なのに、洵は怖いもの知らずのように反抗をしてくるなんて、その生意気な態度はとても気に障ったのだ。だけど所詮はなんの後ろ盾もないんだから、どんなに強情を張っても自分の前で大人しく頭を下げて従うべきじゃないのかと天音は思った。だから、天音は本当は怪我なんてしていなかったんだ。倒れた瞬間に、こっそり手を伸ばして腕に傷をつけた。そうでもしないと、今日、洵を懲らしめる理由が、運が悪かっただけになってしまうから。痛い、本当に痛い。でも、洵に仕返しできないで泣き寝入りする方がもっと嫌だった。そう思うと少しぐらいの怪我なんて、天音にとってどうってことないのだ。そして、怪我をしたおかげで、洵は生意気な口をきけなくなったし、月子もやってきて、ペコペコしながら自分をなだめようとして、機嫌を取る方法まで考えなきゃいけなくなった。まさに一石二鳥。とはいえ、最初から洵がそこそこの腕前があるって分かっていたら、ボディーガードを連れて行ったのだが、そうすればこんな目に遭わなくても済んだのに。とにかく目的は達成できたし、天音は上機嫌だった。だから彼女はしばらく洵の様子を見てから、悔しそうな顔をして、大げさに静真に泣きついた。洵は、それを見るごとに顔が険しくなった。この女、全ての責任を自分に押し付けようとしているんだ。月子は、天音の泣き言が終わるまでじっと待ち、それから口を開いた。「ちょっと話そうか」それを聞いて、天音は不機嫌そうに月子を睨みつけた。「あなたと話すことなんて何もない。っていうか、月子、この件、あなたに関係ある?私に痛い目を合わせたのは洵よ。なのに彼はまるで役立たずみたいにあなたの後ろに隠れて、本当にどうしようもないわね」そう言うと彼女は洵に軽蔑の眼差しを向けて、わざと挑発するように言った。「役立たず」洵は生まれてこのかた、天音ほど嫌な女に出会ったことがなかった。入江家の人に対する嫌悪感は、おそらく生まれつき備わっていたものなのだろう。一方で、そう言われた月子は天音に散々罵倒されたことがあったので、彼女の口の悪さには慣れていた。しかし、洵はきっと慣れていないだろうから、月子は冷たい表情で天音の話を遮った。「なぜ洵にちょっかいを出したの?」それを聞いて、天音は面白がるように言った。「理由なんている?単純に気に食わないだけよ。彼は言葉遣
少ししてから、月子と洵は立ち上がった。静真はずっと月子を見ていて、その視線は以前のような露骨な怒りはなく、何か秘めたる感情が渦巻いているようだった。彼が何を考えているのか分からないが、月子は深く考えるつもりもなく、とりあえず問題を解決する方が先決なのだ。そう思って月子は「天音が洵に八つ当たりしたのは、彼女に原因がある。彼女こそ洵に謝罪すべきよ」と言った。それを聞いて、静真は唇をあげた。「いいだろう」月子はきょとんとした顔になった。こんなに簡単に承諾するなんて?詩織も少し驚いた。しかし、次の瞬間、静真は言った。「だが、天音の怪我はどうしてくれるんだ?」その言葉を聞いて、月子の眼差しは鋭くなり、彼が続けるのを待った。「同じ傷を負わせろ」静真は言った。月子は拳を握り締めた。やはり静真が簡単に済ませるわけがないのだ。しかし、こんな要求を承諾するわけにもいかない。片や、それを聞いた洵の表情一瞬にして凍り付いた。「いいよ。だけど、こっちも天音に頭を下げて謝罪してもらうまでだ!」それを聞いて、静真は目を細め、初めて洵をまともに見た。この小僧も意外に強情だなと思った。離婚前なら、本当の姉弟なのにどうしてこんなに性格が違うのかと思ったけど、今の月子の性格からすると洵がこんなことを言うのも当然だろう感じた。その言葉に静真が口を開く前に、詩織が先に注意を促した。「月子さん、問題を解決したいなら、あなたの弟さんに言葉を慎むようにお願いします」それを聞いて月子は洵の前に立ちはだかり、一歩も引く気はなかった。「洵に同じ傷を負わせても、問題解決にはならないでしょ」それを聞いて、静真は尋ねた。「じゃあ、話にならないってこと?」月子は落ち着いた声で言った。「天音が出てきたら、彼女と直接話し合うよ」静真は冷笑した。「天音の性格だ。お前が話せば済むと思っているのか?」「それは心配無用よ」静真の顔色は曇った。月子は彼をまっすぐ見つめた。静真は何か言いたげだったが、ぐっと堪えているようだった。こんな我慢している姿は、意外で奇妙に感じた。突然の沈黙に、気まずくて息苦しい空気が流れた。月子はしばらく待ったが、静真は何も言わなかった。これで解決できると分かった。結局、天音が先に手を出したことは明白だ。静真も強気に出られないだろう。
