All Chapters of 元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

入江静真(いりえ しずま)と結婚して以来、綾辻月子(あやつじ つきこ)は離婚なんて考えたこともなかった。だって、彼女は静真に心底惚れていたから。彼の為なら死ねるくらいに。しかし、彼の初恋の人が帰ってきた。……その時、月子は病院にいた。医者の声は冷淡だった。「綾辻さん、今回の流産は子宮に深刻なダメージを与えています。今後妊娠の可能性は低いでしょう。心の準備をしておいてください」月子の頭はガンと鳴った。この子の為に、彼女は三年もの間、辛い妊活を続けてきた。そして二ヶ月前、やっと妊娠できたのだ。今日の午後、外出中に突然車が飛び出してきて、彼女は転倒してしまった……医者は眉をひそめた。「綾辻さん?」「……はい、分かりました。先生、ありがとうございます」月子は人前で弱みを見せるのが好きじゃなかった。瞬きをして、涙をこらえ、立ち上がってその場を去った。背後で看護師たちの噂話が聞こえてきた。「こんな大変な事なのに、旦那さん、見かけないわね」「本当よね。さっき子宮内容除去術を受けて、泣き崩れそうになってたわ。旦那さんに電話して、病院に来てくれるように頼んでたけど、結局来なかったみたい」「ひどい!愛してないのがバレバレじゃない。こんなの、離婚するしかないでしょ!」月子は遠くまで行っていたので、その後の言葉は聞こえなかった。実際、静真は病院に来るのを拒否しただけでなく、電話でこう言ったのだ。「子供がダメになったなら仕方ないだろ。何泣いてんだ?今忙しいんだ。邪魔するな!」その後、月子は何度か電話をかけたが、彼は一度も出なかった。この三年間、静真はずっと彼女に冷たかった。正直、彼女はもう慣れていた。三年前に月子が偶然入江会長の命を救ったことがあり、会長は彼女を気に入り、二人をくっつけた。そうでなければ、彼女のような身分で入江家の妻になることなんてできなかったのだ。だから、そもそも静真は彼女と結婚したくなかったのだ。今日、彼に連絡を取り続けたのは、生まれてくるはずだった子供のためだと思ったから……やっぱり、期待するべきじゃなかった。月子は気持ちを切り替え、タクシーで帰って休もうと携帯を取り出した途端、メッセージが届いた。静真の親友、佐藤一樹(さとう かずき)から動画が送られてきたのだ。
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第2話

いつものように静真が離婚を切り出すと、月子は一旦外に出てしばらく時間を潰し、それから大人しく戻ってきて、静真にこれまで以上に媚びつくようになっていた。今まで一度も例外はなかった。今回ももちろん同じだ。今日、いつもより積極的に出て行ったのは、きっと子供を流産してしまったせいだろう。子供のこととなると……静真の目に強い嫌悪感がよぎった。月子には自分の子を産む資格などない。妊娠できたこと自体が全くの偶然だ。流産してくれてむしろ好都合だ。……離婚慰謝料は10億円だ。キャッシュカードと離婚協議書は一緒に置いてある。月子が三年前にサインしていれば、何の代償も払わずに手に入れることができたのに。しかし、彼女が三年間妄想に耽っていたせいで、心血を注いだだけでなく、生殖機能まで損なわれてしまった。まあいい。後悔したって無駄なだけ。そんなこと考えても希望は見えない。人生は前向きに進むべきだ。それに、お金があるに越したことはない。月子はキャッシュカードを持って、深夜にタクシーを拾い、フリーリ・レジデンスの入り口で車を降りた。ここは一平方メートルあたり最低600万円からの高級マンションだ。広いワンフロアには二世帯しか入っていない。そのうちの一つが月子名義の部屋なのだ。その不動産は彼女の叔父のものだ。母親が亡くなってから、叔父は海外に移住し、このマンションを彼女に残した。月子は一生使うことはないと思っていたが、人生とは計画通りにはいかないものだ。