あたしたちは大曲大橋のバス停から雄蛇ヶ池の放水路へ下りる砂利道を歩いている。右手に斜面の森が迫り左手下方にコンクリ護岸の放水路が見えるこの坂道は、まだ日が落ちていないのに異様に暗くて寒かった。それは山の陰になっているせいばかりではなく蓑笠連中が現れた時と同じ別世界へのずれ込みが始まっていることを感じさせた。それは、冬凪とあたしの前後を歩く豆蔵くんと定吉くんも感じているようで、シャムシールを抜き身で携え、すでに戦闘態勢になっているのでも分かった。
放水路のコンクリートの川床には、ぬたくったような黒いヘドロの中をちょろちょろ流れるほどしか水がなかった。U字の護岸は高さが2mくらいあるけれど、川沿いを人が通る想定がされていないらしく柵のようなものもない。目的の池の北端は南に進路を変えてしばらく行った先にある水門の向こう側だ。あたしたちは狭くなった水路沿いを落ちないように注意しながら雄蛇ヶ池を目指す。赤錆びた水門が見えてきて冬凪は記憶を刺激されたのだろう、「水門の下に魚が沢山いるんだ。ほとんどブルーギルとかの外来魚だけど、入れ食いで釣れて楽しかった。あ、ごめん」 小学生の冬凪がお友達と水門で楽しそうに釣りをしている姿を想像した。あたしは一緒に来られなかったけれどそれを羨ましいとは思わなかった。そもそもあたしはアウトドアが苦手だ。水があると必ず落ちるし、落ちたら泳げないから。それに対して冬凪は小さいときからお外志向だった。それがフィールド・ワークに繋がっているのだし、あたしはお家志向だったからメタバースに繋がって十六夜と知り合えた。そのことに不満なんてあるはずない。「全然大丈夫」 水門まで来た。コンクリ壁の上から覗くとプールくらいの広さの水溜りになっていて水面まで4mくらいの高さがあった。真っ黒い水が深そうだった。あたしは落ちないように縁から離れて歩く。 水門を越えて雄蛇ヶ池の北岸側に出ると日が差して明るかった。池端の遊歩道に出ると暖かく、さらにそれを実感させた。豆蔵くんと定吉くんがシャムシールを鞘に収めた。一気に緊張がほぐれてほっとため息が出た。雄蛇ヶ池はエメラルドグリーンの水面が広がっていた。この広さこの明るさでどうやって光る物体を見付ければいいかと思っていると冬凪が、ハウスで作業着に着替え、ヘルメットと軍手をはめて空調服のスイッチを入れ外に出た。「始めましょう」 赤さんが号令を掛ける。皆さん、頭上の太陽に恨みを持っているかのように、下を向いたまま各自の持ち場に散らばって行った。小休止後も、あたしは冬凪が掘った土を箕に受けて土山を築く作業をした。こっちでは15分後だったけれど、実感としては久しぶりの作業だったので慣れるまでが大変だった。体全体が暖房器具になったように暑い。頭を下げた時にヘルメットからボトボト音を立てて落ちる汗には何回でもびっくりする。「夏波、水分補給。がぶ飲みして」 いつの間にかボウッとしていたらしく、冬凪が土壁で影になった所に置いた水筒を渡してくれた。蓋を開けると、中の氷がカラカラと鳴った。言われた通りごくごく喉を鳴らしながら飲むと、麦茶が冷たい棒のように胃の中に落ちてゆくのが分かった。頭が少しズキズキしているのに気がついたけれど、冷たい麦茶のせいなのか、暑さにやられたせいなのか分からなかった。 休憩の後、冬凪と堀り手を交代した。冬凪にも疲れが見え初めていたからだった。けれど、エンピで土を掘るのがこんなに難しいとは思わなかった。まず、土に入っていかない。手で押しても、見よう見まねで足を使ってもびくともしない。それならばと、掬い上げようとしたら、ちょっとしか土が乗ってこない。とにかく、今のあたしにはスキルが足りないようだったので、申し訳なかったけれど、すぐに冬凪に代わって貰ったのだった。 