「彼は、瀬川さんを拒まないでしょう」佐藤茂のその確信に満ちた言葉に、真奈はしばし口を閉ざした。数秒の沈黙ののち、静かに問いかけた。「……佐藤さん。もしこの件を黒澤が知ったら……あなたと袂を分かつかもしれませんよ」「彼に、そこまでの覚悟があるでしょうか?」佐藤は言葉少なに笑みを浮かべた。掴みどころのない、その笑みが返って底知れぬものを感じさせた。真奈はしっかりと頷き、言った。「……わかりました。お受けします。どうぞ、良いご縁になりますように」そう言って、彼女は手を差し出した。佐藤はその手を一瞥し、うっすらと笑みを深めながら、真奈の指先を軽く握った。「このあと、もう一人お越しになる方がいます。会ってみられますか?」「どなたですか?」真奈が訝しんで問い返したその時、扉の外から聞き慣れた低い声が響いた。「俺だよ」その声は以前よりもいくらか重みを増していて、落ち着いた響きを帯びていた。真奈がぱっと振り返ると、そこに立っていたのは――佐藤泰一だった。久しく姿を見ていなかった佐藤泰一は、日焼けした小麦色の肌に、以前は赤だった髪を黒の短髪に変え、白いシャツにスラックスという装い。引き締まった体つきは以前よりもさらに長身で、精悍な印象を強めている。鷹のように鋭かった瞳はどこか深みを増し、彼の口元にはおどけたような笑みが浮かんでいた。「……なんだよ。半年会わなかっただけで、俺のこと忘れたのか?」半年か。そう、振り返ればもう半年が経っていた。真奈は、佐藤泰一とこんなにも長い間顔を合わせていなかったことに、今さらながら気づいた。しばらく沈黙が流れたのち、真奈はやっとの思いで短い言葉だけ絞り出した。「……かっこよくなりましたね」その言葉に、佐藤泰一の耳がほんのり赤く染まった。視線もどこか落ち着かない様子で、わざと別の方向へと向けられる。「久しぶりに会えたので、ゆっくり話すといいでしょう。泰一は明後日にはまた出発しますから」「こんなに早いですか?」真奈は眉をひそめながら訊いた。「戻るのは……軍隊ですか?」「ああ」佐藤泰一の目に、かすかな寂しさが過ぎった。「今回戻ってきたのも、実は特殊任務があってのことなんだ」「特殊任務?それって、どんな――」真奈が首をかしげると、佐藤泰一はふっと笑って一歩前に出て、彼女
車が佐藤邸に到着すると、運転手が佐藤茂を丁寧に車から降ろした。その様子を見た真奈は、思わず口にした。「……歩けるようになられたんですか?」言ってから、自分の無神経さに気づき、すぐに言い直した。「あ、いえ、その……私が申し上げたかったのは――」「歩けますよ。ただ、少し動くのに苦労するだけです」佐藤茂は車椅子に移されながら、淡々と続けた。「この脚があってもなくても、私にとっては大きな違いではありません。ですから、瀬川さんも気を遣う必要はありませんよ」その価値観は、やはりどこか常人と違っていた。周囲に執事の姿が見えなかったため、真奈は自然と前へ出て、車椅子のグリップに手を添えた。そして二人は二階の書斎へと向かった。真奈は少し緊張した面持ちで、佐藤茂の向かいに腰を下ろした。「デビューするからには、きちんとした専門のチームが必要になります。佐藤プロでは、瀬川さんに最高のリソースを提供します。特に大きな成果を出していただく必要はありません。収益が上がれば、それで十分です」「……佐藤さん、私へのご期待は随分お優しいんですね」「まあ、私は楽観的な人間ですから」「……」真奈は口元をわずかに引きつらせただけで、何も返さなかった。そんな彼女を前にしても、佐藤茂は淡々と話を続けた。「デビューするからには、話題性が必要です。映画には制作期間もありますから、空いた時間にはバラエティ番組にもご出演いただき、認知度と人気を高めていただきたいと思っています」「……例えば、どんな番組ですか?」「『元カノよ』という番組です」「……」そのタイトルを聞いた瞬間、真奈は思わず苦笑いを漏らした。「佐藤さん、その番組は……」「佐藤プロで新しく開発した企画です。瀬川さんに、ぴったりだと思いまして」「私の元カレって……」「冬城司、ですね」「私たちは……」「離婚されたはずです」何度も遮られ、真奈の笑顔はすっかり消えていた。彼女と冬城が協議離婚したことを知っている者はまだ限られていた。まさか佐藤茂が、これほど早くその事実を把握しているとは――想定外だった。「この番組の収録期間はおおよそ1〜2ヶ月程度です。それほど長くはかかりません。あなたと冬城の合意書には半年後に離婚を公表すると記されていたはずです。すでに3週間近くが経っています。番