今、離婚することになり、すぐに住める場所があるのはありがたい。7棟最上階1号室。月子はスーツケースを引きずって中に入った。午後に清掃業者に連絡して掃除してもらっていたので、部屋はとてもきれいだった。しかし、90坪近い部屋は、とても広く感じられた。以前だったら、こんな広い家に一人で住むなんて、月子は寂しすぎると感じたはずだ。しかし、静真の冷淡さに三年間耐えた今、何も怖くない。むしろ、かつてないほどの安らぎが心に生まれた。月子はリラックスした気分になったが、同時に極度の疲労を感じ、すぐに洗面を済ませると、ベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。チリーン。午前6時、聞き慣れたアラームの音で目が覚めた。アラームのタイトルには夫に朝食を作る時間
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第3話

静真がスーツ姿で玄関に現れると、その気品あふれる佇まいとモデルのようにすらりとした身なりは、カフェの客たちからこっそりと寄せられる感嘆の眼差しを集めていた。静真の傍らには、30代前半の清廉な雰囲気の男が立っていた。彼もまた風格があった。月子はその男が誰なのかをすぐに分かった。田中浩(たなか ひろし)。A大学コンピュータ科学科の教授だ。フォーラムを見たことがあるから、彼女は彼がAIデータ駆動による安定性について研究していることを知っていた。彼らの後ろには、静真の秘書の鈴木渉(すずき わたる)が書類を抱えて立っていた。入江グループはK市におけるIT業界の先駆者だ。浩との接触はおそらく仕事関係の付き合いだろう。月子は静真に会いたくなかった。だが、今席を立って出ていけば、もっと目立ってしまう。見られないように祈るしかなかった。しかし、現実は甘くなかった。次の瞬間、静真の視線が、正確に彼女をとらえた。目が合った。静真はまるで彼女を見知らぬ人であるかのように、冷ややかな視線を送り、すぐに目をそらした。彼は彼女の存在を気にしていないようだった。渉も視線の先を見て月子に気づいたが、特に反応を示さず、振り返って後ろにいる二人に声をかけた。「個室はこちらです。田中先生、入江社長、どうぞ」月子は少しほっとした。ところが、彼らは足を止めた。浩が突然尋ねた。「入江社長、窓際に座っている女性をご存知ですか?失礼ながら、社長と鈴木さんも彼女に視線を向けていらっしゃったので、私も少し気になりまして」静真は月子が会社に現れることは想定していたが、まさかこんな所で会うとは思ってもいなかった。それでも、特に驚きはしなかった。しかし、だからといって彼女に会いたいわけではない。静真は冷淡な声で「家の家政婦だ」とそっけなく答えた。浩は少し驚いた。本当のところ、彼がわざわざ質問したのは、静真が誰かに注目したからではなく、A大学研究室で彼女を見かけた記憶があったからだ……しかし、A大学は国内でもトップクラスの大学だ。A大学を卒業した学生が、どんなに落ちぶれても家政婦をするとは考えにくい。それに、A大学で見たあの学生は天才中の天才だった。田中研究室は現在、技術的な難点に直面しており、もし彼女のような人材が研究室に加われば
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第4話

月子は反論せず、薬指に残る消えない跡を見ながら、「この跡、本当にみっともないわ。もっと早く外すべきだった」と言った。彩乃は彼女の言葉を聞いて、月子が今回は本気だと理解した。すぐに百パーセント吹っ切れるとは言えなくとも、彼女がこれまでのどんな時よりも真剣だということは分かった。もう皮肉る必要はなかったが、性格上、どうしても我慢できなかった。「あなたのいう愛の価値は、私の一回の豪華な食事ほどでもないわね」月子は説明せず、「ちょうどいい、じゃあ、あなたにご馳走でもするわ」と言った。彩乃は動かず、眉を上げて彼女を見つめた。