ。しかし今、京弥は自分のことをしていて、紗雪も普通に食べたり飲んだりして、まるで彼と伊澄はただのルームメイトのようだった。伊澄は、そんな状況の中で心が浮き立つのを感じた。まさか、二人が喧嘩した?彼女は思わず質問した。「京弥兄、お義姉さんと話さないの?」「何があった?」その一言で、二人は目を合わせ、すぐに視線を逸らした。京弥は冷たく言った。「何でもない」紗雪は忍びきれず、伊澄に一言返した。「そう、喧嘩したの。あなたは、もうすぐ正妻になれるかもよ」そう言い終わると、紗雪はだらっと髪を整え、背を向けて家を出て、会社へ向かった。そのまま、伊澄と京弥だけが家に残された。伊澄は目に涙を溜め、泣きそうな顔で京弥を見つめた。「京弥兄、お義姉さんは私のことを誤解しているの?」
京弥は唇を引き締め、続けて言った。「もし彼女の兄がいなければ、俺は彼女とは多分知り合うこともなかったと思う」この言葉は、京弥が本当に思っていることだった。子供の頃、伊吹の家には彼一人しか男の子がいなかったため、せっかくできた妹を家族全員が大切にし、かなり甘やかして育てた。当然、それが原因で伊澄の性格がこんなに甘やかされ、わがままになったのだ。彼女は、欲しいものがあれば必ず手に入れなければ気が済まず、そうでなければ必ず何かで騒ぎを起こす。そして今回のことがきっかけで、京弥は今後、伊澄とは少し距離を置くべきだと感じていた。そうでないと、紗雪はまた誤解してしまうだろう。彼が今、最も心配しているのは紗雪の気持ちだった。他のことはどうでもいい、こんなふうに毎回騒がれる生活が続いていると、いつになったら家庭を持って、平穏無事な生活が送れるのかが分からない。紗雪の体が徐々に力を抜き、彼女はこのことが本当に真実なのかどうかを考え始めた。「言ってること、全部本当?」紗雪は今日初めて、京弥をまっすぐに見つめ、ようやく正面から反応を示した。京弥は真剣にうなずいた。「もちろん、嘘じゃない」「じゃあ、教えて。あなたと伊澄の兄はどうやって知り合ったの?」紗雪は再び尋ねた。京弥は紗雪がこんな質問をするとは思っていなかったので、少し戸惑った。もし答えるとしたら、それは自分の本当の身分を暴露することになる。しかし、今はそれを早く言いたくなかった。彼の本当の身分は、できるだけ少ない人にしか知られてほしくなかった。何せ、社会的な地位が高ければ、それだけ敵も多く、考えなければならないことは目の前の問題だけではない。紗雪が京弥のためらいを見て、彼女の目に失望が徐々に積もり始めた。「やっぱり、男の言うことは信用できないね」京弥はしばらく葛藤したが、最終的にはやっぱり答えないことに決めた。「紗雪、別の話題をしようか?」紗雪は冷笑を漏らし、この男に対する失望の気持ちがさらに深くなった。さっきは「嘘じゃない」って言ってるのに、今は話題をスルーとしている。「もう分かったわ」紗雪は何を言うべきか分からず、ただ笑ってごまかした。やはり、男の言葉は信じられない。京弥は紗雪が冷笑を浮かべるのを見て、その
京弥は手を離すことなく、先に言葉を放った。「もしかして、伊澄のことが原因で、俺に怒ってるのか?」その言葉を聞いた紗雪は、怒りを通り越して、むしろ笑えてきた。彼女はもう心の中の思いを隠すことなく、素直に言うことにした。「へえ?知ってるんだ」紗雪は京弥をじっと見つめ、その瞳は一瞬たりとも動かさなかった。彼女は、この男にどう向き合えば良いのか分からなかった。最初から、全てが一か八かの賭けだった。結果がどうなるか、もともと何も期待していなかった。でも、この男が初恋がいることを知った瞬間、紗雪は自分が冷静に京弥を受け入れられないことに気づいた。心の奥底にある、隠れた愛情が再びむくむくと顔を出し始めていた。