「まだ、幽鬼に妨害されとるのか」
「あの場所だけ、瘴気が濃すぎて、近寄れないのです」途方に暮れたように星河が告げ、雨鷺も彼とともに項垂れる。
未晩が朱華を攫って一夜が明けた。神殿から逃れた未晩は何事もなかったかのようにかつて自分と朱華が暮らしていた診療所に戻り、身を潜めている。触れただけで気がおかしくなりそうな大量の瘴気を結界のように張り巡らして。「里桜さまたちが必死になって払ってますが、消しているわけではないので次から次に瘴気が湧き出てしまうみたいです。まるで竜糸中の瘴気をあの場所へ集めているかのようだと嘆いております」
雨鷺が水鏡越しに届いた里桜の報告を竜頭に伝えると、ふむ、と考え込むように彼が息をつく。いまも未晩が籠城している診療所を囲むように里桜、颯月、氷辻の三人が絶えず神術で壁を破ろうと奮闘している姿が水面に映っている。ともに神殿を飛び出した夜澄の姿が見えないのが気になるが、この様子だとまだ朱華は幽鬼に囚われていると考えてよいだろう。星河は目覚めたばかりで完全に動けない竜頭に治癒術を施すため、御遣いである雨鷺とともに神殿に残り、連絡手段である水鏡を見つめつづけている。
「奴は明日が来るのを待っているのだろう。裏緋寒に秘められたちからが開花するそのときを」
竜頭の言葉に、雨鷺が心配そうに声をあげる。
「朱華さんは、大丈夫なのでしょうか」
昨晩、未晩の身体を乗っ取った幽鬼は朱華を傷つけ、唇を奪っていた。診療所でふたりきりになっているいま、彼女の身が安全かどうかは計り知れない。
「あの幽鬼は己を鬼神だと名乗りをあげた。ならば、まだ夫婦神となる契約を結ばされてはいないだろう」
あの貧相な身体じゃ抱き心地もよくないだろうにと竜頭がぼそりと口にしたのはきかなかったことにして、星河は改めて水鏡に視線を落とす。夜澄の姿が見えた。
「おとなしく見ていろよ。お前が求める男を、オレが葬ってやろう」 その言葉に、朱華は絶望的な表情を浮かべ、首を横に振る。「心配するな。明日になれば、お前にはオレしかいないってことがわかるだろうから」 けれど邪魔をするようなら、容赦はしないよと、未晩は朱華の素足に唇を寄せる。 ビクリと身体を震わせる朱華に、未晩は更に追い打ちをかける。「お前の身体を隅から隅まで調べたからな……桜蜜は夫婦になってからたっぷり味わうことにするから覚悟しとけよ」 身体中に刻まれた接吻の忌々しい痕。桜の衣に包まれたとはいえ、幽鬼によって真っ赤に辱められた朱華の肌は枝の隙間から顔を出している。こんな淫らな姿を、自分は外に晒されているのだ。 羞恥に顔を染め、怒りを込めて幽鬼を睨むが、未晩は知らん顔。「お。招かれざる客が入ってきたぞ。蛇神か。今度こそ息の根を止めてやろう」 朱華が磔にされた桜の木から見下ろすと、純白の蛇が、きらきらと燐光を振りまきながら桜の根元へ向かっていた。 ――だめ、こっちに来ちゃ! 無表情の蛇は幽鬼となった未晩を無視して朱華が囚われた桜の木へ滑り込むように身体を進める。 ――心配ない。俺が助けてやる。 朱華の心に、懐かしい青年の声が届く。幻覚作用を持つ芥子によって一時的に言葉を奪われた朱華を励ますように、白い蛇神は純白の桜花に囚われた朱華のもとへ急いでいく。 ――あなたは……? ――やっぱり、俺の名を忘れてしまったのか。 ――いいえ。幽鬼に忘却の術をかけられているだけ。あたしは彼方が誰か、知っている。だって、あたしが雲桜で甦生術をつかって助けた、蛇神さまだもの! 「――ならば朱華(あけはな)よ。俺と交わりすべてを思い出すがよい」 幹を伝っていた白い蛇は、朱華の言葉に強く反応して人型へと姿を転じる。 それは、黄金に泳ぐ琥珀色の双眸と、どこまでも清純なまじりっけのない漆黒の黒髪と、神殿の人間が着用する浄衣を身にまとった男性の姿。