「私の時間は貴重なの。はっきり言って。何の用か。この食事に付き合う価値があるかどうか見極めるから」月子は言葉を失った。彼女は数秒沈黙した後、「以前中断した論文を書き直すつもりで、あなたの研究室を借りてデータを処理する必要があるの」と言った。この業界の変化は速いから、変えなければならないところもたくさんあった。過去のことで後ろめたさがあったのか、月子は電話でそれを直接言う勇気がなかった。彩乃の性格なら、きっと「何を今更」と怒鳴るだろう。結婚していなければ、大学在学中に論文は発表できていたはずなのだ。案の定、彩乃は珍しいものを見るように彼女を見つめた。「急にどうしたの?」だけど、月子は真剣に「本気よ」と言った彩乃は彼女を見つめた。月子は常に業界に身を置いていた。最近、A大学の浩の研究は、各テクノロジー企業から高い注目を集めている。彼が今取り組んでいるプロジェクトの重要な難点を、月子が3年前に既に克服していたことは、ほとんど誰も知らない。そして、完全なLugi-Xは彼女の会社にある。しかも月子はLugi-X言語大規模モデルの唯一の開発者であり、彼女が克服した無数の難点のどれを取り上げても、一つの研究室を停滞させることができるほどのものだ。だから彩乃にとって、月子は紛れもなく最高の天才なのだ。しかし、その天才は恋愛体質で、結婚した挙句、今はお茶くみをする秘書の仕事をしている。業界で活躍せず、才能を無駄にするなんて、彩乃には理解できない。「3年も中断していたのに、その論文にまだ価値があると思えるの?」そう聞かれ、月子は「いくつか変更するつもり。先生が戻ってきたら、研究の方向性を確認し
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第5話

「そ、そうです。奥様から電話はなくて、私からかけても繋がらないんです。もしかしたら……ブロックされているのかもしれません」ガシャン。静真は箸を置き、冷やとした顔で出て行った。その様子に高橋は唖然としてしまった。どうやら自分の思い違いのようだ。月子がなにかをやらかすと必ず静真は機嫌をそこねるのだ。高橋は月子がもう数日静真を放っておくことを期待していたが、今はそうは思わなくなった。自分のような赤の他人でさえ、静真には強硬な手段よりも宥めるほうが有効だということが分かるのに、月子はもっとよく分かっているはずだ。だから最初から駆け引きなんてすべきじゃなかったのだ。月子のこの行動で、高橋の日々も過ごしにくくなった。本当に面倒だと彼女は思った。……静真は会社に着き、定例会議を終えると、間もなく秘書がノックしてプレゼントの袋を持ってきた。静真はそれを開けた。シンプルな指輪だった。一樹は、月子が結婚指輪を売って、他のジュエリーショップにも行ったと言っていた。だから、二日間いなくなっていたのも、こういうことを企んでいたからなのか?後で弁当箱を持って会社に来るつもりだろう。静真は眉をひそめた。指輪のケースを閉じ、脇に置いて仕事に集中した。しばらくして、彼は渉に電話をかけ、冷たい声で言った。「今日は月子を会社に入れるな!」彼は月子に策略を巡らされるのが気に入らなかった。電話を切ると、静真は指輪のケースをごみ箱に捨てた。……月曜日、仕事始めの日。月子は時間通り自分の席に着いた。結婚当初、月子は仕事に行っていなかった。ある家族の夕食会で、入江会長が不在の時に、静真の母親である伊藤晶(いとう あきら)が皆の前で彼女を責め立てたのだ。何もしないで家でゴロゴロしているだけ、子供も産めない、静真の世話もろくにできない、友達に嫁の話をするのも恥ずかしい、とさえ言われていたのだった。そこに静真はいたが、何も言わず、ただ晶が辛辣な言葉で彼女を攻撃するのをみていただけだった。その日の夜、月子は履歴書を送った。入江グループではなく、Sグループに。Sグループは設立5年にも満たないが、すでに時価総額が20兆円を超えるIT企業だ。Sグループは大企業なので、秘書職であっても、国内トップクラスの大学出
