あの夜を境目に、僕がおかしいのか彼がおかしいのかわからないが。とにかくなんだか少し、今までと空気も違う。「楽しいですよ絶対」「……それに、休みも合わないし」ぐずつく僕も気持ち悪い。以前なら「無理に決まってるでしょう」で瞬殺だったはずだ。わかってても、なんだか元の自分にどうしても戻らないのだ。「そこなんすよね」「別にいいぞ、一日くらい休みやっても」「は?」突然割り込んだ佑さんの声に驚いて、ずっと俯いていた顔を上げる。そこにはいつの間に帰ってきたのか、にやあぁっと嬉しそうな、厭らしい顔をした佑さんが立っていた。「まじすか、いつ?!」「明日は?」「えっ、ちょっ……いきなり明日?! 土曜だろ、店休むわけには」「いいって、別に。それに陽介の誕生日の祝いで、本人に仕事休ませるのはおかしいだろうがよ」「ってかどこから話聞いてたんだよ!」「プレゼントはキスでいいですってとこから」さっさと声かけろよこのエロオヤジが!「じゃ、じゃあ! 明日まじで、いいですか!」「えっ、あっ、でも土曜は道場が」「んなもん、一日くらい休んだってかまわねーだろ。たかが習い事、そんな毎週真面目に行ってるやついんのか」「ぐっ」確かに。毎週きっちり来てるのは僕くらいかもしれないが。目の前で、陽介さんが目をキラッキラさせている。一日、一日中なんて、間が持つのか?僕に娯楽のスキルは皆無だぞ。加えて人の多いところは苦手だとか、扱いづらい性格なのは自覚がある。不安だしどうしても尻込みしてしまうが、尻尾をぶんぶん振り回してるわんころみたいな彼を目の前に、もう僕には「NO」と言うことは出来なかった。◇◆◇『どうしよう、どうしましょうか。デートと言えば待ち合わせ?』『あ、ああ、それでも構わないけど』『いや、やっぱ迎えに来ます! 一人で歩かせるわけにいかないし』『子供じゃあるまいし、別に一人で』『じゃあ朝に、いや昼前に迎えに来ます。あ、ご飯! ご飯は一緒に』『わかったからちょっと落ち着け!!!!』テンション上がりまくった陽介さんは、僕に早めに寝る様にとまで指示を出し、本人もデートに備えるつもりなんだろう、それからすぐに帰ってしまった。仕事柄夜型の僕は、佑さんに早めに休ませてもらってもすぐには寝つけず、落ち着かないままベッドに入ったが、それでもなんだか
この男は、見た目は確かに普通かもしれないが、多分、モテる。背が高いのはまず絶対的にポイントが高いはずだし、何より、結局優しいのだ。暫くして帰り支度を始めた二人に、陽介さんが声をかける。「タクシー捕まえるまで、二人で大丈夫か?」「平気平気。子供じゃないんだし」「僕が行きますよ、アカリちゃんマリちゃん、いつもありがとうございます」本当なら、僕が言い出さなければいけないところだ。なんだかこの頃、上手く接客が出来なくなっている。「いいんです、タクシー乗り場はすぐそこだし! そうだ、陽介くん」アカリちゃんが、バッグの中から何か小さな包みを取り出し、それを陽介さんに差し出した。「此間、誕生日だったでしょう? お祝い! 遅くなってごめんねぇ」……なんでこの男は言わなくていいことは話すくせに、肝心な情報は寄越さないんだ。全く知らなかったことが衝撃すぎて黙って見ているしかなく、アカリちゃんが気付いて僕に微笑みを向ける。それが酷く……棘を含んで見えたのは、僕の気のせいだろうか。「あー……ほんとだ、忘れてた。ってかアカリちゃんなんで知ってんの」「浩平くんが言ってたのをちらっと聞いただけ。大した物じゃないから気にしないでね」確かに、プレゼントというようなあからさまなものではなかった。ラッピングも何もない、雑貨屋の紙袋に入れられたそこから出てきたのは、クマさん模様のアイマスクだ。「なんじゃこりゃ」「温熱アイピロー。仕事に疲れた時にどーぞ!」わからない。なんだろう、これは僕の気にしすぎだろうか?そのプレゼントは、確かに友達という立場から渡されれば何の気なしに受け取ってしまいそうな、ささやかなもので。そこに意図を感じるのは僕だけか。だけど一つ確かなことは、アカリちゃんは今でも陽介さんが好きで、僕に敵対心を持っているということだ。多分これは、気のせいじゃない。職場で使うには少々可愛らしすぎる、と陽介さんは笑ったが「いらなければ誰かにあげて」とアカリちゃんに言われ、結局礼を言って受け取った。「慎、タクシー乗り場まで俺が送ってくるから、暫く頼むな」会計を済ませた佑さんに声をかけられ、片手を上げて返事の代わりにする。佑さんに続いて店を出て行くアカリちゃんとマリちゃんの背中を「ありがとうございました」と見送って、ようやく力が抜けた。僕は余程
