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第884話

作者: 豆々銀錠
心音は、美希が即座に諦めると思っていた。だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「少し、時間をください。必ずお金は工面しますから」

その一言に、心音の目が細くなった。

「美希さん、あなたもかつては有名人だったはずです。世論のタイムリミットがどれだけ短いか、ご存知ですよね?」

声は冷えきっていた。

「引き延ばせば、世間なんてすぐに忘れます。『紗枝の盗作』も、ただの過去のゴシップになるだけ」

それだけ告げると、心音は電話を切った。

スマホを手に、美希は動けずにいた。

「一千億」――その数字が、頭の中で何度も反響する。

9年前、彰彦が亡くなったばかりの頃なら、そんな金額は用意しようと思えばできた。

だが今は違う。

あの頃、彼女は夏目家の資産を少しずつ世隆に渡していた。彼の経営は次第に傾き、会社は赤字続きとなり、財産隠しの手口まで身につけていた。

今、奴の手元にいくら残っているのかさえ分からない。

時間は待ってくれない。美希はすぐに世隆に電話をかけた。

「今、どこにいるの?」

返ってきたのは、海外のビーチリゾートからだった。世隆の声には不機嫌さと嘲りが混ざっていた。

「お前に報告する筋合いはない。好きに裁判でも何でもやればいい。どうせ判決前にくたばるのがオチだろ?死んだら、速攻で戸籍から外してやる」

まるで呪詛のような言葉。だが美希の心は、もはや揺れなかった。ただ、自分はこの男を本当に見誤ったと、後悔だけが胸を締めつける。

「紗枝に財産を奪われるのが怖いんでしょ?一千億くれたら、さっさと離婚してあげる」

挑発するような一言に、電話の向こうで世隆が高笑いを上げた。

「一千億だと?強盗でもやれ!夏目家の財産なんざ、もう全部食い潰した。俺の金には、指一本触れさせねぇよ!」

そう言い放ったあと、一拍置いて口調を少し変えた。

「ま、せっかくだ。気が変わった。1億やるから、とっとと離婚しろ」

美希には分かっていた。

紗枝が裁判を起こせば、奴が隠してきた何かが暴かれるかもしれない。だからこその偽りの譲歩。

「無理」

その一言が終わらないうちに、世隆は電話を乱暴に切った。

切れた画面を見つめながら、美希は奥歯を噛み締めた。どうしてあの時、貯金を全部、昭子に渡してしまったのだろう。過去の選択が、今の自分の首を絞めている。

だが、まだ、
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