この先自分の身にふりかかるであろう悲劇を回避するように、朱華は思考を巡らせる。未だ、未晩の接吻がつづいている。すでに何か所も痣のような赤い痕が刻みつけられている。朱華を自分のモノだと誇示するかのような、忌々しい印。「いっそのこと瘴気漬けにしてやろうか?」 泣くことを拒み続ける朱華に向けて、未晩は悪びれることなく黒い靄を吐き出していく。憎しみ、怒り、苦しみ……涯(はて)のない暗闇が、抵抗をつづける朱華を諦めさせようと、心の奥に潜む闇鬼のもとへ流れていく。雲桜を滅ぼす禁術をつかったことで父に殺されそうになり、逆に自分が殺してしまった後悔、裏緋寒の乙女になることより未晩の花嫁になることを望んだ幼いころの自分、夢の中に現れた雲桜の土地神だった茜桜の曖昧な残留思念、どうして自分ばかりがこうも苦しまなくてはならないのだという理不尽な怒り……思い出とともに、朱華のなかに隠れていた闇鬼が蠢きだす。彼に屈して快楽に身を任せればいいのにと、闇鬼が朱華を唆す。「この程度じゃ蜜も出さぬか……ならばこれでどうだ」 「ゃ……痛いっ」 ぐい、と濡れてもいない蜜口めがけて突っ込まれたのは男根にも似た細長い水晶だ。膣壁をこすりたて、蜜を出せと強引に抜き差しさせられ、朱華の身体を無理矢理開こうとする。 彼に優しく処女を奪ってもらった時とはぜんぜん違う、恐怖と苦痛しか感じない無機質な物体による蹂躙に、朱華は顔を歪ませる。 ――彼って誰のこと? 未晩が封じた朱華の記憶を身体を重ねることで解き放った男性の姿が、ぼんやりと脳裡に浮かぶ。 そうか、失った記憶の先には出逢ったはずの人間がいる! 確信した朱華は、自分の闇に沈もうとしていた濃紫色の双眸が、いつもの菫色の色合いへ戻っていることに気づかないまま、未晩が口にした言葉を思い起こし、推測していく。 未晩に裸に剥かれ、体中を襲う口づけと手による執拗で強引な愛撫に堪えながら、朱華は頭を働かせていく。 二日間の記憶は竜糸の神殿にまつわること。 きっと自分は神殿の人間に、裏緋寒の乙女として召集を受けたのだ。このとき、未晩は反対したはずだ。 だ
絹鼠色の糸はまるで蜘蛛の糸のように朱華にまとわりつき、彼女が抵抗しようともがけばもがくほど締め付けがきつくなっていく。やがて枷をつけられたかのように両手両足の身動きが封じられたのを見て、未晩は満足げに朱華を手元へ抱き寄せた。 朱華はいまにも蜘蛛に捕食されそうな囚われの蝶になったかのように、震えた声で拒絶する。「や……」 「すべての記憶を消して、その器だけを残すことだってできるんだ。だが、オレは人形遊びに興じたいわけではない」 身をよじろうとして痛みに顔を顰める朱華に、未晩が嬉しそうに声をあげる。「その表情がたまらない。オレによって苦しみ悶える朱華。オレだけが知りえる極限状態の朱華。これで泣いてくれれば完璧なんだがなぁ」 「だ、誰が泣くもんですかっ……ぁあっ!」 きゅっと首元の糸を締めつけられ、朱華がか細い悲鳴を発する。「まだわかっていないんだな。朱華はそんなに悪い子だったかな?」 未晩の冷たい指先が朱華の青ざめた唇をなぞり、首筋から朝衣の乱れた胸元へと進んでいく。獲物を捕えた獣がいたぶるように、未晩は朱華の繊細な身体をなぞるように、指先で蹂躙していく。薄布越しに感じるおぞましい感触に、朱華は唇を噛みしめ、瞳を閉じて耐えつづける。「明日にならないと本来のちからを手に入れられないのが惜しい。いますぐにでもここで朱華をオレのものにしてしまいたいくらいだが、この身体だとどうしてか勃起(たた)ねーんだよ。桜蜜を味わうことができればきっと勃ちあがってお前の膣内(なか)まで入り込めるだろうが……」 未晩の腕に抱えられていた朱華は自分の身に迫る危機に顔を蒼白にし、必死になって声をあげる。「やめ、て」 「とはいえ、すこしくらい楽しんだっていいだろ? どうせ明日にはオレの花嫁になるんだから。そんな顔してもそそられるだけだぜ。もっと苛めたくなる」 そのまま、押し倒され、未晩の口唇が朱華の首筋に触れる。「ぁっ」 ちろりと熱い舌先は、まるで蜘蛛の毒針のよう。額から濃紫色のままの瞳、青ざめた口唇に透明感の際立つなめらかな頬、
