隼人の言葉に、瑠璃は明らかに驚いた様子を見せた。彼女は隼人の顔をじっと見つめ、まるで目の前の男が本当に隼人なのかを確かめるように、その視線は疑念と困惑を帯びていた。その反応に、隼人は一層自分の罪の重さを痛感していた。彼が彼女に与えた傷は、数えきれないほどだった。どう償えばいい?何をすれば、彼女の心を取り戻せるのか——彼は瑠璃を連れて、商業施設から最も近い病院へと急いだ。そして診察室で顔を合わせた医者は、なんと大学時代の同期・南川先生だった。しかも、彼は若年の親友でもある。それを思うと、隼人の表情には自然と警戒心が滲んだ。「お前、いつから脳神経の専門医になったんだ?」隼人は疑いの目を向けた。南川先生は穏やかな微笑みを浮かべ、引き出しから名札入りのスタンドを取り出して見せた。そこには「精神科医・南川類」と書かれていた。「暇だったから、ついでにいくつか専攻を増やしただけ。違法じゃないよね?」その軽い口調に、隼人は言葉を失った。彼が瑠璃の病状について話そうとしたその時——「隼人、ちょっと……外で待っててくれる?」と、瑠璃が静かに口を開いた。唐突なお願いに隼人は戸惑ったが、問い詰めることはせず、素直に部屋を出た。彼が出ていくや否や、瑠璃はすぐさま南川先生に頼み込んだ。「南川先生……隼人に、私が病気だってこと、絶対に内緒にしてほしいんです」南川先生はその言葉に驚いたが、彼女の澄んだ瞳を見て、心がチクリと痛んだ。しばらくして診察室のドアが開き、瑠璃は何事もなかったように笑顔を見せた。「ちょっとトイレに行ってくるね。隼人は駐車場で待ってて」隼人は彼女が見ている間はうなずいて見せたが、彼女が背を向けた瞬間、すぐさま診察室へ引き返した。彼は南川先生に、瑠璃の状態について打ち明けた。すると南川先生は躊躇なく診断を口にした。「初見の段階だけど……彼女はおそらく、強い精神的ショックで解離性健忘を発症している。自我認識に混乱が生じているようだ。つまり——二重人格の可能性が高い」「二重人格?」隼人は驚き、心の底が崩れるような痛みに襲われた。南川先生は真剣な面持ちで続けた。「詳細はまだ要観察だが、彼女の記憶は病気を発症した六年前で止まっている可能性が高い。さっき君を外に出したのも、君に病気のこと
隼人は慌てて顔を覗き込み、彼女の頬に触れた。だが、彼女の瞳は虚ろに宙を見つめたまま、まるで魂が抜けたようだった。隼人は瑠璃の肩をしっかりと掴み、緊張と不安を滲ませながら必死に呼びかけた。だが、瑠璃は彼の声が耳に入っていないかのように、茫然とした瞳で事故を起こした二台の車を見つめていた。「千璃ちゃん……お願いだ、怖がらせないでくれ……どうしたんだよ?」隼人の声には焦りがにじみ、深い瞳にはどうしようもない動揺が浮かんでいた。「……っ、痛い……」ようやく、瑠璃が反応を示した。だが、彼女は頭を抱え、苦しげに拳で額を叩いていた。「頭が……すごく痛い……」眉をひそめ、辛そうにうずくまる彼女の姿に、隼人の胸は締めつけられるような痛みに襲われた。彼は迷いなく瑠璃を抱き上げ、周囲の野次馬をかき分けながら車へと向かい、素早く彼女を乗せた。「千璃ちゃん、大丈夫だよ。俺がついてる。絶対に守るから……」隼人は彼女の手を握り、優しく声をかけながら車を発進させた。瑠璃は助手席に寄りかかりながら、かすかな声で何かを繰り返し呟いていた——その頃、瞬が電話を終えて戻ってくると、瑠璃の姿が見当たらなかった。ショップスタッフに尋ねると、「とてもハンサムな男性に連れて行かれた」と言われた。その瞬間、彼の脳裏に真っ先に浮かんだのは隼人の顔だった。すぐに瑠璃のスマホに電話をかけたが、数回鳴った後すぐに切られた。次に隼人に電話をかけると、今度は一瞬で通話を拒否された。瞬の瞳の奥には、黒い波のような怒気が静かに広がった。細く目を細め、冷たい声で呟いた。「隼人……」病院へ向かう道中、隼人の胸中は不安と後悔で押し潰されそうだった。自分が出てこなければ、彼女を無理に連れ出さなければ、彼女はこんな状態にならなかったかもしれない——だが幸いにも、瑠璃は途中から痛みを訴えなくなり、まるで眠るように静かに目を閉じていた。ようやく病院へ到着し、隼人は車を停めるとすぐに助手席側のドアを開けた。「千璃ちゃん……」彼は優しく呼びかけながら、彼女を抱き上げようとした。すると、その瞬間——瑠璃がふいに目を見開き、怯えたように隼人の顔を見つめた。まるで驚いた鹿のように、警戒心に満ちた瞳。そして、弱々しい声で呟いた。「隼人……私じ