純白にレースをあしらったそれは、ウェディングドレスを思い起こさせる。開いて、新婦の名前が自分の友人ではなかったことに安堵した。金の文字で「Wedding」と書かれたそれを、くしゃりと握りつぶすのはさすがにバツが悪く大人げない気がしてしなかったけれど。僕はそれを、ゴミ箱に捨てた。どうせ返事をしなくても、家族ぐるみの付き合いで両親同士仲が良い。僕の出席は既に決まり事のように話されているに違いない。あの男もだから仕方なく、招待状を出したに過ぎないだろうから。―――――――――――――――――――この頃のbarプレジスは、どうも僕にとって居心地が悪い。元より多い女性客がこの頃増えたから……というのは正しくは理由にはならない。僕は女性客の方がやりやすい。ただ増えた女性客が、陽介さんに思いを寄せていたアカリちゃんというところが、問題なのだ。友人と一緒だったりすることも多いアカリちゃんだが、今日は一人だった。そして、少し前から来店していたマリちゃんをカウンターに見つけ、今は二人でカクテルを楽しんでいる。仲良くなるのは、いい。まったく構わないが……この二人のセットが、近頃の僕の居場所を穢していた。「陽介くん、今日はまだ来ないんですか?」「どうかな、もうすぐ来るかもしれないけど」嫌な方へ話が進みそうだと思ったけれど、尋ねられて答えないわけにはいかない。曖昧に答えると、アカリちゃんはウキウキとした表情で頬杖をついた。「もう、陽介くんのキラッキラした慎さんへの目が、見ててほんとに可笑しいんですよね」「冗談じゃないわ。それならそれで、相手はもっとカッコイイ大人の男でないと……」アカリちゃんの言葉にマリちゃんが不満の声を上げた。ある日ふとした会話で意気投合した二人は、それ以降店で居合わせると躊躇いなく隣に座る。そして話題はいつも、僕と陽介さんの話だ。この二人の間ですっかり僕と陽介さんは、ゲイカップルとして認知されてしまったのだ。最早反論する気力も沸かず、乾いた笑いを漏らした僕に、アカリちゃんが言った。「大丈夫です! 私、二人の邪魔をする気はないですから、すっぱり諦めます!」「いや……はは」笑うしかない。アカリちゃんは、好きな男がゲイだったという本来ならドン引きするような出来事を、随分とあっさり受け入れていた。それが本音なのかど
「男同士で、キスできるなんて。最低に趣味が悪い」唇同士が触れ合う寸前、そんなセリフを言ったのは、極度の緊張と罪悪感からだった。それと、不安。この人は、どんな気持ちで男の僕とキスをしたいと思ったのだろう。僕がこのキスを受け入れた後、本当の性別を知ったら?騙されたと思うだろうか。なんで黙ってたと、怒るだろうか。それとも、女で良かったと思ってくれるだろうか。「嫌ですか」と、間近に迫った唇から声と同時に吐息が触れた。それが余計に、緊張を強いる。「……そっちこそ」問いたいのは、僕の方だ。陽介さんにとって、男の僕の方がいいのか女の方がいいのか。答えはとても模範的で、一番聞きたい言葉でもあった。「俺は……慎さんだから、キスしたいだけです」”僕だから”嬉しい、という感情を確かめる余裕も隙もなく、唇が重なった。最初こそ、様子を窺うように触れた。だけどそんなのは、ほんとに僅かで気が付けば濃厚な、深いキスに変わってた。舌がほんの僅かな隙間を、入りたそうに何度もなぞる。身体ががちがちに緊張して、息の殆どを僕は止めてしまっていたらしい。苦しさに慌てて息を吸い込めば、陽介さんの熱の籠った吐息も一緒くたに吸い込んだ。それが酷く、恥ずかしい。唇が熱い。口の中まで侵入を許してしまえば、頭がぼやけてもう、訳が分からない。