「今まで人を好きになったことないんですか?」「うーん……」これまた真剣に考え始める。こちらが頭を悩ませそうなくらいに頭を悩ませている。そもそも姫乃さんは人気があるのだから、彼氏募集中ですなんて言った日にはあちらこちらから声がかかるに決まっている。それはもう、いい男から悪い男まで、姫乃さんを自分のものにしたいやつがわんさかと……。そこまで考えて、それは嫌だなと思った。姫乃さんがぼんやりしている人だということを知っているのは俺だけでいい。姫乃さんが綺麗だけじゃなくて可愛いということも、俺だけが知っていればいい。誰にも知られたくない、独占欲というやつがわいた。だったらどうしたらいい?姫乃さんを俺の手元に置いておく方法。「しょうがないな、じゃあ俺が彼氏になってあげますよ」「ええっ!」「いろいろ練習したいでしょ?」「練習?」「恋人ができたときの練習ですよ」こうすれば姫乃さんを俺のものにできる。姫乃さんは押しに弱いから、絶対頷くと思った。姫乃さんが他の男のものになるのが考えられなくて、そう提案した。けれどそれは俺が姫乃さんを好きだともとれるわけで……。姫乃さんを好きかどうか。考えたこともなかったけど、好きなのかもしれないなと思う。やばいな、俺の考えもぼんやりしている。姫乃さんに流されているのかもしれない。そんな俺の気持ちにはまったく気づいていない様子の姫乃さんは百面相のように表情を変えたあと、「よろしくおねがいします」とカタコトに頷いた。調子に乗った俺はデートをしようと提案した。これまた顔を真っ赤にして動揺しているのだが、いったい何を想像しているのだろう。行きたいところがあるとやたらテンションが高くなった姫乃さんは、いつもとはまた違った、子供のように楽しそうな顔をして笑った。微笑ましすぎてこちらもつられて笑った。なんだかとても心が浮ついた。
だいたい、なぜまわりは姫乃さんのぼんやりさに気が付かないのだろう。 完璧だとか高嶺の花という言葉が先行して、そういう固定した目で見ているからだろうか。姫乃さんは彼氏の話になると、とたんに動揺するというのに。「ねえ、大手企業のエリート彼氏がいるって?」「ぐっ!」「同棲を始めて結婚も秒読みなんだ?」「げっほっ!」ゴホゴホとむせ返る姫乃さんに水を手渡す。 ほら、この動揺の仕方。こんなにわかりやすいというのに、なぜ気づかない? けれど逆に言えば俺だけが知っている姫乃さんということにもなって、なぜか優越感がわいた。「そうだよ、彼氏いないもの」「別にいいんじゃないですか? 何か問題でも?」「だって私もういい年だし、いい加減彼氏作らないと行き遅れちゃうよ」口調から必死さが伝わってくる。行き遅れるだなんて、姫乃さんなんて引く手あまただろうに、何を言っているのだろう。もしかして理想が高すぎるのだろうか。それとも以前は本当に大手企業のエリート彼氏がいて同棲までしていたとか?「じゃあ作ればいいじゃん」姫乃さんならすぐできるでしょう、という意味で言ったのだけど。「どうやって? 彼氏ってどうやったらできるの?」真剣な顔で訊き返されて、逆に言葉に詰まった。 必死さが更に強まった感じだ。「姫乃さんマジで言ってます? 今まで誰かと付き合ったことないんですか?」素朴な疑問だったのに、姫乃さんは一瞬で顔が真っ赤に色づいた。 マジか。嘘だろう?
昨日は姫乃さんの部屋にお邪魔したので、今日は俺の部屋に誘った。 姫乃さんは何の疑いもなくヒョコヒョコ着いてくる。大丈夫か、男の家だぞ? 警戒も何もあったもんじゃないし、下心やあざとさなんて微塵も感じられない。ダメだ、姫乃さんは天然なのかもしれない。まあ、俺とて襲う気はないけど。「何かお手伝いを……」そういう姫乃さんをソファに押し込めた。昨日は作ってもらったから、今日は俺が作ろうと決めていた。それに隣に来られると無駄に緊張するからやめてほしい。大人しく座っていてくれたらいい。簡単なものしか作れないけど、失敗のないチャーハンと餃子にした。そういえば誰かに手料理を振舞うのは初めてかもしれない。あ、なぎさにはよく作ってやるけど。あれは身内だから別だ。姫乃さんはソファで人形のように綺麗に座っていた。 出来上がったチャーハンと餃子の皿をテーブルに並べると、とたんに嬉しそうな顔をする。「すごい、大野くん料理男子だね」「今時の男は作れて当たり前でしょ?」「そうなの? しっかりしてると思う」うんうんと頷きながらチャーハンを食べている。頬っぺた落ちちゃいそうとか言いながら頬を押さえる仕草は、綺麗と表現するのは違う。なんというか、とても可愛らしい、みたいな。 ほらまた、綺麗から可愛いに変わった。「姫乃さんがぼんやりしすぎ」「私、ぼんやりしてる?」きょとんとするので、俺は大きく頷く。 これがぼんやりしてないで、何だって言うんだ。すると姫乃さんは目をキラキラさせながらくしゃりと笑った。「うわー。初めて言われた。なんか嬉しい」なぜそこで喜ぶのか、意味不明。「変なの」「だって、まわりのみんなは私を完璧とか高嶺の花とか言うの。全然そんなんじゃないのに、どんどん話が大きくなっていく。私がちゃんと否定できたらいいんだけど、なんかタイミング逃しちゃうっていうか、流されるというか」確かに見た目は完璧で高嶺の花だと思う。俺も見ているだけならそう思っていたかもしれない。だけど姫乃さんを知れば知るほど、いい意味で綻びというのかボロが出るというのか、とにかくこの人はふわっとしていて隙だらけだ。「そういうところがぼんやりしてるよね」言えば、またくしゃりと笑った。 どうやら嬉しがっているようだ。
