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第1640話

Author: 夏目八月
宮中を退出する際、太后は内藤勘解由に命じて母娘を慈安殿の門まで見送らせた。さくらはその機を逃さず、内藤にそっと書状を一つ手渡す。「恐れ入ります、内藤殿。これを太后様へお渡しいただけますでしょうか」

内藤は一瞬きょとんとした。「上原お嬢様、どうして先ほど直接お渡しにならなかったのでございます」

さくらは母の腕を支えながら、穏やかに答える。「太后様への感謝の言葉なのですが、私、口下手でうまくお伝えすることができず……それで、筆をとった次第にございます」

内藤は納得したように微笑んだ。「なるほど、さようなことでございましたか。承知いたしました。この私が、確かにお取次ぎいたします」

その日の午後、さくらは棒太郎とお珠を伴い、すぐに関ヶ原へと旅立った。出立に先駆け、紫乃と饅頭たちにも書状を送り、同じく関ヶ原へ向かうよう指示してある。

関ヶ原での守城の戦いが始まる前に、かの地へ到着せねばならないのだ。

彼女が太后に託した書状は、感謝の言葉などではなかった。そこには、諸国を旅する姉弟子の水無月清湖が、平安京で激しい内紛が起きていることを突き止め、敵方がこの大和国との戦に乗じて策を弄しようとしている、と記されていた。

太后は普段、政に関わることはない。しかし、ことの重大さを鑑み、もしこの情報を信じてくだされば、必ずや天皇のもとを訪れて相談されるはずだ。天皇は太后を深く敬い、信頼しておられる。そうなればきっと、平安京に潜ませた密偵に伝書鳩を飛ばし、真相を確かめさせるだろう。

前の人生よりも僅かでも早く関ヶ原へ援軍を差し向けることができたなら、あれほどの苦戦を強いられることも、あれほど多くの将兵が命を落とすこともなくなるはずだ。

さくらたち三人が関ヶ原へ到着した頃には、両国の小競り合いはすでに始まっていた。だが、まだ大規模な合戦には至っていない。

佐藤家の人々はさくらの来訪を喜んだものの、彼女の父兄の犠牲を思い起こし、胸を痛めずにはいられなかった。

実家の様子を尋ねられ、さくらが万事変わりないと答えるのを聞いても、皆、本当にそうであろうか、と内心では思っていた。

さくらは幾度となく涙をこぼした。一つには、父と兄の話が出たから。もう一つには、七番目と三番目の叔父が無事な姿で目の前にいるのを見たからだった。

外祖父母もまた、健在であった。

夜の会食の後、さくらは
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