* * * そして月日は流れ、朱華の誕生日まで一月を切ったあたりから、彼女は茜桜と再会したのだ。夢のなかで。それを知った未晩は嫉妬からか、いままで以上に、執拗に朱華の唇を求めるようになった。 だけど……どこまでが真実なのか、朱華には判断できない。だって未晩の魂はもう、この世界に存在していないのだから。ただ、哀しい想いをさせたくないから都合のいい解釈をさせようと彼によって記憶を一部、塗り替えられたのだと、誰かが朱華に言っていたような気もする。それが誰だか思い出せなくて、朱華は苦悩する。 約束の花残月の朔日は、明日に迫っている。至高神は、自分にちからを返すのか。返したのち、自分を土地神の、竜神の花嫁として、この身を差し出させるのだろうか。そのことをきっと、目の前の幽鬼は知っている。 だから幽鬼に身体を奪われた未晩が、朱華に秘められたちからを求めて、この場にいるのだ。花神に賜れた世界をも変えるちからを朱華がその手中に入れたのちも、強引に夫婦の契りを結ばせ花神の加護を自分のモノとするために。 いまになって身体中に悪寒が走る。師匠のふりをしている幽鬼は、朱華が怯えている姿に興奮しているのか、鼻息を荒くしている。こんなの、師匠じゃない! 朱華は禍々しい未晩の瞳を射るように睨みつけ、声高らかに神謡をうたう。 「Wenotaupun shiokote――立ちはだかれ砂吹雪!」 「朱華! なにを……?」 師匠に向けて神術を放ったことなどなかった。けれど相手が幽鬼なら、もう、容赦はしない。 あのとき雲桜を滅ぼした幽鬼の王が甦ったのだ。今度こそ、自分が仕留めなければ…… 次に滅ぶのはこの、竜糸だ。 朱華の激昂した姿に、未晩は自分が幽鬼の本性を見せたままだったことに気づき、舌打ちをする。逆さ斎が施した記憶封じの真似ごとをしたが、夜澄が解いた記憶まで封じ直すことはできなかったようだ。「あたしの昨日と一昨日の記憶を返しなさい」 すっくと立ち上がり、朱華は幽鬼に向けて濃紫色の瞳を煌めかす。彼女自身が闇鬼に囚われかけていることに気づかず、憤怒の炎を燃やしている。「ほう。神殿の記憶が消えたか」 朱華の反撃に目を瞠った未晩は、好戦的な声で彼女の前へ立つ。「あんたが消したんでしょう?」 「そうだ。朱華には必要のないものだから」 さきほどまでのすまし
* * * 自分はいまは亡き雲桜で生まれた紅雲の娘。『雲(フレ・ニソル)』の強い癒しのちからを持っていたが、十年前に一匹の白い蛇に甦生術を施したため、花神である茜桜が御遣いの帰蝶とともに張り巡らせていた結界を綻ばせ、幽鬼の侵入を許してしまったのだ。 結果、雲桜は滅んだ。朱華に強大な『雲』のちからを与えた花神と帰蝶も死に、集落の人間も多くが幽鬼と闇鬼の手に堕ちた。幼かった朱華は茜桜によって守護されていたが、禁術を使ったことで起こった悲劇の原因が彼女にあると悟った父に、殺されそうになった。 ――お前は花神さまの寵愛を良いことにっ……! 氷の剣の切っ先を心の臓目がけて襲ってきた父。言い訳は叶わなかった。 あのとき、死ぬことができれば、こんなに苦しい思いはしなかったはず。 それなのに、死んだのは父だった。怯えた朱華が無意識に術を発して氷剣を一瞬で砕き、その破片を父に降らせてしまったから。血に濡れた父を前に、朱華は絶叫した。 甦生術をつかうことは、もうできなかった。 「あたしは、おとうさんを殺した……」 「そんなことはないよ。自分の生命が危機にさらされていたんだ……本能的に防衛しただけなんだよ」 そのとき傍にいてくれたのが、旅の途中でこの騒ぎに巻き込まれた未晩という青年だった。彼は『雲』とは異なるちからで、雲桜を滅ぼした幽鬼の王を斃した。その方法は、自分の身体のなかに、闇鬼として閉じ込めるという、神の加護を持つものからすれば考えられないもの。 そして彼は朱華におまじないをしてくれた。おそろしい夢を見ないおまじない。 それでも朱華のなかにはちいさな闇鬼が潜んでいた。未晩はぜんぶ自分が代わってあげると言ってくれたけど、すべてが浄化されることはなかった。禁術を発動したことで集落ひとつを滅ぼすきっかけを生み、結果的に父を殺してしまった朱華は、未晩のおかげで生きつづけることはできたが、罪悪感という名の闇鬼に囚われたままだったのだ。 逃げるように雲桜を離れた朱華は未晩とともに竜糸に落ち着いた。何事もなかったかのように診療所を開き、ふたり
