言吾は、一葉との関係が完全に終わったことを悟り、彼女の幸せを願って身を引くべきだと、自分に言い聞かせていた。だが、彼の中にはどこか一縷の望みにも似た確信があった。一葉がどれほど自分を愛していたかを知っているからこそ、彼女が慎也と婚約し、新しい人生を歩もうとしていても、心の底ではまだ自分を完全に断ち切れてはいないはずだ、と。彼女の心にはまだ自分がいる、本気で新しい恋を始められるはずがない、と。その歪んだ確信があったからこそ、一葉が慎也と共にいる姿を見るのは辛くとも、決定的な絶望にまでは至らずに済んでいたのだ。まさか、一葉が慎也と既に関係を持ち、その上……妊娠までしているとは、夢にも思わなかった。この事実は、彼にとって……あまりにも、受け止めきれない衝撃だった。どんなに虚勢を張ろうとしても、もう限界だった。糸が切れた操り人形のように、その長身が、力なく床に崩れ落ちる。あれほど大きく、がっしりとしていた彼が、生命力を一瞬で抜き取られたかのように床に倒れ伏すのを、一葉はただ見つめていた。耐え難い苦痛に、いっそ死んだ方がましだとでもいうような、その姿。一葉の胸に、抑えようのない痛みがこみ上げてくる。だが、彼女はぴくりとも動かなかった。ただ、冷たいとさえ言える静かな眼差しで、彼を見つめるだけだ。ここまで来てしまった二人に、もう後戻りはできない。完全に断ち切ることだけが、互いにとっての再生に繋がる。一葉は、言吾にも自分と同じように過去を乗り越え、彼自身の新しい人生を見つけてほしいと願っていた。かつて彼女が口にしたように、二人の間に何があったとしても、言吾を憎んだことは一度もなかった。泥沼の中でもがく彼を望んではいない。彼には、彼だけの新しい幸せを掴んでほしい。どうか、幸せになって、と。冷酷で、何の感情も含まないような一葉の視線を受けて、言吾は、何と表現したらいいのか分からない表情を浮かべた。以前の彼であれば、こんな状況ではきっと、捨てられた大きな犬のように哀れな姿で、潤んだ瞳で同情を誘うように、人の心を揺さぶってきたはずだった。だが今は、そんなことをしても無駄だと分かっているのだろう。いつものように、その瞳で彼女の気を引こうとはしなかった。ただ、じっと一葉を見つめているだけ。しかし、その痛切な眼差
だからこそ、あれほど一葉に執着していた彼が、こんなにも穏やかな笑みを浮かべて、他の男との幸せを心から祝福できるとは、夢にも思わなかったのである。一瞬、何か言い返そうとしていた紗江子だったが、すっかりその気力を削がれてしまったようだった。彼女はひとつ、ふんと鼻を鳴らすと、疲れたからと言って、一葉に休憩室まで送ってくれるよう頼んだ。千陽は元々、言吾のことを快く思っていない。だから、紗江子を送っていくという一葉に、当然のように付き添った。言吾は、その場に呆然と立ち尽くしていた。あえて、あんなにも心ない笑みを浮かべてみせたのは、紗江子にもっと自分を罵ってほしかったからだ。それなのに、彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ、遠ざかっていく三人の後ろ姿を、為す術もなく見送ることしかできなかった。紗江子は本当に疲れていたのだろう。休憩室に入ると、軽食を少し口にしただけで、すぐに眠気を感じたようだった。若い二人に、客の相手をするように言い含めると、彼女はソファに身を横たえ、うとうとし始めた。千陽と二人で部屋を出た後。彼女は、それまでの一葉への執着が嘘のように、平然と慎也との婚約を祝福してみせた言吾の姿を思い出し、ふんと鼻を鳴らした。「一葉ちゃん、あんたがあの薄情男のこと、きっぱり諦めて本当に良かったわ」「この間まで、あんたじゃなきゃダメだみたいな顔してた癖に、もうあの様よ」一葉は笑って、親友の腕に自分の腕を絡めた。「でも、いつまでも私に付きまとわれるよりは、ずっといいでしょう」「そりゃ、そうだけど。でも、なんかムカつくじゃない」千陽は、言吾が一葉に固執し続けることを望んでいるわけではない。ただ、腹が立つのだ。あれほどまでに一葉を傷つけておきながら、こんなにも早く立ち直ることが。苦しんだ時間が、あまりにも短すぎることが。親友が、自分のことを思うあまりに憤ってくれているのが、一葉にはよくわかった。彼女は、千陽の腕をさらに強く抱きしめる。「千陽ちゃんが、一番私のこと心配してくれてるって知ってるから」「でも、彼がこれで前に進めるなら、それはそれでいいことなのよ。だって、あの時彼が助けてくれなかったら、とっくに私はこの世にいなかったんだもの。どんなことがあっても、私は彼を恨んでない。彼にも、これからの人生、幸せになってほしい
