2000万円は確かに魅力的だ。だが、命を落としたら金なんて何の意味もない。そう思った瞬間、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。瞬は痛みに耐えながら片膝を地につき、ほとんど残っていない骨壷の中身を見つめ、絶望の色を深く湛えた。そのとき、ふと全身から力が抜けていく感覚に襲われ、肩に何かが当たった痛みを感じて見下ろすと——いつの間にか、彼は肩を撃たれていたのだ。そこから流れる血が絶え間なく滴っている。なんとか立ち上がろうとしたものの、まぶたがどんどん重くなり、ついに彼の身体は雨に打たれる地面へと倒れ込んだ。彼は血に染まった手を持ち上げ、それでも力いっぱい骨壷を抱きしめた。「遥……」かすかな声で呼びながら、意識が遠のくその刹那、雨の幕の向こうに、傘を差してこちらへ歩み寄る女の姿が、ぼんやりと見えた。近づいてくるその影を見つめ、彼の薄い唇がかすかに動く。「遥……」一夜の激しい雨が降り続いた。一夜明けて、大雨のあとの朝。瞬はぼんやりと目を開けた。身体中が激しく痛んだが、怪我のすべてがきちんと手当てされていることに気づく。周囲の景色はまったく見覚えがない。慌てて周囲を見回した瞬は、すぐ傍らに骨壷があるのを確認し、安堵の息を漏らしながらそれを胸に抱きしめた。「遥……」名を呼ぶ声には深い痛みが滲んでいた。「義兄さん、目が覚めたんですね?」声の主は、昨日のあの悦子だった。彼女は妙に柔らかい笑顔を浮かべ、瞬の前に現れた。「昨夜、たくさんの人が義兄さんを襲おうとしているのを見て、私、一人で助けに行く勇気はなかったけど……ずっと後を追いかけてました」瞬は自分の怪我に視線を落とした。「俺を助けたのは……お前か?」悦子は目を泳がせつつも、すぐにうなずいた。「うん、私です!学生時代、医学を少しかじってたから、処置くらいはできるんです!」瞬は体を起こし、立ち上がろうとした。悦子が支えようとしたが、瞬はさりげなくそれをかわし、ポケットから一枚のカードを取り出して地面に投げた。「100万円だ。昨夜の礼だ。……もう俺につきまとうな」——100万円?悦子は目を丸くした。この金額を、たった一晩で?じゃあこの男のそばにいれば……もっと?しかも、この外見。冷たくも深く、女の心を鷲掴み
瞬はサイコロの態度から、彼らが良からぬ企みを抱いていることをすぐに見抜いた。だが、サイコロが見せてきたそれを目にした瞬間、彼の全身が凍りついた。瞬が一瞬動揺したのを見逃さなかったサイコロは、その隙を突いて銃口を押しのけ、立ち上がった。「フン、目黒様。どうだ?あれほどまでに奥さんを愛してるなら、これと引き換えに会社を手放すのも悪くない取引だろ?」「返せ、それを——!」瞬の声は逆鱗に触れたように怒気に満ち、全身から殺気が滲み出た。サイコロはにやつきながら、ある書類を差し出した。「これは会社の持ち株譲渡契約書だ。署名さえすれば、このボロい骨壷は返してやるよ」ボロい骨壷——その一言が、瞬の怒りの導火線に火をつけた。彼は拳を握りしめ、怒りで浮き上がった青筋が皮膚の下で脈打った。周囲の者たちはその気配に思わず身を固くした。そして次の瞬間、瞬の拳が炸裂し、サイコロの顔面に一撃を見舞った。その勢いでサイコロは前歯を一本失い、地面に倒れ込んだ。瞬は即座に骨壷を持つ男の前に飛び、肘で彼を弾き飛ばして骨壷を取り返した。一瞬の迷いもなく扉を開け、雨の中へと走り去った。「追え!捕まえて殺せ!成功した奴には2000万やる!」サイコロの叫びに、賞金欲しさに皆が瞬の後を追った。夏の夜、雷雨が激しく降りしきるなか、瞬は車を飛ばした。助手席には大切に抱える骨壷があり、バックミラーには彼を追う車のヘッドライトが浮かんでいた。「遥……安心しろ。何があっても、俺はずっとお前のそばにいる」彼はそう約束し、スピードを上げた。だが、しばらく走ると燃料が残りわずかなことに気づいた。彼はすぐさま車を停め、骨壷を抱えて歩き出した。だが数歩も行かぬうちに、後を追ってきた連中に囲まれてしまった。彼らはかつて彼の忠実な部下であり、「目黒様」と呼んで敬っていた男たちだった。だが今、その手には銃が握られていた。瞬に恐れの色はなかった。ただ、骨壷が壊されることを恐れていた。激しい雨が彼の全身を濡らしていく。雨は激しく降りしきり、たちまち彼の全身をずぶ濡れにした。瞬は上着を脱ぎ、四角い骨壷の上にそっとかけた。「目黒様、俺たちは本当はあんたを困らせたくない。サインさえしてくれれば——」「俺に命令できるのは、俺の妻だけだ」彼は