紗雪の美しい瞳が京弥と交わった瞬間、彼はその意図を感じ取り、最初は驚き、次に大きな喜びに包まれた。さっちゃんが嫉妬しているのか?これって、さっちゃんも自分に気持ちがあるって証拠じゃないか?京弥は少し躊躇いながらも言った。「さ......さっちゃん、それ本当?」「君は伊澄のせいで、俺に怒っている?」紗雪は京弥の喜びに気づいたが、反骨精神が一気に湧き上がり、この男の思い通りにはしたくなかった。「もう言ったでしょ。同じことを言わせないで」京弥は紗雪の言葉を無視して、彼女を強く抱きしめた。「違うんだ、さっちゃん。ちゃんと話してくれ。君の口から直接聞きたいんだ」その言葉を聞いて紗雪は、ますます腹が立った。彼は今、完全にわかっていた。この男はわざとだ。じゃなきゃ、直接聞きに来るはずがない。紗雪は目を閉じ、いっそ何もかも言ってしまおうと決めた。「いいでしょう。そもそも、これ私たちの家なのに、突然誰かが入ってきた。私の気持ちを考えたことがある?」「そんなに仲がいいなら、そのまま彼女と一緒に住むことだってできたはず。私は......」京弥は紗雪のしゃべり続ける唇に、何も言わずに深くキスをした。心の中には喜びと感動が溢れていた。さっちゃんも自分を気にしているんだ。紗雪の呼吸は一瞬で奪われ、息をできないほどになった。だが、京弥はまるで砂漠で渇ききっていた人間が、久しぶりに水を飲むように、全部飲み干さなければ気が済まないかのようだった。その瞬間、彼は紗雪から少しも離れたくな
「それは彼女のことだ、勝手に言うな」京弥は一切を遮るように言った。彼は目の前の食事を適当に二口食べ、「食べ終わったら片付けて」と言った。その言葉を残し、京弥は部屋へと足早に戻った。伊澄は京弥の背中を見つめ、赤い唇をわずかに開けた。その後、腹立たしそうに目の前のご飯を力任せに突き刺すように食べた。何で、彼女のことを悪く言うことすら許されないのか?二人は幼い頃からの知り合いなのに。これは変わらない事実だ。京弥は会社に戻り、伊澄が毎日家にいるのは良くないと感じた。これはあくまで紗雪と彼の家なのだし、新婚の二人にとっては多すぎる人数だった。考えれば考えるほど、京弥は何かがおかしいと感じてきた。彼は直接伊吹に電話をかけたが、相手はずっと通話中だった。京弥は何度か電話をかけてみたが、どれも同じだった。仕方なく、京弥は伊吹に電話をかけるのを諦めた。椅子に寄りかかり、最近起こった出来事を頭の中で思い返していた。どうやら、伊澄が来てから何かが少しずつ変わってきたようだ。それで、紗雪は嫉妬しているのだろうか?京弥の目が輝き、この可能性が非常に高いと感じた。彼は今夜、紗雪に何があったのかを尋ねるつもりだった。もし、伊澄が原因なら、彼女を追い出す口実を作ればいい。そんな無関係な人々が、彼と紗雪の関係に影響を与えるわけにはいかない。ただ、紗雪は毎日早出遅帰りで、プロジェクトの仕事に追われていて、彼と会う時間もなかった。仕方なく、今夜、京弥は紗雪がよく寝る部屋で待機していた。紗雪が仕事を終えて帰宅したとき、いつものように電気をつけた。そして、シャワーを浴びようとしたその瞬間、なんと京弥がベッドに座って、正座をしてじっと彼女を見つめているのを見て驚いた。紗雪は眉をひそめた。「ここで何をしてるの」「君を待っていたんだ」そう言うと、京弥は立ち上がり、彼女に向かってゆっくりと歩み寄った。「私を?」紗雪は少し困惑した。この数日、彼らはほとんど話していなかった。何か話すことがあるのだろうか?しかし、京弥がゆっくりと近づいてくるのを見て、紗雪の眉はますます深くしかめられた。「普通に話せばいいじゃない、こんなことして何?」そう言いながら、紗雪は無意識に後ろに下がった。
