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第1216話

Author: 夜月 アヤメ
千景が暁を抱いて家に戻ると、若子はキッチンのカウンターの前でぼんやりと立ち尽くしていた。ふたりが帰ってきたことにも気づいていないようだった。

「ママ」

暁の声が、静かな空間に響いた。

若子はその声で我に返り、振り返って微笑んだ。

「戻ったのね」

そう言いながら歩み寄り、千景の腕の中から暁をそっと抱き上げた。

「若子、大丈夫?藤沢と何を話してたの?」

「......侑子さんが焦って、先に動いたの。安奈さんを『犯人』として差し出して、自分の関与を消そうとした。今、安奈さんはすでに警察に捕まった」

千景はわずかに眉をひそめる。

「安奈が黙ってるとは思えない。きっと、侑子のことも話す」

「そうね、でも......問題は、侑子さんの演技力なのよ。あの人、本当にうまく自分を偽る。修は安奈さんのことは疑っても、侑子さんのことは疑わない。『調べる』とは言ってたけど、結局は侑子さんがそんなことするはずないって思ってるのよ。根っこから、彼女を信じてる」

「それなら納得だな」

千景は静かに言った。

「前から分かってた。修は、あの女のことになると甘い。けど、心配するな。少なくとも、あのふたりの所業を暴露したのは正解だった。自分たちの罪で足元が崩れて、安奈が捕まった。残るは、侑子だけ。時間の問題だ」

「そうね。どんな形であれ、安奈さんは捕まった。次は......侑子さんの番よ」

若子の目には、揺るぎない決意が宿っていた。

......

数日後。

侑子はスマホの画面を凝視していた。最新話の更新―そこには、彼女が安奈を「替え玉」に仕立て上げたくだりが書かれていた。

この小説、一体誰が書いてるの......?

手が震えるほどの緊張感に襲われ、侑子はおそるおそる電話をかけた。

「......もしもし、あんたに会いたい」

深夜。

彼女は一軒の洋風の一戸建てに足を運んだ。周囲には人影もなく、ぽつんと灯りがともっている。

中に入ると、鼻をくすぐるのは香ばしい―けれどどこか場違いな匂い。焼き物の匂いだった。

眉をひそめて庭を覗き込むと、男がひとり、焼き台の前でイカを焼いている。

その姿が、余計に不気味だった。

彼は冷酷な計算家で、影の黒幕。なのに、時々こうやって妙に庶民的な面を見せる。

以前は庭に花を植えていたかと思えば、今日はバーベキュー。

「来て
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