◇◆◆◇ホワイトデーの前日から、慎さんは店にきた女性陣に小さな包みにリボンをかけたものを、カクテルに添えていた。「中身は全部、お菓子なんですか?」「はい。全部クッキーですよ」後で俺にもくれたりするのかな。いや、今日は俺が彼女に贈り物をする日なんだけど。日付が変わると同時に一番に渡したいけれど、まだ客がいる時には渡せない。それがもどかしくて、最後の客が帰るのを今か今かとそわそわしながら待つ。「……あの、佑さん」「わーってるよ消えてやるよ。ってか、ここ俺の店なのに段々居場所なくなるんだけど」「へへ。すんません」慎さんがカウンターを離れた隙に、佑さんにもこっそり念押ししておく。早く二人きりになりたかった。「じゃあ、俺は帰るからな!」「お疲れさまです!」最後の客が帰ってすぐだった。カウンター内を粗方だけ片付けると、佑さんは約束通りさっさと店を出てくれて、漸く二人になれた。「ったく、佑さんは最近店閉めサボり過ぎです」「まあまあ。俺何か手伝いますよ」「いえ、もう終わりますけどね」カウンターの中でビニール袋の音がする。多分、最後のゴミをまとめているんだろう。その間、俺は今か今かとスツールに座って待っている。いつも、俺がすごく心待ちにしている一瞬が、実はあるのだ。やるべきことを終えたら、慎さんがカウンターを出てくる。ほんのちょっとだけ照れを滲ませた表情で、けれどなに食わぬ顔を装ってすとんと隣に座るのだ。一番最初は初めてキスをしたあの日。それから時々、こんな風に自分から隣に座るようになって、その時のちょっと不自然な感じがたまらなく可愛くて好きだ。「今夜もお疲れさまです」「陽介さんも、お疲れさまです。はい、これ。ホワイトデーです」こん、と目の前に置かれたのは、片手サイズの瓶に詰められた色とりどりのキャンディだった。「やった、俺にもくれるんですか」「陽介さんもチョコくれましたしね」「あざっす! 嬉しいです」なんで俺だけキャンディなんだろう。この時は、余り深く考えなかった。じゃあ俺も、とアクセサリーの箱を慎さんに渡すことで、頭がいっぱいで。「えっ……なんですか、これ」「へへ。ホワイトデーです」四角の赤い箱が、薄いレースのリボンで留められている。慎さんは訝しい顔で、リボンを解く。どう見たってアクセサリーが入っ
【ホワイトデーには愛の言葉を】俺の好きな人はとにかくめちゃくちゃ綺麗で、かわいいひと。「ベタぼれなのねえ。逆にチョコあげちゃおうって思うくらいだもんねえ」「もう、ほんと可愛いっす。優しいとこはあるんですけど、あんまり素直に言わないし」「うんうん」「そのくせ、これが好き、これが嫌いっていうのが結構はっきりしてて」「ふうん?」「嫌いってか苦手が多いんですかね? そういう時は眉間にきゅーって皺が寄ってそれがまた可愛くて」「おばちゃんにはどこが可愛いかわからないわー。ツンデレ?」「ツンデレ……素直にはデレてくんないですけど」「……どこが可愛いの?」くそぅ!彼女の可愛さを口で説明しようとするのは、とても難しい!チョコレートの行列で一緒になったおばちゃんには結局理解してもらえず、「まあお食べよ」と義理チョコを一個もらえた。事前にバレンタインの話をした時に、「ああ慎さんはすっかり貰う側なんだな」と思わされ、それがまた山ほどチョコレートに囲まれているところを想像するとやたらと似合うのですっかり納得してしまっていた。だから思いもよらずチョコレートを貰えた時は、すっかり舞い上がってしまって。しかも、「あーん」とか無意識の行動だったんだろうけどほんと、たまに出るそういうところがたまらなく可愛い。あれは、危険だ。俺の暴走は至極当然で仕方ないと思う。後でグーで殴られたけどそれでも幸せだった。ああ、そうだ。苦手なものは多くて好きなものは少ないけれど、その分一つの「好き」が結構深い。パンにはほんとに目がないらしくて、普段はそれほど食べないのにパンだと本当に美味しそうに食べる。多分、毎日買っていっても飽きずに食べてくれると思う。