「……ん、も……やめっ……」「もう少し……すんません」謝っている割には、彼は随分と自由に僕の口の中を蹂躙していた。息が苦しい。熱い。”相手が陽介なら?”蕩けた頭の中で、佑さんの声がした。盛って何をされるかわからない。確かにその通りだし、今まさに盛られてるし「……くるしっ……」「もう、ちょい」怖くないと言えば嘘になる。首を掴む手の大きさを、肌で実感する。強くはなく優しく支えられてるのに、逃げる隙はなくて怖い。宥める様に僕の首筋を撫でる指の感覚にもぞくぞくさせられて、怖い。だけど嫌じゃなかった。「怖い」と「嫌」は別物の感情らしいと知った。だけど、僕の器はデカくない。寧ろ狭量だ。キャパシティは限界で、本当に限界ギリギリで。だから。苦しくて身体が熱くて、それでも嫌じゃない自分を持て余してどうしたらいいかわからなくて咄嗟に噛みついてしまったことは、許して欲しい。「いっ!!」「はあっ」と、大きく息
閉店までに戻ると言ったのだから、きっと慌てているには違いないが。戻ってくることは、間違いない。そうわかってるのに、佑さんに無理やり脳内で空想させられた映像が再生されて、どうにも落ち着かない気分で時間をやり過ごす。洗い物でもして気を逸らそうとしたけれど、上手くいかない。あの子の陽介さんを見る目は、とてもわかりやすかった。彼が好きなんだと、目が語っていた。いくら僕が彼女に丁寧に接客しようと、きゃあきゃあとミーハーなはしゃぎ方をするのは表面上のことで、その場のノリだ。もう一人の友人とのテンションに合わせただけに過ぎない。そのことに多分、陽介さんは気付いてない。だから、きっとかなり無防備な状態だろうと思う。先ほどの脳内空想に、簡単に持ち込まれるんじゃないだろうか。「……はぁ」出てしまった溜息は殆ど無意識で、だからといって気持ちが軽くなることもなくなお一層、重い。陽介さんが帰ってきたのは、気もそぞろに漸く最後のグラスを洗い、流し台の掃除をしていた時だった。「すんません、遅刻しました」扉を開けて入ってきたときには、なんとも言えず心の底から安堵する自分を知って、認めざるを得なくなった。僕は、この人を誰にも獲られたくないのだ。いつのまに絆されたのか絡め取られたのか。全開で気持ちをぶつけられた衝撃で少しずつ侵食されたのかもしれない。半分走って戻ってきたのだと聞いて、何もそこまでしなくてもとつい可愛くない言葉を返してしまった僕に、彼は笑った。「俺が会いたかったし」その言葉に、ぎゅうっと胸が締め付けられて、なぜだか無性に、泣きたくなった。本能だ。この、抱えたままにするには苦しい何かの感情を、落ち着かせるには近づいて体温を感じるしかないのだと、本能が知っていた。あの距離で体温を感じたいのは、佑さんではなくて。陽介さんに近づいた時、自分はどう感じるのか、確かめたい。結果、僕は自分から、陽介さんに近づいた。ちょっと手を伸ばされただけでびびって身体を揺らした僕に、彼は当然、弾かれたように手を止めた。「すみません、つい」引っ込みきれずに、宙で留まっている拳と陽介さんの顔とを交互に見る。深呼吸をした。お構いなしに突っ込んでくるこの男のせいで、もう少し近づくこともあったはずだ。バッティングセンターではべったり背中に張り付かれたし、その時
佑さんの声は淡々としていて、だから余計に、脳内にこびりつく。話している間も、至近距離で真っ黒い二つの目が僕を射抜いていた。逸らしたいような、逸らしてはいけないような。頭の中が静かに混乱させられたまま、佑さんの言葉が続く。「元、だしな。過去のしがらみ越えんのも、やぶさかではねえよ。そう思うくらいには、お前はいい女だ」「ゆう……さ、」絞り出した声は、緊張して擦れていた。漸く重たい足が動いて、一歩後ろへ下がったけれど、距離が変わらない。同じだけ、佑さんが詰め寄るから。「後は、お前だ。お前は誰と、この距離で居たい?」その声が、急に艶めいた気がした。吐息が頬にかかる。”誰と”と聞かれているのに、答えは二択で迫られているような、そんな気がする。その問題自体が、間違ってないか?何で今、そこから選択しなければいけない。すんなり口が動いていたらそう切り返していたかもしれないが、言葉が出ないうちにこの状況ではそうもいかないのだと気づく。