永名の顔がたちまち険しくなった。彼は美穂に対して、ずっと後ろめたさを感じており、彼女には少しの苦労もさせたくないと思ってきた。そして彼女があの二人の孫をどれだけ恋しがっていたか、永名自身がいちばんよく知っている。国内にいた頃から、彼女は何度も「孫たちに会いたい」と言っていた。まさか、あの小さかった子たちが、こんなにも手のつけられない子になっているとは――やはり、桃は思っていたよりも、ずっと手ごわい女なのかもしれない。子どもたちを育てながら、少しずつ誘導していたのではないか?菊池家に対する反発心を、知らぬ間に植えつけていたのでは?だからこそ、五歳の子どもがあんなふうに家族に手を上げるなんてことが起きたのだ。「……なんてことだ。こんなことになるなら、もっと早く連れ戻すべきだった。桃にどれだけ影響を受けたのか分からんが、今後はしっかり教育し直す必要がある。もう二度と、あんな危険なことをさせるわけにはいかん」そう言いながら、永名は今後の教育方針をすでに頭の中で練りはじめていた。雅彦は眉をひそめた。何か言おうとしたとき――隣の部屋から、物が落ちる大きな音と、怒ったような子どもの声が聞こえてきた。「こんなもん、いらない!お前らが持ってきたごはんなんて食べない!」「家に帰らせてくれなきゃ、ずっと絶食だ!ぜったいについてなんかいかないから!」小さな体から絞り出すような、でも芯のある強い声が、開いたドアの隙間から響いてきた。美穂はそれを聞いて、肩をすくめるように苦笑した。「お腹が空いてるだろうと思って、何度も好きなものを運ばせたのよ。でも全部、叩き落とされて、ボロボロ。人まで追い出すんだから……あの子たち、本当に根性がすごいわ」「俺が行くよ」雅彦は静かに立ち上がった。あの子たちが「絶食」と言ったら、本当に何も食べずに意地を張り続ける子どもたちなのだ。彼自身もよく分かっている――その頑固さは、自分にも桃にもよく似ているから。雅彦がもう疲れているだろうと、美穂は一度止めようとしたが、永名が制した。「行かせてやれ」どれだけ時間が空いたとはいえ、やはり雅彦はあの子たちの父親だ。それに、これまでの付き合いもある。子どもたちとの距離は、自分たちよりもずっと近いはずだった。雅彦が部屋に入ると、そこはひどい有様だった。容器に入った料
雅彦はそれ以上、何も言わなかった。ただ、灯りの下で眠る桃の顔を見つめる。その頬は血の気が引き、薄く浮かんだ傷と血の跡が、どこか痛々しくさえ見えた。けれどもう、それを気にかける立場じゃないのかもしれない。永名が見ているのを感じて、雅彦は桃に背を向け、その場を離れた。永名は佐俊の手術を見守るようも指示を出したあと、すぐに雅彦を追いかけた。佐俊もまた孫ではあるが、幼い頃から育ててきた雅彦ほど深い情はない。命が助かっただけで十分なのだ。それ以上のことまで、手を出す気はなかった。外に出ると、永名は車に乗ろうとする雅彦を止めた。「おまえ、今の状態で車を運転するつもりか。さあ、一緒に行こう。お母さんに会ってやれ」そう言うと、永名は雅彦の腕を引き、近くに停めてあった車に乗せた。雅彦は抵抗せず、無言で助手席に座った。だが、車が走り出しても、彼の心はまるでどこかへ置き忘れてきたかのように、空っぽだった。心の中の大事な何かがごっそりと抜け落ちて、喜びも悲しみも、何もかも一緒に失くしてしまったかのようだった。永名はそんな彼を見て、深いため息をついた。ほんとに呆れた因縁だよな。だが唯一、これでその因縁がやっと終わったのだと思えば、案外悪くないことなのかもしれない、とも思った。……その頃、香蘭は何度も電話をかけていた。だが、菊池グループの誰ともまともに話せず、ようやくつながっても、はぐらかされてばかり。桃の居場所は誰も教えてくれないし、翔吾たちを探してくれる人もいない。香蘭は焦っていた。子どもたちが連れ去られてから、ずいぶん時間が経ってしまった。あの子たちが、もう我慢できずに暴れ出しているんじゃないかと心配でならなかった。特に翔吾は気が強い子だ。何か無茶なことをして、自分を傷つけたりしないか……どうすればいいのか分からず、香蘭は明日、菊池グループのビルの前に行くしかないと思った。土下座してでも、怒鳴ってでも、何でもいい。子どもたちを取り戻せるなら、恥なんてどうでもよかった。……永名は雅彦を連れてホテルに戻った。美穂は彼が帰ってきたと聞き、愛する息子の様子を確かめに急いで部屋へ向かった。そこで見たのは、無精ひげを生やし、目の下にクマを作った、すっかりやつれた雅彦の姿だった。たった数日で、まるで何年も老け込んだように見えた。美