注文したものと違うことに気がついたんだろう、 不思議そうに顔をあげた彼に他の客には聞こえないよう小さな声で告げた。「僕から、です」薄い琥珀色の液体に、ミントの葉を浮かべたそれを、陽介さんは一度、二度と口に運ぶ。そして、はっと何かに気づいて顔を上げた。「…………チョコレート?」「ば……バレンタインですから」さらりと、告げた。けれど内側は心臓がバクバクだった。良かった。気づいてもらえなければ、チョコレートグラスホッパーにギムレット、モーツァルトの午後、と思い付く限りのチョコレートカクテルを並べてやろうと思っていたのだが。僕が彼に作ったのは、チョコレートモヒートだった。百貨店で途方に暮れた僕の目に止まったのが、チョコレートリキュールが豊富に並んだ棚で。僕はそこから、何種類かのリキュールを手に取った。これなら、さりげなく渡せるかもしれない。それに何より、他のチョコレートよりも自分らしいと思ったのだ。「嬉しいです、こんなチョコレート初めてだ」きらきらと目を輝かせて、何度も味わうようにグラスを傾ける。彼の言葉や表情は、いつも感情が溢れていてわかりやすい。照れくさくてつい目を逸らしてしまう僕とは、本当に正反対だ。「甘ったるくはないでしょう? もっとも、色々あるので甘いのも作れますけど」こん、こんこん。とリキュールの小さな瓶を三つ並べる。ブラック、ホワイト、クリームの三種類。「陽介さんの名前でキープしときますね。それとも持って帰られます?
どうする。いっそのこと、今までのスタンスを崩さないままでもいいのではないだろうか。陽介さんが一言も欲しいと言わなかった、ということは彼にとってもそれほど重要視されているイベントではないのかもしれない。いや……しかし。陽介さんは、貰うのだ。誰かからは、貰うのだ。それでも僕は、あげなくてもいいのか?自問自答すれば、やはりこのままスルー、という選択肢はなく。渡す渡さないはまた後から考えることにして、まずチョコレートを手に入れるべく平日昼間、僕は珍しく一人で外に出た。バレンタインフェアというものを百貨店でしているのを、テレビのニュースで見たからだ。人の多い場所は苦手だが、平日ならそれほどでもないだろうという僕の見解は、甘かった。バレンタインが目前に迫っているせいかもしれない。赤やピンクのハートがあちこちに飛ぶ、如何にもバレンタインという装飾がされたイベント会場は、たくさんの女性客で賑やかなものだった。……この中に、混じれと言うのか。どこから見ても男にしか見えない僕が。やはり目立つのか、こうして立っているだけでもちらちらと視線が飛んで来るのがわかる。会場の入り口付近からそれ以上足を踏み入れることはせず、まずはパンフレットに目を落としてみた。たくさんの洋菓子メーカーが、バレンタイン商品のみをこのイベントに出品しているらしい。めぼしいものをパンフレットで見つけて、後は地図でそこまで真っすぐ行ってすぐに脱出すればいい。そう考えたのだが、商品も金額も多種多様でどれにすればいいのやら。結局決めかねて、もう一度会場の方へ目を移す。何度見ても気後れする状況に、それこそ途中で貧血を起こしそうだと、ごくりと一つ、喉を鳴らした。*****そうして迎えた、バレンタイン。「慎さん、これ!バレンタインチョコ」「ありがとうございます」馴染みのOLさんに、帰り際に小さな箱を差し出され笑顔で受けとる。「佑さんもよかったら」「ついで感満載だなおい」「やだー、そんなことないよ」ありがとうございます、と御礼を言って、カウンターの外からは見えない紙袋の中に入れる。大きめの紙袋だったが、もうすでに溢れんばかりになっている。バレンタインは明日の日曜だが、土曜の夜から既に女性客がひっきりなしだ。これはもしかしたら、新記録かもしれないな。と、既に個数もわ