懐かしい匂いがする。診療所の裏庭で育てられた香草の、爽やかで落ち着く香り。 朱華はゆっくりと瞼を持ちあげ、目の前で心配そうに顔を覗き込む未晩と視線を絡ませ合う。「師匠?」 「おはよう、朱華」 布団から抱きあげられてそのまま額へ口づけを受ける。いつもと同じ、穏やかな朝のはじまり。 ――なんだか、悪い夢を見ていたような気がする。 けれど朱華はそれを覚えていない。未晩はいつもと代わり映えのしない薄荷色の衣を纏い、朱華の代わりに麦飯と青菜の汁を準備している。いつもと同じ、質素な食事。「……いただきます」 両手を合わせて食事をはじめる朱華を、未晩は慈愛を込めた眼差しで見つめている。「師匠は、食べないの?」 「もう食べた」 だからいまはいらないと言って、朱華の隣で横になる。問答無用の膝枕だ。「師匠、あたしまだ食事中なんですけど……」 「気にするな」 いえ、気になります。と思わず言おうとして、違和感に気づく。 ――師匠って、こんな喋り方してたっけ? つきん、つきんと頭の片隅で痛みが生じる。まるで何か大切なことを忘れているかのよう。「それより師匠、診察の準備は」 「今日は休診だ。そんなことより朱華、朝飯食ったら準備を始めるぞ」 「……準備?」「忘れちゃいないだろう? 明日、お前の誕生日。花残月の朔日に、オレとお前は夫婦神となるのだ。華燭の儀を神殿で執り行うため、邪魔な竜神どもを追いだすんだよ」 ぶっ、と青菜の汁を勢いよく吹き出す朱華に、未晩が首を傾げる。「そ、そんな罰当たりな……師匠、本気で?」 「無論。朱華がこれ以上苦しまないためだ。わからぬのなら、教えてやろう」 カタン、と卓に乗せられていた食事がひっくり返る。座っていたはずの朱華の身体もひっくり返って、その上に未晩がのしかかっている。「師匠?」 「オレだけの朱華。おまじないをしてあ
「たしかに朱華はいただいた」 竜頭に前を遮られていたはずの未晩は瞬間的に夜澄を殴り、その隙に朱華を自分の胸へと抱え込む。水に濡れたままの朱華は「……うぅ」と苦しそうに身じろぎしている。玉虫色の髪は烏の濡羽色のように色濃く艶めき、青味がかった白い肌は氷のような透明感を魅せていた。 彼女はこんなにも美しかっただろうか。夜澄は自分たちが窮地に追い込まれているというのについ、朱華が未晩の腕で悶えながら身体をしならせる姿に目を奪われ、そんな自分に腹を立ててしまう。なぜあのとき素直に口にしなかったのだろう、自分は彼女に命を救われたあのときから、ずっと彼女を想いつづけていたということを。 彼女が未晩と結婚の約束をしていたという事実や、竜頭の神嫁に選ばれたという事実が、夜澄の恋心に鍵をかけていた。けれど、記憶を戻すと決意し、自分を求めた朱華に応えた瞬間、その封じは瓦解した。 「あけはな」 彼女は未だ、記憶の真実に苦しんでいるのだろうか。未晩の姿を見て幻術に惑わされて自分を突き放した彼女は。だからといって未晩の術で記憶を塗り替えていたときのように、偽りの記憶で彼女を縛りつけるのは赦されることではない。「おぬし、わしの裏緋寒をどうするつもりだ?」 黙って事態を見つめていた竜頭は、夜澄が未晩を攻撃しようにも朱華にまで危害を与えかねないと判断して佇んでいるのを見て、声を荒げる。「いつ、貴様の神嫁になったんだ? これはオレのものだ」 未晩はくだらないと一笑し、朱華の頬へ指を這わせる。長い爪が、朱華の頬を切り裂き、真っ赤な血を滴らせる。その血を掬って口に含むと、嬉しそうに未晩は頷く。 「神々の花嫁というのなら、オレが鬼神になってやるよ。ならば至高神とやらも別に文句は言わねえだろう?」 幽鬼の王は、自分こそが幽鬼の神だと豪語し、朱華の髪に唇を落とす。夜澄はその光景を見ていられなくてふいと顔を背けてしまう。たしかに、いまの状態では自分は未晩に敵わない。 だが、未晩の方は朱華を手元に取り戻せたことで満足したのか、す