「――あのね、純也さん。そろそろ本題に入ろうと思います。……わたしがあなたからのプロポーズをお断りした、ホントの理由なんだけど」「……はい。どうそ」 ずいぶんと前置きが長くなってしまったけれど、愛美はやっと重い口を開くことにした。これを話さないことには、今日ここへ来た意味がない。……でも、その間に愛美の方の疑問は解決したのだけれど。「わたし、もちろん施設出身だったことに負い目もあったんだと思うけど。ホントの意味で経済的にも自立しないと、純也さんの結婚相手としてふさわしくないって思ってたの。だから、純也さんに負担してもらった分のお金を全額返してやっと、あなたと対等な立場になれるから、それからじゃないと結婚できないって思った。……でも、そんなんじゃいつになったら結婚できるか分かんないよね」「……ああ、そうだよな。じゃあ、それがプロポーズを断った本当の理由?」「うん。でもね、わたしはジュディと同じだから、大好きな人と家族になりたい。ジュディがジャービスのことを大切な人だと思ったみたいに、わたしも純也さんのこと、わたしのこれからの人生にとって大切な人だと思ってる。だから……お断りしたことは撤回させて下さい。これからもずっと、あなたの側にいたい。それがわたしの本心です」 言葉を大事にする作家という職業ながら、愛美はつっかえつっかえ自分の想いを彼に伝えた。でも、十九歳の彼女にとってそれが精いっぱいだ。「…………それは、俺と結婚してくれるってことでいい……のかな?」「うん。改めて、あなたからのプロポーズをお受けします。これからもよろしくお願いします」「ありがとう、愛美ちゃん。本当にありがとう! いやぁ、嬉しいよ! よかった……」 愛美は今度こそ、嘘いつわりのない自分の本当の気持ちで、彼にプロポーズの返事を伝えることができた。そして、彼女にはもう一つ、彼に伝えたい想いがあった。「純也さんにはこれからも、わたしにとっての〝あしながおじさん〟でいてほしい。だから……、また時々は手紙書いてもいいかな? ジュディみたいに、〝あしながおじさん〟宛てで」「もちろんいいよ。ただし、表書きはちゃんと俺の名前にしてね。郵便局員を困らせちゃダメだぞ?」「分かってます」 純也さんは多分、愛美をからかっているんだろう。だから、口を尖らせながらも愛美は笑った。「愛美ちゃん、俺
「……なんだ、わたしと同じだったんだね。実はわたしも、ジュディと自分を重ねてたの。あなたが茗倫女子に進学させてくれるって分かったあの日まで、『こんなこと、自分に起こるわけないよなぁ』って思ってたんだ。こんなの、物語の中だけの話だって」「そうか……。まあ、現実にあのとおりのことが起こるなんて思わないよな」 そう、純也さんが学校を訪ねて来るまでは、愛美もただの偶然だと思っていたのだ。「ところで、俺からも一つ、君に訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」「うん。なに?」「ジュディは〝あしながおじさん〟のことを老紳士だと思ってたのに、君は最初から若いって信じて疑わなかったろ? あれはどうして?」 確かに、物語の中でジュディは、最後の最後まで〝あしながおじさん〟のことを老紳士だと思っていた。ジャービスの家で、彼が正体を明かすまでは。「それはね、初めてあなたのシルエットを目にした時に、『あれ? この人、まだ若いんじゃない?』って思ったからだよ。だからずっと、『〝あしながおじさん〟は若い人なんだ』って思ってきたの。純也さんがその正体だって分かった時、『ああ、やっぱり』って思った。っていうか、何となくは正体にも気づいてたんだけどね」 それは、愛美が小さい頃から『あしながおじさん』の物語を読み込んでいたからかもしれない。だから自然と、純也さんのことをジャービスと重ね合わせて「この人が〝あしながおじさん〟なんだ」と思ったのだろう。「それに、純也さんがウッカリしすぎてたせいでもあるんだよ。うまく正体を隠してたつもりでも、しょっちゅうボロ出しまくってたから。自覚ないでしょ?」「あれ? 俺、そんなにボロ出しまくってたかな……」「ほらね、やっぱり自覚ないじゃない」 純也さんが頭をポリポリ掻くのを見て、愛美は愉快そうに笑った。「そういえば、久留島さんってすごくいい人だね。わたしもあの人には感謝しかないよ。表立って動けないあなたの代わりに、わたしのために色々してくれて。ジュディは秘書のグリグスさんのことを嫌ってたけど、わたしは久留島さんのことキライになれないな」 多分、ジュディもただグリグスさんのことを誤解していただけで、彼もいい人だったんだろう。あの物語の後、誤解は解けたんだろうか?「ああ、久留島さんは俺の父親代わりみたいな人だからね。母同様、父にもいい感情は抱い