最初、夏美と賢は瞬に電話をかける際、少なからず不安を抱えていた。隼人が「瞬は危険な男だ」と警告していたことも、心に引っかかっていた。しかし、実際に接した瞬は、品があり、優雅で、非常に紳士的な印象を与える男だった。「目黒さん、本当にありがとうございます」夏美は丁寧に礼を述べた。瞬は微笑みながら首を振った。「礼には及びません。俺もヴィオラの笑顔が見たいだけです」そう言いつつ、彼の表情に一瞬だけ影が差した。「ただ一つ、お願いがあります。できれば、ヴィオラの前で甥の隼人のことは触れないでいただけますか。隼人は、かつてヴィオラを深く傷つけました。彼といた日々、彼女は一瞬たりとも幸せではなかった。彼女が彼の記憶だけを忘れてしまったことこそが、その証明だと思っています。それから……俺とヴィオラの間にはF国で生まれた娘がいます。名は陽菜、愛称は陽ちゃんです。本当はすべてが片付いたら、彼女を連れてF国に戻って結婚手続きをする予定でした。ですが、今こうしてご両親と再会できたのなら、彼女には碓氷千璃として、僕の妻になってほしい。そして、伯父さんと伯母さんにも、ぜひその証人になっていただきたいのです」瞬の申し出に、夏美と賢は静かにうなずいた。隼人が心から悔いていることも知っていたが、それでも彼が瑠璃に与えた傷は、あまりにも深くて大きかった。とはいえ、夏美には一つ、どうしても気になっていたことがあった。「目黒さん……陽ちゃんは、本当にあなたと千璃の子供なんですか?」瞬は一瞬も迷うことなく、穏やかに微笑んでうなずいた。「今だから正直にお話しします。実は、僕はずっとヴィオラのことが好きでした。でも、彼女が愛していたのは隼人でしたから……彼と結婚すれば、きっと幸せになれると思っていました。でも、結果はご覧の通りです。三年前、彼女の命を救うために僕は彼女をF国へ連れていきました。そして、自然な流れで僕たちは一緒になったんです」瞬の語る過去は、筋が通っていて、聞く者に納得を与える内容だった。ちょうどそのとき——「瞬、お父さんとお母さんと何を話してるの?」ふいに瑠璃が現れ、夏美と賢は驚いて立ち上がった。だが瞬は落ち着いた表情で優しく答えた。「未来の義父母と、僕たちの結婚の話をしてたんだよ。ヴィオラ、景市で籍を入れ
夏美と賢の期待に満ちた眼差しの中、瞬が彼女たちを紹介する言葉が耳に届いた。「実の……両親?」瑠璃は驚いたように大きな瞳を見開いた。その関係性について、彼女の記憶は完全に失われていた。夏美と賢は心を抑えて微笑みかけた。「千璃、私たちは本当に、あなたの実の父と母よ」目の前の夫婦の、哀しみと優しさの入り混じった視線に触れ、瑠璃の心も次第に重くなっていった。彼女が覚えている唯一の家族は、幼い頃から育ててくれた祖父・倫太郎ただ一人だった。周囲の子供たちが両親に愛されて育っている姿を見て、羨ましいと感じたことはあっても、自分が「両親」という存在を持つことなど想像もできなかった。まさか、それがこの二人だったとは——。「ヴィオラ、事故の前に君は実の両親と再会していたんだ。本当の名前は碓氷千璃というんだよ」瞬が静かに説明した。瑠璃はゆっくりと意識を取り戻すように、眉を寄せながら考え込んだ。「全然……覚えてない」小さな声でそう呟いた彼女の目には、夏美と賢の真っ直ぐな愛情が映っていた。「あなたたち……本当に、私のお父さんとお母さんなの?」その一言に、夏美はたまらず手を伸ばし、ぎゅっと瑠璃の手を握りしめた。熱い涙が自然と目に溢れてくる。「千璃、私は本当にあなたのお母さんなの!あの時、私たちの不注意で、あなたは誘拐されてしまった。あんなに長い間、一人で辛い思いをさせてしまって……もう二度と、あなたを苦しませないわ。私の大切な宝物……」そう言いながら、夏美は声を詰まらせて瑠璃をしっかりと抱きしめた。賢も目を赤くしながら、彼女の頭をそっと撫でた。「千璃、これからは父さんも全力で守るよ。命を懸けてでも、お前を守る」瑠璃は戸惑いながらも、夏美のハッグを拒まなかった。たしかに思い出せない記憶がある。けれど、胸の奥に初めて感じるあたたかさがあった。このぬくもりこそ、彼女がずっと欲しかったもの。その優しさは、凍えていた彼女の心を、そして瞳を、少しずつあたためていった。やがて、瑠璃は静かに手を上げ、そっと夏美を抱き返した。微笑みながらつぶやく。「お父さん、お母さん、もう泣かないで。私は大丈夫だから」その言葉に、夏美と賢は信じられないというように目を見開いた。彼女が「お父さん」「お母さん」と呼んだ……