二択の選択肢の一人が、今は僕じゃない人と一緒に居て、もう一人が今僕の目の前で距離を詰めようとしているからだ。「まあ、もしかしたら陽介は今頃あの子と、こんな雰囲気でいるかもしれないしな。だったら俺にしとくか?」陽介さんとあの子が。今の僕と佑さんのように。その映像は脳裏で容易く映像化され、実際に今傍に居て感じてしまう体温と連動した、途端だった。あれほど抵抗力を失っていた身体に、ぐっと力が入る。胸の奥から沸いた焼け付くような嫌悪感が、陽介さんとあの子に向けられたものなのか佑さんに向けられたものなのかはわからないが。矛先は、目の前にいる佑さんに向けられた。次の瞬間、「げふっ」とまるで何かを嘔吐するような声を上げて佑さんが前屈みに腰を折る。僕は顔を背けて避け、目に付いた休憩用の丸椅子に手を伸ばした。「げほっ……お前、俺は答えを出せって言ったんであって、拳を出せとは…」「……悪い。距離が近すぎて上手く鳩尾に入らなかった」「ちょっ、待て待て! 揶揄って悪かった、そんなもん振り上げるなお願い降ろして」「……っ! やっぱり揶揄ってたのか!」丸椅子を振り上げたのはさすがにただの脅しのつもりだったが、本気でそのまま振り下ろしてやりたくなった。尻もちをついて鳩尾を擦りながら僕を見上げる佑さんは、悪ふざけが過ぎたこと
【神崎慎】「ほんと、何か変っすよ」陽介さんが、心配そうに僕に向かって手を伸ばす。その手に過剰反応して、思わずびくんと身体が跳ねた。「すみません、つい」驚いて手を引っ込めた陽介さんは、それでも尚、僕の心配をしてくれているのはひしひしと伝わってくる。確かに、僕は今、おかしい。原因の大半は、陽介さんが店に戻ってくるまでの間、佑さんと二人の時に起きた出来事にある。陽介さんたちが店を出てから、暫くして他のお客も居なくなり、普段より早めに店じまいをすることになった。有線で流れていた音楽を止めると、佑さんが何かにやにやと唇を歪ませながら僕を見た。「お前さ、なんか間違ってねえ?」「は? なにが」「気になって仕方ないからって、何女の方を悩殺しようとしてんだよ」くつくつと可笑しそうに肩を揺らす。佑さんに指摘されたことは十分に身に覚えがあって、僕はいっそわかりやすいくらいに狼狽えた。「そ……そんなことない。いつも通りだ」「まあ、お前にしかできない妨害かもしんないけどさー、妨害にしちゃ消極的だ。どうせやるなら結婚詐欺くらいの勢いで落としにかかんねえと」「別にそんなんじゃないってしつこいな!」確かにいつもより若干、女の子が喜びそうな接客をしたかもしれないが。それは、アカリちゃんが僕から見ても可愛らしかったからで。僕は、元々可愛い女の子を見るのは好きだし、ほら、言わばマリちゃんに対して見せるのと同じような。と、脳内で勝手に慌てて誰に対してかわからない言い訳を並べ立てていた。だけど本当は自覚している。合コンという名目で、浩平さんが陽介さんにあてがおうとしているアカリちゃんを見た時、僕は軽くないショックを受けた。陽介さんの隣に並んで店に入って来たのは、小柄で華奢で、清楚な長い黒髪をハーフアップにした、可愛らしい女の子だった。僕とは全く、正反対の。男というのは、一般的にああいう子が好みだろうなと見ていて思った。だけど陽介さんは、僕を好きだと言う。信じてくれと、真摯な言葉で訴えてくれたことを忘れたわけじゃない。その言葉に、僕はまだ一度も応えていないというのに、ショックを受けた自分も嫌だ。独占欲ばかり一人前に成長して、僕は一体何がしたいんだろう。テーブル席とカウンターテーブルをダスターで綺麗に拭いて、カウンターに戻ってくると、流し台に汚れた
