しかし、史弥にはその言葉にまったく覚えがなかった。眉間に深い皺を寄せ、何かを思い出そうとしているようだった。「俺が?」財務はうなずく。「はい。お忘れでしたら、石川さんに確認してみてはどうですか?」史弥は玉巳が投資した案件に目を通し、その表情は恐ろしいほど沈み込んだ。こんな案件に、よくもまあ目をつけたものだ。もし自分が見ていれば、一瞥しただけで却下していた。投資など絶対にしない。こんなのは金をドブに捨てるようなものだ。玉巳は、白川家の金が余って仕方ないとでも思っているのか?「今すぐ全部撤回しろ」「わかりました」そこへ杉森が電話を受け、足早に駆け寄ってきた。「白川社長、下の連中が押しかけてきてます。早く手を打たないと、警備が......」史弥は一気に苛立ちを爆発させた。「役立たずが!記者ごときも止められないのか。さっさと警察を呼べ!」「警察は......」杉森は口ごもる。史弥はうるさがって、横目で睨んだ。「今度は何だ!」「誰かが通報して、白川社長と小林さんの数年前の失踪事件に関連があると警察にばらしました。今すぐ事情聴取に協力してほしいと......」「いつの話だ」史弥の声には、今にも爆発しそうな怒気が込められていた。「ほんの数分前です。今、背後にいる人物を調べていますが、まだ情報待ちです」「小林家の人間か?」史弥には、小林家以外に悠良のために動く人物など思い当たらなかった。しかし、杉森は首を横に振る。「違うと思います。今、小林家は内輪揉めで、孝之が小林さんに財産の一部を残そうとしているらしいんです」事件発生からずっと険しく寄せられていた史弥の眉が、さらに深くなった。「悠良に?」「はい。なので、小林家の次女と雪江はかなり不満を抱いていますし、孝之も病院での容態があまりよくない。今は白川社長を訴える余裕はないはずです」史弥は無意識に目を細めた。「じゃあ残るは一人だけだな」その視線は自然と向かい側のYKに向けられる。「というと?」杉森もその視線を追った。「YKの仕業だとお思いですか?でも、ちょっとおかしいですよね。寒河江社長が本当にこの件に首を突っ込むつもりなら、もっと前から動いているはずです。どうして今になって急に......
「変なこと言わないでよ。逃げたって話じゃなかった?それにあの離婚届だって、ずっと前から用意してあったんだから、彼女が前から離婚したがってた証拠でしょ」「離婚届はあくまで離婚したいって意思の証明にすぎないだろ?でも当時は、本人が白川社長にあんな目に遭わされて植物状態になってたんだ。どうやって逃げられるんだよ」「本当にひどいよ!人を殺したも同然じゃない!」「しー、声がでかいぞ!」史弥は指先でペンを回し、唇を固く引き結ぶ。黒く濁った瞳はまるで今にも大雨を降らせそうな暗雲のようだった。オフィス全体が凍りついたような空気に包まれ、外にいる者たちは息すら潜める。杉森は入口に立ち、数人を見据えた。「入るならさっさと入れ」だが彼らは互いに顔を見合わせるばかりで、一歩も動こうとしない。杉森は鋭く言い放つ。「もしそのせいで白川社長の大事な用件を遅らせたら、君たちにはその責任を取れるのか?」その言葉に、社員たちはこれ以上時間を無駄にできず、足早に中へ入り、状況を報告した。「白川社長、佐々木の方がうちの入札資格を取り消すと......このまま手を打たなければ、YKが先に動くかもしれません」「井関の方から、今回の白川社長の私事に関するスキャンダルでホテルに大きな損害が出ているとのことです。もし契約を解消しなければ、向こうのホテルにも影響が及ぶと」「斉藤からはブランドへの損害が大きいとして賠償請求が来ています。今、あちらでは顧客が返金を求めて騒いでいる状況です!」史弥は冷ややかに他の者たちを横目で見やり、地の底から響くような低い声を吐いた。「で、お前らは?」残りの同僚たちは一斉に視線を落とす。「わ、私たちも......ほとんど同じような件でして、いくつかの提携ブランドからのクレームや、契約解消と賠償請求が......」史弥は拳を握り締め、額に青筋を浮かべながら歯ぎしりする。「財務は?総額を出せ!」財務担当が恐る恐る人垣をかき分け、史弥の前に進み出る。「試算したところ、もし賠償するとすれば最低でも数百億円になります。今うちは資金繰りが厳しく、さらに海外提携プロジェクトへの投資もあって、すぐに支払える状況では......まずは落ち着いて、他に挽回できる手立てがないか探すほうが......」史弥は机を
