麻生は伶の姿を見た瞬間、顔色が一変した。最初は信じられないように目を見開いていたが、すぐに我に返り、大慌てで駆け寄った。「寒河江社長......!本当に寒河江社長ご本人が......まさかお忙しい中、弊社にお越しいただけるとは。ですが、本日はどのようなご用件で?」伶は何気なく言葉を落とす。「たまには貴社に顔を出してみようと思ってね。本来は小林社長と話したい案件があったんだが......ああ、そうだったな。まだ『小林社長』じゃなかったか。ならいい」皮肉めいた笑みを浮かべ、あっさりと話を切り捨てる。悠良は、そのやり取りを目の当たりにしながら、まるで舞台を観るような気分だった。期待に胸を膨らませた麻生の顔が、次の瞬間には不安でこわばり、そして失望に変わっていく――伶が人の心を弄ぶ様は、初めて見る光景だった。「寒河江社長!お待ちください!」慌てて麻生が追いすがる。「これは誤解です。我々株主は、明日にも小林さんに会社を引き継いでもらう予定でした。ただ今日あまりにも急で、まだ正式に公告を出せていないだけでして......」伶は足を止め、横目で麻生を見やり、低く問いかけた。「ほう......つまり、悠良が会社を仕切るのは『明日から』ということか?」麻生は頭の回転が早い。伶の意図を即座に察し、慌てて言い直した。「い、いえ!予定は明日ですが、すでに人事部に公告を作らせています」伶は腕を組み、黒い瞳で麻生を鋭く見下ろす。「つまり、まだ出ていないということだな」「す、すぐに発表させます!その間、どうぞ会議室でお待ちください」そう言うなり、麻生は莉子の隣にいた小雪に声をかける。「菅野!ぼさっとしていないで、早く寒河江社長に最高級のコーヒーをお持ちしろ!それから......そこの新人!寒河江社長を会議室までご案内しろ!」呼ばれた葉は一瞬ぽかんとしたが、すぐに何度も頷き、慌てて前に出た。「は、はいっ!寒河江社長、こちらへどうぞ!」伶はその後について歩き、悠良の横を通り過ぎる時、わざとらしく目を細め、深い闇を湛えた瞳を向けた。その口元には、どこか軽薄で挑発的な笑み。「小林社長。何ぼーっとしているんだ?私の時間は、そう安くはないんだが」悠良はようやく我に返り、短く答えた。「あ、はい!」数
「男のために、そこまで手段を選ばなくなったの?でもねお姉ちゃん、あんまり夢を見ない方がいいわよ。寒河江社長がどんな身分の人か分かってる?あの家が、離婚歴のある女を嫁に迎えると思う?」莉子はあからさまな言葉で、まるで離婚が大恥であるかのように悠良を釘付けにした。その一言で周囲の社員たちもざわつき始める。「言われてみれば......五年前から悠良と寒河江社長って妙に関係が近かったって噂あったよな。あの頃まだ白川社長と離婚してなかったのに」「じゃあやっぱり裏があるってことか。この女、相当腹黒いな」「寒河江社長に気に入られるために、五年間も裏で準備してたなんて......普通の人にはできない執念だよ」「ほんと無理。小林会長はどういう考えなんだか。副社長は確かに会社に大した貢献はなかったけど、少なくともスキャンダルとは無縁だったのに」「所詮、一人の女じゃ何もできないって思って、寒河江社長にすり寄ろうとしてるんだろ」「まだ早いんじゃない?そもそも寒河江社長が彼女なんか相手にするかも分からない。どうせ遊びでしょ」莉子は、周囲の声が一斉に自分に味方する方向へ流れていくのを聞いて、ほくそ笑んだ。たとえただの噂話でも、悠良の立場を一時的にでも揺るがせるなら彼女にとっては十分だった。そんな中、麻生が小声で悠良に歩み寄る。「悠良さん......実は株主会では、数日後にあなたに会社を引き継いでもらう方向で話がまとまっていました。これは会長の意向でもありますし、あなたのこれまでの実績、そして今回持ち込んでくれたプロジェクトも素晴らしいものでしたから。ですが、ご覧の通り今の状況です。社内の空気を無視するわけにはいかない。反発が強すぎると......」しかし悠良は微塵も焦る様子を見せなかった。「大丈夫よ。会社に慣れるのが先。それより、ちょうど新エネルギーのプロジェクトがあるでしょう。麻生さん、確認お願いしますね」「まさか、青山社の新エネルギープロジェクトのことか?」「ええ」麻生の目が大きく見開かれる。「でもあれは、白川社も狙っていて、白川社長がすでに交渉を進めているはず。我々が勝ち取れるというのですか?」「できるわ。信じていただければ、必ず成功させましょう」「わ、分かった。頼むんだぞ!」麻生は何度も頷いた。
