ログインその瞬間、脳内に爆弾が投げ込まれたような衝撃を受けた。
澪の笑い声、そして「子供は無事で」という言葉。
血の気が逆流するように全身が冷え、手足は氷のように冷たくなった。呼吸すら忘れそうになり、心臓がキリキリと締め付けられるような痛みを伴う。
「2人は……いつの間に……また一緒になっていたの……?」
声を震わせながら呟く沙月。
2人の結婚生活の間、彼らは本当に一度も離れていなかったのだろうか……?
この2年間、沙月は「妻」として天野司の傍にいた。
けれど彼の心には一度も触れることは出来なかった。触れようとするたび、冷たく拒絶されてきた。
本当は知っていた。
自分が天野司の「妻」であっても、立場などないことを――
****
あの晩餐会の夜。
薬を盛られた沙月は、司と一夜を共にしてしまった。それは互いが望んだわけではなかった。
けれどその一夜が全てを決め、天野家の体面を守るために2人は結婚することになったのだった。
司はこの結婚を露骨にイヤそうな態度で承諾したが、沙月は天にも昇るほど嬉しい気持ちで一杯だった。
何故なら沙月は誰にも告げていなかったが、ずっと司に恋焦がれていたからだ。自分の手に届かない憧れの存在……それが司。
その相手と結婚できるのだ。まるで夢のように幸せだった。
今は自分に冷たい態度しか見せないが、誠心誠意をもって彼に尽くせば、いつかきっと2人は良い夫婦になれるだろう。沙月はそう信じて疑わなかった。
けれど、その希望は結婚式の日に無残にも打ち砕かれることになる。
結婚式当日、あろうことか司は式場に現れなかったのだ。
結婚式場には多くの報道陣と参列者が出席していた。
新郎のいない隣の席。
彼女は独りで報道陣と参列者の好奇な視線に晒された。あの時の恥ずかしさと悲しみは今も心の傷として、決して忘れることが出来ない。
悲しみに打ちひしがれていたその夜――
宿泊先のホテルに司はフラリと現れた。冷たい眼差しで睨みつけてくる司に、沙月は「何故結婚式に現れなかったのか」と尋ねることは出来なかった。
司は無表情で契約書を差し出し、告げた。
『結婚は三年。子供は作らない。それが条件だ』
感情を伴わない言葉に、沙月は何も言えなかった。第一、拒否する権利など最初からなかった。
そして、この夜。
司が沙月に触れてくることは無かった――
2人の結婚生活は本当に冷え切っていた。
触れてくるのは、酒に酔っているときだけ。しかも沙月の気持ちなどお構いなしの、自分の欲望を吐き出すだけの強引な行為だったのだ。
司は徹底的に沙月を無視した。会話を避け、顔を合わせることすらしようとしなかった。
それでも沙月は少しでも司に気に入られるよう努力を続けた。
背広を整え、手作りの朝食を用意しても冷たく一瞥され、背を向けて去る司。
沙月が熱を出して寝込んだとき。
司は部屋のドアを開けて「風邪? 自己管理もできないのか。俺にうつすなよ」その言葉だけを残し、彼は部屋を出て行った。
沙月が司の誕生日に手作りのケーキを焼いたとき。
「無駄な努力だな。俺の好みくらい、調べてから作れよ」そう言うと、司は沙月の目の前でケーキをゴミ箱に捨てて去って行った。
また、ある夜。
沙月は勇気を出して「一緒に食事をしない?」と声をかけた。
しかし司は無表情で「俺は、義務で誰かと食事するほど暇じゃない」と冷たく言い放ち、沙月の心を深く傷つけた。
それでも、どんなに冷たい態度を取られても沙月は信じ続けた。
自分が努力を続ければ、いつか天野司の心を変えることが出来るのではないかと。
司の好きな香りを調べ、好みの料理を覚え、スケジュールに合わせて生活を整えた。
それでも結局、司は変わることは無かったのだ――
****
「……っ……」
冷たさが足元から胸まで広がり、沙月は無意識に手を強く握る。
そして……何故かふと、昨年の記憶が蘇った。
――それは1年前の雨の夜のこと。
その日、沙月はこの病院にいた。
涙を流し、声を震わせながら手術台の上で必死に子供を守りたいと懇願した。
けれど、司は冷たい目で言い放ったのだ。
『俺のベッドに計略で上がってきた女に、子供を産む資格はない。大体……本当に俺の子供かどうかも怪しいものだ』
『!』
司の言葉が沙月の全てを打ち砕いた。絶望のまま手術を受け……麻酔で目覚めた時、医師から残酷な言葉を告げられた。
『もう二度と妊娠することはできません』
「――っ!」
その瞬間、心臓が鋭く裂かれ、体中を熱い血が逆流していくような衝撃が走った。
嗚咽は喉で凍りつき、言葉にならない。
その瞬間、彼女の世界は音を立てて崩れ落ちた。
最初で最後の妊娠――
(……どうして? 私には母になる資格さえないというの……?)