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第6話

静真心から「お前は優秀だ」と褒めた。霞は、男の目に濃い賞賛の光を見た。この反応は、完全に彼女の予想通りだった。入江グループと田中研究室が提携し、浩のプロジェクトが成功すれば、当然入江グループにも利益がもたらされる。今回帰国した霞は、コア技術攻略のキーパーソンになりたかった。彼女には、それができる自信があった。今や、世間知らずの令嬢が幅を利かせる時代ではない。手料理を振る舞ったり、甘えたりするだけで男心を掴めるほど、世の中は甘くない。実力がある女こそ、男の目線を捉えることができるのだ。霞は、実力のある女になりたかった。……月子は午前中ずっと忙しく、休憩時間に給湯室でコーヒーを入れ、ついでに同僚の分も入れた。その時、中村秘書から電話がかかってきた。彼女は静真の秘書だった。月子が彼女と接点を持ったのは、静真のスケジュールを尋ねた時だけだった。月子は静真に関わる誰とも接触したくなかったが、中村秘書はとても心優しい女性だったので、少し迷った後、電話に出た。「月子さん、大丈夫ですか?」中村秘書の声はとても小さかった。「ええ、大丈夫」月子は、なぜ彼女がそう尋ねるのか分からなかった。中村秘書の声は心配そうに震えていた。「入江社長が今、ある女性を連れて会社を案内しているんです。すごく大騒ぎで、役員の方々は皆、彼女を未来の奥様だと思っているみたいで……月子さんがこのことをご存知なのか分からなかったので、一応お知らせしておこうと思って。その女性は、夏目……」中村秘書の声は突然途切れた。続いて、少し怯えたような小さな叫び声が聞こえた。「鈴木……さん、私は……」彼女は角に隠れていたので渉が背後から歩いてくるのに気づかなかったのだ。渉は中村秘書の携帯を奪うと、画面を見て眉をひそめた。「また入江社長のスケジュールを聞き出そうとしてきたのか?」中村秘書は渉の後ろにいる入江社長と霞の姿を見て、恐怖で頭が真っ白になり、何も言えなくなってしまった。渉は中村秘書の返事を待たずに、事務的に報告した。「社長、月子です。また社長のスケジュールを聞き出そうとしていました」渉は電話を切らなかった。月子に聞かれても構わなかった。月子は眉をひそめた。彼女は渉の中傷など気にせず、電話を切ろうとした。しかし、静真の冷淡な
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第7話

月子は自分のプライベートを話すのは好きではなかったが、中村秘書が本当に心配してくれてたようだったので「彼とは離婚したの」と一言付け加えた。中村秘書は驚きを隠せない。「離婚したんですか?そんなに彼を愛していたのに……」「ええ、離婚したの」月子は淡々と答えた。中村秘書はすぐにその事実を受け入れた。彼女は月子の決断を完全に理解できた。理由は簡単だ。入江社長は月子を愛していなかった。だから、あのダブルスタンダードな行動にも納得がいく。「……入江社長は、本当にあの霞さんと結婚するんでしょうか?」中村秘書は質問した後、自分の失言に気づいた。「すみません、聞かない方がよかったですね。忘れてください……」だけど月子は落ち着いた口調で「わからないわ」と言った。静真の心は、3年間温め続けても温まらなかった。今更、彼の心を見抜けるわけがない。これ以上話すこともなく、二人は電話を切った。月子は霞の事を思い出した。静真と出会う前から、月子は霞と知り合いだった。しかし、結婚後に、月子は霞が静真の初恋の人だと知ったのだ。霞と知り合った理由は複雑だ。簡単に言うと、霞は彼女の叔母と関係があった。母親が亡くなり、叔父は海外に移住し、叔母は祖父が一代で築き上げた家業を引き継いだ。なぜか、叔母は突然霞の父親に熱烈に恋をした。霞の母親は早くに亡くなり、3人の子供が残されたが、叔母はそれでも夏目家へ嫁ぐ決意を固めた。こうして、叔母は霞の継母になった。