「わ、私たちは......本当に反省してます。反省文を書けばいいってさっき言ってたじゃないですか。明日、会社のみんなの前で読み上げますから、それで許してもらえますか?」悠良は淡々と答えた。「もうそういう処分で決まってたでしょう?不満でもあるの?」「い、いえ......ありません。これで十分です」「そ、そうです、異議なんてありません!」誰もが心の中ではわかっていた。解雇や業界追放に比べれば、反省文の朗読で済むならはるかに軽い。だがその時、突然株主たちが姿を現した。「いや、もう反省文だけでは済まさん!即刻解雇だ!」「そうだ!わかっていながら不正を働くとは言語道断!直ちに辞めさせろ!さらに公式に発表する!今後この会社で二度と採用はしないと!」当事者たちは恐怖で足が震え、今にも崩れ落ちそうだった。「あ、麻生さん......本当にすみませんでした!お願いします、仕事だけは奪わないでください!」「給料を減らすとか、なんでもいいですから......どうか!」麻生の態度は断固としていた。「話し合う余地はない。社内でこんなことをしでかしたと外に知れ渡れば、会社の信用は地に落ちる」そして視線を向けた。「それから副社長については、共犯および隠蔽の疑いで株主会議を開き、処分を検討する」その言葉を耳にした瞬間、ちょうど廊下から出てきた莉子は、足元が崩れるような感覚に襲われ、思わず壁に手をついた。麻生は彼女の前に歩み寄る。「副社長、株主一同の決定で、当面は停職の上で調査を行います。ご協力ください」莉子はすぐに必死の弁明を始めた。「ち、違うわ!濡れ衣を着せられたの!全部あの人たちが......彼らが『家計が苦しいから助けてほしい』って頼んできたの!同僚のよしみで仕方なく便宜を図っただけで......!麻生さん、お願い信じて!」悠良は腕を組んで横から口を挟んだ。「副社長、濡れ衣だろうがなんだろうが、まずやるべきは調査に協力することじゃない?責任から逃げてどうするの。上司であるあなたがそうなら、他の社員だって同じことをするわ。これからの会社は責任を押し付け合う場になるでしょうね」麻生は大きくうなずいた。「小林さんの言う通りです。それに副社長は小林会長の実の娘でしょう?ルールはルールです、従ってください
「これで署名していただけますか?」莉子は心底いやでたまらなかったが、さすがに賭ける勇気はなかった。もし悠良が本気で怒って、この件を公にしたら......他のことはさておき、自分の今後の人生は刑務所の中で終わるかもしれない。彼女は唇を強く噛みしめ、怒りと屈辱を目に宿したまま、渋々サインを書き込んだ。「これでいいでしょう?」悠良はその紙を受け取り、葉へ差し出した。「明日から入社できるわよ」葉の顔は喜びでぱっと明るくなった。まさかこんなにすんなり事が運ぶとは思わなかった。莉子が強硬に拒むかもしれないと心配していたし、悠良を困らせたくなかったから、正直もう諦めかけていたのだ。莉子がサインしたことは、意外だった。目的を果たした悠良が席を立とうとした時、莉子が声をかけた。「お姉ちゃん......」だが悠良は、何を言いたいか見透かしていた。冷ややかに釘を刺す。「おとなしくしている分には、しばらく追及しない。でも、私を本気で怒らせない方がいいわよ」言い終えると、葉の手を引き、振り返りもせずドアを開けた。その瞬間、莉子が問いかけた。「お姉ちゃんは今......寒河江社長と付き合ってるの?」悠良は答えなかった。ただ一瞬だけ足を止め、そのまま出て行った。莉子は指先を強く握り込み、顔を歪めた。つまり、本当に悠良と伶が付き合い始めている。でなければ、こんなタイミングよく会社前で口論になった直後、ネットであの社員たちのスキャンダルが流出するはずがない。長年会社にいる自分が、その裏事情を知らないはずがない。これで彼らは業界から完全に締め出されるだろう。しかも自分は株主からの追及にさらされる。言い訳をしたところで、最も重要なのは――どう穴を埋めるのか。ちくしょう、悠良!もう少しで自分は伶と一緒になれたはずなのに。すべて、あの女のせい。お嬢様の座まで奪い返しに来るなんて。所詮は私生児、正統な令嬢の自分には勝てない――そう思っていた。だが現実には、「血のつながり」の方が有利に働く。早く手を打たないと......一方。悠良と葉がオフィスを出ると、さっきまで陰口を叩いていた社員たちが右往左往していた。「どうしよう......!なんでこんなことが