お昼になった。クーラーの効いたハウスで冬凪とおにぎりを食べた。一緒にハウスでお弁当していた江本さんが他の現場のクロー話をしてくれた。なぜか冬凪はむこうを向いていてあたし一人が聞いていたのだけれど、話を聞くうち、冬凪は聞きたくなかったんだと分かった。「昔、江戸時代のお墓を発掘したことがあったの。先生(江本さんは調査員の一番偉い人をこう呼ぶ)が、江本さん、幽霊とか祟りとか平気? って聞くから、全然平気ですって応えたら、じゃあ、遺骨出たから洗ってって言われてやったのよ。土がついてるお骨を水で洗うんだけど、もう何百年も経ってるから乾燥してるって思うじゃない。それがね、洗ってるうちになんだかベトベトしてきて、洗い桶に油が浮いてきてね。手なんかヌルヌル
暗闇の中、床が抜けて落下の感覚がやってきた。光の筋が下から上へと流れている。それがしばらく続いて、着地のイメージがしたら、目の前に細い縦筋が出来て光が入り込んできた。まぶしさに閉じた目を開けると、冬凪と黒い和装の千福まゆまゆさんが立っていた。「お帰り。夏波」「「無事のご帰還、おめでとうございます」」 黒千福まゆまゆさんが目を細めて言った。冬凪はバッキバキのスマフォを千福まゆまゆさんに返して、「ありがとうございました。調査の件、報告書は後日持参しますので」「「よろしくお願いいたします。では」」 挨拶が終わると、千福まゆまゆさんは黒い市松人形の中に入って扉を閉じた。そしてすぐに排気音がして千福まゆまゆTWブースはシャットダウンしたのだった。 土蔵の外に出ると驚いた。竹林の空き地の真ん中に豆蔵くんと定吉くんが立っていたのだ。ブクロ親方も一緒だった。ブクロ親方は冬凪に近づいてきて、ヘルメットを取ると、「藤野さん。この度は二人がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 と頭を下げた。「迷惑なんて、そんな。豆蔵くんと定吉くんには本当に助けて貰ったんです」「しかし、約束の時間に間に合わなかったと」「怪我をさせてしまったためです。それでしばらく静養してから帰って来て下さいと、こちらからお願いしました」 ブクロ親方はそれを聞いて豆蔵くんと定吉くんに振り返り、「それならば、責めはしませんが」 と言ったのだった。 あたしは一週間後に帰ってくる予定だった二人がここに、しかもあたしたちより先に来ていることが不思議でしかたなかったので、冬凪に、「なんで、豆蔵くんと定吉くんがいるの?」 と聞いてみた。「向こうをいつ出発しても、到着する位置と時間は決められてるから。そうでないと戻ったとき宇宙空間に放り出されちゃうんだよ。だって、地球は太陽の周りを回り、太陽は天の川銀河の中を回り、天の川銀河は宇宙の大構造の中を回っていて、螺旋を描いて移動し続けているからね」 と説明してくれたけれど、まったく理解できなかった。 土蔵の前の広場から竹林の小道へ出
豆蔵くんと定吉くんの包帯だらけの格好を見て冬凪は、「それで帰ったら皆んなびっくりするから一週間くらいこっちで養生してからがいいよ」 登山用リュックの中から何かを出し、「テント。ちょっと狭いかもだけど、これあれば宿泊費浮くでしょ」 と豆蔵くんに渡した。 それから冬凪とあたしは豆蔵くんと定吉くんに別れを告げて、来た時と同じように白漆喰壁の土蔵に入ったのだった。「あれでよかったの?」「うん。二人ならテントで充分。あたしのだから寝袋までは貸せないし」 そういうことでなく、「ブクロ親方怒らない? 一週間も留守にしたら」「そっか。夏波は初めてだもんね。心配ないよ」「でも」「まあ、見てて」 冬凪は、再び、白い着物の市松人形の前に立つと、「藤野冬凪と夏波。