婚約披露宴の会場は雲都だったが、一葉は実家とほとんど縁を切ったような状態だった。祖母の紗江子と兄の哲也は招待したが、母の今日子にさえ声をかけなかったし、ましてや他の親戚など論外だ。それに、これは結婚式ではなく、あくまで婚約披露の場。研究室の仲間たちも呼ばず、恩師である桐山培志を招待しただけだった。そのため、会場に集まった客のほとんどは、慎也の招待客で占められていた。慎也に付き添い、一通り挨拶回りを終えた後、彼が数人と込み入った話をするために席を外したので、一葉は祖母と親友の千陽がいるテーブルへと向かった。紗江子は、これまで慎也に会ったことがなかった。この婚約披露宴が、正真正銘の初対面となる。だが、そんなことは、彼の好感度に何ら影響を与えなかったようだ。少し離れた場所で談笑する慎也の姿を目で追いながら、紗江子は一葉の手を握りしめ、心から安堵したような声で言った。「あんたが言吾さんと離婚してから、おばあちゃんは、ずっと心配だったんだよ。あんたが、あの悲しみから抜け出せずに、一生独りで過ごすんじゃないかってね」「それが、どうだい。再婚するどころか、こんないい旦那様を見つけるなんて。……おばあちゃんは、もう、今死んでも思い残すことはないよ」年長者は、どうしても可愛い孫の将来を案じてしまうものだ。紗江子もまた、一葉のことを心配するあまり、夜もよく眠れない日が続いていた。ただ、孫娘に余計な気苦労をかけまいと、そのことを口に出したことは一度もなかった。一葉がどれほど言吾を愛していたか、紗江子は知っている。だからこそ、彼女が一生その心の傷から立ち直れず、独り身を貫くのではないかと恐れていたのだ。研究に身を捧げることは、国のため、人のためになる立派なことだ。しかし、自分はただの、どこにでもいる我儘な老婆に過ぎない。ただ、可愛い孫娘に、幸せな余生を送ってほしい。心から彼女を愛してくれる夫と、可愛い子供たちに囲まれて、笑っていてほしい。それだけを願っていた。人はいつか必ず死ぬものだとわかってはいても、祖母の口から「死」という言葉を聞くのは、やはり耐え難かった。一葉はわざと拗ねたような口調で言った。「おばあちゃん、そんなこと言わないでよ。おばあちゃんには、うんと長生きしてもらって、私の子供の面倒まで見てもらうんだから」「子守り
遠ざかっていく二人の後ろ姿を、紫苑はただ黙って見送っていた。ふと、自分以上に苦しんでいる人間が隣にいることに気付き、彼女は言吾へと視線を移す。もはや隠しようもなく、赤く充血した彼の瞳を捉えた瞬間、紫苑は声もなく、唇の端を吊り上げた。自分は、決して善人などではない。誰かが自分と同じように、いや、自分以上に苦しんでいれば、それでいくらか気は紛れるのだ。何かを思いついたように、紫苑は言吾の腕に絡ませた自身の腕に、ぐっと力を込めた。「烈さん、ご覧になって。青山さん、今、とてもお幸せそうよ。人というのは、前を向いて生きていかなければ」何を言っても無駄なことはわかっていた。言吾が一葉を諦め、自分の方を向いて、真面目に夫婦としてやっていこうなどと考えるはずがない。彼女の言葉は、ただ、言吾を苛むためのものだ。彼の、千々に引き裂かれた心に、さらに深く刃を突き立てるための、毒の一滴。理由はない。ただ、自分の気分が晴れないのなら、自分よりもっと惨めな人間がいればいい、それだけのこと。言吾は何も答えず、ただ、冷たい視線を紫苑に投げかけただけだった。これほどまでに打ちのめされている状況で、これほど挑発的な言葉を投げつけられてもなお、彼が激情に駆られて自分を怒鳴りつけたり、八つ裂きにしようとしたりしない。その様子を見て、紫苑の心に、ふとある考えが浮かんだ。今度は、彼を刺激するためではない。彼女は、真剣な眼差しで言吾を見つめ、言った。「言吾さん。青山さんはもう、彼女の幸せを見つけたの。あなたと彼女が、もう二度と交わることはない」「ねぇ、本気で聞いてるのよ。心の中にある、そのくだらない憎しみを捨てて、私と本当の意味でやり直してみる気はない?もし、あなたがその気なら……信じて。私があなたにあげられるものは、あなたが想像しているよりも、ずっとずっと多いわ」獅子堂烈は、言吾をただの駒、ただ働きする労働力としか見ていない。目的を果たした暁には、彼は獅子堂家に戻り、言吾を身代わりとして切り捨てるつもりだろう。だが、自分と組めば、言吾を完全に彼と入れ替えることだってできるのだ。彼を、本物の「獅子堂烈」にしてやれる。ただ働きで捨てられるどころか、本当の富と権力を手に入れ、さらに何年も安泰に生きることができる。全ては、彼、深水言吾の選択次第。あの夜の