胸の内で必死に叫んでも、雨音にすべてかき消されていった。
すべての希望は、無惨に粉々に打ち砕かれたのだった。
絶望に打ちひしがれた沙月を残し、翌日。司は何事も無かったかのようにアメリカへ飛んだ。
慰めの言葉もなく、連絡もなく、まるで沙月とお腹の子供は最初から存在しなかったかのように……。
あの時、澪がアメリカへ行った……。今思えば、彼が渡米したのは澪に会うためだったのだろう。
****
病室の「幸せそうな恋人同士」を目にし、沙月は俯いた。
自分の平らなお腹を、そっと撫でてみた。
――もし、あの子が生まれていれば、「ママ」と呼んでくれたのに。
もう二度と命が宿ることは無い。
心の奥から深い悲しみが湧き上がる。
病床で澪の手を握る彼を見て、沙月はようやく理解した。
自分のすべての執着は、ただの笑い話に過ぎなかったのだと。
司の優しさ、微笑みは全て澪の為のもの。決して自分に向けられることはないのだ。
司の未来には、沙月の居場所など最初から存在しなかった。
そして、沙月は静かに病室の前から立ち去った。
二年間の結婚生活も、一つの命も、司にとっては取るに足らない軽い物だったのだ。
結局全て白紙に戻っただけ――なんて皮肉なことなのだろう。
涙は流れなかった。
もう流す力すら残っていなかった。
ただ沙月の心の奥で……何かが静かに終わりを告げた――
「そうだわ、遥。あの時のこと、覚えてる?」「な、何よ……あの時のことって……」「ほら、遥が夜にケーキが食べたいと言い出したときのことよ。あの日も私は1日家事仕事をさせられて、もう立っているのも辛いくらい疲れきっていたのに、私に言ったわよね? 今すぐ駅前にあるケーキ屋で、新作スイーツを買ってこいって。凍えるような寒さの中、ケーキを買って帰ったのに玄関の鍵がかけられてたわ。私、何度もインターホンを鳴らしたり、扉を叩いたのに結局誰も出てきてくれなかった。……あれは嫌がらせだったのよね?」「……」遥は何も言えず、代わりに沙月を睨みつけている。「私は結局中に入れてもらえなかった。それで仕方なく冷たい風が吹き込む物置で一晩過ごしたのよ? 遥の為に買ってきたケーキを抱えて……。あの夜、はっきり悟ったの。私はこの家の家族ではなく、白石家の都合で、いいように扱われるだけの存在なんだって」沙月は白石夫妻を見つめ、再び遥に視線を向けた。「遥。昔、よく私に言ってたわよね?『拾われ子で家族じゃないくせに、どうして私たちと一緒に住んでるの?』って。それを学校の友達の前でも平気でね。それどころか私のクラスメイトたちに命令して、体操着を破いたり、ノートや教科書を焼却炉で燃やしたこともあったわね」沙月の顔に一瞬悲しそうな表情が浮かぶ。「それでも私は、いつかきっと家族として認めてもらえるって……そう信じてた。でも……期待した私が馬鹿だったわ」「ふざけないでよ! どうして私が……!」「知らないとでも思ったの? 私、知ってるのよ。遥がクラスメイトたちに現金を渡して、私に嫌がらせをするように命令してたことを」「!」遥の目が衝撃で見開かれる。「白石家に置いてもらえた恩は、天野家からの三年間の資金援助として既に清算済みよ。白石家が今も破産せずに済んでいるのは、私がいたからだということを忘れないで。天野司と離婚したら、私はあなたがたと一切関係を断つ。だって元々私は白石家とは赤の他人なんだから」その言葉は、白石家にとっての死刑宣告にも等しかった。天野家からの莫大な資金援助を切られるということは、彼らにとって大打撃だったのだ。すると白石夫婦の顔色が一変し、美和が最初に口を開いた。「……沙月、どういうつもりなの……?」「どういうつもりとは?」「今になって強気になるってどういうこと