分かってみれば単純な理由だったけれど、愛美は納得した。それにしても、まさか彼が両利きだったなんて。 その後も、彼は愛美から届いた手紙を一通も漏らさずファイルしていた。バレンタインデーに、久留島さんに贈ったマフラーに添えた手紙もその中に含まれている。「そういえば、久留島さんがあのマフラーをすごく喜んでたよ。今年の冬も使ってた」「そうなの? よかった。今年のバレンタインデーは何もできなくてごめんね」「気にしないでよ。あの頃は愛美ちゃん、忙しかったもんな。それは俺もちゃんと分かってたから何も言わなかったんだ」「そっか。気遣ってくれてありがとう」 実はそのことを気にしていた愛美は、純也さんにそう言ってもらえてホッとした。 バレンタインデーの頃といえば、ようやく出版されることが決まった最新作――〈わかば園〉が舞台の長編小説の執筆が佳境に入っていた頃だった。学年末テストもあったし、愛美はその頃ものすごく忙しかったので、彼もそのあたりの事情を察してくれていたんだろう。 ――すべての手紙に目を通し終えた愛美は、アイスティーを一口飲んだ後に口を開く。彼にどうしても訊ねたいことがあったのだ。「ねえ、純也さん。あなたは女の子が苦手だったんだよね? なのに、どうしてわたしを援助することにしたの? どうしてもわたしを助けたかった理由があったはずだよね?」「その理由は……これだったんだ」 彼はリビングの本棚から、一冊の文庫本を取り出して愛美に差し出した。それは愛美も幼い頃から大好きで、今も愛読書となっている作品。翻訳した人こそ違っているけれど。「これって……、『あしながおじさん』! わたしも同じ本持ってるよ。……でも、男の人でこの本を読んでる人って珍しいかも」「やっぱりそう思うよな。でも、俺も子供の頃からこの作品が好きで、愛美ちゃんほどじゃないけど何冊か集めて読み比べをしてたこともあったんだ」「そっかぁ」 純也さんも読書が好きだということは前に聞いていたけれど、『あしながおじさん』を愛読していたことまで共通していたなんて。愛美は彼に対してさらに親近感が湧いた。「でね、いつからだったか、自分とジャービスを重ねるようになったんだ。境遇も似てるしね。だから、俺も彼と同じようなことができるかもしれないって、大人になってからは考えるようになって。それでわかば園の理事を
――最初のページに収められているのは、愛美が初めて送った手紙だった。便箋二枚分に書かれた手紙と、封筒も一緒にファイルされている。どのページも同じだった。「……あ、この手紙も取っておいたの? 『シュレッダーしちゃって』って書いたのに」 ページをめくっていた手をピタリと止め、愛美は頬を膨らませた。そこに収まっているのは、〝構ってちゃん〟になっていた愛美が出した一通。さんざん憎まれ口を書き綴ったあの手紙だった。「ごめん、愛美ちゃん。でも、俺にとってはこれも君の大事な成長の一部分だから」「わたしにとっては、書いたこと自体が黒歴史なのに」 その次のページは、インフルエンザで入院していた時に病室から出した――正しくはさやかに出してきてもらった手紙だった。 ****『拝啓、あしながおじさん。 わたしってホントにバカですね。自分でもそう思います。 先週出したあの最悪な手紙のこと、なかったことにしてもらえませんか? あれを書いた時のわたしはもうネガティブモード全開だったうえに、喉が痛くて熱っぽかったんです。 具合が悪かったなんて自分では気づいてなくて、あの手紙を出した翌日に四十度の高熱を出して付属病院に運ばれました。インフルエンザに感染してて、そのせいで高熱が出てたみたいです。 感染症なので個室に入院してて、今日で一週間になります。やっと熱が三十七度台まで下がったので、ベッドを起こしてもらって、点滴も外してもらいました。手紙を書きたいってお願いしたら、「また熱が上がるかもしれないから、あまりムリに長く起きていないようにね」って看護師さんから言われました。 わたしはどうしてあんな手紙を書いちゃったんだろうってずっと後悔してて、おじさまが許して下さるまで病気もよくならない気がしてます。まだ喉が痛くて、お粥もあまり喉を通ってくれないくらいです。 あんなことをしちゃったから、バチが当たっちゃったのかな。こんなわたしですけど、どうか許して下さい。 ちょっと頭がボーッとしてきました。今日はこれ以上書けそうにありませんので、これで終わります。 かしこ二月二十七日 入院中の愛美より』**** 「――純也さんは、こうやって全部の手紙をちゃんと読んでくれてたんだね。だから、わたしがインフルエンザで入院してるって分かって、お見舞いにあんなキレイなフラワーボッ
