伶は肩をすくめるように眉をわずかに上げた。「ここでどれだけ約束しても意味ないだろ?律樹君は口だけで信じるタイプじゃないよな」確かに、律樹は誰かの言葉だけで信じるような人間ではない。いつも「耳」ではなく「目」で判断する主義だ。伶はまっすぐ言った。「本気かどうかは、時間が経てば自然と分かるさ」律樹はそれ以上何も言わなかった。二人は病室に戻ろうとし、扉の前まで来たところで、律樹が伶の腕を掴んだ。「あの二人......殴り合いとかしませんよね?」「さすがにそれは......」律樹は若菜が入ってきたときの光景を思い出し、つい顔をしかめた。「なんか嫌な予感します。さっきの鳥井社長、顔色やばかったし」伶は律樹の単純な心配に思わず鼻で笑った。喉の奥から低く響く声には妙な色気がある。律樹は伶が苦手ではあるものの、男として認めざるを得ない部分もある。見た目も中身も優れている、それは事実だ。だからこそ、悠良さんが惹かれるのも理解できなくはない。悠良さんが幸せになれるなら、自分がどう思うかなんて二の次だ。彼にとって一番大事なのはそれだけ。女同士の喧嘩の修羅場も何度か見てきた律樹は、無意識に一歩後ずさった。「先に様子見てください」伶は口元を引きつらせ、淡々と扉を押し開けた。「約束通りだ、鳥井社長。何かあれば事前に俺に連絡してくれて構わない」その場面を見た伶と律樹は、一瞬ぽかんとした顔になる。悠良が二人に気づき、声をかけた。「もう?」「ああ。話は終わったか?」一瞬だけ驚いたものの、悠良の性格を知っている伶はすぐに落ち着きを取り戻した。彼女ならやれる──そう確信している。「はい」律樹は頷き、悠良のそばに近づく。乾いた唇が気になったのか、促すように言った。「とりあえず水飲んで。今は体を休んでください」「大丈夫よ。わかってるから」そう言うと悠良は、待ちきれない様子で伶に報告した。「鳥井さんが契約してくれることになった」「ああ、聞こえた」伶は、薄く笑みを浮かべる悠良の顔を見つめた。まだ蒼白さは残っていても、表情には力が戻っている。律樹はその眼差しに気づいた。そこには称賛と、うっすらとした誇らしさが宿っていた。悠良自身は気づいていない。
「俺に会うたび、あんな敵意むき出しなのはそのせいなのか?」「それだけじゃありません。僕は......悠良さんは自分の仕事を捨てるまでわざわざ戻ってきて、あなたのために一所懸命やっているのに、デメリットしかないと思ってるだけです」律樹は、自分がこんな物言いをすれば、伶みたいな家柄の人間は絶対怒ると思っていた。だが意外にも、伶はまるで気分を害した様子がない。それどころか、律樹の反応のほうが大げさに見えるほどだった。伶は胸の前で腕を組み、鋭く細い目で目の前のまだ若い律樹を見据えた。「じゃあもし律樹君だったら、悠良が二度危険に遭った時、どうするつもりだった?」その問いに、律樹は待ってましたと言わんばかりに即答した。全身に力が漲る。「その場で西垣をぶっ潰します。雲城でどれだけ金持ってようが権力あろうが、僕の前じゃ通用しないって思い知らせます」伶は全く驚かなかった。確かにそれはいかにも律樹らしい答えだ。この年頃の若造は何事も直情的で一直線だ。「いいだろう。じゃあ仮に律樹君がその西垣を潰したとして、程度はどうあれ確実にブタ箱行きだ。もし家族がいないならまだいい。でも家族がいたらどうなる?西垣家の性格を考えれば、どういう報復を受けるか、想像できるよな?律樹君一人じゃ済まない。巻き添えで理不尽な目に遭う人間が出る。それも一部にすぎない。今日みたいなことが起きたらどうなってた?西垣を潰した時点で君はもう拘留中だ。悠良が今夜みたいな状況に陥ったら、誰が救う?」伶の言葉は、一つ一つが槌のように律樹の胸に打ち込まれていく。さっきまでの確信は消え失せ、目の光さえ薄れ始めた。自分は後先を全く考えていなかった。ただ悠良を傷つけた連中に報いを与えたい、その一心だったのだ。沈黙に沈み込む律樹。彼は筋が通らない人間ではない。やがて絞り出すように言った。「確かに考えが浅かった。けど......寒河江社長のやり方が悠良さんを傷つけたのは事実です」律樹が望んでいるのは、悠良が傷つかず、自分の人生を持つこと。その言葉に伶はこらえきれず笑った。「非現実的な話はやめようか?律樹君も分かってるだろ、完全に傷つかないなんて無理だ。避けることはできても、ゼロにするには家に閉じ込めて飼い殺すしかない。君の知ってる彼女