いきなり沙月に平手打ちされたことが、遥は信じられなかった。それもそのはず。遥から暴力を振るったことはあるものの、今まで一度も沙月が自分に手を上げたことなどなかったからだ。けれど平手打ちされた左頬は熱を帯び、ジンジンとした痛みが広がり、これは夢ではないと告げている。(う、嘘……? 沙月が私を叩いた……?)遥の目に恐怖が浮かび、白石夫婦は突然の出来事に言葉を失っている。沙月は、その視線を受け止めながら一歩前に進み出た。会場内はいつの間にか立食パーティーが始まっており、ジャズサックスの音楽とともに、歓談が広がっていた。だが、沙月と白石家の間にはピンと張り詰めた空気が漂っている。今までの沙月なら、黙って耐えていた。何を言われても、何をされても口を閉ざしてきた。(だけど今夜は……もう我慢しないわ。終わりにするのよ)沙月は3人を見渡すと、口を開いた。「白石家は、この数年何度も倒産の危機に陥った……そのたびに、私が天野家に頭を下げて助けてもらったの。天野家の助けがなければ、あなたたちは何もかも失っていたはずよ? 会社も財産も、そして住む場所も。こうして今も幸せに暮らしていけるのは、誰のおかげだと思っているの?」感情を抑えた沙月の態度はとても冷静だった。「でも私は? 天野司と『あの夜』を過ごしてしまったことで、世間体と白石家の欲のために望まれない相手と結婚することになってしまった。彼には恋人がいたのに……」沙月の脳裏に、憎々し気に自分を見つめる司の顔が浮かぶ。「知ってた? あれは私の意思じゃなかった。まさかパーティーで勧められたワインに、媚薬が入っていたなんて思うはずないじゃない。それで行き着いた先に、同じように媚薬を盛られていた彼がいたのよ」その話に触れた途端、遥は唇をかみしめた。「私が司と関係を持ったと知った途端、世間体と自分たちの利益のために、強引に天野家に嫁がせたんじゃない。だけど……養女の私には選ぶ余地なんて、どこにもなかった。私はずっと、あなたたちの都合で振り回されてきた。私の意志とは無関係に、勝手に将来を決められてきたのよ。いつだって、ずっと……」沙月は一度俯き……顔を真っすぐ上げた。「夫が他の誰かに優しく微笑むのを見続ける……。あなたたちに、その絶望がわかる? 利用されて、操られて、ただの道具として生きるこの無力さを、
沙月は遥を真っすぐに見据えた。その瞳には、かつての怯えも迷いもない。むしろ遥の姿を見た瞬間に、胸の奥にしまい込んでいた記憶が鮮明に蘇ってきた。****それは高校一年の出来事。その日、沙月は遥から『このジュース、新発売だから買ってきたの。一緒に飲もう』とプラスチックコップに入った飲物を渡された。まさかそこに薬が盛られているとは思わず、沙月は礼を述べて遥と一緒にジュースを飲んだ。徐々に眠気に襲われ、気づけば暗闇の廃屋に連れ込まれていた。床に転がされている沙月を、見知らぬ数人の男が見下ろし……沙月に襲い掛かって来たのだ。必死で抵抗しながら泣き叫ぶ沙月。そのとき、通りすがりの少年が騒ぎに気づき、助けてくれた。名前も知らないその少年がいなければ、今の自分はなかったかもしれない。あの夜の恐怖は、今も消えていない。遥の笑みを見るたびに、あの記憶が蘇る。――そして翌年。当時沙月は新聞部に所属していた。そしてそこには沙月を慕う後輩の少女がいた。遥と同級生だった少女は、物静かで文章を書くのが大好きだった。沙月は彼女に取材のコツを教えたり、原稿を一緒に読み直したりしていた。それが……遥の嫉妬を買ってしまったのだ。『沙月に媚びてる』『目立ちすぎて鬱陶しい』そんな理由で、彼女は陰湿ないじめに遭った。机の中にゴミを詰められ、原稿を破られ、無視され、悪意ある噂を流された。それでも彼女は、沙月には何も言わなかった。迷惑をかけたくなかったのだろう。沙月が気づいたときには、もう遅かった。ある日、彼女は校舎裏の倉庫でリストカットを図った。