彼に対する感情は、ずっと変わっていなかった。そのことを考えたとき、紗雪の瞳が一瞬暗くなった。なるほど、彼が以前伊澄をここに住ませることを許可した理由がわかった。結局、これらはすべて計画的なことだったのだ。そのことを思うと、紗雪は以前の自分が本当に滑稽だったと感じた。男女の間には、純粋な友情など存在しない。このことについて、紗雪は痛いほど実感していた。京弥はドアを閉め、紗雪のまだ水で濡れている髪を見て、手にタオルを取って言った。「紗雪、拭いてあげるよ」「いらない」女性の声は冷たく、京弥をまともに見ようともしなかった。まるで、見知らぬ人のように。この光景を見て、京弥も紗雪がおかしいことに気づいた。先ほど浴室から出たときから、彼女はかなり怒っていたが、今、彼に対してもその感情が一層はっきりと表れていた。京弥は紗雪が何に怒っているのか理解していたので、言い訳をしようとした。「紗雪、俺と彼女は......」「やめて」紗雪は彼の言葉を遮った。「私はそんな話を聞きたくないし、興味もない」京弥は紗雪の手を取ろうと前に進んだが、彼女の方が素早く手を引っ込め、触れさせなかった。「俺と彼女、何も関係ないんだ。彼女は妹みたいなものだよ」紗雪は冷笑を浮かべて言った。「言ったでしょ、興味ないって。今夜はソファで寝るわ」京弥は拳を握りしめ、心の中に湧き上がる無力感を感じた。何度も何度も、彼は本当にどうすればいいのか分からなかった。「いや、俺がソファで寝るよ」京弥はもう説明する気力もなく、軽くそう言って、リビングのソファへと向かった。彼の長い手足がソファで丸くなって寝ている姿は、どこか滑稽に見えた。紗雪はそんなことに気にせず、そのままベッドに横たわった。どうせ、こんなことは自分の望んだことではないのだから。それに、ベッドがあるのに、寝たくないのは彼自身の問題だ。その夜、二人とも眠れなかった。翌日。京弥は起きてベッドルームに戻り、紗雪に説明したいと思っていた。だが、ドアを開けると、部屋はすっかりきれいに片付けられていて、まるで早くに誰かが出て行ったかのようだった。京弥は目を細め、ドアノブを握りしめた拳が少しずつ強くなった。二人の間の亀裂はそのままだった。紗雪
伊澄は転んだ衝撃が強すぎて、京弥は両手で彼女を支え、彼女はそのまま男性の胸に寄りかかった。そして、夏だったので、寝間着は薄く、二人の姿勢は非常に微妙なものに見えた。紗雪が出てきたとき、その光景を目にして、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。「何してるの?」彼女はどれくらいの時間、この光景を見ていたのか、ようやく声を取り戻し、そう尋ねた。京弥はすぐに説明した。「転んだんだ、ちょっと手を貸しただけ」「そうですよ、お義姉さん。私の顔を見てください」紗雪の視線は、再び伊澄の顔に移り、そこには小さな赤い跡がついているのが見えた。確かに転んだ跡がある。ただ、「それで、たまたまここで転んだってこと?」紗雪は嘲笑を浮かべた。こんなに偶然なことがあるか?しかも、ちょうど彼女が洗い終わったところに。正直、彼女は計算ができる人だと認めざるを得なかった。彼女に賞をあげるくらいだ。この言葉を聞いて、京弥も少し不審に思った。伊澄が転んだのは、実は彼がドアを開けたときの反動のせいだった。京弥は目を細め、穏やかに紗雪に言った。「もういい、紗雪、彼女を帰してあげて」彼は紗雪が伊澄にあまり注意を向けるのが嫌だった。これ本来は二人の生活だし、伊澄は第三者に過ぎない。彼は、彼女を送り出すタイミングを考えていた。だが、紗雪には違った意味に聞こえた。「つまり、私は彼女を困らせてるってこと?」