途中で愁一さんとも別れた私達は二人で並び歩きながら黎華街を出た。 「日葵、もっと怯えると思ってたけど結構普通に歩いてたね?」 いくら日の高い午前中とはいえ、危険を孕んだ街だ。 前に日葵が街に来たときのことを思い返すと普通に歩けている方が不思議なくらいに思う。 「うん……やっぱり愁一兄さんがいるからかな? あの人がいる街だと思ったら、怖くはあるけどしっかりしなきゃって思えるの」 しっかりしないと会うことすら出来ないと思ってしまう、と。 少し分かる気がした。 私も紅夜がいるから、あの街を歩いていても以前より安心感を覚える。 紅夜という存在が、私にとって何らかの支えになっている気がした。 「……そうだね。ちょっと、分かる気がする」 そんな風にお互いに好きな人を想う。 似た者同士な親友と二人、危険だと言われている黎華街から出たこともあって、警戒心を解いて歩いていた。 警戒していても回避できたかは分からないけれど、油断していたのは確か。 じゃなきゃ、見覚えのある男が近付いて来るのを私が気づかないわけがなかったんだ。 「また会ったなぁ、お二人さん」 大柄な男が目の前に来たと思ったら、そう言葉を掛けられた。 見上げて目に入った男の顔に、私は戦慄する。 そうだ。 この男は街の外に逃げたと言っていたじゃないか。 逃げたというから、無意識に遠くへ行ったものだと思い込んでいた。 街の中にはいなくても、街の外ならどこかに潜伏していてもおかしくないというのに。 街の外なら安全だと、そんな幻想を抱いだいていたのかもしれない。 「何がどうなってこうなったかは知らないが、まさかこっちの方が総長の女になってるとはな」 そう言って、憎しみにも近い色を含んだ眼差しが私に向けられた。 「っあ……」 恐怖に身がすくむ。 「っ美桜!」 でも、日葵に腕を引か
「だから、今回はとりあえずこれらの公式だけ使うって覚えておいて……」「うんうん、そっか!」 紅夜の指導のもと着々とテスト範囲を消化していく。 紅夜は私が記憶力だけは良いということを考慮したうえで問題の解き方を教えてくれるから、学校の先生の授業を受けるより理解しやすい。 しかも紅夜自身独学で勉強しているとは思えないほど理解しているからすごい。 頭が良い方だと思ってはいたけれど、思った以上に良いのかもしれない。「すごく分かりやすい! ありがとう紅夜、これなら赤点回避どころかかなりいい点とれるかも!」「そうか? お役に立てて何より」 おどけて言う紅夜に、本当に助かったと思う。「何かお礼しなきゃね……」 だからそんな言葉がスルリと出てきてしまった。「お礼なら夕飯作ってくれるんだろ? 明日も」「でもそれは私がやりたいことだし……。紅夜は他に何かしてほしいことはないの?」 聞くと、少し考えた紅夜は何か思いついたのか軽く眉を上げる。 私と目を合わせたときには何だかニヤついてるように見えたから少し身構えた。「な、なに?」「じゃあお礼に、美桜の方からキスしてくれよ」「え?」「思い返してみればいっつも俺からだったし、たまには美桜からキスしてほしい」「っ!」 確かに、私は自分から紅夜にキスしたことはなかった。 私がキスしたいなって思うより先に紅夜がキスしてくる方が多かったってのもあるけれど……。「ダメか?」「ダメ、じゃない」 そんな風に聞かれたら嫌とは言えないじゃない。「じゃああとでしてくれよ? 今はまず範囲を一通り消化しないとな」 その後の紅夜はご機嫌で、逆に私は少し悶々としてしまった。 後から改めて、とか恥ずかしすぎるんだけど……。 第一、お礼がそれで本当にいいのかな? 疑問だけれど、紅夜が嬉しそうだから……いいのかな? って思った。