幸い命に別状はなかったが、制服のポケットから見つかった遺書には、虐めた相手――白石遥の名前がしっかり記載されていた。学校側は騒然となり、白石遥と両親が呼び出された。だが、白石家はその学校に多額の寄付金を継続的に納めていた。理事長も校長も、遥に強く言うことはできなかった。『遥は留学させます。しばらく日本には戻りません。だからこのことは内密にお願いします』白石夫妻はそう言い、事件を『個人的な問題』として処理するよう学校側に強要した。結局……遺書の存在も、いじめの事実も無かったことにされてしまったのだ。別れを告げることも無く彼女は転校していった。沙月は彼女の為に何もできなかったのだ。そして遥は、『憧れだっ
「離婚だと……!? そんな話、初めて聞いたぞ!」険しい顔で怒鳴りつけてくる剛志。眉間に青筋が立ち、その目は血走っている。「そうですね、今初めて伝えますから」沙月は、その形相にひるむことなく冷静に答える。「お前は天野司がどれ程の男なのか分かって言ってるのか!? あの日本屈指の大財閥、天野グループの御曹司なのだぞ!? それなのに離婚など……気でも狂ったのか!?」「赤の他人の、あんたを私たちが今まで養ってあげたっていうのに……その答えが離婚!? ふざけないで! 恩を仇で返すっていうわけ!?」美和は増々ヒステリックになり、沙月を指さした。「お前はこの家に何一つ利益をもたらさなかったくせに、今度は離婚だなんて……!? ふざけないでちょうだい! お前は白石家の……厄病神よ!」「!」その言葉に、沙月は一瞬凍りついた。目を伏せて唇を噛むも、涙は出なかった。怒りも湧いてこない。あるのは、ただ――虚無感。するとなぜか霧島の言葉が脳裏に浮かぶ。『この先、天野さんがどのような選択をするのか……楽しみにしています』(選択……私は……)「……恩返し……ですか」沙月はゆっくりと顔を上げた。「私が白石家と天野家から、今までどのように扱われてきたかは、私自身が一番よく分かっています。だからこそ、もう終わりにするのです。あなた方の指示は一切受けません。私は天野司と離婚します」「そんなこと、絶対に認めないわよ!!」「そうだ! 離婚はさせない!!」沙月に対する夫妻の怒りは、とどまるところをしらない。「遥は白石家の娘として世間の評判も良いのに、お前は何なの!? 離婚なんて恥さらしもいいところよ! 離婚することが、将来遥の結婚にも影響するって分かっているの!? 見てごらんなさい、離婚経験のあるお嬢様がどこの家にいるっていうの!? 本当になんて自分勝手な女なのかしら。あのとき、卑怯な手を使って遥から天野司を奪っておいて今度は離婚? ふざけないでちょうだい! 離婚すれば白石家から自由になれると思ったら大まちがいよ! 全く図々しいにも程があるわ!」「我々の足を引っ張るな! 司君に嫌われたのなら、今から彼の処へ行って土下座でも何でもして、許しを請うてくるのだ!」怒り猛る二人の言葉に、沙月は視線を白石夫婦の後方で佇む遥に向けた。「……」遥は憎悪の目を沙月に向けていた。
「……今のは……一体どういう意味なの?」沙月は霧島が出て行った扉を少しの間見つめていたが……自分がいまするべきことを思い出した。そう。これから沙月は前に進むために、因縁の者たちと対峙するのだ。「私も戻らなくちゃ」霧島の言葉に疑問を抱きながら沙月は控室を後にし、フロントから借りた染み抜きの道具を返却すると会場へ足を向けた。****「……」会場の前にやってくると、沙月は足を止めて扉をじっと見つめた。(この扉の奥には、澪さんと司……そして白石家の人たちがいる)扉の奥には沙月を待ち構えている人々が確実にいる。そしてそこには自分の味方は一人もいないのだ。先程まで霧島と話していた穏やかな空間が、まるで夢だったかのように今では遠く感じる。