* * * 「――や、ず、み」 別の男の名を呼び意識を失った朱華に応えるように、瘴気の壁が薄れてしまった。どこかに穴が開いたかもしれない。未晩は慌てて朱華を抱きかかえ、裏庭へ急ぐ。 外は土砂降りの雨が降っている。復活した竜神が浄化の雨を施したのだろう。だが、闇鬼を消滅させる雨は、幽鬼には通用しない。せいぜい未晩が張った瘴気の壁を崩す程度だろう。「神殿に出向く手間が省けたな」 どうせ彼らを始末しなくては朱華を自分の妻神とすることはできないのだ。竜頭を殺し、代理神と桜月夜を葬り、竜糸を我が物にし、鬼神としての器量を至高神に認めさせ、花神の加護を返してもらってようやく朱華は自分だけの朱華になるのだから。 神々の契約はけして破られない。それは、最悪死んでさえいなければ朱華がどのような状況にあっても、至高神は花神の加護をその身に返すということ。そしてそのちからを保った器を最初に犯し、夫婦神の契りを認めさせることで未晩は強大なちからを手に入れることが叶う。神々を悦ばせる桜蜜というおまけとともに。 朱華の記憶に支障があろうが、幽鬼を憎んでいようがいまいが、彼女の純潔がすでに別の男に奪われていようが至高神はたいして気にも留めないだろう。小うるさい土地神と違って至高神は幽鬼のように長い生命を司る孤高の女神だから。 浄化の雨はまだつづいている。壁の厚さがすこし薄くなったのか、外部からの攻撃によって建物が軋みはじめた。一か所でも崩れはじめれば、彼らは雪崩れ込んでくるはずだ。「朱華……お前はオレのものだ」 裏庭に一本だけ佇む白い枝垂れ桜の下で、降りつづける雨を気にすることなくぐったりしたままの朱華を抱き上げ、未晩は密やかに言霊を紡ぐ。「――神に逆らいし逆さ斎が命ずる。裏緋寒の乙女に花嫁装束を」 すると桜の花枝がしゅるしゅると伸び、朱華の裸体へ巻きついていく。巨木の幹へ縛りつけるように両手両足を拡げられ、幽鬼に接吻の痕を刻まれた無防備な肌が露出する。 未晩の声に賛同するように芥子花も蕾を開き、甘くて噎せ返るほどの芳香とともに闇のように濃い暗色
「そんな」 せっかく取り戻した記憶を、幽鬼にふたたび封じられてしまうなんて。悲痛な面持ちの雨鷺の顔が、水面に映る。「水兎。落ち着いて」 青ざめた表情の雨鷺に星河が手を握っている。ふたりは夜澄が見ていることに動じることなく、互いに身体を支え合っている。その前世を越えた絆の強さに、夜澄は心惹かれる。 朱華が支えに求めているのは、誰なのだろう。それが、自分ならいいと夜澄は強く願う。そのためにも早く、朱華を取り戻したい。雲桜を滅ぼした幽鬼に、彼女を渡したくなどない。たとえ嫌われてしまったとしても。 焦ってばかりの夜澄に、水鏡越しに、竜頭の低い声が届く。「心配するな。逆さ斎と幽鬼は別物だ。逆さ斎の神術を幽鬼が完璧に真似ることは不可能だ」 だが、幽鬼と対峙した夜澄は彼のちからを目の当たりにしている。いくら別物だからといって、安心できるわけがない。未晩が日夜彼女に施していたという淫らなおまじないが脳裡に過る。記憶を解き放つために夜澄と抱き合うことを選んだ彼女だが、真実を知って動揺しているところを未晩に奪われてしまった。このまま記憶をなかったことにされたら……夜澄は怒りを隠すことなく竜頭に反論する。