車は静かに夜道を走り続けていた。ヘッドライトだけが夜を切り裂き、狭い車内には、息が詰まるような重苦しい沈黙が漂っている。桃はいつの間にか、頭を傾け、眠りに落ちていた。いや、眠ったというより――意識を失っていた。朝から何ひとつ口にしておらず、しかも、あまりにも多くのことが一気に押し寄せた。不倫を疑われ、無理やりこの場所へ連れてこられ、子供たちを奪われ、さらには狼に襲われかけた――たった一日で、心も体も限界を超えていた。助手席から聞こえる静かな寝息に気づいた雅彦は、彼女が眠ってしまったことに気づくと、無意識のうちに、彼は彼女の頭を支えようと手を伸ばしかけた。けれど、次の瞬間、はっと我に返り、その手をさっと引っ込める。雅彦はふと、自嘲するように笑った。なんて馬鹿な真似をしているんだ、この女は――自分を裏切った女だ。それでもなお、こうして彼女を気遣わずにはいられない。自分は、きっともう狂っている。でなければ、よほど哀れな男なんだろう。けれど、長年染みついた習慣というのは、そう簡単に消せるものじゃない。そう思いながらも、雅彦はいつの間にかアクセルを緩めていた。さらに三十分ほど経った頃、車はようやく病院の正面に到着した。その頃には、永名はすでに、佐俊を急いで救急処置室へと運び込んでいた。雅彦は少し迷った後、桃の肩に手を置いて軽く揺さぶった。「起きろ。……着いたぞ。降りろよ」しかし、桃はまったく反応しなかった。声どころか、わずかな動きすらない。雅彦の表情が一瞬で変わった。彼女の額に手を当てた瞬間、熱がじわっと伝わってくる。……高熱だ。それに気づいたとき、彼女の身体が小さく震えた。車内は冷えてなどいないのに、まるで雪山の中にいるかのように、身を縮こまらせていた。「さむ……い……寒いよ……」桃の唇から、苦しげな寝言が漏れる。夢の中でさえ苦しそうに呟く桃の姿に、雅彦は奥歯を噛みしめた。心が揺らいだ。けれど、彼はすぐに冷静さを取り戻す。――いや、もう関係ない。この女をこれ以上気にする必要はどこにもない。そう自分に言い聞かせながら、携帯を取り出した。香蘭に連絡して、桃を引き取らせようとしたのだ。だがその瞬間――「……痛い……雅彦……」桃がかすかに声を上げた。その名を呼ばれた瞬間、雅彦の動きが止まった。信じられない、と思
昔なら、雅彦はいつもそうだった――桃のシートベルトをやさしく締めて、ちゃんと座ったのを見届けてから車を動かす。そんな細やかな気遣いを、彼は当たり前のようにしてくれていた。けれど、今はもう違う。たった数日で、すべてが変わってしまった。とはいえ、桃もその変化にいちいち心を乱されるほど、暇ではなかった。もう、そんな細かいことを気にする余裕なんてない。「雅彦……翔吾と太郎を菊池家に連れ戻すって。私、どうしても受け入れられない。お願い、お願いだからあの子たちを連れて行かないで」ハンドルを握る雅彦の目線は、前方にまっすぐ向けられていたが、その言葉を聞いた瞬間、ハンドルをぎゅっと強く握りしめた。彼はてっきり、桃が素直に車に乗ったのは、自分に何か弁明をするためか、あるいはこれまでの愚かな行動を詫びるためだと思っていた。まさか――ただ子供たちの親権を求めるためだったとは。やっぱり、自分なんて、彼女にとって何の意味もないんだ。言葉にならない憎しみが、胸の奥で静かに膨らんでいく。雅彦の声は冷え切っていた。「君がその結果を受け入れられるかどうかなんて、もう誰も気にしない。父さんと母さんが決めたことだ。だったら、俺がそれに逆らう理由もないだろ」「子どもたちから母親を引き離すつもりなの?あなたも、同じ痛みを知ってるはずなのに……どうして?」桃の声には、言いようのない絶望が滲んでいた。雅彦が、永名の決定をまるで当然のことのように受け入れていることに、桃は愕然とした。だったらどうすればいい?すでに連れていかれた子供たちを、どうやって取り戻せばいいのだろう?「父親がいなくても、今までちゃんと育ってきた。それに何より、あの子たちは俺の子だ。だったら、他の男をパパなんて呼ばせるわけにはいかない」「じゃあ、代わりに、誰か別の女にママって呼ばせるの?」桃はシートベルトを強く握りしめ、苦しげに声を上げた。もう、どうしたらいいのか分からなかった。どうすれば、この地獄のような状況を変えられるのか。そして彼女は悟った。菊池家の人間たちの前では、自分がどれほど無力かを。もし雅彦が助けてくれなければ、自分には何ひとつできないのだ。「安心しろよ」雅彦はかすかに笑った。だがその笑みには深い影が差していた。「こんな愛に失敗した後じゃ……もう他の女と結婚する気なん