「分かっています。今回のことは確かにこちらの落ち度です。ですが、もしプロジェクト自体が良いものであれば、あんな些細なことにこだわる必要はないでしょう。鳥井さんの実力を私もよく知っています。私事のために、こんな大きな案件を逃すような方ではないはずです」悠良はまだ諦めていなかった。それは彼女のこれまでのやり方とも関係していた。以前、白川社にいた頃も、史弥のために案件を取ろうと、複数の取引先と根気強く交渉を続けていた。もちろん断られることもあった。だが、彼女の性格は困難なものほど征服したくなるというもの。最後の一瞬まで決して手を引かない。「それに、鳥井さん。価格についても調整は可能です。前回のご心配は見積りが高すぎるという点でしたよね。こちらは本当に御社と協力したいんです。もしよければ鳥井さんのご希望の金額を仰ってください。赤字が大きくなければ、検討する余地はあります」悠良の声は真剣で誠意がこもっていた。その姿を見た若菜は、伶がなぜ彼女を好きになったのか、ふと理解した。賞賛の眼差しが悠良に向けられる。「小林さんは本当にすごい人だよ。人を惹きつける特別な力がある。太陽に向かって生きるようなその姿に、誰もが自然と影響を受けるわ」悠良はそれを聞いて、淡く笑みを浮かべるだけだった。「お褒めに預かり光栄です」若菜の唇にも微笑が浮かぶ。「でもこれだけを言っておくわ。私は伶のためにこの契約を結ぶんじゃない。あくまで小林さんのためよ。小林さんが今日私を救ってくれなければ、これから先の人生はきっと闇に落ちたでしょう。単なる一つの案件で片づけられる話じゃない。これは私が小林さんに負った恩義よ。それに、ここ数日で気づいたの。そっちと契約しても、私が損をすることは絶対にないって」悠良は思いがけない展開に胸が高鳴り、どう反応すべきか分からなかった。思わず若菜の手を握りしめ、感謝の言葉を口にする。「ありがとうございます、鳥井さん。うちを選んでくださって」「気にしないで。ただ、このプロジェクトを小林さんに最後まできちんと見届けて欲しい」「ええ、もちろんです!」......伶と律樹は喫煙室に立ち、煙草を吸っていた。律樹の目は陰を帯び、全身から冷たい気配が漂う。まるで地獄から這い出た悪魔のように。律樹は
悠良はその言葉を聞くと、目を細めた。若菜は顔を上げ、長く息を吐く。「でも今はもうそんな風に思っていないよ。彼が小林さんを好きだってことが分かったから。分かるでしょ?あの人、小林さんを見るとき、あなたでいっぱいになるのよ」そう言いながら、最後にまた付け加える。「彼があんな顔をしているの、一度も見たことがなかった。前に一緒に仕事をしていたときも、彼のことを追いかける人はたくさんいたのに、誰一人として目に入らなかった。彼は性格的にそういう気がないんじゃないかって、性向を疑ったこともあったのよ。だって、彼が仕事で接するのはほとんど男性だったから」悠良はその言葉に、思わず吹き出して笑ってしまった。首を横に振りながら、若菜に言う。「私も前はそう思いました。彼の周りに女性が山ほどいるのに、誰にも興味を示さないんだから、疑いたくもなるでしょう」今は同性同士で付き合う人も多いのだから。若菜の表情が、ふいに真剣さを帯びた。「ある人が好奇心で彼に聞いたの。そしたら、『好きな子がいる』って答えたのよ。それも『ずっと前から』って、特にその言葉を強調していた。あの時彼を追いかけていた同僚たちも、それを聞いて諦めたみたい。ああいうタイプの人が、他人を好きになるなんてほとんどないって、みんな分かってたんだ」悠良の胸の中に、ざわざわとした感覚が広がる。「つまり......寒河江さんはその頃からずっと、その女性を好きだったってこと?」「ええ、もう何年もよ。私たちが知っているよりもっと前からかもしれない。でも誰なのかは分からない。ただ、この数日の様子を見ている限り、多分小林さんなんじゃないかと思ってる」悠良の顔に、わずかな動揺が浮かぶ。「私を?」若菜の心は、もうだいぶ落ち着きを取り戻していた。理性的で真剣な口調で、悠良に分析を続ける。「伶の家庭環境がどんなものか、小林さんの方が私よりずっと分かってるはず。それに前に話してたでしょ、伶は小林さんのお母さんと知り合いで、縁があるって。つまり、彼は小林さんにもっと早い段階から接していたってこと。だからその人はきっと小林さんなんだよ」悠良は、今の伶が自分に気持ちを持っていることは分かっていたし、彼自身も真剣だと示してきた。だが、よく考えると、それはあまりにも現実離れし
