明日香が教室に着いたとき、いつもと変わらない日常がそこにあった。ただ一つ違っていたのは、数学オリンピッククラスの彼女の席に、珠子が座っていたこと。また頭が痛くなる。あれだけ努力したのに、結局すべては水の泡。何も手元には残らなかった。6組の授業の進みは早く、教科書の内容はすでにすべて終了し、今は総復習の段階に入っていた。数日間も学校を休んでいた明日香にとって、取り戻さなければならないことは山ほどあった。けれど、一番の気がかりは、やはり淳也のことだった。珠子がクラスに来てから数日が経ち、クラスの進度は想像以上に早い。無駄にできる時間などなかった。昼休み前、最後の授業が終わると、珠子が明日香に声をかけてきた。「明日香、一緒にご飯行こうよ!」明日香はちらりと顔を上げる。「......もう少しで終わるから、先に行ってて」珠子は首をかしげ、明日香の手元をのぞき込んだ。「それって、勉強計画?」「淳也用。成績がちょっと危ないから、補習すると言った手前、途中で投げ出すわけにはいかないの」「そうなんだ!じゃあ私は先に行くね。午後また授業あるし!」珠子が元気に去っていくのを見送ったあと、明日香は再び視線をノートに戻した。この計画表は、ただの補習ではない。淳也にも目標を持ってほしい。今、自分が何をすべきか、どこを目指すのかを知ってほしい、そんな願いを込めていた。計画をまとめ終えると、明日香は1組へと向かった。外はどんよりとした曇り空。しとしとと冷たい雨が降り始めていた。誰もいない1組の教室。中に入ると、淳也が机に突っ伏して眠っていた。明日香は静かに近づき、そっと彼の肩を叩いた。「淳也、図書館行こう」淳也は顔を上げず、明日香の手を振り払った。「......うるさいな」明らかに機嫌が悪かった。明日香は椅子を引き寄せて隣に座り、彼の額に手を当てた。「熱は......ないみたいね」「淳也、最近どうしたの?帝大受けるって言ってたじゃない。このまま怠けてたら、夢のまた夢になるわよ......」彼女の声が教室に響いた。うるさそうに目を開けた淳也は、頭を片手で支えながら前髪をかき上げ、明日香をじっと見た。その目は赤く充血していた。次の瞬間、淳也は立ち上がり、苛立ったように
藤崎グループの社長専用車が帝雲学院の前に姿を見せるなど、滅多にない光景だった。黒塗りのロールスロイスがぴたりと停車すると、周囲の車は一斉に道を譲った。あの特別なナンバープレートを見た瞬間、渋滞していた車線はまるで潮が引くように空いていった。車のドアが開き、明日香が姿を現すと、周囲の視線が一斉に彼女へと注がれた。帝雲学院では、彼女が藤崎家の庶子・淳也と親しくしていることは知られていたが、まさか藤崎家の当主とも直接関わっているとは、多くの者が想像すらしていなかった。今や、藤崎グループの現社長が自ら送り迎えをする。それは、明日香がすでに「藤崎家の人間」であることを、誰の目にも明らかに示すものだった。その事実だけで、もはや誰一人として、彼女に軽々しく言葉を投げかけることはできない。その重圧の視線を背に受けながら、明日香は肩をすくめるようにして小さく言った。「......教室、行くね」「ああ。夜の授業が終わったら、迎えに来る」樹は頷き、ロールスロイスに乗ってその場を後にした。明日香には夜間授業があり、その終了時間はちょうど樹の退勤時間と重なる。その送迎を断る理由は、どこにもなかった。そんな光景を偶然目にした遥は、さほど驚きこそしなかったものの、胸の奥にひっかかる棘のような痛みを感じていた。かつて兄の代わりに淳也を戒めようとしたところ、逆に兄から警告を受け、さらに母からも「明日香との関係を修復するよう」強く言い聞かされた。結果的に兄との和解が叶ったのは、明日香の取りなしがあったからこそ。それでも、あの一件以来、明日香との間には微妙な距離が生まれ、どう声をかければいいのか分からないまま時が過ぎていた。「遼一さん......明日香は、このまま藤崎家から戻ってこないんでしょうか」思わず口をついたその問いに、遼一の瞳は夜のように深く沈み、冷たく言い放った。「お前が気にすることじゃない。授業に遅れるな」「......はい」1組の廊下を通りかかった時、明日香は前方から歩いてくる淳也の姿を見つけた。半袖姿で片手をポケットに突っ込み、肩にリュックを引っ掛けて、あごをしゃくりながら歩く姿は、いつも通りの傲慢さに満ちていた。数日ぶりの顔だったが、その無邪気さは少しも変わっていない。なのに、すれ違いざま、彼は
