変に疲れた気がしながらも、無事一日の仕事を終える。
帰る前に甘い飲み物でも飲もうと、自販機の置いてある休憩室へと向かうことにした。 このビルの休憩室は二階にあるのだが、エレベーターを待つ時間はもったいないのでいつも階段を使ってる。 休憩室のドアを開けると、そこには御堂さんが立っていた。 ドアを開けた途端私に向けられる鋭い眼差し。「お疲れ様です、御堂さん」
「……」目の前に立っている上司を無視するわけにもいかず、挨拶をするけれど御堂さんからの返事はない。
私はポケットから小銭入れを取り出し、お金を入れようとすると、御堂さんにいきなり手首を掴まれてしまう。 驚いて彼を見上げると、彼は真剣な表情で私を見ている。 じっと私を見つめた後、彼はゆっくりと口を開いた。「…… 俺の事を覚えているか? 紗綾」
「え……? すみませんが手を離して頂けませんか、御堂さん?」
手首をいきなり掴んできた御堂さんの手を離そうとするけれど、力が強くてビクともしない。
…… どうして御堂さんは私の事を【紗綾】と呼ぶの? 首から下げた社員証にフルネームが書いてあるとはいえ、今日会ったばかりの相手を普通は呼び捨てになどしないはず。 掴んだままの手は離してもらえず、混乱したまま私はジッと御堂さんを見つめることしか出来ない。「…… もう一度聞く。 お前は俺の事を覚えているか?」
仕事の時とは別人のような話し方。 この人は本当にあの優しそうだった御堂さん?
でも私を見つめる鋭い視線は同じもの、もしかしてこれが本当の彼だったりするのだろうか?彼の問いには答えられない、だって私は御堂さんとは今日初めて会ったはずなのだから。
すると、自然に無言が彼の質問への答えとなる。「そうか。お前は俺の事を覚えていないんだな、さあや」
懐かしいその呼び方に、奥に仕舞っておいた記憶の蓋がゆっくりと開く。 私の事を【さあや】と呼ぶのは…… あの男の子だけ。
いつも喧嘩するのに、決まって次の日には仲よく遊んでいた。 そんな私の幼馴染。「もしかして、かんちゃん?」
当時の呼び方でしか少年の名前を覚えておらず、その名をそのまま口にした。
顎を持たれ顔を上げさせられているから、御堂《みどう》から視線を逸らすことは出来ない。私はその悔しさから強く唇を噛み、彼を睨み続けるしかなくて…… そんな私の様子をジッと見ていた御堂は、舌打ちをして私の唇にその冷たい指で触れる。「紗綾《さや》、そんなに唇を噛むな。お前を少しでも傷付ける、たとえそれが紗綾自身であっても俺は許せない」 厳しい声で言われて、私はしぶしぶ唇を噛むのを止める。すると御堂の指が素早く動き、私の口を優しく開かせた。 御堂は私の唇が傷付いていないかをジッと見ている。しばらく観察した後、彼の指はそっと唇をなぞって離れていった。 そんな私の唇がジンジンと熱を持っているのは、強く噛みすぎたからなのか……それとも御堂の指に触れられたからなのだろうか?「御堂は勝手だわ、自分は私を追い詰めているくせにそんな事を言うなんて。私が唇を噛もうと何をしようと貴方には関係ないじゃない」 「紗綾がどう思おうと、俺にとっては関係なくはない。お前が同じことをすれば何度でも止めさせる」 冗談などではない、本気だという事が言葉の重みで分かる。何故そこまで御堂は私に執着するのだろう?「ど、して……」 何で、放っておいてくれないんだろう。あんな風に他の女性社員達と仲良さそうな所を見せつけるくらいならば、私の事なんて放っておいてくれればいいのに。 そう思うのに、御堂の言葉にどうしようもなく私の心は揺さぶられる。この人にとって私は誰にも傷つけさせたくない程、とても大切な存在だと言われているような気がするから。 「わざわざ言葉にしなくても、紗綾《さや》はもう分かっているはずだろう?」 さっきと打って変わって、そんな優しい言い方をするのね。