「彼女の記憶がふたたび弄られてしまったらどうする!」 「何度でも愛を注いでお前が戻してやればよい。それだけの力をお主は持っておるだろう?」 当然のように竜頭は応え、莫迦らしいと毒づく。「……ほんと人間っぽくなったな。もし、裏緋寒を自分の神嫁にしたいのなら、いったん本性に戻れ。そうすれば俺が穴を開けてやる」 あっさりと提案する竜頭に、夜澄は呆気にとられた表情で両目を白黒させる。「――竜頭」 「なんだ?」 「そういう大事なことはもっと早く言え!」 「気づかない方が悪い」 ふん、と竜頭は鼻を鳴らし、星河の手を掴む。そして、土地神の加護を十二分に受けた守人と元代理神たちに向け、水術を放つ。「お前ら三人、そのまま持ちこたえろよ!」 竜糸の空に風が走り、鈍色の雲が竜神の気によって押し流されていく
湖からあがり、人型になった竜頭は静まり返った神殿の最奥部、湖畔の間の、かつて代理神が座っていた朱漆の椅子に腰かけ、右手で黒檀色の髪をわしわしかき混ぜながら、苛立ちを隠さず周囲を見渡す。「まだ、幽鬼に妨害されとるのか」 「あの場所だけ、瘴気が濃すぎて、近寄れないのです」 途方に暮れたように星河が告げ、雨鷺も彼とともに項垂れる。 未晩が朱華を攫って一夜が明けた。神殿から逃れた未晩は何事もなかったかのようにかつて自分と朱華が暮らしていた診療所に戻り、身を潜めている。触れただけで気がおかしくなりそうな大量の瘴気を結界のように張り巡らして。「里桜さまたちが必死になって払ってますが、消しているわけではないので次から次に瘴気が湧き出てしまうみたいです。まるで竜糸中の瘴気をあの場所へ集めているかのようだと嘆いております」 雨鷺が水鏡越しに届いた里桜の報告を竜頭に伝えると、ふむ、と考え込むように彼が息をつく。いまも未晩が籠城している診療所を囲むように里桜、颯月、氷辻の三人が絶えず神術で壁を破ろうと奮闘している姿が水面に映っている。ともに神殿を飛び出した夜澄の姿が見えないのが気になるが、この様子だとまだ朱華は幽鬼に囚われていると考えてよいだろう。星河は目覚めたばかりで完全に動けない竜頭に治癒術を施すため、御遣いである雨鷺とともに神殿に残り、連絡手段である水鏡を見つめつづけている。「奴は明日が来るのを待っているのだろう。裏緋寒に秘められたちからが開花するそのときを」 竜頭の言葉に、雨鷺が心配そうに声をあげる。「朱華さんは、大丈夫なのでしょうか」 昨晩、未晩の身体を乗っ取った幽鬼は朱華を傷つけ、唇を奪っていた。診療所でふたりきりになっているいま、彼女の身が安全かどうかは計り知れない。「あの幽鬼は己を鬼神だと名乗りをあげた。ならば、まだ夫婦神となる契約を結ばされてはいないだろう」 あの貧相な身体じゃ抱き心地もよくないだろうにと竜頭がぼそりと口にしたのはきかなかったことにして、星河は改めて水鏡に視線を落とす。夜澄の姿が見えた。
この先自分の身にふりかかるであろう悲劇を回避するように、朱華は思考を巡らせる。未だ、未晩の接吻がつづいている。すでに何か所も痣のような赤い痕が刻みつけられている。朱華を自分のモノだと誇示するかのような、忌々しい印。「いっそのこと瘴気漬けにしてやろうか?」 泣くことを拒み続ける朱華に向けて、未晩は悪びれることなく黒い靄を吐き出していく。憎しみ、怒り、苦しみ……涯(はて)のない暗闇が、抵抗をつづける朱華を諦めさせようと、心の奥に潜む闇鬼のもとへ流れていく。