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第355話

作者: こふまる
階段を降りながら、鹿谷は不思議そうに首を傾げた。

「ねぇ、僕にはよく分からないんだけど。あいつ、瑛優の親権が欲しいのか、それとも君との離婚を後悔してるのか。どっちなんだろう?」

「どうでもいいわ」夕月の声は穏やかだった。「あの人から、傅家から離れて、私は毎日が自由よ」

「でも」鹿谷は眉を寄せた。「あいつ、しつこいヤツになりそうだぞ。まるでカビみたいに君に粘着してくる気がする」

夕月の眉間に小さな皺が寄る。自分もそんな可能性を考えていた。

「接近禁止命令を申請してみたら?警察に相談して、彼が近づけないようにするのよ」と鹿谷が提案した。

「暴力を振るわれたわけじゃないから、接近禁止命令は下りないでしょうね。それに……」夕月は一瞬言葉を切った。「橘冬真は追い詰められると、反動で余計に暴走するタイプなの」

あの監禁事件を思い出し、夕月は今でも背筋が寒くなる。

「あの人には、強く制限をかければかけるほど、逆効果になるわ。だから……近づきたければ近づかせておけばいい。でも、私は決して思い通りにはさせないわ」夕月は冷静に分析した。

*

その日の夜、帰宅してすぐに瑛優は学芸会での演目を決めた。高さの異なる木柱を使った獅子舞を披露すると言い出したのだ。

夕月の前で、獅子舞の一節を披露してみせる瑛優。

夕月が目を丸くして拍手する中、鹿谷に至っては目が飛び出んばかりに驚き、睡魔も吹っ飛んで夢中で拍手を送った。

「すげえな、瑛優!誰に習ったんだ、この獅子舞?」

一通り舞い終えた瑛優は、息も上がらず、顔色も変わらないまま落ち着いた様子で答えた。「テレビ見て覚えたの」

「マジで!?テレビだけかよ!」鹿谷は驚きのあまり声が裏返った。

「うん!」瑛優は頷きながら続けた。「これ簡単すぎるから、ステージでは木柱の上で演じて、アクションシーンも入れたいの。そしたらもっとかっこよくなると思わない?」

鹿谷は心配そうに眉を寄せた。「木柱での演技は相当キツいぞ。練習期間があと二日しかないのに……」

夕月は瑛優の練習進度についてそれほど心配していなかった。「瑛優ってね」と鹿谷に説明する。「テレビを見ただけでバレエのステップを習得したのよ。開脚もターンも、見るだけで完璧にできちゃうの」

「でも」鹿谷は眉間に不安な色を浮かべる。「獅子舞って、バレエより体力いるんだよな。しかも今
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