その囁くような優しい声音に、私の心の奥が喜びで震えてしまう。 そう、彼の言う通り本当は分かっているの。だけどそんな御堂《みどう》を信じようとすればするほど、私の心は不安でいっぱいになっていた。 喜びと不安、色んな感情がごちゃ混ぜで……そんな気持ちを抑えきれずに、とうとう私の瞳から一粒の雫が零れ落ちてしまう。「……どうして泣く? そんなに俺に触れられるのが嫌なのか?」 そう言いながらそっと私の頬を撫でる御堂の手のひら。その優しい冷たさにそれ以上涙をこらえる事も出来ず、私の涙はポタポタと彼の手を濡らしていく。「
「御堂《みどう》……!?」 横井《よこい》さんではないその低い声音に、私は驚いて思わず振り返ってしまった。 そんな私の視線の先、腕を組み立っている御堂は明らかに不機嫌で……「結局のところ、紗綾《さや》は俺の気持ちがお前の中身が綺麗かそうではないかだけで変わる。その程度のものだと思っている、という事か?」 御堂の鋭い視線と厳しい言葉が、私の心に棘のように刺さる。 私だってそうじゃないって思いたい。だけどそんな自信が持てるほど、私は愛される資格のある女でもなくて…… そう考えれば考えるほど、御堂に対して何の返事も出来なくなってしまう。彼に対してどんな言葉を選んで答えても、それが正解ではないような気がして。「返事も無しか。まったく、紗綾は面倒な奴だな……」 御堂の言葉にカッと頭に血が上る。「面倒な女」やっぱりそれが私に感じている貴方の本心なんでしょう?「じゃあ、どうして私を追ってきたりしたの? 面倒な私なんかに構わず、さっきの女性社員達と仲良く楽しくやっていればいいじゃない!」 御堂の言葉に思わず感情的に返してしまう。それくらい私はさっきの御堂の言葉にショックを受けてしまっていたから。 そんな風に怒鳴る私を見て、御堂は嬉しそうに口角を上げた。何故、貴方はこんな状態でそんな顔で笑えるの?「さっきの女子社員といたのがそんなに不快だったか? ちゃんと言ったはずだぞ、紗綾は必ず後悔する……と」 「どうして、私が後悔してるって決めつけるの?」 一歩、また一歩と御堂が私に近付いてくる。私のすぐ後ろはガラス窓……これ以上、逃げる場所は無い。「さっきの様子を見ていれば分かる」 あの時、あんなにも女性社員に囲まれていたのに。どうやら御堂はそんな状況でも、しっかりと私の表情も確認していたようで。 それでも意地を張るしか出来ない私に、彼はとどめを刺すように……「それはどういう、意味?」 「……嫉妬してるんだろ? 紗綾」 私を追い詰めて意地悪く微笑む御堂《みどう》、彼の言葉は何一つ間違ってはいない。私がそれを素直に認められるかどうかは別として。「本音を言えばいい。他の女子社員に優しく接する俺を見ていられず逃げだす程に妬いている、と」 御堂との距離はもう一メートルも無いのに、私には出すべき答えが見つからない。 このまま認めなかったら御
「嬉しい! うふふ、約束ですよ?」 嬉しそうに御堂《みどう》の腕に自分の腕を絡ませた女性社員が、私の方を見て勝ち誇った笑みを浮かべる。まるで「ほら見なさい、御堂はもうアンタなんかに興味は無いのよ」と言わんばかりに。 そんな空気に私はそれ以上我慢出来なくて、その場から思わず逃げ出してしまった。横井《よこい》さんが慌てた様子で私を呼んでいたけれど、もう振り返る事も出来なかった。 これは御堂が嫌がる選択をした罰なのだろうか? 選ばせてもらった私の方が、その様子を見ているだけでこんなに苦し苦ならなきゃならないなんて。 どこかに隠れたくて目についた扉を開ければ、そこはこの前の資料室。相変わらず埃っぽいこの部屋には誰もいなくて。 しっかりと締め切られたカーテンが今は少し有り難かった。