ただいま戻りました」 少しの間があって市松人形から排気音がしたかと思うと、「「はーーい」」 明るい二重音声がして市松人形の体が真ん中から真っ二つに割れると、中から市松人形と同じ服装をした千福まゆまゆさんが出てきた。「「無事のご到着、なによりです。それで、志野婦にお会いになりましたか?」」「はい」「「それはそれは。元気そうでしたか?」」「はい。とっても」 あれは元気なんてものじゃなかった。吸い込まれるような妖気だった。「「そうですか」」 そしてあたしに向かって、「「夏波さんは初めてなのに会えて羨ましいです。私どもは一度も。生まれてすぐに志野婦は亡くなってしまいましたので」」 生まれてすぐ? もし冬凪が言うように千福オーナーが志野婦なら死んだのは20年前、千福まゆまゆさんがあたしたちの二つ上ってことになるのはさっき確認ずみ。でもこの子はマジ小学生だよね。どう見ても。「夏波、帰るよ」 市松人形の中から冬凪が呼んていた。あたしは千福まゆまゆさんの年齢のことを考えていて、冬凪が先に立ったのに気がつかなかったのだった。 冬凪が入った市松人形がしまり中から光を発して排気音がした。しばらくするとゆ
しばらく歩くと見えてくるのが、爆心地、ではなく、白い花が美しい生け垣に囲われたお屋敷だった。近づくにつれてバニラエッセンスを振りまいたような甘い香りが漂ってくる。クチナシの匂い。月光の咎人の匂い。そして、辻沢最凶のヴァンパイア、志野婦の匂いだ。「ここって、千福オーナーのお屋敷だよね。辻沢建設の」この年の9月に千福オーナーが爆殺された跡が、あたしたちが遺跡調査をしている爆心地なのだった。「そうだよ」「なんでここに志野婦がいたの?」冬凪はいつもの顎に指を当てるポーズになって話し出そうとした。けれどそこは千福家の、クチナシの垣根が美しく両側を飾る打ち水がされた石畳の門前で、唐破風の玄関の奥から誰かがこちらを見ていたから、あたしは慌てて冬凪の腕を引いて裏手の竹林に向かったのだった。土蔵の前まで来ても冬凪の話は止まらなかった。それは辻沢を実質支配している六辻家に関する歴史的考察で、あたしには話の筋を追うのさえ大変だった。ようやく理解できたのが、六辻家の六つの旧家のうち辻一と棒辻という屋号を持つ二つの家だけ一代限りということ。それは絶えたのではなく20年前のこの時まで存続していて、その一つが実は千福家ということだった。「当主がヴァンパイアだから代替わりの必要がなかったってあたしは思う」 六辻家は宮木野と志野婦の血を引く家系だと言われている。「つまり千福オーナーって」「志野婦のこと」 冬凪は竹林の向こうに見える藁葺き屋根を見上げて言ったのだった。「でもさ、千福まゆまゆさんって、千福家の当主なんでしょ? なら二人って志野婦の娘とかなの?」「それはあたしもよくわからない。あの二人は爆発した年に生まれたらしいんだけど、年齢不詳だから」 爆発があった年に生まれたとしたら、あたしたちの二つ上の20歳のはず。でもあの容姿はどう見ても小学生だ。この後会ったらしらっと聞いてみようかな。「まゆまゆさんたちはおいくつですか?」 って。 そうこうしているうちに土蔵前の空き地に豆蔵くんと定吉くんとが現れた。「その格好はどうしたの?!」二人を見て息を呑んだのは冬凪ばかりでは