「何か手伝おうか?」 キッチンの入り口からひょっこりと顔を出す紅夜に苦笑する。「良いってば。出来たら呼ぶから、運ぶ時だけ手伝って?」 リビングでゆっくり待っていてくれればいいのに、気になるのかちょくちょく見に来る紅夜。 そのたびに手が止まるから少し困るんだけど、構ってくれて嬉しくもある。「……やっぱいいな」 手の動きを再開させた私をじっと見ていた紅夜が呟いた。「え? 何が?」 すぐには視線を向けられなくて声だけで聞き返すと、彼が近付いて来るのが分かった。「美桜が俺の家でこうやって料理したりするトコ。……このまま一緒に暮らさない?」「っ! でも、学校もあるし……まだ学生なのに同棲はちょっと……」 一緒に暮らす。 その魅力的な言葉に心臓が大きく跳ねた。 でも色々と問題はある。 学校もそうだし、何より紅夜と付き合ってることをお母さんにすら話していないから。「分かってるよ。……でも、そういう言い方するってことは嫌じゃないんだよな?」「え? それはもちろん」 キリが良かったのでそこで顔を上げて紅夜の顔を見ると、嬉しそうに細められた目と合った。 そのまま唇が落とされる。「んっ」 触れて、リップ音付きで離れた彼の唇が囁く。「じゃあ、高校出たら。大学生になったら、同棲も良いだろ?」「そう、だね」 先のことは分からないけれど、今は望みだけを口にする。 そうしたいって、思ったのは事実なんだから。 チュッ 紅夜の唇がまた触れてきた。 彼の手が腰を抱き、キスも深くなってくる。「んっこう、や……ちょっと」「んっだめ、もっと欲しい」 求められる喜びに身を震わせるけれど、私は心を鬼にした。
街の中に入ると、会いたかった人が迎えに来てくれていた。 日もすっかり落ちて、遠くの空がかすかに赤紫色をしている時間だからかフードはかぶっていない。 街の灯りに照らされた金の髪がいつかのようにキラキラと輝いていた。 でも、その表情にはその時のような冷たさは感じられない。 私に向けられる目はどこまでも甘く優しかった。「紅夜!」 思わず駆け寄る私を紅夜は両腕を広げて受け入れてくれる。「美桜っ」 人目もはばからず、抱き締め合って互いの存在を確かめた。 今回は電話は出来て声は聞けたけれど、その分ぬくもりが恋しくて寂しかった。 それに何より、一週間が長すぎた。 だから、そのまま唇を落としてくる紅夜を受け入れる。 人目があることも忘れて目を閉じた。 それを思い出したのは、「美桜、大胆……」という日葵の呟きを耳が拾ってからだ。 丁度唇が離れた瞬間で、紅夜のキレイな青い瞳に自分の顔が映っている事が急に恥ずかしくなった。「あ……あわわっ」 「ック、美桜はホント可愛いな」 それに比べて、と紅夜は日葵の方を睨む。「あんた、邪魔すんなよ」 「ひっ!」 紅夜にとっては軽く睨んだだけのつもりだっただろう。 でも、トラウマになっていそうな日葵には鬼の形相に見えたのかもしれない。 明らかに怯えていた。 でも、すかさず愁一さんが日葵をかばう様に前に出た。「紅夜、お前俺の大事な女怯えさせんなよ。それにほら、さっさと食材受け取れ。イチャつくのは部屋でしろ」 愁一さんの言葉に、私は軽く目を見開いた。 今、日葵のことを大事な女って言った? 身内としてって意味かも知れないけれど……でも、ただの身内に使う言葉じゃないよね? 愁一さんの陰になっていて見えないけれど、きっと日葵は嬉しそうな顔をしていると思う。 これは後で話を聞かせてもらわないとね。 なんてちょっとドキドキしていると、紅夜は私から離れる
その後は特に会話することも出来ず、タイムリミットになった。 日葵と愁一さんが買い出しを終えて戻ってきたから。「美桜、お待たせ」 「あ……。ううん、買い出しありがとう」 「いや、っていうかこの人は……」 愁一さんが隆志さんに気づく。 いぶかし気な――と言うよりは、何かを思い出そうとしている表情で見つめている。「ああ、愁一くんだね。久しぶり。いつも紅夜が世話になっている」 二人は会ったことがあるみたいだ。 でも、愁一さんの様子を見ると数えるほどって程度みたいだけど。「っあ、隆志さん。すみません、すぐに思い出せなくて」 「いや、年に一度少し会う程度だ。