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第1007話

作者: 豆々銀錠
「啓司さん、こちらがご指示どおりに作成した離婚協議書です」

オフィスで花城が書類を差し出した。啓司はそれを直接手に取ることなく、協議内容を読み上げるよう命じた。花城は一語一句を区切るように声に出し始めた。

その扉の外で、逸之は耳をぴたりと押し当て、必死に聞き取っていた。小さな拳をぎゅっと握りしめる。

本当に離婚協議書まで用意していたなんて!絶対に許さない!

幼い顔は怒りで真っ赤に染まり、ついに勢いよくドアを押し開けた。

バタンと響く音に、室内の二人は同時に顔を向けた。

「誰だ?」

啓司は眉をひそめ、いくらか不機嫌そうな声を発した。

花城はドア口に立つ、啓司と瓜二つの小さな影を見て、誰なのか問うまでもないと悟り、慌てて言った。

「坊ちゃまでございます」

「本当にママと離婚するの?」

逸之はオフィステーブルへ駆け寄り、頬をぷくりと膨らませ、震える声で問い詰めた。

啓司は花城に退出を合図し、ふたりきりになると、ドア口で怒りに震える幼子に淡々と告げた。

「大人の事情に、子供は口を出すな」

逸之は全身を震わせ、怒りを押し殺せなかった。兄が言っていた通り、この男はやはり救いようのないクズで、何一つ改心していない!目を真っ赤にし、叫んだ。

「僕はあんなに信じてたのに、よくもママを裏切ったね!大人になったら、絶対に許さないから!」

啓司はその言葉を聞いても怒ることなく、口元にわずかな笑みを浮かべて静かに返した。

「そうか。それなら待っているぞ。お前が大人になって仕返しに来るその日を」

本当にその日が訪れることを、彼はどこかで願っているようだった。

啓司がまるで意に介さない様子を見て、逸之はさらに激しく憤った。周囲を見回し、テーブルの上にあった中ぶりのコップをつかむと、勢いよく啓司へ投げつけた。

ドン!

コップは正確に啓司の肩を打ち、そのまま床に落ちて粉々に砕け散った。

外にいた牧野は物音を聞きつけ、慌ててドアを開けて駆け込んだ。目にしたのは、逸之がさらに何かを持ち上げ、啓司に投げつけようとしている姿だった。

「坊ちゃま、何をなさっているんですか!」

「坊ちゃまなんて呼ばないで!僕は夏目逸之だ、黒木家の坊ちゃまなんかじゃない!」

怒りで燃える逸之の声は一層高く、激しい憤りを滲ませていた。信じていた父に裏切られ、母まで裏切られた――その
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