当時の夏目家はK市では全く目立たない小さな会社だったが、叔母は自分の持っている資源の全てを夏目家に注ぎ込み、今日の夏目グループを築き上げたのだ。そして叔母の長年にわたる経営努力によって、夏目家は徐々にK市の上流階級で一目置かれる存在となった。霞も正真正銘の令嬢となった。母親が亡くなる前、月子と叔母はとても仲が良かった。叔母が夏目家に嫁いだ後も、よく会っていた。月子は叔母を自分の母親のように頼りにしていた。しかし、彼女が静真と結婚してからは、叔母の態度は冷たくなり、年に一回も会わなくなるようになった。月子は最初は、叔母は自分の家庭を持ったため、姪である自分に割く時間と気力がなくなったのだと思った。そのことで月子はしばらくの間悲しみに暮れたが、どうすることもでき
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第8話

丸一日待たされたあげく、静真からやっと返信が来た。月子は喜び勇んでスマホを開いた。覚えていてくれさえすれば、それで満足だった。しかし、メッセージの内容は【夜8時に帰宅する。夕食の準備をしておけ】だった。メッセージを読んだ月子は、まるで頭から氷水を浴びせられたような気分になった。結婚して3年間、この言葉を何度聞いただろうか。静真は返信こそくれたものの、それはまるで上司が部下に出す定型文のような連絡だった。しかも、自分が送ったメッセージは完全に無視されている。ここまで徹底的に無視できるのは、よほど無関心だからだろう。だから月子は自分に誕生日になんて期待する必要はない。誕生日なんて、ごく普通の一日で、盛大に祝う必要なんてないのだと言い聞かせたのだ。だからこそ、彩乃が誕生日のお祝いをしようと計画していたなんて、全く想像もしていなかった。月子は内心驚きを隠せないでいたが、感情を表に出さないタイプなので、平静を装い「感激だわ」とだけ言った。「感激って、予約も取れてないのに……」毒舌を吐いた後、彩乃は申し訳なさそうに言った。「まあ、これは私のせいね。もっと早く予約しておくべきだったわ。普段ならいつでも予約は入れられるのに、今日に限って貸し切りだったなんて」そう言って、彼女は小さなプレゼントの袋を差し出した。月子は受け取りながら「これは?」と尋ねた。「誕生日プレゼントよ。とりあえず持っていて。そこの道の端で待ってて、車を回してくるから、もっと素敵なところで食事しよう」そう言うと、彩乃は駐車場へ向かった。月子は、彼女の颯爽とした後ろ姿を見送りながら、手にしたプレゼントの袋を見つめた。袋に印刷されたロゴは、結婚指輪を売った日に彩乃と一緒に行ったジュエリーショップのものだった。月子は中の包装を覗き込んだ。正方形の小さな箱だった。おそらくブレスレットか何かだろう。あの日、彩乃はこっそり誕生日のお祝いを準備してくれていたのだろうか?あの頃は一緒に食事をすることすら嫌がっていたのに、こんなに気を遣ってくれていたなんて。月子は再び感動に包まれ、思わず微笑んだ。ここ数日、こんなに気分が良かったのは初めてだった。しかし、良い気分は長くは続かなかった。「入江社長、霞さん、佐藤様、こちらへどう
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第9話

月子は路肩で彩乃の車を待っていた。二人を隔てる距離は7メートルほどで、夜も更けており、他にも通行人がいたので、注意して見なければ気づかないほどだった。一樹の声で、全員の視線がこちらに集まった。注目を浴びせられた月子言葉を失った。気まずい。本当に気まずい。しかし月子は、まず静真の左手を確認した。薬指には、シンプルなデザインながらも高級感のあるメンズリングがはめられており、彼のすらりとした指をより一層長く見せている。霞の指にも同じ指輪があった。ペアリングだ。知っていることと実際に目にすることでは、衝撃の度合いがまるで違う。月子は、喉が突然締め付けられるように感じた。「プップッ」とクラクションが二回鳴った。月子は反射的にそちらを見た。