紗雪は信じられない表情で京弥を見た。彼がそのようなことを言ったのは、明らかに伊澄をかばっているからではないか?伊澄本人も、驚いたように京弥を見つめていた。彼女は分かっていた、京弥兄が簡単に自分を放っておくわけがないことを。幼いころからの思い出、紗雪のような後から来た人に理解できるわけがない。「やっぱり京弥兄がいてよかった」伊澄はわざと子供時代のことを持ち出して言った。「覚えてる?私が隣の家のガラスを壊したときも、あなたが助けてくれたんだよね。あの時は本当にありがとう......」伊澄の目の中には複雑で隠された愛情が滲んでおり、京弥をじっと見つめていた。紗雪は冷笑を浮かべて言った。「そう」彼らにとって、自分こそが第三者ってことか。「伊澄はもう休んで」京弥は彼女の傷のことには
実際、この答えを聞いて、緒莉は全く驚かなかった。彼女はもちろん、美月がそんなにすぐに権限を渡すことはないと知っていた。今日、この言葉を言ったのはただの試しに過ぎなかった。彼女が知りたかったのは、美月がどんな態度を取るのか、それだけだった。今、美月の態度を得たことから、緒莉は躊躇いながらも、すぐに反論しなかった。それが、まだ希望があることを示している。そのことを理解すると、緒莉は自分の人生がすべて希望に満ちているように感じた。......一方、紗雪が家に帰ると、家には彼女一人だけではないことに気づいた。彼女が一番遅く帰ってきたのだ。京弥と伊澄はすでに帰っていた。紗雪は眉をひとつ上げただけで、何も言わずに客室に入ろうとした。その光景を見た京弥は拳を握りしめ、何を言えばいいのか分からなかった。しかし、伊澄は声を上げて驚いた。「えぇ、お義姉さん、どうして客室に寝るのです?」紗雪は冷笑を浮かべて言った。「それはあなたに関係ないでしょ?」「でも、京弥兄と同じ部屋に寝るべきじゃ......?」伊澄は知らないふりをして言った。「もしかして、ケンカした?」紗雪は京弥と目を合わせ、一瞬で視線を外した。京弥は不満げに言った。「紗雪がどこで寝ようと彼女の自由だ、もう言うな」その言葉を聞いた紗雪は唇を少し上げて、京弥の腕に腕を絡めながら言った。「聞いた?もう黙りなさい、伊澄」「それと、今日は気分がいいから、主寝室で寝るわ」紗雪は、伊澄に甘んじることなく、すぐに方向を変えて主寝室の方へ歩き出した。伊澄は怒りで拳を握りしめ、心の中で思った。本当にこの人、ひどい女だ!余計な一言を言わなければよかった。伊澄は今、少し後悔していた。一方で、京弥は紗雪が寝室に行くと言って、唇の端を上げて笑みを浮かべた。それが、主人のいい気分を示していた。彼は紗雪の近くに寄り、自然に一緒に寝室に入った。紗雪は不満げに言った。「何をするの?」「一緒に寝るだろ?」京弥は少し無邪気に紗雪を見つめた。その無邪気で澄んだ目を見て、紗雪は本当にどう断ればいいのか分からなかった。でも、彼と初恋のことを思い出すと、紗雪の心には少しモヤモヤしたものが残っていた。「まあ、そのうちね」
紗雪はすぐに美月の意図を理解した。今回もまた、完全に緒莉をかばっているのだ。紗雪は腕を組みながら、少し目を細めて言った。「母さんは、今回もまた彼女を助けるつもり?」何度も繰り返されているのに、どうして母はまだ気づかないのだろう?美月は気にする様子もなく言った。「私はただ事実を言っただけよ。それに、緒莉のこと、ちゃんと処罰すると言ったでしょう」そして、さらに言い添えた。「それに、このプロジェクト、もう手に入れたんじゃない?」「冗談じゃないわ!」紗雪は美月の無関心に、少し怒りを覚えた。彼女は無関心そうに見えるが、実はすべてを知っているのだ。わかっていて、知らないふりをしているだけだ。