桃には、雅彦がどうしてそんな結論に至ったのか、まったく理解できなかった。それでも彼女は必死に説明を試みた。「彼はさっき、あの狼の攻撃から私を庇ってくれたの。もしあのとき彼がいなかったら、私は喉を噛み切られて、その場で死んでいたはず。だから、見殺しにはできなかったのよ……」しかし、雅彦は聞き入れなかった。「じゃあ、俺は?俺はどうなんだ?」彼は唐突に歩み寄ると、両手で桃の肩を強く掴み、骨を砕かんばかりの力で締め上げた。「俺だって、お前のためにいろいろしてきた。なのに、なぜお前は少しも、心を動かされたことがないんだ?」桃は唇を動かし、何かを言おうとしたが、声が出なかった。一度何かを思い込んだ人間には、何を言っても無駄なのだ。どんなに真実を語っても、ただの言い訳としてしか受け取られない。自分は、彼を裏切ったことなど一度もない。これまで雅彦が自分にしてくれたことだって、桃は誰よりも深く心に刻んでいる。だからこそ、母の反対を押し切ってまで、一緒になることを選んだのだ。それなのに――いま、雅彦の目には、全てが偽りにしか映っていない。「……」桃が何も言い返さないことで、雅彦は反論すらできないと、都合よく受け取った。彼の唇に浮かんだのは、ひどく冷たい、自嘲めいた笑み。肩を掴む力がさらに強まり、桃の顔色はみるみる青白くなっていった。そのとき――ヘッドライトの灯りが闇を裂くように差し込んできた。そこへ、永名が人を連れて駆けつけた。先ほどは雅彦と激しく言い争ったばかりだったが、何だかんだ言っても親子だ。怒りに任せて息子が正気を失い、万が一にも取り返しのつかないことをしでかすのでは――そんな不安が頭をよぎり、急いで後を追って来たのだった。車を降り、目の前の光景を目にして、思わず眉をひそめる。何かを言いかけたそのとき、後ろで待機していた部下が、地面に倒れて意識を失っている佐俊を発見した。「永名様、ここにいました」永名が歩み寄り、その惨状に、さすがに胸を痛めた。どれだけ遠ざかっていたとはいえ、やはり菊池家の血を引く者。親として育てたわけではないが、その血の繋がりは否定できない。「すぐに車へ運べ!病院へ!」時間を無駄にすれば、佐俊の命に関わる――そう判断した永名は、雅彦との争いを一旦後回しにして、すぐに人を呼び、佐俊を車へと運ばせた。「雅
桃は一瞬、呆然と立ち尽くした。まさか、佐俊が自分のために身を挺するなんて――想像すらしていなかった。けれど、佐俊の言うとおりだった。桃は力の入らない身体をどうにか動かし、這うようにして立ち上がろうとした――そのときだった。「パン!」、耳元に轟く銃声。音とともに、辺りに火薬の匂いが漂った。狼は体を撃たれ、すぐさま佐俊の腕から牙を外し、振り返ることもなく森の奥へ逃げていった。銃声はその一発だけだった。桃は慌てて佐俊のもとに駆け寄り、その様子を確かめた。「大丈夫……?!」佐俊は失血がひどく、目の前が霞んでいた。そんななか、桃の声がかすかに耳に届いた。彼女の言葉に、佐俊の心の奥で、何かがじんわりと滲んだ。こんな私でも、まだ気にかけてくれるんだな……もう立ってもいられなかったが、彼は最後の力を振り絞って、口を開いた。「誰か来たみたいだ。これで……助かったな。お願いだから、今度こそ……衝動的にならないでくれ、生きることが大事だ……それから……もしできるなら……母さんのこと……頼む……」それだけ言うと、佐俊はがくんと首を傾け、完全に意識を失った。桃は混乱の中で何をすべきかわからなかったが、そんな彼女の前に――黒い影が現れた。闇の中から現れたのは――雅彦だった。彼は冷ややかな視線で、倒れ伏したふたりを見下ろしている。その光景を皮肉に感じていた。桃が菊池家の屋敷から追い出されたことを知ると、雅彦はすぐさま彼女を連れ戻すために出ようとした。そのために父親と激しく言い争い、そのまま別れたのだった。出発の直前、割れたガラスのまま戻ってきた車を見て、違和感を覚えた。問いただすと、運転手が桃を途中で置き去りにしたことを明かした。雅彦は彼を叱責する暇もなく、すぐに車を飛ばして森へ向かった。闇の中必死に探し始めた。ようやく聞こえてきた悲鳴を頼りに桃を見つけ出したのだった。狼を撃ち払い、間一髪で間に合った――はずだったが、桃は助けに来た彼に気づかず、佐俊の安否だけを気遣っていた。本当に、俺のことなんて、どうでもいいんだな……雅彦の目が、さらに冷たくなる。彼はふたりを一瞥し、抑えた声で言い放った。「立てるなら、つべこべ言わずに、さっさとついてこい」その言葉に、桃ははっと顔を上げた。数時間ぶりに見るその姿――けれど、ほんの数時間だったは