伶が口を開いて若菜の怪我の具合を尋ねようとした時、若菜は彼女を素通りして悠良の方へ歩み寄った。伶は反射的にその手首を掴み、深い眼差しを向ける。「何をするつもりだ」若菜は、彼の顔に浮かぶ緊張と不安を見て、これまで長い年月を共に過ごしてきても一度も見たことがなかった姿に気づいた。その瞬間、悠良が伶にとってどれほど大切な存在かを理解したような気がした。唇に嘲りを浮かべながら言う。「安心して。文句を言いに行くんじゃない。そんなに慌てなくてもいいでしょ」悠良も伶が少し過剰に反応しているのを察し、彼に声を掛けた。「大丈夫よ。話をするだけでしょ?寒河江さんは律樹と煙草でも吸ってきて」伶は悠良をじっと見つめ、そして小さく頷いた。律樹と共に病室を出ていく。病室には若菜と悠良、二人だけが残った。悠良の心は終始落ち着いていた。「大丈夫でしたか?」若菜は首を横に振った。「ちょっと擦り傷があるだけ、大したことないわ」「それなら良かったです。苦労をかけた甲斐があった」悠良は大きく息を吐き出す。若菜は彼女をじっと見つめ、顔の細かな表情の一つひとつまで逃さなかった。「ありがとう、小林さん。本当に感謝してるわ。もし小林さんがいなかったら、今夜私はどうなっていたか......」そう口にした途端、彼女の声は詰まり始めた。今夜の出来事は、彼女にとって破滅に等しかった。悠良は若菜の肩が震え、涙が大粒となって零れ落ちるのを見て、この出来事が彼女にとってどれほど深刻なのかすぐに理解した。そっと手を差し出しながら問いかける。「鳥井さん、一つ少し踏み込んだことを聞いてもいいでしょうか」若菜は顔を上げ、深く息を吸い込んだ。「ええ」「以前にも、似たようなことを遭ったんですか?実際の被害でなくても、猥褻行為や脅しみたいなものでも」その言葉に若菜は黙り込んだ。悠良は彼女の反応から、過去に同じような出来事があったと察した。急かさず、ただ静かに肩を軽く叩き、落ち着かせるようにした。やがて若菜はゆっくりと口を開いた。「実は小さい頃、両親に叔父の家に預けられていて。あの時は分からなかった......そのせいで長い間その叔父に猥褻なことをされていたの。でも、近所の友達からそういう行為が猥褻だと聞いて、よ
伶はその言葉を聞いた瞬間、無意識に若菜のことを思い浮かべた。「女の子ですか?服が少し乱れていての」「はい。精神状態があまり良くないようですが......こういう出来事に遭うと、多くの人は強いストレス反応を示す。耐えられる度合いは人それぞれなので、彼女の心のケアに気を配ってあげた方がいいですよ」伶の漆黒の瞳に、一瞬驚きが走った。「そこまで深刻ですか?」「はい。気を付けた方がいいかと......」そう言い残し、医者は背を向けて部屋を出ていった。ほどなくして、律樹が慌ただしく駆けつけた。「悠良さん!」その焦燥した様子を見て、伶は彼をなだめる。「今のところ大事には至っていない。ただ経過観察は必要だ」律樹は病院に向かう途中で、おおよその事情をすでに耳にしていた。奥歯を食いしばり、低く唸る。「あのクソ野郎どもをぶっ殺してやる!」そう叫ぶや否や、律樹は病室を飛び出そうとする。伶は慌てて腕を掴み、制止した。「事件の後始末は警察に任せよう。人を殺せば、君も刑務所行きだぞ。悠良が目を覚ましたら、どう説明するつもりだ。少し落ち着け。今は命に別状はない。後で必ずあの連中に償わせる」だが律樹は納得せず、冷ややかな笑みを浮かべた。「寒河江社長が雲城でどれだけ力を持ってるかは知ってます。でもここはあなたの縄張りじゃありません。僕が調べたところ、松倉さんとかいう奴、警察に親戚がいるらしい。寒河江社長でも地元のヤクザには勝てませんよ」律樹はすっかり諦めたような顔をしていた。警察の手に渡ったところで、どうせ無罪放免になるのだろう、と。そんな例を何度も見てきたのだ。「......水......」二人がどう事態を収めるかを話し合っていたとき、不意にか細い声が聞こえた。伶と律樹は同時に悠良の方を振り向く。「悠良......」「悠良さん!」悠良はまだ虚ろな表情で、顔は青ざめ、華奢な体がいっそう儚げに見えた。伶は律樹の肩を軽く叩いた。「そばについてろ。俺が水を持ってくる」「わかりました」伶は慌ただしくコップを探し、水を汲んで戻ってくると、一方の手で彼女の背を支え、もう一方の手で水を口元に運んだ。悠良の唇はひび割れ、喉は乾き切っていた。水が触れた瞬間、夢中で飲み干す。その必死