* * * *「――愛美様、一つお願いしたいことがあるのですが」「はい」 二十七階でエレベーターを降りた後、廊下を進みながら久留島さんが愛美に言った。「純也様はこのごろ大変多忙でございまして、本日もその中でやっとお時間を作られたのでございます。ですので、あまり長居されないとこちらとしても助かるのでございますが……」 久留島さんが純也さんのことを本当に大事に思っていることが分かり、もちろん純也さんの都合も最優先に考えたい愛美には、もちろんそれを拒むつもりはなかった。「もちろんです。わたしも寮の門限があるので、そんなに長くいるつもりはないですから」「さようでございますか! それはありがたく存じます。――さ、着きました。こちらが純也様のお住まいでございます」 久留島さんは玄関のインターフォンを押し、返事があると「純也様、久留島でございます」と呼びかけた。「愛美様が参りました」『ああ、分かった。今開けるから』 インターフォンがプツンと切れると、中からドアが開いた。「やあ、愛美ちゃん、いらっしゃい。どうぞ、中に入って」「おじゃまします。――あれ? 久留島さんは入られないんですか?」 愛美は玄関へ足を踏み入れたけれど、久留島さんが中へ入ろうとしないので思わず首を傾げた。「では純也様、私はしばらく外しますので。愛美様がお帰りになる頃にまたお呼び下さいませ」「分かった。彼女に飲み物を出すのは僕が自分でやるから、どこかでゆっくり時間を潰してくるといいよ」「はい、では失礼致します」 久留島さんが退出していった後、愛美はリビングに通されてからチラリと玄関を振り返った、何だか彼に申し訳ない気持ちになる。「……いいの、純也さん? 久留島さんを追い出しちゃって」「いいんだよ。あれは、俺とまなみちゃんを二人きりにしようって、彼が気を利かせたんだろうから、気にしなくていい」「そっか……」「どうぞ、ソファーにでも座って。何か飲む? ストレートのアイスティーでいいかな? 今日は蒸し暑いからね」「うん、ありがとう」 純也さんは二人分のアイスティーのグラスを運んできた後、またフラッとどこかへ行ってしまう。愛美は先に飲み物に口をつけながら、彼が戻ってくるのを待った。(そういえば、手紙に「君に見せたいものがある」って書いてあったから、多分、今はそれを取
* * * * ――そして、翌週土曜日の午後。いよいよ純也さんの家を訪問する日がやってきた。「それじゃ、さやかちゃん、珠莉ちゃん。行ってきます!」 寮の食堂で昼食を済ませ、外出の支度をした愛美はルームメイトで親友の二人に声をかけた。「うん、気をつけて行っといで」「愛美さん、門限までには帰って来られるんですわよね?」「もちろんだよ、珠莉ちゃん。そんなに遅くまではいないよ。わたし、純也さんにちゃんと自分のホントの気持ち、伝えてくるね。――じゃあ、行ってきます」 愛美はこの日のために、前もって外出許可をもらっていた。その条件が「門限までに寮へ帰ってくること」だった。 純也さんは良識のある人なので、まだ女子大生である愛美を遅くまで引き留めはしないだろう。 寮を出発した愛美はまず地下鉄でJR新横浜駅まで出て、そこから新幹線に乗り換えた。そのチケットももちろん予約しておいたものだ。 品川駅で新幹線を下車し、あとはスマホのナビアプリを頼りにして電車を乗り換え、東急線の二子玉川駅で降りた。ここが、純也さんが住んでいるマンションの最寄り駅らしい。 駅前からナビアプリを頼りに歩くこと二十分、ようやく辿り着いた三十五階建てのタワーマンションはその外観から高級感が漂っていて、愛美はとにかく圧倒されていた。「ここかぁ……、立派なマンション……」 彼が住んでいるのは最上階のペントハウスというわけではないらしいけれど、それでも二十七階は超高層の部屋である。賃貸なのか買ったのかは分からないけれど、どちらにしても決して安くはないだろう。 なかなかエントランスへ踏み込む勇気が出なくて、しばらくは近くをウロウロと歩き回っていた愛美は、一人の初老の男性に声をかけられた。「――失礼ですが、相川愛美様でいらっしゃいますでしょうか?」「あ……、はい。そうですけど」 その穏やかな声色に、愛美は聞き覚えがあった。「あの……もしかして、あなたが久留島さんですか? いつかはお電話を下さってありがとうございました」「はい、私が久留島でございます。さ、マンションの中へどうぞ。ボスが――いえ、辺唐院純也氏がお待ちでございます」 愛美はようやく、オートロックの鍵を持つ久留島さんと一緒にマンションのエントランスの自動ドアを抜けた。コンシ