私が一度決めたことは、絶対に曲げないということを。その後しばらくの間、文宏は建物の前で待ち続けた。周りの視線も気にせず、「離婚はやめてくれ」とだけ繰り返していた。今更そんなことを言っても無駄だ。彼が私を裏切ったのだから。こうなったのも覚悟の上だったはずだ。私は何度もチャンスを与えたのにも関わらず、裏切った。彼を許せるはずもないわ。丸一ヶ月、文宏はビルの下で待ち続けた。毎回、私の後をついてきては後悔していると語り、やり直そうとお願いをしてきた。まるでハエのように付きまとい、おかげで私は研究所で有名人になってしまった。清彦も文宏の存在に気づき、大量の離婚協議書を印刷してくれた。周囲に働きかけ、彼を見かける度、離婚協議書を渡すようにしてくれた。教授もこの騒ぎで研究に支障をきたしたくないと頭を悩ませていた。だけど、彼が一向に諦めようとしなかった。仕方なく、私たちは大学の近くの研究所に移動することになった。新しい研究所に行った初日、文宏の姿はなかった。彼は何も言わずに姿を消したが、離婚には応じていなかった。文宏は会社に戻った後、私のラインのグループチャットには、毎日のように可笑しな話題が飛び交っていた。【桜井さん、怒られてるらしい!笑】【桜井さん、降格と減給だって!】数日のうちに、文宏は彼女に随分と厳しくしたようだ。そんな中、私は自分の研究に没頭していた。充実した新しい生活は、とても喜ばしいものだ。わずか4ヶ月で、私たちの研究は大きな進展を見せ、教授は私に休暇を与えてくれた。私は清彦と一緒に、今まで行けなかった場所へ旅行に行った。様々な文化に触れ、異国でのんびりとした時間を過ごした。1年後、私たちの研究成果が発表されることになり、私は清彦に次ぐ責任者になっていた。時々、文宏に会うことはあったが、今の生活はまさに理想的だった。この1年半、私は彼に何度も離婚協議書を送ったり、直接渡したりした。しかし、彼はまるで分かっていないかのように、謝罪と和解を繰り返すだけだった。私は彼を無視していたが、両親から連絡が来た。文宏が両親に連絡し、私に圧力をかけてほしいと頼んだらしい。ただでさえ、数年前に私が彼のために仕事を辞めたことを、両親は今でも不満に思っているのだから、当然
彼はいつも仕事を最優先にしていて、私が子宮外妊娠手術を受けた時ですら、私を一人で病院へ行かせていたのだった。この時、ちょうど輝から電話がかかってきた。「今、重要な取引の最終段階だ。何をしているんだ?」と彼は電話口で尋ねた。文宏は空港の駐車場に車を停め、暗い顔で言った。「葵が海外へ行ってしまった」「取引の交渉か?」輝は訝しがりながらも、嫌な予感がしていた。「お前たちが前に忠告してくれたのは、俺が静香に優しくしすぎているせいだったのか?俺たちがあんまりにも親密すぎたから?」文宏がそう言うと、相手は小さく「ああ」と頷いた。だからなんだ。最初から気が付いていないのは、自分だけだったのだ。「俺が悪かった。静香が帰ってきてから、つい昔みたいに彼女のことを気にかけてしまって......彼女はすごく頼ってくるし、俺がいないと何もできないから。もっと早く、彼女と距離を置くべきだった。葵と離婚したくない。でも、彼女を何度も失望させてしまった」文宏は堰を切ったように泣き出した。「......もう分かったから。行ってこいよ」その時、私はすでにL市に到着していた。教授と先輩・田中清彦(たなか きよひこ)が空港で私を待っていた。この街に来るのは久しぶりだ。前に来た時は、バタバタしていたから、彼らに会う暇もなかった。今はただ、吹っ切れたかのような気分で、これからは、私、自分のために生きるわ。文宏が私を探しに来ることはないだろう。「葵、ついに決心してくれたんだな。まず、研究所を見学しに行こう」教授は、私が研究所に入ることをとても喜んでくれていた。大学時代、私は彼の自慢な弟子だったのに、卒業後は文宏の会社に入ってしまった。そして、そんな研究室を去った私を、教授はすごく残念がっていた。あの時、私を見ると教授は憤りが隠せずにいたし、清彦も私を「恋愛依存症」と呆れていた。「葵、もし将来、研究所に戻りたくなったら、いつでも連絡しろ。女性はもっと自由に生きるべきだ」今からやり直しても遅くはない。私はついに、ここに来た。「離婚の件は、清彦に任せてある。弁護士も、彼が紹介してくれた」そういうと、教授はため息をついた。私は清彦に目を向けた。「先輩、これからお世話になるね!」私は笑顔で言った