【バレンタインの認識が変わるとき】朝食のコーヒーを飲みながら、軽い頭痛を緩和しようと眉間を指で押さえた。大体、僕はいつも血液が足りない。貧血からくる頭痛は月に2、3度やってくる。病院から出る鉄剤は、飲むと気分が悪くなるし、どうすりゃいいんだと自分の身体ながら腹立たしい時がある。だったらちゃんと飯を食え。全くその通りなのだが。朝は、あんまり食べる気がしないし、それでコーヒーだけで済ませると昼はすきっ腹になりすぎて食べる気がしない。昼食を逃すと、流石に何か食べないといけない気がしておやつを食べる。そしたら晩御飯が入らない。……つまり、いいかげんな食生活が原因であることはわかってるんだが、いまいち食に興味が沸かない僕は、正さなければいけないという意識も薄い。「ほら、ちゃんと食えよ」「……うっ」どん、と目の前に佑さんお手製の朝食が置かれた。トーストにベーコン、スクランブルエッグにカットバナナ。朝からフルセット過ぎんだよ。とりあえずトーストを手に取って噛り付く。パンの耳付近をちみちみ齧りながら、バターの香りを漂わせる卵を睨んだ。「……朝からこんなに食えない」「俺だって毎朝来てやれるわけじゃねんだから。作ってやった時くらい食え」「せめて半分」「……しょーがねーやつだな」ようやく折れてくれた佑さんが、フォークと小皿を持ってきて卵を半分とベーコンを一枚浚っていく。こうしてたまに佑さんが朝食を作りに来るのに加えて、土日は陽介さんが焼き立てパンを買って来てくれたり無理やり食事に連れてったりするので、これでも以前よりは随分食べるようになった。プラス、レバーだとか鉄分が豊富に含まれた食べ物を摂ればよいんだろうが僕はレバーは食べられない。あれだけは絶対無理だ。「お、そういやもうすぐバレンタインだな」佑さんがベーコンを咀嚼しながら、カウンター上の卓上カレンダーに手を伸ばし、続けて言った。「お前、今年はどうすんの?」「どうするって……頑張って食べるしかないだろ」毎年のことながら、積み上げてタワーを作りたくなるくらいのチョコレートの量を思い出すと溜息が漏れた。どう見たって本命だろうっていう高級チョコから可愛らしい義理チョコまで、毎年山ほどチョコレートがやってくる。一番多くもらったのは、五十個くらいだったと思う。数を気にするわけでも
「そやったら、お重もう一段持って帰りよ!」「は?いや、いいよもう充分。二段も入ってるし」「だって、陽介さん身体大きいしたくさん食べるやろ。すぐやから」おせちのお重が追加されるのを断ろうと、お母さんと押し問答する真琴さんの横顔を見ながら、自分で吐いた言葉に俺自身が苛まれていた。『身動き出来ない状態で、弄くり回してやろうか』真琴さんではなくあの男に向けて言った言葉だ。だけど、真琴さんと準えて言ったことに間違いはなく、俺の言葉が真琴さんを傷付けてしまったような気がして、酷い罪悪感に胸の奥が軋んだ音をさせる。どこをどう触られたかなんて、聞いてない。だけど、俺が言ったようなことをされたかもしれないのだ、あの男に。漸く玄関の外に出て、念のために周囲を見渡してあの男がいないことを目視で確認する。「陽介さん?」「あ、それ、持ちます」おせちの入った紙袋を真琴さんの手から受け取って、そのまま手をつないで歩きだす。「佑さんと喧嘩でもしたんですか?」「なんでですか?」「いえ、なんか。なんとなく?」「なんもないですよ、仲良しです」「仲良し、と言われたらそれはそれで違和感あるんですけど」「俺は離婚してるはずの佑さんがなんの違和感もなくあの場にいるのが不思議でしたけど」「言ったじゃないですか、別れてからのが良い関係みたいだって。その内よりを戻すんじゃないかなあ。今日もちゃんとお父さんしてて機嫌良さそうだったのに」佑さんがいつもと違っていたことを、不思議がっている様子で、そこから話を逸らしたくて彼女の手を持ち上げた。細い手首、指。壊れ物みたいに繊細で、その手で必死に暴れたのだろうか。……なんで、俺じゃなかったんだろう。思っても仕方ないことを、胸の内で呟いて、労わるようにその手に唇をくっつけた。あの男にどこまで触られたのだろうか、と考え始めれば冷静でいられない自分がいて、必死で脳内を切り替える。手にキスをしたまま、彼女の顔を覗き込むと、またほんのり頬を染めて困惑した表情で俺を見ていた。「……な、なんですか、急に」「へへ、今日何回も顔真っ赤にして可愛かった」「あれは貴方が恥ずかしいこというからっ」「いいっすか?」「こ、ここで? でも、人が」「暗いし誰も居ないっすよ」「そんな暗くないじゃないですか」唇にキス、の合図に戸惑う彼女に「ち