人を見下していた天音だが、実際のところは大したことなかったな。静真の実の妹だけあって、二人とも同類で、見るからに嫌気がさすような人間だなと洵は思った。ざまみろってところだな。月子は状況を把握すると、詩織の方を向いて尋ねた。「植田さん、事情は分かった。静真には報告したの?」「入江社長には既に報告済みです。ですが、天音さんが怪我をされているので、然るべき対応をしていただかなくてはなりません」月子は眉をひそめた。「それなら先に、天音が複数で洵を襲わせたことを説明すべきじゃない?」「入江社長とご相談ください。ですが、怪我をされているのは天音さんですので、社長が本気で追及すれば、事態は深刻になるでしょう」それを聞いて月子の顔色は悪くなった。どうやら相手は、ほんの少しのことでも言いがかりをつけて徹底的に追及するつもりのようだ。もし天音が怪我をしていなければ、ただの嫌がらせで済んだのに。むしろ、天音に謝罪させることだってできた。しかし、天音は怪我をしてしまった。彼女の自業自得とはいえ、怪我をしたのは事実だ。入江家は、たとえ些細なことでも自分たちが脅かされるのを許さないだろう。ましてや、天音はわがままに育てられてきたのだ。縫合するほど怪我を負ったともなれば、入江家は黙っているはずがないのだ。なにせ、天音にとってこれはかなりの一大事なのだから。洵は詩織の言葉に全く納得がいかなかった。どう考えても、天音が計画的に自分を襲わせたんだ。もし自分が強くなかったら、今頃病院に搬送されていたのは自分の方だっただろう。なのに、まるで自分が悪いと言わんばかりの上から目線で、さらに報復までするとは、あまりにも横暴すぎる。やっぱり入江家の人間はみんな鼻持ちならないな。しかし、そうは思ってても洵は軽率な行動は慎んだ。月子がここにいる手前、これ以上事を荒立てるわけにはいかない。しかも、自分が衝動的に行動すれば、事態を悪化させる可能性だってあるのだから、月子に指示された時だけ動く。それは月子との約束でもあるのだ。彼はただ迷惑をかけるばかりではなく、月子を守れるような弟でありたかった。とはいえ、また面倒を起こしてしまった。悪いのは自分ではないとはいえ、厄介なことに巻き込まれたことには変わりないのだ。洵は自分で何とかすると言ったが、月子が
月子は電話を切り、すぐに洵に電話をかけたが、繋がらなかった。そして陽介に電話をかけると、今度は繋がった。月子は電話で陽介に事情を説明した。陽介は困惑した様子で言った。「洵は今日、仕事の後で取引先と会う約束をしていたんだ。俺もずっと連絡を取っていなかったから、誰と喧嘩になったのか、さっぱり分からない。一体誰となんだ?」「分かった。洵は大丈夫みたいだから、心配しないで。私が様子を見てくるよ」そう言うと、月子は電話を切った。洵と天音は、やすらぎの郷で一度会ったきりだった。その時、二人は少し口論になったようだが、そこまでわだかまりがあるように思えなかった。洵は天音と関わりたくないだろうし、天音だって洵を眼中に入れていないはずだ。そんな二人がどうして喧嘩になるんだ?洵は短気だけど、分別はあるほうだ。口では色々言うけど、実際に行動に移すことはほとんどないし、まして女性に手を上げたなんて話は今まで聞いたことがなかった。むしろ、余裕があれば困っている女性を助けたりすることもあるくらいで、彼はただ、性格がクールなだけなんだ。そう考えていると月子はふと、あることを思い出した。天音は正雄に罰として、2週間、実家で謹慎させられていたんだ。確か、もう解放されている頃だろう。もしかして、天音は鬱憤が溜まっていて、誰かに当たり散らしたくなったのかも……でも、八つ当たりするなら、自分にするはずだ。何の関係もない洵に当たるのは一体どうしてだろう?もしかしたら、二人が偶然出会って、ちょうど天音の機嫌が悪かったから、口論になって、つい手が出てしまったのだろうか?いずれにしても、怪我をしたのは天音だ。この件は、穏便に済ませるのは難しそうだ。自分が行かなきゃ。萌に簡単に事情を話すと、月子は詩織から送られてきた病院の住所へ向かって車を走らせた。場所はそれほど遠くなかったので、すぐに到着した。救急外来では、医師が天音の傷を縫合していた。入口の外には、詩織と、数人の鼻や顔が腫れ上がった若者が立っていた。どう見ても、天音の仲間だろう。一方で、洵は廊下の椅子に堂々と座り、目を閉じていた。目をつぶっていても、その表情には隠しきれないイラつきがあった。そばに立っている若者たちも洵に対してむかつきはあっただろうが、誰も前に出て来ようとは