「なによ、何もあんな風に私の前で見せつけるようにしなくたって……」 分かってる、そんなのは御堂の自由だって。彼は私の言った通りの事をしているのに、私が勝手に不快になってしまっているだけ。 それでもやはりあんな楽しそうな顔をされれば、私だって何も感じないわけじゃない。 少しだけ滲んだ涙を強めに拭うと、資料室のドアが開く音がした。慌てて振り向くと……「主任ったら、いきなり出て行っちゃうんですもん。気になって追いかけて来ちゃいました」 「横井さん……」 彼女にしては珍しい、少し怒ったような声。どうやら、私を心配してここまで追いかけてきてくれたらしい。最近、私は彼女に弱い所ばかり見せてしまっている気がする。 私はまたカーテンの方を向いて、横井《よこい》さんに滲んだ涙を悟られないようにする。それでもきっと完璧に誤魔化すことなんて出来ないと思うけれど。「そんなに辛いのなら、もう言っちゃいましょうよ? 今の主任はすっごく酷い顔してるんですよ、それ分かってます?」 「でも、言いたく……ないの。言ったら認めなきゃいけなくなっちゃうから」 御堂《みどう》は私が「止めて」と言えば止めてくれるだろうけれど、必ず理由を聞いてくるはず。きっと彼は望んだ答えを私の口から聞くまで納得しない。 駄目なの、私は御堂のように魅力的な男性を好きになっていいような女じゃない。「認めたくないって……そこまで主任が自覚しちゃっているのなら、もう意味がないでしょう?」 「……っ、そう、だけど
「とりあえず昼食――あ、主任はここでお弁当でしたよね?」 「ええ、私はお弁当だけれど横井《よこい》さんは食堂でしょう? 早く行かないと席が埋まっちゃうわよ」 私がこんな顔をしていれば、もっと横井さんに気を使わせてしまう。私は出来るだけ自然な笑顔で横井さんを見る。 横井さんは鞄から何か紙袋を取り出して机の上に置いたかと思うと、「よし!」と頷いて勢いよく椅子に座る。「明日の朝用にパンを買ってきて正解でしたね! 今日のお昼はこれにしようっと!」 横井さんはそう言って私の方を見てニッと笑って見せる。どうしよう、彼女にまで気を使わせたくなかったのに。「いいのよ、私は別に平気よ?」 「そんな作り物の笑顔は、平気って言わないんです。これは私がこうしたいからやっているだけの、ただの自己満足なので気にしないでください」 笑顔がやはりうまく作れていなかったのでしょうね。横井さんは水筒を取り出してカップに飲み物を注ぐとそっと私の手にあてる。 ああ、温かい……カップも、横井さんの優しさも。「そんな顔して我慢しなくていいと思います。素直に言っちゃったほうが絶対いいですよ」 素直に、なんて簡単に言うけれど……私と御堂《みどう》の関係ではそれが結構難しくて。でもこの状態もそれなりに辛くて頭の中がグルグルしているの。「……そんな事言ったら、今度こそ御堂に呆れられちゃうかもしれない」 彼女の優しさに甘えて、ポツリと出てくる私の本音。本当の私は御堂に愛想をつかされることがとても怖いのよ。 「それなら――――」 横井《よこい》さんが何かを言いかけた時、オフィスの扉がやや乱暴に開かれる。すると御堂《みどう》とその周りを囲む女性社員達がバタバタとオフィス内に入って来た。「えー? 御堂さんもう仕事しなきゃダメなんですかー?」 「ごめんな、今週締め切りの仕事が多くてね。なるべく今日中にいくつか終わらせておきたいんだよ」 御堂が仕事を始めようとしても、女性社員達は一向に引き下がらず彼に話しかけている。そんな彼女らに御堂は変わらず優しそうな笑顔を向けていて…… ジッと彼等を見ていると、御堂がこちらを見てニヤリと笑って見せた。女性社員に対する笑顔とは明らかに違うシニカルなその表情。私ばっかりがモヤモヤしているようで悔しい……「別に、これくらいどうってこ