「たかが一人の女のために、すべてを捨てるっていうのか?」瞬の部下たちは、サイコロを筆頭に急いで飛行機に乗って駆けつけてきた。初夏の朝、短い通り雨が降った。瞬は遥の墓が雨で崩れていないか心配になり、山へ確認に向かった。異常がないことを確認してから山を下り、小さな別荘の前まで戻ると、数台の車が停まっているのが見えた。家に入ると、サイコロたちが苛立った顔で自分を待っていた。「目黒様、本当に会社を解散するつもりなんですか?」サイコロが代表して尋ねた。瞬の表情は冷ややかだった。「同じことを二度言うのは嫌いなんだ」「でも目黒様、たった一人の女のために、あれほど大きな会社をたたむなんて……それほどの価値があるんですか?」その言葉に、瞬の柔和な顔に一瞬で冷気が走った。「その一人の女は――俺の妻だ」「……」瞬の怒りに気づいたサイコロは、さすがにそれ以上反論できず、落ち着いた声で説得を試みた。「目黒様……でも、奥さんはもう亡くなってしまったんですよ。悲しみからは早く立ち直ってください。俺たち何百人も、みんな目黒様に頼って仕事してきたんです。今さら会社を解散されたら、みんな食いっぱぐれますよ……」瞬は無言で背を向け、冷たい声で言い放った。「同じ話をさせるな。会社は俺のものだ。どうしようが、俺の勝手だ。今日限りで、お前たちとは何の関係もない。ここまでで十分儲けただろう。感謝すべきだ」「そ、そんな……」瞬の強い意思を前に、部下たちはもはや言い返せなかったが、納得いかない表情を浮かべていた。部屋に戻った瞬は、遥の写真を優しく見つめ、穏やかな笑みを浮かべながら語りかけた。「見てくれてるか?約束通り、俺はもうあんな商売はしない。お前が望むことなら、なんでもする。全部、やり遂げるよ。遥……あと一つだけ、最後の用事を片付けたら、お前のもとへ償いに行く。お前は、俺を許してくれるだろうか?」瞬はそう呟いたあと、深く眠りに落ちた。目覚めた時にはすっかり夜になっており、雨もまだ止んでいなかった。そのとき、また下の階から騒がしい声が聞こえてきた。顔を洗って降りていくと、昼間来ていた連中が再び現れていた。やはり、先頭はサイコロだった。だが、今度は明らかに雰囲気が違っていた。「目黒様……俺たち、目黒様の気持ちは分
瞬は、オーダーメイドの限定スーツを身にまとい、まるで漫画から飛び出してきたような整った顔立ちと清潔感ある雰囲気を漂わせていた。冷たさの中にも上品な気品を纏ったその姿は、まさに禁欲系男子そのものだった。だがそれは、昨日母娘で「貧乏くさいヒモ男」と決めつけていた男と同一人物だったとは――悦子とその母親は、完全に見惚れて呆然としていた。瞬は長い脚を一歩踏み出し、冷たい視線を目の前の母娘に投げかけながら、口を開いた。「中の物を全部外に出せ。ここに他人を一歩でも入らせるな」「了解しました、目黒社長」部下たちはすぐに合図を受け取り、屋内へと入り込み、家の中のものを次々と外へ放り出し始めた。瞬はその様子をよそに、ゆっくりと屋内へと足を進めていった。「ちょっと!なんで人の家の物を勝手に捨てるのよ!何様のつもり!?」悦子の母親が叫びながら声を荒げたその時――瞬はふと振り返り、その横顔をゆっくりと見せた。柔らかく整った顔立ちだが、眉の端と目元に宿る冷ややかさが全てを物語っていた。「ここは俺の妻の遥の家だ。今、彼女に代わって、元の持ち主のもとへ返してやるだけだ」悦子の母親は内心で怒りを噛み殺しながらも反論した。「……は?何が元の持ち主よ!あの両親はとっくに十年以上前に死んでるし、その死んだ娘だってもうこの世にいないじゃない!今さら何人か連れてきて高級車でも借りて、俺が社長です気取り?あんた、ドラマの中の俺様系社長にでもなったつもり?」瞬は元は冷静な表情をしていたが、この女が死んだ娘などと遥を罵るたびに、その眼差しに宿る殺気が増していった。冷たい空気が一気に漂い、彼の背後から張り詰めた気配がにじみ出た。「これ以上、遥を侮辱する言葉を吐いたら……お前も、あの世で彼女に詫びろ」「……っ」悦子の母親はごくりと唾を飲み込み、思わず後ずさった。瞬のただならぬ迫力に、さすがに言葉を飲み込んだ。自分たちの家具や荷物が次々に外へ放り出されていくのを見て、彼女は堪らず騒ぎ出した。「警察呼んでやる!こんな横暴あるわけ……」だがその時、人だかりの中から誰かが声を上げた。「この人、テレビで見たことあるぞ!目黒グループの現社長、目黒家の御曹司だ!」悦子とその母親は、その言葉にまるで雷に打たれたように立ち尽くした。「な
