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第778話

作者: 豆々銀錠
紗枝の問いかけに対し、鈴はあえて無知を装ってみせた。

「妊婦さんって、お腹すかせちゃダメなの?」と、まるで知らなかったかのように首をかしげ、しれっと謝った。「ごめんなさい、知らなかったわ」

紗枝は、彼女がとぼけているのを見抜いていた。それでも、何も言わず、黙って箸を進め続けた。

綾子が来るかどうかなんて、彼女の気分次第。この前、医者に胎児の状態を診てもらったとき、「不安定だ」とはっきり言われた。医師からは、規則正しく食事を摂るようにと言われており、空腹が続けば胎児の発育に悪影響が出る可能性があると警告されていた。紗枝自身、胃が弱く、無理はできない。

その様子を察したのか、逸之が鈴の芝居がかった態度に口を開いた。

「ママ、鈴さんを責めないであげて。子供産んだことないんだから、わからなくて当然だよ」

そう言って、鈴に向き直り、まっすぐな目で尋ねた。

「鈴さんってさ、もしかして結婚相手、まだ見つからないの?」

鈴の表情が一瞬、固まった。「......何ですって?」

「だって、見た目、三十代にしか見えないよね?ママより老けて見えるし。誰にも好かれないから、結婚もできなくて、もちろん妊娠もしてないんじゃない?」

鈴の手が、無意識のうちに脇で握りしめられていた。怒りを堪え、唇をかみながら返した。

「逸ちゃん、お姉さん、まだ二十四よ?紗枝さんより若いの」

「えっ?」

逸之は驚いたように目を丸くした。

「でもママよりずっと老けて見えるよ?スキンケアしてないんじゃない?ママに教えてもらえば?テレビで言ってたよ、『ブスな女なんていない、いるのは怠け者だけ』ってさ。もっと努力しないと、ますます結婚できなくなっちゃうよ?」

周囲の使用人たちは、必死に笑いをこらえていた。

鈴は、これまでこんな恥辱を受けたことがなかった。なんて憎たらしいガキだろう。自分にプロポーズしようとする男なんて、海外まで行列ができるほどなのに。結婚できないなんて、ありえない。

「逸ちゃん......お姉さんはね、結婚したくないだけなの。ここで坊ちゃんと紗枝さんのお世話をしていたいのよ」

鈴は頭の回転が早いほうではないが、どんなお嬢様にも負けない忍耐強さがあった。紗枝も、そんな彼女に密かに感心していた。あんなふうに子供にからかわれても、平然としていられるなんて、自分には到底できない。

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