自分でもなぜそんな約束を取り付けたのか、理解しがたい。 姫乃さんと、毎日一緒に夕食を食べるという約束。ただなんとなく、姫乃さんを誰かにとられたくない独占欲が働いて……。って、まるでそれでは俺が姫乃さんを好きみたいじゃないか。だけど姫乃さんが会社では見せない表情をくるくる見せるたび、ドキリと胸が高鳴る。この人は本当はどんな人なのか、知りたくなる。もっと暴きたくなる。仕事中の姫乃さんはやはりいつも通りの姫乃さんで、姿勢よく真面目に業務に取り組んでいた。見た目、優等生タイプ。まわりの男性陣が姫乃さんの近くを通るたびにチラ見していく。「今日も綺麗だな」「俺たちの癒し」そんなことを呟きながら。 それには俺も同意する。姫乃さんは綺麗なのだ。柔らかい雰囲気が、見てるだけで癒されるし。定時を過ぎても姫乃さんは凛として仕事をしている。姿勢が崩れないのはすごいと思うけど、あれは世界に入って戻ってこないやつじゃないか?「姫乃さん、何時までやります?」「え? あっ! もう定時越えてる?!」声をかければ案の定、時計を見て驚く。完全に世界に入っていたな。 姫乃ワールド面白い。夕飯一緒に食べようと言ったら、頷きながら頬を赤らめた。 そんな姿が少しいじらしく感じられて、嬉しくなった。
本当に、彼氏ってどうやってつくるんだろう。つくりかた、わからない。「今まで人を好きになったことないんですか?」「うーん……」どうだっただろうか。いいなって思った人はいたような気がするけれど、恋愛に発展だとかそういうの、全然ない。比較的早くから私には彼氏がいるって思われてたから。大野くんは顎に手を当てて考えるような素振りをしてから、ふうと息を吐きだした。「しょうがないな、じゃあ俺が彼氏になってあげますよ」「ええっ!」何? 何? どういう状況? 大野くんが彼氏に? ちょっと待って、思考が追い付かない。わたわたしている私に、大野くんはクスリと笑う。「いろいろ練習したいでしょ?」「練習?」「恋人ができたときの練習ですよ」恋人ができたときの練習……!た、確かに、何をしたらいいかわからないから、それはありがたいかもしれない。私のダメなところもいろいろ指摘してほしい気がするし。でも、いいのかな? そんな後輩に甘えるようなことしちゃって。大野くんをおずおずと見ると、頬杖をつきながら余裕の表情で私の答えを待っている。大人だ。どう考えても私より大人。後輩なのに。「えっと、じゃあよろしく、オネガイシマス」私の答えに、大野くんは満足そうに微笑んだ。「さっそくですが今週の日曜日、デートしましょう」「でっ、デート?! ど、どこへ?」「どこがいいです? 姫乃さん行きたいところあります?」デートだなんて、と思いながらも行きたいところがピーンと閃き、私は、はいっと手を挙げた。「ある! あります!」前のめりな私に、大野くんはまた楽しそうに笑った。
嬉しくなって餃子もチャーハンも余計美味しく感じた。 ぼんやりって褒め言葉ではないけれど、高嶺の花なんて言われるよりよっぽどいい。元々ちやほやされるのは好きではないから。「ねえ、大手企業のエリート彼氏がいるって?」「ぐっ!」突然の言葉に、餃子が喉に詰まりそうになった。「同棲を始めて結婚も秒読みなんだ?」「げっほっ!」むせる私に、大野くんは冷静にお水を渡してくれる。コクコクと一気に飲んで喉のつっかえを取ってから、私は慌てて両手で顔を覆った。…………これは……完全にバレてる、よね。大野くんはおかしそうにクスクス笑う。どうやらすべてお見通しのようだ。恥ずかしい。けど、嬉しい。いや、恥ずかしい。どっちだろう。彼氏がいるって勘違いされてるのが嫌だったはずなのに、バレたらバレたで恥ずかしい。自分の矛盾した気持ちがよくわからない。「そうだよ、彼氏いないもの」「別にいいんじゃないですか? 何か問題でも?」「だって私もういい年だし、いい加減彼氏作らないと行き遅れちゃうよ」いや、本当に。 アラサー独身彼氏なし。 これだけですでにじゅうぶん行き遅れ感が半端ない。「じゃあ作ればいいじゃん」大野くんはあっけらかんと言う。それができたら苦労しないのに。「どうやって? 彼氏ってどうやったらできるの?」真面目に聞いたのに。「姫乃さんマジで言ってます? 今まで誰かと付き合ったことないんですか?」私はとたんに顔が赤くなった。 彼氏いない歴イコール年齢の私。経験も知識もゼロに等しいのだから、大野くんが呆れるのも無理はない。やばい、恥ずかしい。