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第1388話

Author: 夏目八月
夕美は音無楽章を訪ねることはしなかった。以前の自分なら、厚かましくも「彼は西平大名家の血筋なのだから、一族に災いが降りかかれば助けるのは当然」と考えたかもしれない。

しかし今は違った。道理が分かるようになっていた。西平大名家が栄華を極めていた頃、彼はその恩恵を一切受けていない。なのに今、一族が没落すると助けを求めるなど。

そんなことはできなかった。

三姫子に相談すべきかどうかは非常に迷うところだった。どんな事情があろうと、兄が死ぬのを望んではいなかったから。

槐の木陰で、夕美は長い間ぼんやりと座り込んでいた。

石鎖が絹糸の入った籠を抱えて歩いてくるのが見えた。夕美の姿を認めると、あからさまに道を逸らそうとする。

先ほどの誤解を思い出し、夕美は慌てて声をかけた。「石鎖さん、さっきのことは申し訳ありませんでした。そんなつもりではなかったんです」

石鎖は一瞥をくれただけだった。「ふん」

そのまま立ち去ろうとする。

武芸界の女子たちは気性が真っ直ぐで、込み入った思惑など持たないだろう。そう考えた夕美は声をかけた。「石鎖さん、少しお話しできませんか?」

石鎖は足を止め、ためらった後、槐の木下の板張りの腰掛けに並んで座った。「何の用?」

夕美は一瞬どう切り出していいか分からず、彼女が抱えている絹糸に目をやった。「お買い物?」

「清家夫人が使いに持たせてくださったのよ。受け取りに出ただけ」

「清家夫人はお優しいですね。いつも工房のことを気にかけてくださって」夕美は上の空で褒め言葉を口にした。

「皆さん親切よ」

「そうですね」

「で、何が言いたいの?」石鎖が問いかける。やることは山ほどあるのだ。

夕美は苦笑いを浮かべた。「ただの世間話で、特に……ああ、そういえば、あなたと篭さんは工賃を受け取らずに、ここで手伝いを続けていらっしゃるとか。永平姫君様のお側にいた時も無償だったと聞きましたが、損だとは思われませんか?」

「私たちは姫君をお守りできなかった。誓いを果たせなかったのに、どの面下げて工賃なんてもらえる?」

「誓い?」夕美は首をかしげた。「どんな誓いを?」

「しっかりお守りするって誓いよ。果たせなかったんだから、工賃なんてもらう資格はない」石鎖は同じことを繰り返すのを嫌う性分で、忍耐にも限りがある。「他に用がないなら、私は作業に戻るから」

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