静香は唇を尖らせた。「私が書いた。徹夜で書いたんだ」文宏は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。彼女に社会経験を積ませ、転職しやすいようにと、彼が静香を会社にインターンとして採用したのだ。静香は唇を噛み、目に涙を浮かべた。「文宏、書き直してくる......葵が今日中に必要だと言ったから、急いで書いたんだ。もしかしたら、私なんて最初からここで働くべきじゃなかったのかもしれない」そう言って、彼女は企画書を抱えて出て行こうとした。文宏は手を上げ彼女を止めようとしたが、ふともう一つの顔が頭によぎった。葵は、こんな弱々しい姿を見せたことがない。彼女はいつも自信に満ち溢れていた。どんな難題に直面しても、彼女はいつも解決策を見出していた。泣き言を言うのではなく。意見が食い違った時も、葵は一つ一つ丁寧に自分の考えを説明していた。彼が静香を採用しようと決めた時も、葵は何点もの理由を挙げて反対していた。その結果、葵は何度も残業し、静香の後始末をしなければならなかった。そう思うと、文宏は手を振り払うようにした。「出て行ってくれ」静香は何か言おうとしたが、彼の表情を見て唇を噛み、黙り込んだ。「この企画書も書き直せ」静香は仕方なく部屋を出て行った。秘書課の同僚たちは、この光景を写真に撮り、グループチャットに回した。【珍しいことも起きるもんだ、彼女が追い出されてしまうなんて、笑いが止まらない!】社長室に戻った文宏は、再び携帯を開き、私に何度もメッセージを送り、電話をかけ続けた。最初は留守番電話になり、その後は電源が切られていて、全く連絡が取れなくなった。彼は、私が気分転換に出かけているだけだと思っていた。しかし、私は会社勤めを始めてから、一度も遅刻や早退をしたことがなかった。仕事を片付けても連絡がないので、彼は秘書課の同僚を呼びつけた。「葛城社長、何かご用ですか?」「葵はまだ来ていないのか?」文宏はテーブルの上のコーヒーを一口飲んだ。社員は一瞬戸惑い、それから答えた。「小林さんは昨日、退職手続きを済ませました」「何だって?そんなはずはない。俺のサインなしに、彼女が退職できるわけがない」文宏はそんな記憶は全くなく、いくら考えても思い出せなかった。「昨日の
私は電話に出ず、返信もせず、着信音をオフにした。私たちの関係は、これで本当に終わった。静香の家にいた文宏は、メッセージを見て焦った。そして、私に何度も電話をかけ、メッセージを送ってきた。【何を言ってるんだ?許しのカードは60枚以上あっただろ?ワガママ言うな!】【俺が一緒にいてやれなかったからか?待てろ、帰るから、ちゃんと話そう】【なぜ電話に出ない!葵、たとえ怒っていても、こんなことをするな!】【電話に出ろ!もう一度言うぞ!】私に無視されていることが信じられないようで、彼は何度もメッセージを送ってきた。何度も電話をかけ、メッセージを送っても返事がないので、文宏は不安になった。「どうしてこうなったんだ?怒らないって約束したのに、なぜ電話に出ないんだ」彼は、私が許しのカードを使う時のことを思い出した。いつも、まるで他人事のようにカードを使っていた。明らかに怒るべきことなのに、無反応だった。事態が予想外の方向へ進んでいることに気づき、文宏は電話をかけながら玄関へ向かった。静香が後ろから彼の腰を抱きしめ、顔を背中にすり寄せた。「文宏、どこへ行くの?今日は一緒にいるって約束したじゃない」文宏は彼女の腕を掴み、突き飛ばすと、ドアを開けて飛び出した。彼は速度制限も無視して、アクセルを踏み込み、家路を急いだ。部屋のドアを開けると、何も変わっていない部屋を見て、彼はさらに不安になった。中へ入ると、床に散らばった陶器の破片が目に入った。彼はしゃがみ込み、それを拾い上げた。ペアカップだった。カップは粉々に割れており、二人の似顔絵も分からなくなっていた。彼はしゃがみ込み、破片を拾い集めた。このカップは、二人で一緒に作ったものだった。普段、私はこのカップをとても大切に扱っていて、彼がお茶を飲もうとした時も、「飾っておくものだから」と言って使わせなかった。彼はカップの破片を集め、立ち上がり部屋中を探し回った。私の私物が全てなくなっているのを見て、文宏はようやく事の重大さに気づいた。文宏はベッドに座り込み、茫然と何もない部屋を見渡した。タブレットの壁紙は私たち二人の写真だった。彼は手を伸ばそうとした。葵はどこへ行ったんだ?ここを出て、一体どこへ行ったというんだ?彼は部屋中を探し回