夕食を終えた明日香は、静かに部屋へ戻った。ベッドサイドの携帯を手に取ると、淳也とのメッセージは先週のまま、止まっていた。最近、ちゃんと勉強してるかな?珠子は期末試験を乗り越えて、ついに1組に入ったのに......淳也の成績はどうなんだろう?気になって、指が自然と動いた。【試験どうだった?】送信して数分、画面は何の変化もない。ため息をつきながら携帯を置こうとした瞬間、画面が突然光を放った。反射的に確認した。てっきり淳也からの返信かと思ったが、表示されたのはニュースの速報だった。大明山スキー場で大規模な雪崩が発生。観光客多数が閉じ込められ、32名が負傷、8名が死亡、1名が行方不明。行方不明者は、俳優養成所に通う20歳の学生・笠井未祐。記事には本人の写真も添えられていた。「......え?」笠井未祐――その名前を目にした瞬間、明日香の瞳が一気に収縮した。添付された写真には、かつてスキー場で出会った、あの少女の姿が写っていた。遼一が1年間、表向きに交際していた彼女。つい最近まで、あんなに元気だったのに......どうして、突然こんな――?足の裏から頭のてっぺんまで氷水を流し込まれたような感覚。腕に鳥肌が立ち、冷えた指先が震えだした。携帯をそっと置き、それ以上思考を深めるのが、怖かった。夜10時過ぎ。樹は疲れた足取りで屋敷のホールに戻ってきた。メイドが静かに頭を下げた。「お帰りなさいませ、若様」「明日香は?」「お薬を飲まれて、早めにお休みになられました」樹は無言で手を振り、メイドを下がらせると、そのままバーカウンターへと向かった。棚の奥から高級ウイスキーを取り出し、グラスに半分ほど注いだ。それは、一本百万円もする代物だったが、今の彼にとってはただの眠り薬だった。以前なら睡眠導入剤に頼っていた。だが今は、酩酊だけが心のざわつきを誤魔化してくれる。時計の針が11時30分を指す頃、ようやく立ち上がり、静かに2階へと上がっていく。明日香の部屋の前で足を止め、閉ざされたドアを見つめた。そして、小さくつぶやく。「これで......いい」その夜、明日香はひどく不安定な眠りの中にいた。夢の中、彼女は漆黒の鎖に縛られ、窓もない部屋に閉じ込められていた。必死
そのとき、千尋が一歩前に出て声をかけた。「社長、会議のお時間が迫っております」樹は頷くと、明日香の首元にネックレスをそっとかけ、口元にうっすらと満足げな笑みを浮かべた。「ゆっくり休んでて。夜には戻るから」「うん」明日香はそう答えて、小さく手を振った。樹の乗った車が門を出るまでを見送っていた田中は、ようやく胸の奥で安堵の息をついた。あの病が宣告された日、家中に絶望の空気が広がった。医師は「数ヶ月の命」と告げ、家族はただ祈ることしかできなかった。肉体の病は奇跡的に快復したが、心の深い傷だけは、誰にも触れることができなかった。だが今、樹は以前と同じように働き、笑い、誰かを想っている。それができるのは、きっと明日香のおかげなのだ。田中は、あの女よりも、今の明日香にそばにいてほしいと、心から願っていた。「明日香さん、お部屋の準備が整っております。どうぞ、こちらへ」田中に案内されて、明日香は専用のエレベーターで五階へと上がった。ドアの前で立ち止まった田中が、丁寧に告げた。「こちらが明日香さんのお部屋です。若様のお部屋はお隣にございます。慣れないかと思い、室内の配置は月島家のお部屋に極力近づけております」ドアを開けた瞬間、明日香は思わず足を止めた。壁に掛けられた絵画の角度、化粧台の向き、ベッドサイドに置かれた香りの小瓶。細部に至るまで、月島家で過ごしていた寝室と寸分違わなかった。ベッドに近づき、そっとシーツに手を伸ばした。これは、どこから運ばれてきたのだろう?「クローゼットの仕様が合わなければ、すぐに調整いたします」田中の声に、明日香は我に返り、軽く会釈した。「......ありがとうございます。ご丁寧にしていただいて」部屋を見渡すと、広さは月島家の二倍はある。だがその広さも、豪奢さも、心を満たしてはくれなかった。病院を出てからずっと、背後にまとわりつくような不安が消えない。気のせいだろうか。そのとき、廊下の奥から女中たちの囁き声が聞こえてきた。「さっきの方、ちゃんと見た?若様が昔好きだったあの人じゃない?」「違うと思うわ。顔中に発疹があって、何の病気かも分からないし......あの人なら、樹様をひどい目に遭わせた上に、海外に逃げたって聞いたから」「でも私、初めて見たよ。若様