それから少しの間、ささやかな幻滅気分に浸っていると、冬凪がバスルームのドアを開けて顔を出した。「どうかした?」髪の毛をバスタオルで拭きながら聞いて来た。あたしはこの偶然の出会いを冬凪と共有しようと、あったことを事細かに教えたのだった。けれど、「ふーん。そうなんだ。ウケル」 死語構文で応えてくれはしたものの、反応自体はすごく薄いものだった。そういえば冬凪ってば、オリジナルが一番、サンプリングとかマッシュアップとかはよくわからない子だった。 朝だ。昨日の朝もそうだったのだけれど、目覚めが悪いと思ったらカレー☆パンマンがないことに気がついた。いつも寝るときに一緒にいてくれて、二年の修学旅行の時もこっそり連れて行ったのに、今回は持って来ていなかったのだった。そもそもで、泊まりになるなんて教えて貰ってなかったからだけど、次からはバイトに行くときも荷物に入れることにしよう。 辻女の制服に着替える。昨日の戦いで濡れていたけれど一晩干してなんとか乾かした。「やっぱ、ドブ臭いのとれてない」 袖を通して嗅いだらヘドロの匂いがしっかり残っていた。「帰ったらクリーニング出そう。返さなきゃだし」 ミユキ母さんに買って貰ったあたしたちの制服はボロボロになって着られなくなった。それで辻女の川田先生に借りたのだった。つまり、このまま借りパク?(死語構文)。「また、来るんだよね」「多分。まだ何も解決してなさそうだし」「どうしてそれが分かるの?」 冬凪は右手の薬指を目の高さに上げ、目を細めてその指の先の空間をじっと見つめて言った。「十六夜が苦しんでるから」 鬼子のエニシ。鬼子の十六夜と鬼子使いの冬凪とを堅く結びつけている赤い糸。それは常人には越えられない二人だけの絆だという。十六夜がいる場所があたしの居場所と思えるほど、あたしにとって十六夜はかけがえのない存在だけど、あたしには今の十六夜の気持ちなど思い描くことすら出来ないのだった。 チェックアウトを済ませて六道辻行きのバスに乗る。「六道辻まで」〈♪ゴリゴリーン〉 車内は辻女の生徒でいっぱいだった。まだ冬服の中、冬凪とあ
大曲大橋に出ると、鞠野フスキたちはバス停に向かわないでそのままバイパスを渡り、朝あたしがおかしくなった砂利道を降りて行った。鞠野フスキはバモスくんを取りにくるレッカー車を待つと言っていたが、豆蔵くんと定吉くんたちはどうするんだろう。「あたしたちって、明日帰るんだよね」「どこに?」「20年後に」「そうだよ」 よかった帰れるんだ。まずは、ほっとした。「豆蔵くんたちは帰らないの?」「もちろん帰るよ。明日の朝、土蔵の前に集合ってことになってる」「あの人たちってば、どこに泊まってるの? まさか野宿じゃないよね」 「多分、眠らないんじゃないかな」 明日の朝方に掛けて青墓の杜で開催される「スレイヤー・R」に参戦するのだそう。「屍人や蛭人間と戦うと思うと血が騒ぐんだって」 豆蔵くんと定吉くんがホントにそんな長文を喋ったの? ホテルに戻り、順番にシャワーを浴びる事になった。先を冬凪に譲って待ってる間窓の外を見ていたら、あのサンプリングギャグ「ナポリタンは焦がしゃうめー」が聞こえて来た。それは付けっぱなしにしていたTVからの音声で、観てみると生ゲーニンたちが集まって料理を作る番組の中で、坊主頭の人が口にしていたのがそれだった。でも様子がおかしい。まったく笑いが起きていない。一度言って受けなかったからなのか、もう一度言ったのだけれどそれでも周りはまったく笑っていなかった。もしかしてスベったのだろうか。そんなはずある? Vゲーニンのサンプリングギャグは一度聞くと耳に残って離れないほどパワーがある。面白いのだ。それはソースのギャグがもともとすごく面白くて、選んでサンプリングしたせいだと勝手に思っていた。けれどこれではただのコメントだ。ギャグですらない。「そうか、コメントなんだ。もとはギャグじゃなかったんだ。だから誰も知らなかったんだ」 この言葉はサンプリングされて知られるようになったけれど、サンプリングしたVゲーニン自身も昔聞いたギャグとしか言わなかったので、所在の分からないソースギャグとして有名だった。それがこんな誰一人笑わないギャグくずれのコメントだったなんて。それを知って、脳内リフレインするほど影響