私は服を玄関に置き、クリーニングに出すことにした。そして寝室に戻った。私が入ってくると、文宏は嬉しそうに言った。「さすが俺の妻だ。もう終わったのか?あれは静香のお気に入りのワンピースだから、綺麗にしてやってくれよ」私は頷き、フェイスパックをしようとした。そのついでで、ベッドサイドにあったタブレットでドラマでも見ようかと思った。文宏も携帯を手に取り、誰かにメッセージを送っていた。タブレットにメッセージの通知が届いた。開いてみると、文宏のラインがログインされていた。【文宏、本当にありがとう。久しぶりに、こんなに美味しい和菓子が食べられたわ】【あそこはいつも混んでるから、大変だったでしょう】文宏は私をチラッとみてから、ひたすら携帯をいじってた。【気に入ってくれて良かった。また買ってきてやる】【お前は俺の妹みたいなもんだからな!】静香が再び返信した。【それで、シーツはどうなったの?生理の汚れがついてるんだけど、葵に洗ってもらうの、本当に大丈夫?】【もし彼女が嫌がるなら、仕方ないけど】文宏は優しく微笑んだ。【平気さ、水で洗わなきゃいけないらしいから、お前にはさせられないよ。彼女なら慣れてるし、大丈夫だ】私は動きを止め、思わず文宏を見た。結婚してからというもの、家事の大小に関わらず、電球の交換さえ自分がやってきた。だから、彼にとって自分は「慣れてる」ということなんだろうか。私はタブレットを置き、これ以上見るのはやめた。フェイスパックを洗い流した後、文宏が私の耳元で囁いた。「葵、輝に呼ばれてちょっと出かけてくる。先に寝ててくれ」私はベッドで小さく頷いた。彼が服を着ている時、私は小声で尋ねた。「文宏、もしあなたが帰ってこなかったら、許しのカードを一枚使うわよ?」私は彼を見つめながら、悲しさで、声が少し震えていた。彼はネクタイを締めながら、いつものように微笑んだ。「いいよ」文宏は髪を整え、気にしない様子だった。「でも、すぐに戻ってくるから。カードを使うまでもない」彼のそのすました態度に、私は涙をこらえながら布団に潜り込んだ。そして「うん」と頷いた。今は夜10時。「すぐに戻ってくる」と言って出て行った彼を見送った。そして、出前を頼んで、あの老舗の和菓子を買
それを言い終わるとすぐに、静香は彼の腕に絡みついてきた。「文宏、足が痛いの。早く行こう?」文宏のスーツを羽織り、華奢な体で彼に寄りかかっていた。痛みのあまり青ざめている私を気にする様子もなく、文宏は静香を抱き上げて助手席に乗せた。「ちゃんと座って、怪我したところに触らないように」彼が全て済ませて車を発進させようとした時、ようやく私の存在に気づいた。取ってつけたかのように「俺たちは幼馴染だから、彼女を妹のように思っているんだ。お前は先に帰ってくれ」と言った。私はクスっと笑った。「ええ、妹ね」彼が私が怒っていると勘違いしないように、私は付け加えた。「許しのカードも使ったし、私のことは気にしないで」文宏は何か言いたそうだったが、静香が「痛っ」と声を上げると、彼は慌てて振り返った。「じゃあ、もう行くよ」そう言って、文宏は車を走らせた。ホテルのエントランスに取り残されてしまった私は、思わず上着の襟を引き締めた。家に帰ってから、私はサイドテーブルから許しのカードを取り出した。かつて文宏が金庫にしまっていたカードは、今や無造作にテーブルの上に置かれていた。64枚目の許しのカードに印鑑を押し、私は前から準備していた離婚協議書を探し出した。知り合いの弁護士がいなくて困った私は、一層のこと大学の教授に連絡した。「先生、離婚したいのですが、おすすめの弁護士さんはいらっしゃいますか?」教授は驚いた様子だった。「誰が離婚だって?君か?君たちが付き合った時は、大学中で大騒ぎになったじゃないか。まだ数年しか経っていないのに、どうしたんだ?」教授も、プロポーズの現場に居合わせた一人だった。なぜ、あの頃に戻れないのだろう。それは彼が他の人のために、私を置いていくようになってからかな。はたまた、彼と静香が一緒にいる時、いつも二人の思い出話ばかりで、私が入り込む隙がなくなってしまった時からかもしれないし。彼と静香が、何のためらいもなく同じベッドで寝るようになってからかもしれない。恋愛において、第三者の存在は一番あってはならないのだ。だから私たち二人は、もうそれぞれの道を歩くようになり、もう元には戻れないのだ。それを聞いて、教授はため息をついた。「安心しなさい。後で、弁護士に連絡させ