「……さぁ、行くわよ」自分自身に言い聞かせると、沙月は扉を押して会場へと足を踏み入れた。ザワッ……中へ入ると、いくつもの視線が沙月に向けられる。それは、彼女の美しさに対する驚きと、どこか近寄りがたい雰囲気に対する戸惑いが入り混じったものだった。沙月はそれらの視線に動じることなく歩みを進める。(怯んじゃだめ……堂々と振舞うのよ。そうじゃなければ私を陥れようとする人々の思うツボになるわ)歩き方、表情、纏う空気――先ほどまでとは違い、沙月の中で何かが変わっていた。彼女に視線を向ける人々の中には、当然白石夫妻の姿があった。父の剛志は眉間に皺をよせ、母の美和は口元を固く結んで沙月をじっと見ている。二人の視線は、まるで「異物」を見るように冷たかった。すると、突然美和が人混みをかき分けて足早に沙月に近づいた。「沙月、大事な話があるっていうのに、今まで一体どこへ行ってたの!」鋭い声で尋ねてくる。「先ほど私のせいでワインを被ってスーツを濡らしてしまった男性がいたので、控室で染み抜きをしていたのですけど?」沙月は動じることなく、質問に答える。するとそこへ父がやってきた。「沙月! さっきの壇上の件は、一体どういうことだ! 説明しろ! 何故、あの朝霧澪が司君に結婚を申し込んだ!」声を荒げる剛志。以前までの無力な沙月だったら、震えて話をすることも、視線を合わすことも出来なかっただろう。だが今の沙月は違う。憧れだった報道局に入社し、一社会人として働いているのだ。沙月は一度だけ深呼吸すると真っすぐに剛志を見つ
沙月と霧島はワインの染みを落とす為、会場を出た。扉が閉まると会場内の熱気に包まれた雰囲気とは異なり、空気がひんやりしている。沙月は霧島の隣を歩きながら、何度も謝った。「……本当に申し訳ございません。霧島さんのスーツに染みを作ってしまうなんて……私、なんてことを……」彼のスーツに広がった染みが、頭から離れない。すると霧島は笑った。「アハハハ……どうかお気になさらないでください。ワインの染みは早めに対処すれば問題ありませんから。そうですね、とりあえずフロントに相談してみましょう。染み抜きの道具があるかもしれません。ここはホテルです。クリーニングには詳しいはずですから」彼の声は落ち着いていて、まるで何事もなかったかのようだった。「そうですね。ではフロントに行ってみましょう」そこで二人はフロントへ向かった。「その染み……落ちると良いのですけど」歩きながら沙月は霧島のスーツに視線を移す。上着には紫色の染みが広がっていた。「そんなに気にしないでください。大体これは僕にも責任がありますから」「え? 責任……? 何故ですか?」沙月は顔を上げた。「ずいぶん奇麗な女性がいるなと思って見惚れていたら、沙月さんとぶつかってしまったのです。なので自分にも非があることですから」その言葉に少しだけ沙月の気持ちがほぐれる。「そうですか。霧島さんが見惚れるなんて、よほど奇麗な人だったのでしょうね」「……」すると霧島が目を見開いて沙月を見る。「霧島さん? どうかしましたか?」「いや……まいったな。奇麗な人って……天野さんのことだったんだけどなぁ」照れ臭そうに霧島が頭をかく。「え!? あ、あの……あ! フロントがありました。行きましょう」沙月は照れ臭い気持ちを隠すように足早にフロントへ向かった。****フロントでは、事情を聞いたスタッフがすぐに応急処置用の染み抜きスプレーとタオルを用意してくれた。来賓用の控室も空いているとのことで、二人はそこへ案内された。控室は静かで、外の喧騒とは隔絶された空間だった。霧島はジャケットを脱ぐと、沙月は早速染み抜き作業に取り掛かった。「……本当に、申し訳ありません」沙月はタオルを持つ手をぎこちなく動かしながら、何度も謝った。「大丈夫ですよ。どうかあまり気にしないでください。ワインの染みは落とせますよ。ですが