瞬の目が冷たく細められ、鋭い眉がぐっと上がった。「俺は遥の夫だ」「……なに?あの小娘の、夫?」「あなた……本当に私の従姉の遥のお婿さんなの?」母娘は同時に衝撃を受けたように言葉を失った。だが瞬は、彼女たちと長々と話すつもりはなかった。「一日やる。明日中にここから出て行け」「は?出ていけだって?あの小娘が出て行ってから何年経ったと思ってるの、この家なんかとっくにあの子とは無関係よ!」中年の女は腕を組み、勝ち誇ったような態度で瞬を上から下まで見下ろした。「ふん、あの小娘の男の趣味がどれほどのもんかと思えば、しょぼくれた貧乏男じゃない。家を取り戻して結婚でもする気か?バカも休み休み言いな!男のくせに家も持ってないなんて、よく結婚したもんだわ!」瞬は鋭い目つきで冷ややかに女を一瞥した。その目に射すような気迫を感じた女は、背筋が凍るような感覚に襲われ、思わず身をすくめた。「明日までに出ていけ。さもなくば、俺のやり方で追い出す」「……」そう言い捨てて、瞬は踵を返し、その場を後にした。「この貧乏男め……あたしと家を争うつもり?百年早いわ!」中年女はしばし呆然としていたが、すぐにあざけるような表情に戻った。だが次の瞬間、自分の娘が瞬の後を追って出て行くのを見て、怪訝そうに目を細めた。瞬は村の人々から、遥の両親が眠る場所を尋ねた。彼らは、それが四月山の中腹にあると教えてくれた。彼は遥の骨壷を胸に抱え、道具を持ってその場所を探し回った。ようやく遥の両親の墓を見つけたとき、彼はその傍らに適当な場所を選び、土を掘り始めた。穴を掘り終えると、骨壷と遥が生前好んでいた服やワンピース、そしてぬいぐるみを大切に土へと埋めた。そして自ら筆を取り、木の板にこう記した。「愛妻 宮沢遥 之墓 夫 目黒瞬 建之」すべてを終えたとき、空からはしとしとと雨が降り始めた。瞬は疲れ切ったように墓の傍らに寄りかかり、雨と混じるように頬を涙が伝っていった。――遥。見てるか?お前は……俺の妻だったんだ。援助を受けていた妹なんかじゃない。その一部始終を目撃したのが、遥の従妹である白浜悦子だった。彼女は慌てて家へ戻り、母親にその様子を報告した。「何ですって?あの小娘……死んだの?」「そう、確かに死んでた」
日記の最初のページには、少女の清らかで丁寧な筆跡でこう書かれていた。「あなたに出会えたことが、何よりの幸せ――瞬」俺に出会えたことが、何よりの幸せ?瞬の視界は一気に滲んだ。――遥、お前に出会えたことこそ、俺の人生で一番幸せな出来事だった。でもお前にとって、俺と出会ったことは……決して幸せなんかじゃなかった。心が切り裂かれるような痛みを抱えながら、彼は日記をめくっていった。最初の記録は、瞬が彼女を支援することを決めたあの日から始まっていた。【すごく幸せ。家の前で出会ったあのお兄ちゃんと、また会えた。いや、今はお兄さんかな。何年も経っているのに、私は一目で彼だとわかった。でも、彼は私のこと……覚えていないみたい。泣昔、彼がくれた赤い紐はずっと大切にしてる。私があげた貝殻、彼はまだ持っててくれてるかな?彼はすごくかっこよくなってて、優しくて、頭もいい。こんなに完璧な人、きっとたくさんの女の子が好きになっちゃうよね。羨ましいうん、頑張って勉強して、彼の支援に報いるような人になりたい。何かを望むなんて、おこがましいけど……この先もずっと、そばにいられるだけで十分幸せ。たとえ妹としてでも嬉しい。もちろん、もし叶うなら……妹だけじゃなくて……】その最後の一文を読んだ瞬間、瞬は目を閉じ、声もなく泣き崩れた。もう……これ以上は読めなかった。呼吸をすることすら、罪に感じた。瞬はすぐに衣服や持ち物をまとめ、遥の骨壷を手にして、車を走らせて四月山へ向かった。空は重く曇っており、まるで彼女の死を悲しんでいるかのようだった。瞬は四月山の海辺へ着くと、手に赤い紐と貝殻を握りしめ、広がる浜辺に静かに立った。目を閉じれば、あの頃の記憶が鮮やかに蘇る。だが、彼を光へと引き戻してくれた少女は、今――もう二度と戻らない、闇の向こう側に行ってしまった。瞬は深い哀しみを胸に、遥の昔の家だと聞いた場所へ向かった。目の前の小さな一軒家は、質素ながらもどこか趣のある佇まいで、庭には色とりどりの花が咲いていた。この世界には、まだ色が残っていた。けれど、瞬にとってはすでに全てが灰色だった。彼はしばらく門の前に立ち、入ろうとしたとき――赤いパーマをかけた中年の女が家の中から出てきて、軽蔑するような口調で言った。「誰よ、うちの前に突っ立