伶は光紀が先ほど渡した資料に一瞥をくれ、それを机に戻し、眉間を揉んだ。瞳の奥には重い感情が押し込められている。「もう一度調べろ。それと、植村先生が以前関わっていたあの研究機関の様子を探ってみろ」光紀は少し意外そうに目を瞬かせた。「植村先生がやっていた無人機のプロジェクトですよね。でも、あれは審査が通らなかったとか、何か問題があったって聞きましたが」「焦点は無人機じゃない。その機関、秘密保持契約を結んでいて、数年間は研究に専念する。外界とは完全に断絶状態になるらしい。俺たちがどれだけ探しても彼女の行方が掴めなかったんだ」ふと、伶の頭に一つの可能性が浮かんだ。あり得ないと思っていた場所を除外すれば、残るのはそこしかない。だが、悠良にそんな研究の素養が?彼女の能力は、一体どれほどのものなのか。彼は彼女と長く接していたのに、何も知らなかった。本当のタヌキは、どちらなのか。光紀はすぐに意図を察する。「わかりました。すぐに調べます」二人が床から天井までの窓の前に立っていると、下から騒ぎ声が上がってきた。群がる記者、怒りに震えるネット民たち。伶は、その光景に妙な既視感を覚える。光紀は、あらかじめ淹れておいたコーヒーを彼に手渡した。「まさか小林さんが戻ってきただけで、ここまでの嵐になるとは。最後にこんな騒ぎが起きたのは、白川社長が小林さんを利用して『生贄』にしたときでしたよね。まさか今回は、立場が逆転するとは......」伶の黒い瞳に、わずかな賞賛の光が走る。「想像以上だ。ここまでの嵐を起こすとはな......白川にとっては痛烈な一撃だろう」対面する白川社ビルは、いまや完全な混乱の渦中にあった。入口では記者や警備員が押し合い、ネット民の罵声が飛び交う。「出てこい!ちゃんと説明しろ!」「そうだ、俺たちを欺いたんだ!説明しろ!」「それから不倫女!なんで出てこないんだよ!後ろめたいからだろ?説明できないんだろ?」「そうだろ!隠れてるってことは、やましいからじゃないのか!出てきて説明しろ!」「マジで吐き気がする。数年前、元妻の離婚協議書を利用して、彼女がいなくなった後まで蹴落とすなんて......本当に品性のかけらもない」「どうせグルだろ、このクソ男女!あの頃、小林が浮気
杉森は電話口で一瞬言葉を失った。彼もわかっていた。これまで白川社長は表面上は忘れたように見せていただけで、実際には......だが、今さらすべてが手遅れだ。たとえ小林さんが戻ってきたとしても。「もう一度調べてみます。ただ、白川社長、まずは会社のプロジェクトの件を処理したほうがいいです。株主たちがもう騒ぎ始めています」「わかってる」後に控える問題を思うだけで、史弥の胸中は苛立ちでいっぱいになった。彼は拳を固く握りしめ、ハンドルを思い切り叩きつける。人間であろうが亡霊であろうが、この真相は必ず暴いてやる。白川社ビルの前に着いたその頃、彼は知らなかった。向かいの二十二階から、鷹のように鋭い視線が彼を射抜いていたことを。光紀がファイルを手に、伶のデスクへ差し出した。「寒河江社長、ご要望の資料は手に入りました。ただ、情報が不完全で......小林さんの背後に、意図的に守っている人物がいる気がします」伶は視線を窓の外から戻し、骨ばった指先で手首の時計を軽く撫でた。口元には煙草がくわえられている。「動画は多分、彼女が流したんだろう......前は甘く見てた。まさかこんな大仕掛けをしてくるとはな。あとは、いつ顔を出すつもりか、それだけだ」その言い方に、光紀はすぐ察する。「今日、小林さんが病院の前で三浦葉と会っていました。恐らく、三浦が当時のことを小林さんに話したのかと」伶は目を細め、唇の端をゆるく吊り上げた。「道理で急に動き出したわけだ。それでこそ、植村先生の娘だ」昔から思っていた。あの従順で黙り込む態度――あれは彼女らしくなかった、と。「もしかすると、今の姿こそが本当の彼女かもしれない」「つまり、以前の姿は......小林さんが演じていた?」光紀の問いに、伶の脳裏に五年前の記憶がよぎる。悠良が史弥と玉巳のことを知ったときの反応、そして今、すべてが鮮明だ。無関心に見せかけて、実際はすべてを飲み込み、未来のために耐えていた。一体いつから計画していたのか――その謎に、伶の興味は深まるばかりだった。彼の瞳は暗い光を帯び、表情は冷淡。目を半ば閉じ、腕を組んだままデスクに気だるく寄りかかる。「本当かどうかは、そのうちわかるさ」光紀は不安を口にする。「です