藤崎家の本邸は、まるでひとつの独立した王国のようだった。その広大な敷地には、四季折々の草花が咲き誇り、自然と調和するように緻密に設計された庭園が広がっている。なかでも屋敷のそばに佇む銀杏の大樹は、すでに五、六百年の樹齢を数え、枝葉を広げながら藤崎家の興亡を静かに見守ってきた。百年前、ただの商人として出発した藤崎家は、乱世の渦中で頭角を現し、やがて帝都の商会を束ねる存在へと成長した。その根は深く、今なお一族の誇りとして揺るぎない威厳を保っている。厳格な家風を持つ藤崎家では、本邸に住むことは一族の義務とされていた。だが、唯一の例外が、樹だった。彼はほぼすべての規則から解き放たれていた。それは彼がただの嫡男ではなく、一族の未来を背負う者として、特別に育てられてきたからに他ならない。両親は彼を宝石のように大切に扱い、藤崎家の象徴としてその存在を守り抜いてきた。その樹が住まうのは、主屋に隣接する別棟。両親はもう少し離れた離れに静かに暮らしていた。明日香はてっきり、南苑にある藤崎家の別荘に案内されるものだと思っていた。まさか本邸の中心部に、自分の身が置かれることになるとは――まるで夢のような話だった。車窓から見える光景に、思わず言葉を失った。本邸は山に囲まれ、湖に面した風光明媚な地にあり、静謐な空気と緊張感を併せ持つその空間には、24時間体制で警備員が目を光らせていた。一歩入れば、もう外界とはまったく異なる世界だった。これが、帝都の頂点に立つ家の姿。その圧倒的な格差に、明日香は知らず胸を締めつけられた。だが同時に、悔しさがこみ上げてくる。前世では遼一が淳也を利用して藤崎家を蚕食し、最終的には百年の歴史を持つ名家を大火で灰に帰し、この土地さえも免れなかった。遼一はわずか三年で藤崎家を完全に打ち破り、手中に収めた。今世では、明日香は前世の悲劇が繰り返されないことを願うだけだった。 遼一の冷酷さを考えると、明日香は心配になった。月島家から逃げた後、彼はどんな手段で報復してくるのだろうか?「ここ、気に入った?」思考の底から、樹の穏やかな声が彼女を呼び戻した。明日香は周りを見回した。広さでいえば「天下一」など比にもならず、かつて自分が暮らしていた場所が、まるで玩具のように思えてしまうほどだった。
「退院?」ウメと珠子は、まるで声を合わせたように田中の方を振り返った。戸惑いの色がその顔に浮かぶなか、ただ一人――遼一だけは冷ややかな表情を崩さず、凍てつくような気配を周囲に漂わせていた。明日香はその底知れぬ視線を避け、唇をかすかに噛んだまま、何も答えなかった。「......明日香、どういうことなの?」静寂を破ったのは珠子の声だった。田中は恭しく腰を折り、理路整然と説明を始めた。「若様が明日香様のお料理を大変お気に召され、しばらく藤崎家にてお世話になるようにと。月島様ともすでにお話はついております」「お世話って......でも、明日香さんの病気はまだ治りきっていないのに。どうして旦那様がそんなことを?」心配げなウメの問いに、田中の視線が冷たく揺れた。それを見た明日香の心には、思わず冷笑が浮かんだ。康生が断るわけがない。彼女は幼い頃から、月島家にとって「道具」として育てられた。売り渡されるための駒。藤崎家は帝都でも屈指の名門、政財界に睨みを利かせる頂点の一族。商人あがりの月島家とは、比べものにならない。むしろ康生は、この縁組を喜んでいるだろう。藤崎家からの打診を受けた時点で、娘を差し出すことに一切のためらいなどなかったはずだ。「月島家のことに、使用人ごときが口を挟んでいいと思っているのか?」田中の声は、まるで氷柱のように冷え切っていた。「ウメ、心配しないで」明日香は、静かにウメをなだめた。「すぐ戻ってくるから」ウメは黙って頷いたが、その視線は隣に立つ遼一へと向けられていた。「明日香さん、車椅子はご使用になりますか?」「いいえ。着替えたらすぐ出ます」「若様は現在、お電話中です。入口でお待ちしております」田中が一礼し、音もなく部屋を出ていった。彼の背が完全に見えなくなった後、珠子はようやく肩の力を抜いた。「......名門の執事さんって、ほんと雰囲気が違うのね。なんだか、圧倒されちゃった」その言葉に明日香は曖昧に笑ったが、視線の端で黙り込んだままの遼一の横顔を捉えていた。見なくても分かる。今の彼の表情は、きっと最悪だ。出発の支度が整うと、ウメはお粥をプラスチック容器に詰め、そっと持たせてくれた。温かいうちに食べられないのは残念だけど、せめてこの気持ちだけは持っていこ