悔しさだけでなく、今すぐにでも爆発しそうな怒りがこみ上げてきて、誰かを殴ってでもスッキリしたい気分だった。頭に浮かんだだけでも、何十人もの気に入らない相手がいた。それも、あらゆる業界の人間だ。でも、どれもこれも、ちっともスカッとしない。全然ダメだ。だって、全ての元凶は月子なんだ。月子が祖父の家に乗り込んで来なければ、こんな目に遭わなかったのに。こんな苦労をしなくて済んだのに。あの日、邸宅で母親や兄に楯突く月子の迫力、そして祖父にも臆することなく話していた姿……自分にはとても真似できない。月子が自分より優れているところを見ると、彼女は以前考えていたような、おとなしくて争わない義理の姉ではなくなっているような気がした。天音は以前のように月子を見下すこともできなくなった。むしろ、怖くなってきていた。さらに、隼人が月子を守っているから、なおさら手が出せない。もう、本当にムカつく。まさか、もう月子には何もできないっていうの?月子に何もできないという現実は、天音にとって大きな打撃だった。理由は色々あるけれど、彼女は一体いつからこんなに悔しい思いをしなければならなくなったのだろうか?天音は暗い気持ちでずっと移動していた。1時間が経ち、ふと月子には同じくらいの年の弟がいたことを思い出した。恐ろしく短気な奴だ。でも、それこそ好都合なんじゃないか?あいつが自分の前で謝罪する姿、想像しただけで、ゾクゾクするほど楽しい。よかった。やっと憂さ晴らしの相手が見つかった。このままじゃ、病気になりそうだった。人をこけにするのはお手のもの。桜にこの話をした後、すぐに人を集め始めた。天音は刺激と自由を求めて時間を無駄にしてきたので、真面目に仕事をしたことはなかった。しかし、遊び好きなおかげで人脈は広く、友人と投資をすることもよくある。特に入江家の令嬢という肩書きは彼女に多くの資源をもたらした。だから、すぐに準備が整った。洵について調べ、待ち伏せしてどこかに連れ込み、徹底的に痛めつけてやろうとした。天音は自らバットを振り回し、洵の体に叩きつけるつもりだった。だけど、洵に気づかれないようにするのは少し面倒だ。しかし、天音は常習犯。計画を立てるのは、驚くほど早かった。……千里エンターテインメントと契約した葵は、普通の人と働くこと
天音は愚痴を聞いてもらいたくて兄に電話しただけだった。まさか静真が本当に実家に来るなんて思ってもいなかった。車で何時間もかかるというのに。でも、兄の機嫌は最近ますます悪くなってる。今や少し文句を言っただけで、もう我慢できないようだ。まるで忍耐力がゼロになったみたい。そういえば、兄は月子と結婚してから、性格が丸くなった。少なくとも、自分にはとても優しかった。うっそ、今更気付いたんだけど、兄って結婚してる時としてない時じゃ全然別人みたい。とはいえ、今は兄の心配をしている場合じゃなかった。天音は頭に血が上っていて、この2週間は人生最大の試練を経験しただから。そこに、桜が車で彼女を迎えにきてくれた。親友の姿を見た瞬間、天音の目から涙が溢れ出た。桜も驚いた。目の前にいるこの人、本当に天音なの?ボサボサの髪に、しわくちゃな服。爪の間には土がこびりついていて、何とも言えない臭いが漂っていた。まさか、ここで天音の人生で一番みっともない姿をいてしまうなんて。桜が近づいていくと、家庭菜園が見えてきた。その横には堆肥があって、それが臭いの原因だった。「一体何があったの?」桜は驚きで口が塞がらなかった。天音は泣きじゃくりながら、断片的に事情を説明した。どうやら正雄は、天音に躾をとことん叩き込んだようだ。天音は友達とつるんでいないと生きていけないタイプの人間だ。一人で田舎に来るだけでも最悪なのに、スマホとネットさえあれば、2週間くらいゲーム三昧で過ごせるし、三食きちんと作ってくれる人がいれば我慢できると考えていた。ところが、現実は甘くなかった。電子機器はすべて没収、ネット環境もなし。使用人もおらず、ボディーガード一人だけ。しかも、そのボディーガードは正雄の忠実な部下で、2000万円の賄賂も通用しなかった。つまり、娯楽といえばニュースか時代劇しかやっていない公共放送のテレビだけ。生活面では、自炊を強いられた。友達もネットもなく、気が狂いそうだった。おまけに、誰も世話をしてくれない。天音は、何一つ家事なんてしたことのない令嬢だ。大人になってからも、口を開けていれば誰かが食べさせてくれるような生活を送っていたから、料理なんてできるわけがなかった。正雄がそんなに冷酷な人だとは思えなかった。意地