雲桜を滅ぼす禁術をつかったことで父に殺されそうになり、逆に自分が殺してしまった後悔、裏緋寒の乙女になることより未晩の花嫁になることを望んだ幼いころの自分、夢の中に現れた雲桜の土地神だった茜桜の曖昧な残留思念、どうして自分ばかりがこうも苦しまなくてはならないのだという理不尽な怒り……思い出とともに、朱華のなかに隠れていた闇鬼が蠢きだす。彼に屈して快楽に身を任せればいいのにと、闇鬼が朱華を唆す。「この程度じゃ蜜も出さぬか……ならばこれでどうだ」 「ゃ……痛いっ」 ぐい、と濡れてもいない蜜口めがけて突っ込まれたのは男根にも似た細長い水晶だ。膣壁をこすりたて、蜜を出せと強引に抜き差しさせられ、朱華の身体を無理矢理開こうとする。 彼に優しく処女を奪ってもらった時とはぜんぜん違う、恐怖と苦痛しか感じない無機質な物体による蹂躙に、朱華は顔を歪ませる。 ――彼って誰のこと? 未晩が封じた朱華の記憶を身体を重ねることで解き放った男性の姿が、ぼんやりと脳裡に浮かぶ。 そうか、失った記憶の先には出逢ったはずの人間がいる! 確信した朱華は、自分の闇に沈もうとしていた濃紫色の双眸が、いつもの菫色の色合いへ戻っていることに気づかないまま、未晩が口にした言葉を思い起こし、推測していく。 未晩に裸に剥かれ、体中を襲う口づけと手による執拗で強引な愛撫に堪えながら、朱華は頭を働かせていく。 二日間の記憶は竜糸の神殿にまつわること。 きっと自分は神殿の人間に、裏緋寒の乙女として召集を受けたのだ。このとき、未晩は反対したはずだ。 だ
絹鼠色の糸はまるで蜘蛛の糸のように朱華にまとわりつき、彼女が抵抗しようともがけばもがくほど締め付けがきつくなっていく。やがて枷をつけられたかのように両手両足の身動きが封じられたのを見て、未晩は満足げに朱華を手元へ抱き寄せた。 朱華はいまにも蜘蛛に捕食されそうな囚われの蝶になったかのように、震えた声で拒絶する。「や……」 「すべての記憶を消して、その器だけを残すことだってできるんだ。だが、オレは人形遊びに興じたいわけではない」 身をよじろうとして痛みに顔を顰める朱華に、未晩が嬉しそうに声をあげる。「その表情がたまらない。オレによって苦しみ悶える朱華。オレだけが知りえる極限状態の朱華。これで泣いてくれれば完璧なんだがなぁ」 「だ、誰が泣くもんですかっ……ぁあっ!」 きゅっと首元の糸を締めつけられ、朱華がか細い悲鳴を発する。「まだわかっていないんだな。朱華はそんなに悪い子だったかな?」 未晩の冷たい指先が朱華の青ざめた唇をなぞり、首筋から朝衣の乱れた胸元へと進んでいく。獲物を捕えた獣がいたぶるように、未晩は朱華の繊細な身体をなぞるように、指先で蹂躙していく。薄布越しに感じるおぞましい感触に、朱華は唇を噛みしめ、瞳を閉じて耐えつづける。「明日にならないと本来のちからを手に入れられないのが惜しい。いますぐにでもここで朱華をオレのものにしてしまいたいくらいだが、この身体だとどうしてか勃起(たた)ねーんだよ。桜蜜を味わうことができればきっと勃ちあがってお前の膣内(なか)まで入り込めるだろうが……」 未晩の腕に抱えられていた朱華は自分の身に迫る危機に顔を蒼白にし、必死になって声をあげる。「やめ、て」 「とはいえ、すこしくらい楽しんだっていいだろ? どうせ明日にはオレの花嫁になるんだから。そんな顔してもそそられるだけだぜ。もっと苛めたくなる」 そのまま、押し倒され、未晩の口唇が朱華の首筋に触れる。「ぁっ」 ちろりと熱い舌先は、まるで蜘蛛の毒針のよう。額から濃紫色のままの瞳、青ざめた口唇に透明感の際立つなめらかな頬、