瑠璃がすでに瞬に連れられて退院したと知った夏美と賢は、多少の不安こそ感じていたが、取り乱すほどではなかった。瞬という人間について詳しくは知らなかったが、彼が瑠璃に害を与えるような人ではないという確信だけはあった。……一方その頃、瞬は瑠璃を以前住んでいたマンションへと連れて帰っていた。瑠璃はこの場所に特別な違和感を抱いていないようで、玄関を抜けるとそのまま寝室へと入っていき、手慣れた様子で部屋着に着替えた。瞬はそんな彼女の一挙一動を静かに観察していた。記憶喪失というものは不思議な現象だと思いつつも、瑠璃の様子を見る限り、それが事実であることを疑う余地はなかった。そして、彼女が失っているのは、隼人に関するすべての記憶だった。愛も憎しみも——隼人という存在自体を、完全に、そして綺麗に忘れてしまっていた。瞬にとって、それは嬉しいことだった。しばらくして、瑠璃が服を整理しはじめたのを見て、瞬は不思議そうに声をかけた。「ヴィオラ、何してるの?」「ここにはもう十分いたし、そろそろF国に帰りたいの。陽ちゃんに会いたい」彼女がそう答えると、瞬はその手をそっと握り、黒い瞳にやさしい光を宿して微笑んだ。「ヴィオラ、俺は君と陽ちゃんを必ず幸せにするって約束するよ」「うん、分かってる」瑠璃は柔らかく微笑みながらそう言い、彼に信頼を寄せた瞳で見つめた。「でも、瞬……先生の話だと、私、記憶の一部を失ってるって。本当に私、記憶喪失なの?」瞬は静かにうなずいた。長くしなやかな指先で、彼は瑠璃の整った眉と目元を優しく撫でた。「君が目を覚ます前、事故に遭ってね。頭に衝撃を受けたんだ。医者によれば、君は選択的に嫌な記憶だけを忘れているらしい」瑠璃は話を聞きながら、何かを思い出そうとするように眉間に皺を寄せた。だが瞬は、すぐにその思考を遮った。「ヴィオラ、不快な記憶なんてもう忘れてしまおう。これからは幸せなことだけで十分だよ。俺が、君の未来を守るから」その言葉が終わるや否や、電話が鳴り響いた。ディスプレイには見覚えのない番号が表示されていたが、瞬は気にせず通話ボタンを押した。電話の向こうからは、切迫した女性の声が聞こえてきた。「目黒瞬さんでしょうか?私は千璃の母、夏美です」瞬は瑠璃をちらりと見やり
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の眉がきゅっと寄った。彼女は扉を開けようとしたが、そっと差し出された手に手首を優しく握られた。振り返ると、瞬が温かな笑みを浮かべていた。「手続き、もう終わったよ。行こうか」そう言って、彼は彼女の手を引いて歩き出そうとした。しかし瑠璃は立ち止まり、彼の手を引き止めた。「瞬、中で女の人があのお年寄りを虐めてたの」「……他人の家庭の問題に、首を突っ込むのはやめよう」瞬は少し困ったように眉をひそめ、穏やかに語りかけた。「事情も分からないし……俺たちはもう行こう」瑠璃はもう一度病室の中を見やった。あの女の醜い顔つきと、車椅子に座る年老いた背中。その光景が、なぜか胸の奥にざわりと引っかかった。一方、青葉は瑠璃を追いかけ、ついにエレベーターまでたどり着いたが、扉はちょうど閉まるところだった。「ちっ……」不満げに舌打ちをしたその時、隣のエレベーターが開いた。そこから現れたのは、警察署から戻ったばかりの隼人だった。冷ややかな表情と張り詰めた空気を纏い、彼の一歩ごとに鋭い緊張感が走った。青葉は慌てて駆け寄った。「隼人、朝からどこに行ってたのよ?さっき瞬が瑠璃を連れて出て行ったのよ、私、やっぱり言ったとおり——」だが、言い終える前に、隼人の目に宿る怒りが彼女を射抜いた。隼人は一瞥すると、そのまま踵を返そうとした。「待ってよ、隼人!あの女のこともうほっといて、じいさんがもうすぐ退院するのに、あなたがいなきゃどうするのよ?」青葉は声を上げ、情に訴える口調で続けた。「隼人、じいさんは今や言葉も話せず、歩くこともできない……可哀想だと思わないの?昔からあなたのことを一番大切にしてたのに、女のために見捨てるつもり?あなたはこの件に瑠璃は関係ないって言い張ってるけど、人証も物証も彼女を指してるのよ!毒を盛ったのは、どう考えても彼女よ!」隼人の瞳が鋭く光り、冷ややかに言い放った。「昔、蛍が千璃ちゃんを陥れた時だって、証拠は揃っていた。結果はどうだった?全部、蛍が仕組んだ罠だったじゃないか」「そ、それは……」青葉は口ごもり、不服そうに唇を尖らせた。「でも自業自得でしょ?そんなことされる方も悪いのよ。他の人が狙われないのはなぜ?」被害者を責めるその言い草に、隼人の視