美月は紗雪が不満を抱えているのを感じ取って、彼女の横顔を見ながら言った。「大丈夫よ、さっちゃん」「あとは私に任せなさい。今日は紗雪が好きな料理を作るから、ね?」紗雪は立ち上がった美月を見て、急いで歩み寄った。「いいよそんなの。しなくてもいいの」「母さんは座って休んでいて。料理は使用人に適当に作らせればいいんじゃない」美月は強く断言した。「だめよ、私が作ると言ったら作るの。他の人に頼む必要がないわ」そう言って、美月は台所に向かい、手際よく夕食の準備を始めた。紗雪は、母親が忙しく動いている背中を見ながら、胸が少し苦しくなった。緒莉のことを話すたびに、母親はあれこれ理由をつけて彼女を庇ってばかりだった。証拠を見ても、せいぜい口頭で軽く叱るだけ。そのことを考えると、紗雪は胸の中で何かが詰まったような気がした。食事の間、美月は絶えず紗雪に料理を取ってあげ、にこやかに言った。「もっと食べなさい。最近、プロジェクトにかかりきりで、少し痩せたんじゃない?」「ありがとう」紗雪はその食事の間、ほとんど話す暇もなかった。彼女が箸を止めるたびに、美月はすぐに気づいて料理を追加してくれる。結局、紗雪は他のことを話す隙間もなく、早めに食事を切り上げるしかなかった。紗雪は美月に別れを告げると、美月が少し引き止めた。「本当に一晩は泊まらないの?」紗雪は手を振って言った。「ううん。彼が待ってるから、帰らないと」そう言うと、紗雪は車を走らせて帰路についた。紗雪が帰った後、しばらくし
翌日、紗雪はこの件を考えれば考えるほど、ますます不快になった。特に、あのパーティーで緒莉があんなに攻撃的だったことを思い出すと、気持ちが収まらなかった。紗雪は怒りが収まらず、仕事を終えるとすぐに二川家に向かった。彼女は、もう耐えられなかった。緒莉はどんどん調子に乗っていた。あんなに傲慢な態度、もう見過ごせない。以前は何度か我慢したが、今回は、目の前で彼女と彼女の客を恥をかかせるようなことをされたのだ。今回は、紗雪も我慢できなかった。仕事が終わると、彼女はコピーしたビデオを手に、車で二川家に向かっていた。二川家に到着すると、ちょうど美月がソファに座って、顔からメガネを外そうとしているところだった。美月は紗雪を見ると、少し驚いた様子で言った。「紗雪?どうして帰ってきたの?」この娘のことについては、もちろん美月も知っている。紗雪は部屋を見渡し、緒莉がいないことに気づき、少し疑問を抱いた。「母さん、緒莉は?」「何を言ってるの!」美月は顔をしかめて言った。「緒莉はあなたの姉でしょう?ちゃんと『姉さん』って呼んで」紗雪は冷笑を浮かべて言った。「姉?私にはそんな姉はいないわ。私を邪魔することしか考えてないし、あの人」美月は眉をひそめ、紗雪をじっと見た。「その言い方は何?普通に喋りなさい」美月は平然と前の茶を一口飲み、落ち着いた様子を見せた。その態度は、焦った紗雪の様子とは対照的だった。紗雪は美月のその落ち着きが気に入らず、思い切って言った。「でははっきり言わせてもらうわ。もし緒莉が昨日あんなことをしなければ、もっと早く契約を結べたはず。でも、彼女のせいで、せっかくお招きした客がほぼ逃しかけた」紗雪は空いている椅子に座り、足を組んで、美月をじっと見ながら語った。今回は、美月が一体どっちの味方をするのか、すごく興味があった。美月は紗雪の目に含まれる含み笑いに気づき、思わず息を呑んだ。もちろん、紗雪が何を言いたいのかは分かっていた。緒莉がその犯人だなんて、美月はどうしても信じられなかった。「言うことには証拠があるの?」この言葉を聞いた紗雪は立ち上がり、美月に容赦なく言った。「分かった。証拠が見たいというのね、じゃあ見せましょう」紗雪はすでに悟っていた。