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第1179話

Author: 楽恩
駿弥は幼い頃から訓練漬けの生活で、周囲はほとんど男ばかりだった。

当時、桜坂家は不安定な状況にあり、彼の関心はすべて「どうやって早く成長するか」に向いていた。

身近にいた数少ない女性は、家族の女性たちだけだった。

記憶をたどると、たしかに一人だけ印象に残っている少女がいた。

ある任務中に救出した女の子だった。

彼女のことで一番記憶に残っているのは、あんな状況でも泣かなかったことだ。

そして、彼を見た瞬間に笑って、こう言った。

「お兄ちゃん、すっごくかっこいいね」

彼女は両親に売られた子だった。女の子だったから。

弟が三人もいて、お金が必要だったという。

送り届けに行ったとき、家族はまったく喜んでいなかった。

売るつもりがまだあったのを察して、しばらく桜坂家で預かることになった。

その後、彼女は進学して、二度と会うことはなかった。

その頃、桜坂家も混乱の最中で、住まいも山口から東京に移っていた。

月日が流れるうちに、いつの間にかその記憶も薄れていった。

もしかしたら、彼女は今、幸せな人生を歩んでいるかもしれない。

「いないよ」駿弥は少し考えたあと、正直にそう答えた。

「……」

この返事は、ある意味ではやりやすいし、ある意味ではやりづらい。

紀香は、あとで来依にも相談してみようと決めた。

清孝は一晩中眠れなかった。

資料を何度も読み返しても、新しい発見はなかった。

とにかく、義兄にはすでに嫌われた。

だったら、今さら態度を変える必要もない。

紀香は、どうしても取り戻す。

「お兄ちゃん」春香が書斎のドアを押して入ってきて、顔をしかめた。

「タバコで死ぬ気?」

清孝は煙草や酒を嗜むが、依存するほどではない。

酒は付き合いで必要なときだけ。

煙草が一番ひどかったのは、紀香と結婚していた三年間だった。

心配していたのに、ずっと傍観していただけ。

自らを追い込むしかなかった。

「これから、どうするつもり?

桜坂家の今の力じゃ、紀香ちゃんを無理やり連れ戻すのは簡単じゃないよ。

それに、来依も本宅に来て、紀香のために動いてる。お兄ちゃんの病気が嘘だったことも知ってるし、彼女も止めにかかると思う。

今のお兄ちゃんは、完全に四面楚歌だよ」

清孝はふっと笑った。指先で机を軽く叩きながら、窓の外をじっと見つめた。

しば
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