忘れても仕方ないよ」 謝る愁一さんを隆志さんは笑顔で許す。 でも年に一度って、紅夜と会うより多いんだね。 なんとなく、非難したい気持ちになった。「じゃあ私はそろそろ行かなくては。君……たしか美桜さんだったね。ありがとう、話せて良かった」 「……はい」 「また会ったら今度は君や紅夜のことを教えてくれ。それじゃあ」 「っ! ……はい、またいつか」 私が教えるより、紅夜に会いに行ってあげて。 そう口に出してしまいそうなのを呑み込んで、さようならの挨拶をする。 そうして車に乗り込んだ隆志さんを見送ると、愁一さんがふぅ……と息を吐いた。「まさか今日来てたとはな」 明らかに緊張していたという様子。 あんな優しそうなのに、そこまで緊張するような人だろうか?「紅夜の養父なんですよね? あの人。そんなに怖い人なんですか?」 優しい顔と怖い顔を持つ紅夜と同じように、隆志さんも怖い部分があるのかもしれないと思いなおして聞いてみる。「いや、怖いというかな……。まあ、ある意味怖いが……」 要領を得ない言い方に首を傾げる。「あの人自身は優しい人だよ。でもな、経済界でもかなりの地位があって……怒らせたら何をされるか分からないってところが怖いかな」 「ああ……」 なんとなくは分かった。 街を一つ買い取ったくらいだからかなりのお金持ちだろうとは思っていたけれど、私の想像を超えるほどの人だったらしい。「でもそんな人と年に一度は会ってるんでしょう? 愁一兄さんって何かすごいね」 会話に混ざりたくて仕方なかったんだろう。 今まで黙っていた日葵がここぞとばかりに話しかけてきた
私達はそのまま隆志さんの車の近くまで行って、ガードレールに寄りかかるように立った。 話したいと言うんだからすぐに何か聞かれると思ったのに、隆志さんはまた黎華街の出入り口を見つめ始める。 その感情の読み取りづらい目に、少しだけ懐かしいものを見るようなものが宿ったように見えた。「……隆志さんは、どうしてここでただ街を見ているんですか?」 彼からの質問がないので、私から聞いてみることにする。 前も煙草を吸いながら街を見ているだけだったから。「え? ああ……あの街の主な権限はもうとっくに紅夜に渡したからね。元の権力者がそうそう中に入るわけにもいかない」 黎華街の権限……。 そう言えば、叔母さんはこの人が黎華街を買い取ったと言っていたっけ。「それでも、“私”がこの街を見捨てたわけじゃないことを示す必要があってね。念のため、時間のある時にこうして街を見張るようにしているんだ」 示す? 誰に? 慎重に聞かなきゃならないことだと思って、すぐには口に出来なかった。 そうしていると、今度は逆に質問をされる。「その花のリボンは、紅夜から貰ったものなんだよね?」 「え? あ、はい」 黎華街に行くときには必ずつける赤いリボン。 紅夜の女である証の花の部分に触れながら答えた。「それはね、私が紅夜に渡したんだ。紅夜にとっての太陽を見つけたら、渡すといいと言って」 「そう、なんですか?」 特にその辺りを疑問に思ったことはなかったけれど、渡すのならどちらかと言うと叔母さんの方かと思ったから普通に驚いた。「ああ……。私にとっての紅夜の母がそうだったように、紅夜にもそんな相手が見つかると良いと思って……」 「……」 つまり、隆志さんは紅夜のお母さんのことが好きだったんだ……。「……でも、まさかそのシルバーリングも渡してるとは思わなかったな」 と、私の右手を見ながら複雑そうな笑みを浮かべる。「……確かこれは紅夜のお父さんのものだって……」 「らしいね」 幾分素っ気ない様子で隆志さんは答えた。「私だってお互いの誕生石を使ったネックレスを贈ったのに……。あれはどこにやってしまったんだろうね。紅夜の父だと名乗り出もしない男から貰ったものは息子に渡すほど大事にしているみたいなのに」 「……」 なんだかすねているみたいだった。 正直