社員が慌てて駆け込んできた。莉子はもともと気分が悪く、副社長という肩書きを使って悠良に一矢報いるつもりでいた。ところが、小雪の件を逆手に取られて、結局自分が窮地に立たされる羽目になり、せっかくの計画も台無しだ。騒がしい社員の声に、苛立ちが募る。「うるさい!大声を出して、会社をどこだと思ってんの?」社員はようやく声を落とした。「ふ、副社長......社内の数名の社員が、不祥事を起こしたとネットに報じられています。副社長も確認された方が......」莉子は眉をひそめ、慌ててスマホを取り出し画面をスクロールした。だが数秒も経たないうちに、勢いよく椅子から立ち上がった。「一体どういうこと!誰がリークした!」社員は震えながら答える。「わ、わかりません。ついさっき報じられたばかりで、詳しいことは......」悠良は、その狼狽ぶりに首をかしげた。莉子が社員のことを、ここまで気にかける人だったかしら?その時、葉がそっと肘で合図し、スマホの画面を見せてきた。悠良の目に飛び込んできたのは......数人の社員が会社で不正会計を行い、賄賂を受け取り、さらには会社の金を横領していた記録。給湯室のコーヒーでさえ勝手に持ち帰っていた。それだけならまだしも、さらに致命的なのは......その裏で糸を引いていたのが莉子だということ。不正の一部は彼女の懐に流れ込み、銀行口座にもしっかり証拠が残っている。言い逃れは到底できない。悠良は冷笑を漏らした。助けてもらう時は威張り散らして、いざ自分に火の粉が降りかかれば慌てふためいて責任逃れ。どうせ、次はまた誰かに罪を押し付けるつもりなんでしょう。その隙を突いて口を開く。「副社長、特にお忙しくないなら、人事部にサインをお願いします」だが莉子は、まだ自分が優位に立っていると信じていた。「お姉ちゃん、私を買いかぶりすぎよ。私は副社長であって、会長じゃないの。この件を私一人で決める権限なんてないわ」悠良は急がない。新しく整えたばかりのネイルを見つめながら、淡々と口を開いた。「そう。じゃあ無理強いはしないわ......でも、副社長は覚えてる?五年前、病室に薬を替えに来たあの男。今も見つけられていないのかしら」莉子の顔色がみるみる蒼
悠良にとっても、やりづらい状況なはずだ。葉は唇をきゅっと結び、こみ上げる怒りを必死に抑え込む。「分かりました」莉子は薄く冷笑を浮かべる。葉が踵を返そうとしたその時、悠良が彼女の手を掴んだ。葉は、悠良がどうするつもりか察していた。だが、自分のせいで彼女が莉子と衝突するのは望んでいない。小声で囁く。「いいのよ。ただのノックじゃない。大したことないわ。本当に聞こえなかったのかもしれないし」悠良は横目で莉子を鋭く睨み、ドアのところへ歩いて行った。そして拳でドンドン!と強く叩き、声を張る。「これだけ大きな音でも聞こえないの?副社長は耳の具合が良くないのかしら。必要ならいいお医者さん紹介するけど?今日みたいにノックが聞こえないだけならまだしも、取引先の話が聞こえなかったら会社に大損害が出るかもしれないわよ」莉子はその言葉に筆を置き、じっと悠良を見据える。やがて、引きつったような笑みを作った。「どうしたの、お姉ちゃん。入社早々、友達に便宜を図るつもり?ノックなんて大したことじゃないでしょう。まあ、あなたの友達なんだから、少しぐらい目をかけても当然だけどね」そして、何でもないことのように手を振った。「いいわ、今回は不問にしてあげる。次から気をつけなさい」葉は「事を荒立てるより穏便に」と考えていた。なにしろ、今の自分にはこの仕事が絶対に必要だ。深々と腰を折り、頭を下げて礼を言う。「ありがとうございます、副社長」それを見た悠良は、葉の手を強く引き、不快げに眉をひそめた。「何してるの。この人にあなたの去就を決める権限なんてない。それに、さっきだって十分大きな音でノックしたじゃない。一度だけじゃなく、何度も叩いたよね。耳が遠くない限り聞こえるはずよ」横にいた菅野小雪(すがの こゆき)が、その横柄な態度に堪えきれず、思わず言い返した。「副社長に向かって、その言い方は何ですか。まだ正式に会社を引き継いだわけでもないのに、もうこんなに偉そうで。所詮は『私生児』にすぎないでしょう。正真正銘の小林家のお嬢様には敵うはずがありません」その瞬間まで冷静だった悠良の目が、氷のように冷たく鋭く光った。刃物のような視線が小雪に突き刺さる。「あなたの役職は?」小雪は肩をすくめな