彩乃の車が路肩に停車し、助手席に顎で合図をして自分を促した。月子は深く考えずにドアを開けて乗り込み、車はその場を後にした。ほんの1、2秒のできごとだった。一樹は驚き、静真の方を振り返って「月子は俺たちを……無視したのか?」と尋ねた。あまりにもあっさりとした立ち去り方で、表情も非常に冷淡だった。以前なら、月子がこんな風に立ち去るはずがない。むしろ、このグループの人たちに気に入られようと必死だった。一樹は、月子の冷淡な態度にとても驚いていた。これまで存在感の薄かった女性が、少しばかりの鋭さを身につけ、以前とは少し変わっているように思えたのだ。離婚騒動は何度も見てきたことだが、今回の月子の態度はどこか違っていた。でも、どこが違うのかわからない……静真はすでに視線を逸らし、冷たい声で言った。「彼女のことは口にするな」一樹は霞をちらりと見た。霞も月子を見ることはなく、明らかに気にしていない様子だった。月子が本当に彼女の誕生会に来たとしても、彼女はきっとこの気品溢れる振る舞いを崩さないだろう。一樹は空気を読んで「わかった、もう言わないよ。せっかくの雰囲気を壊したくないし」と言った。そう言って、皆をレストランへと促した。月子の出現は、取るに足らない小さな出来事で、誰も気に留めなかった。以前にも月子に会ったことがあったが、彼女は内向的な性格で、彼らとはあまり話が合うタイプではなかった。そもそも親しくもないので、わざわざ話しかける必要もないわけだ。それに
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第10話

そこには月子の姿はもうなかった。だが、彼の見間違いではなさそうだ。あの運転手は女だった。それも当然だ。月子の目には静真しか映っていない。他の男が入る余地などないはずだ。……車は安定して前へ進む。月子の頭は真っ白だった。どうしても過去の誕生日と比べてしまい、考えるほど辛くなる。しばらくして、月子はゆっくりと口を開いた。「あと25日」彩乃は彼女が泣き喚き、不平不満を並べ立てるだろうと思っていた。まるで未練たらたらの女のように。愛する男が他の女といるところを目撃するのは、大きなショックだ。まさか「25」という言葉が出てくるとは思わなかった。「25って、何?」月子は「手続期間よ。25日経ったら、彼と離婚届を出しに行くの」と言った。彩乃は月子の目に揺るぎない決意を見た。静真はハンサムで、まだ28歳。若い。入江家はK市でも有数の名家だが、彼が入江グループを継いでからは、大胆な事業改革を行い、グループを新たな高みへと導いた。今ではK市に新興富裕層が次々と出現しているが、入江家は依然としてK市の頂点に君臨している。静真は、気品、学識、手腕、どれをとっても若い世代のリーダー格だ。確かに魅力的だ。女性が優秀な男性に恋をするのは当然のことだ。しかし、そうした男性の魅力は、結局は見かけ倒しの輝きにすぎない。表面的な好意だけでは、月子が自分を犠牲にするほど夢中になる理由にはならなかったのだ。それよりももっと大事な理由があったからだ。3年前、月子の母親が亡くなった後、彼女は一度精神的に崩壊し、海に落ちてしまった。静真はちょうど友人とヨットでパーティーをしていた時で、海から月子を救い出し、病院に連れて行った。それが月子に新たな希望を与えたのだ。月子がそれを忘れられないのも、諦められないのも、彩乃には理解できる。今、手続期間の日数を心に刻んでいるということは、以前とは違う。今度こそ、月子は本当に後戻らないのかもしれない。それは良いことだ。ただ、自分の気持ちを整理する時間が必要なだけだ。深く愛したのだから、すぐに立ち直れるわけがない。「今はあのろくでなしのことなんて放っておいて、プレゼントを開けて」彩乃は月子が離婚をためらうのではないかと心配していたが、今はだいぶ安心した。月子も気分転換をしたかっ
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