玉巳の声は話せば話すほど詰まり、ソファに座ったまま低くすすり泣いた。史弥の胸中には苛立ちが渦巻き、五年前に味わったあの焦燥感が、堰を切った洪水のように一気に押し寄せてくる。彼は眉間を揉み、手を伸ばして玉巳の肩にそっと置き、宥めるように声をかけた。「ネット民の言うことを信じるな。そもそもあの時、君が出て行かなければ、俺たちはとっくに一緒になってた。感情を壊したとか、そういう話じゃない」玉巳は赤くなった目を、まるでウサギのように潤ませながら、切なげに史弥を見上げる。「史弥......本当に、私のこと......怒ってないの?」「何を怒るというんだ。安心しろ。まず杉森に調べさせる。いったいどういうことなのか突き止めるから。君はしばらく家にいて。この数日、どこにも出かけるな」「でも......会社のプロジェクト、まだ私が担当してるのよ。行かないわけには......この数日が一番大事な時期なのに」玉巳の胸に、不安の影がじわじわ広がっていく。彼女は思わず史弥の腕をつかみ、言葉を吐き出した。「史弥......私たちが病院で見たの、もしかして本当に悠良さんだったんじゃない?これ全部、彼女が仕組んだことなんじゃ......?」確証はない。けれど、あまりに出来事が不自然に重なりすぎていた。五年前のことを、今さら蒸し返すような人物がいるとしたら――悠良以外、考えられない。悠良が去った後に残された手紙と離婚協議書。あの沈黙が、あまりにも長すぎた。そして、彼女の失踪は史弥の世界を大きく揺るがし、かつての幸福を根底から覆したのだ。史弥はこの一年でやっと落ち着きを取り戻した。それ以前がどんな有様だったか――玉巳は、思い出すことさえしたくなかった。すべての元凶は悠良。悠良がまだ生きている――その可能性を耳にした瞬間、史弥の漆黒の瞳が大きく揺れ、固く引き結ばれた唇が震えた。玉巳はその変化を間近で見てしまう。表情に出さなくても、彼の心が波立っているのは明らかだった。彼はいまだに悠良を想っている。だから、名前ひとつでこんなにも動揺するのだ。玉巳は、重苦しい沈黙を破った。「どうであれ、もし悠良さんが本当に戻ってきたなら、私たちも覚悟を決めなきゃ。もし悠良さんが、私たちのことをどうしても許
史弥はすぐにスマホを開き、アップされた動画を見た瞬間、額の青筋がぎゅっと浮かび上がり、顔色が一気に沈み込んだ。玉巳はその険しい表情に気づき、不審そうに近寄る。「どうしたの?」史弥は完全に自分の世界に沈み、暗い目つきでつぶやいた。「ありえない......この動画が......そんなはずは......」玉巳も画面を覗き込み、顔色が一瞬で真っ白になる。「一体誰がこんなの流したの?」そこに映っていたのは、史弥が玉巳と接触し始めた頃、二人で海辺のコテージに行った映像や、その後の密会の様子、すべてが赤裸々に暴露されていた。さらには、玉巳が彼と悠良の新居を訪れたときの映像まで含まれている。史弥はソファに崩れ落ち、緊張のあまり指を噛みながら、重苦しい表情で考え込んだ。コメント欄は、罵声と非難で溢れかえっている。【なにこれ、白川社長は五年前から石川と関係してたってこと?つまり、当時裏切ったのは小林じゃなくて、この『純情キャラ』の白川社長本人じゃん!】【は?一周回って壮大な計画じゃん。完全にバカにされてたな】【このクズ男女、マジで気持ち悪い。そりゃ白川が小林と揉めて突き飛ばしたのも納得。下手したら彼自身が殺したんじゃね?小林に告発されるのが怖かったんだろ】【小説が現実に!よくよく考えるとゾッとする。もしかして小林は二人の関係を知ってて、黙って離婚協議書を書いたのかも】【その後、白川にバレて失踪させられた?そして離婚協議書を利用して罪を逃れた?怖すぎる......】【七年愛した男が、命を奪う悪魔だったとか......小林が本当に殺されてたら、成仏できるわけない】【これ、警察に再捜査させるべきじゃね?雲城警察、早く動け!】【そうだ、こんな卑劣な男を野放しにしちゃいけない】【小林が本当にかわいそう。あんな畜生以下の奴と結婚してたなんて、死んでも死にきれないよ】【私だったら、墓を蹴破ってでも出てくるわ】さらに、玉巳のSNSアカウントにも罵詈雑言が殺到し、DMは鳴り止まず、スマホの通知音がひっきりなしに響いていた。恐る恐る覗いてみると、そこには彼女を罵倒するコメントがずらりと並んでいた。人の家庭を壊した不倫女、子供産めなくなれ、必ず報いを受けろ。玉巳はスマホをぎゅっと握りしめ、涙目で史弥を見上げる。