紫苑を伴い、一歩、また一歩と、こちらへ向かってくる元夫の姿。その光景を前にして、一葉は自分の心をどう表現すればいいのかわからなかった。一体いつになったら、彼のことを見ても、ただの知人に対するように、心の波一つ立たずにいられるのだろう。だが、その日はきっと来ると、彼女は信じていた。一葉の心境がさほど変わらないのに対し、言吾の様子は大きく変化しているように見えた。ついこの間のパーティーでは、まだ「他の誰かを好きになるのは待ってくれ」と、目に涙を浮かべていた男が。今、目の前にいる彼は、あの時の苦痛など微塵も感じさせず、穏やかな笑みさえ浮かべて祝いの品を差し出し、祝福の言葉を口にした。「青山さん、桐生さん、ご婚約おめでとうございます。末永く、お幸せに」彼が自分たちの婚約を祝い、他の男との永遠の幸せを願う、その真摯な瞳。それを見つめながら、一葉は思わず、ある種の感慨に耽っていた。やはり、そうなのだ。どんなに忘れられない想いも、どんなに天地がひっくり返るような出来事も、時間の大きな流れの中では、ゆっくりとその姿を変えていく。耐え難い苦しみから、彼を完全に手放し、新しい人生を歩み始めた自分。同じように、耐え難い苦しみから、自分を完全に手放し、新しい人生を歩み始めた彼。結婚の時に誓った言葉は、結局果たされなかった。「どんな時も、この手を離さず、二人で幸せに年を重ねていこう」という、あの約束。けれど、今こうしていることもまた、別の形の幸せと言えるのかもしれない。それぞれが、それぞれの場所で幸せになる。それだって、二人が幸せになったことに、変わりはないのではないだろうか。ふと我に返り、一葉は彼に向かって柔らかく微笑んだ。「ありがとうございます、獅子堂さん、奥様」その幸せに満ちた笑顔と、感謝の言葉。それを受け取った言吾は、身体の脇に垂らした両の拳を、抑えきれずに強く、強く握りしめていた。一方、紫苑は、一葉に向ける嫉妬の眼差しを隠すことができないでいた。確かに、先日のパーティーで慎也は二人の関係を公にし、近々結婚すると発表した。彼がテーマパークを貸し切りにし、仲睦まじく園内を巡る姿は、インターネットを通じて国中に知れ渡った。それでも、紫苑は本気にしていなかったのだ。慎也ほどの男が、結婚などするは
「お兄ちゃんは知らないでしょうけど……私が、健康な人たちを、薬なんて飲まなくても生きていられる人たちを、どれだけ羨ましいと思ってるか。この世に、健康でいることより、生きてることより、大切なことなんて、絶対にないんだから」柚羽の言葉には、彼女の心の底からの叫びが込められていた。それは、彼女が世界中の人々に伝えたいと願っている、切実な想いだった。健康であること、ただ生きていられること、それ以上に大切なものなんて、何一つないのだと。旭は聡明な青年だった。ここまで聞けば、妹が自分に何を伝えようとしているのか、痛いほどによくわかった。兄が自分の意図を理解したことを悟った柚羽は、もはや遠回しな言い方をやめた。「お兄ちゃん、叔父様が裏切ったなんて、そんな風に思わないで」「叔父様が、どれだけ私たちのことを大切にしてくれてるか、お兄ちゃんだって知ってるでしょう。あの人は本当に、私たち二人のためだけに生きてきたのよ。お兄ちゃんと私のことは、ご自分の命よりも大事に思ってる!もし、お兄ちゃんと一葉さんに、少しでも結ばれる可能性があったなら……叔父様は、どんなに一葉さんを好きでも、絶対に一歩だって踏み出したりしなかったはずよ。でも、何年も経ったのに、一葉さんはお兄ちゃんのこと、一度もそういう対象として見てくれなかった。だから、叔父様は、前に進むことを決めたの。……ねぇ、お兄ちゃんは、赤の他人が一葉さんと結ばれて幸せになるのを見るのは良くて、自分のたった一人の叔父様が幸せになるのは、嫌なの?」柚羽のその言葉は、まるで鋭い針のように、旭の心を貫いた。最も信頼していた肉親に裏切られたという、あの灼けるような痛みが、すうっと潮が引くように薄れていく。視点を変えれば、確かにその通りだった。自分には、どう足掻いても、彼女と結ばれる可能性はないのだ。だとしたら、見ず知らずの誰かが彼女を幸せにするくらいなら、自分の叔父がその相手である方が、まだ……認めたくはない。だが、認めざるを得なかった。どれだけ努力しても、一葉にとって自分は、弟以上の存在にはなれないのだと。彼女は、叔父さんと結ばれる前、染谷源と籍を入れようとさえした。その時でさえ、自分を選択肢に入れることはなかったのだ。「お兄ちゃんから一葉さんとのこと、色々聞いてたけど、私、わかるよ。一葉さんは、お兄