その事があった翌日から、御堂《みどう》が私に話しかけてくることはほぼなくなった。 彼に振り回されない穏やかな日常に戻ったはずなのに、何故か私は自分を見なくなった彼にばかりを視線を向けてしまう。 これが自分で望み、そして選んだ答えのはずなのに―― 心の中にモヤモヤとしたものを抱えながらも、仕事はいつも通りにやっていかなければならない。 私にとってこの仕事が、自分の生きがいでもあるのだから。だけど……「主任、頼まれていたデータをグラフにしておきました」 隣の席から横井《よこい》さんが、少し前に頼んでいた書類のファイルを渡してくれる。私が礼を言って受け取ると、横井さんはチラリと御堂の方を見た後そっと私に囁いた。「最近、御堂さんは主任の傍に来ませんね。もしかして、あれから何かありました?」 横井さんはこういう時、何故かとても鋭い。私は普通に過ごしているつもりでも、彼女はすぐに気付いてしまうのだ。「何かって――」 そう言いかけた時、ちょうど昼休憩のアラームが鳴り社員がぞろぞろと席を立ち始めた。「御堂さん! 今日も、お昼ご一緒しても良いですかぁ?」 可愛いらしい女子社員が三人で、いそいそと御堂の傍に寄って来ている。そう、あの日から御堂はこの女性達と一緒に昼食をとるようになった。 彼女たちに笑顔で応える御堂を見ていると、本当はちょっとだけ胸が苦しかったりもする。 今の状況は自分で選んだことなのに……なんて私は我が儘なんだろう? 「ああ、今日は倉橋《くらはし》君も一緒にいいかな? 俺だけ美人に囲まれて狡いって彼に怒られてしまってね」 ふうん、そうなんだ。そう言う自分だって、美人に囲まれてまんざらでもなさそうじゃないの。 デレデレ、ニヤニヤと鼻の下をのばしてみっともないったら。「しゅにーん。そんなイライラした顔して見てるくらいなら、御堂《みどう》さんにハッキリ言っちゃえばいいじゃないですか~?」 横から私の顔を覗いていた横井《よこい》さんが、呆れた様子でそう言うのだけれど。 それでも私は嬉しそうな女性社員に囲まれ、笑顔のまま彼が部屋から出ていくまで目を離せなかった。「彼には私がこうして欲しいって頼んだのよ。今更、あの人に何を言えばいいのよ……?」 嫌がる御堂に「この選択肢が良い」と、我儘を言ったのは私なのに……他の女性に笑顔
選ばせてやるって、いきなりそう言われたって。どれが一番いい方法かなんて、私には分からないわよ。 ……まず御堂《みどう》の言う作戦の一番は絶対に駄目。仕事が出来て人当たりの良い課長代理としての御堂のイメージを崩しては欲しくない。 彼の本性は、今は私だけが知っていればいい。 私は二番が良いような気がするんだけれど、その女の子たちと行動を共にする御堂は気が乗らないって言っているから気が引ける。 それじゃあ残った三番にすればいい、なんて御堂は簡単に言いそうだけど…… それがフェイクなのか、それとも本気なのかでも変わってくるじゃないだろうか? それに、今の私には誰かと付き合う資格なんてあるわけが……「決まったか、紗綾?」 「御堂……私は二番が良いと思う」 私の返事に御堂の眉がピクリと動いたが、あえて気付かないフリをする。きっと私は御堂が一番望んでない答えを選んでしまったはずだから。「本気か、紗綾。俺は気が乗らないと言ったはずだぞ?」 「分かってる。でも……今の私にはこれしか選べないから。御堂、ごめんなさい」 御堂に向かってぺこりと頭を下げると、小さく御堂の舌打ちが聞こえた。 理解はしてる、御堂は嫌々でも私の意見を聞いてくれるって事。私は……そんな狡い女なんだ。「分かった、紗綾がそれを選んだのなら。きっとお前は後悔すると思うがな」 それだけ言い残すと御堂は黙ったまま私から離れ、そのまま部屋から出て行ってしまった。 後悔するなんて分かりきってる。それなのに私は御堂を引きとめることも出来ずに、ただその場に立っていた。