緊張で固くなった唇は、何度も重ねて舐めるたびに柔らかく熱を持った。抵抗しないのをいいことに、唇を貪ることに夢中になって、苦しそうな彼女の息遣いも扇情的なものにしか感じられなかった。「……ん、も……やめっ……」「もう少し……すんません」最初は片手で支えていただけだったのに、いつのまにか両手でがっちり彼女の首筋を捕まえていて、よくもまあ、あの慎さんが大人しくしていてくれたものだと、気付くのは後になってからだが。「……くるしっ……」「もう、ちょい」止まんないんだよ、仕方ない。声を遮るように角度を変えて深く口づけると、咄嗟に閉じようとした歯の間に舌をねじ込んで絡みつく。唾液にまみれて滑りのよくなった唇がこすれ合って、心地よさに恍惚とする。柔かくてあたたかくて、気持ちよい。舌を絡めることに慣れてない様子に、益々身体が熱くなった。無理だ。止めろって言われても、無理。ほんとに嫌なら、噛みつくなりなんなりしてくださ……。「いっ!!」突如、口の中でガリッという音がして同時に鉄のような味が広がり、陶酔しきっていた意識が現実に引き戻される。舌先に走った激痛に、慌てて彼女の唇と首筋を解放した。いってぇえええええ!噛まれた!おもっきし噛まれた!口を片手で押さえて前屈みになる。声も出せないくらいの痛みを地団駄を踏んで逃がしていると、息も絶え絶えといった様子の慎さんの声が聞こえた。「くっ、苦しいって、言ってるだろう、いいかげんにしろ!」見上げると、涙目で顔も真っ赤な慎さんが般若のような表情を浮かべて肩で息をしていた。やべえ。調子に乗りすぎた。「す、すんませ……気持ちよくてつい」「き、きもちよいって……」かああ、と一層赤く染めながら、慎さんが一度言葉に詰まる。照れてるのか恥ずかしがってるのか、でも間違いなく怒ってもいる。やばい、嫌われてたらどうしよう、と、散々貪っておきながら今更不安になってきた。「いくらなんでも、苦しい! 息継ぎくらいさせろ!」「い、息継ぎ?」そんなん……どうやったっけ?無意識にやってるから、あんまり考えたことがない。キスの最中のことを思い出しながら、ふと、気が付いたことを言ってみた。「……鼻、息止めてました? 合間に口でするのもありますけど……苦しかったら多分、鼻?」「鼻……」恐らく今、慎さんの中で
中途半端な位置で留まったままの拳と俺の顔とを、綺麗な榛色の瞳が行き来して、少し肩の力を抜いたのがわかった。スツールが極々小さな、「キィ」という音をさせる。慎さんが椅子ごと俺の方を向いたからだ。すぐ間近からまっすぐに見つめられて、ますます手と目のやり場に困ってしまう。見つめてくる目はやっぱりどこか不安げに揺れていて、そのくせ潤んで艶っぽく……思わず生唾を、飲みこんでしまった。やばい。もうちょい、いつもみたくガード固くしてくれないと、今の俺はホントにヤバイ。「ちょ……っと、」トイレ、と言ってその場を逃げ出そうとしたのに。「……なんで、止めたんですか」慎さんが俺の手を見ながら、呟いた。何を尋ねているのかは明白だった。「……すんません、その……ちょっと」「僕が、怖がったから?」「俺が悪いんす。ちょっとだけ、のつもりで……あ、頭! 頭、撫でようとしただけで!」いや、ほんとは。頬に手は向かってたけど、怒られそうな気がしてつい控えめに言ってしまった。「……」「……すんません」そんな、まっすぐ見つめられたら。些細な嘘だけど、なんかめっちゃ悪いことをした気になってしまうからほんとに止めて、ごめんなさい。これは、なんだ。拷問か、それとも試練か。俺の忍耐力の限界を誰かが測っているのだろうか。やっぱりトイレに逃げよう、と立ち上がろうとしたら。「……いいよ」と、慎さんの声がして、一瞬何がいいのかぴんと来なかった。「え……」「いいよ、触れば。……別に、陽介さんが怖かったわけじゃない」ぶっきら棒で、ちょっと早口なのは照れ隠しなのだとすぐにわかった。視線が斜め下に逃げて、眉間に皺を寄せてはいるものの頬は触れたら熱そうなくらいに赤い。触っていいよ、というよりも、触って欲しい、と表情はそう言ってるように見えるのは、俺が調子に乗ってるからか?「い、いいんすか、ほんとに」「嫌ならい」「触ります!」……触ります、って宣言はどうなんだ。と自分でも思いつつ、じゃあ……と右手をゆっくり髪に触れさせた。緩くウェーブのかかった髪は、思っていたより艶やかで、想像するよりずっと柔らかく指に絡む。……細。絹糸みたいな細い髪を、最初は手のひらで撫でる。慎さんは恥ずかしそうに目線は背けたままだけれど逃げる様子もなかったから……髪の中に指を差しいれ