「ちょうどさっきです。冬城おばあさんがいらした時には、すでに車は下に停まっていました……」その言葉を聞いて、真奈は思わず顔を引きつらせた。佐藤茂がすぐに動くことは予想していたが、まさかこれほど早いとは――「社長?」大塚が不思議そうに彼女の顔を見る。我に返った真奈は、仕方なさそうに立ち上がりながら言った。「……行ってくるわ」Mグループのビルの前には、佐藤茂専用の黒塗りの高級車が堂々と停まっていた。真奈は本能的にドアを引いた。中にいるのは運転手だけだと思っていた。だが後部座席には佐藤茂本人が座っていた。その瞬間、車内の空気が妙な緊張感に包まれた。「佐藤さん……わざわざお越しになったんですね」真奈は引きつった笑みを浮かべながら言った。多忙を極める佐藤茂が、どうしてこのタイミングで自ら現れたのか、首をかしげずにはいられなかった。そんな真奈の疑問をよそに、佐藤茂はうっすらと笑みを浮かべながら言った。「医者に外の風に当たれって言われてね。けど……その顔を見ると、あまり歓迎されてない気がしますな」「そんな、まさか。佐藤さんが直々に迎えに来てくださるなんて……私なんかには、もったいないくらいの光栄ですよ」真奈がまともなお世辞すら言えないのを見て、佐藤茂の笑みはさらに深まった。「乗りなさい」「……はい」真奈は観念して車に乗り込み、佐藤茂の隣に腰を下ろした。初めて佐藤茂と顔を合わせたときの、あの血の気が引くような場面が脳裏に焼き付いているせいか――彼の隣に座るたび、背筋がぞわついて落ち着かない。「デビューの件、大塚から話があったでしょう?」「……ええ、聞きました」「説明が行き届かないといけないと思ってね。わざわざ瀬川さんに出向かせるのもどうかと思ったし、ちょうど通り道だったから寄らせてもらいました」佐藤茂の膝の上には、あの契約書が堂々と乗せられていた。それを見た真奈は、引きつった笑みを無理やり浮かべる。最初に取り交わした契約書をわざわざ持参している――どう見ても「ついで」なんて代物じゃない。これは明らかに、契約書を突きつけて詰めに来たというべきだ。そうと分かっていても、顔には出さない。「わざわざお立ち寄りいただくとは恐縮です。佐藤さんがいらっしゃらなくても、こちらから改めてデビューの件についてご相談に伺うつ
それを聞いて、真奈の笑みがすっと消えた。「恥知らずって?大奥様、何かお忘れでは?冬城が浅井と浮気していたとき、大奥様は、男なんてみんな多少は遊ぶものっておっしゃってましたよね。どうして女性が相手だと、言い分が変わるんですか?」「男と女が同じわけないでしょ!」「同じ女性として、大奥様は本当に女性に厳しいんですね」真奈はとっくに冬城おばあさんの本性を見抜いていた。もはや言い争う気も起きず、冷たく言い放った。「その件でお越しなら、お引き取りください。私は仕事がありますので、お見送りはしません」それを聞いた冬城おばあさんは、すぐに机を叩いて立ち上がった。「真奈!私はあなたに機会を与えてるのよ!身の程をわきまえなさい!」「機会?それってどんな機会ですか?」真奈は椅子の背にもたれ、目の前で高圧的に怒鳴りつける冬城おばあさんをじっと見つめた。冬城おばあさんは冷え冷えとした口調で言った。「冬城家の門を叩きたい人間がどれだけいると思ってるの?今あなたが冬城家の夫人の座にいられるのは、司があなたを気に入ってるからにすぎない。もし私が、あなたと外の男の証拠でも掴んだら……司がそれでもあなたをここに置いておくと思う?」真奈は動じることなく、顎を手で支えながら、おばあさんを挑発的に見据えて言った。「大奥様、どうぞ、お試しください」「どうやら本気で最上のために尽くすつもりなのね!いいわ、冬城家が与えようとしていた栄光を蹴ってまで、他人を信じるなんて。はっきり言っておくけど、あなたは絶対に後悔するわ!」冬城おばあさんは捨て台詞を残し、真奈のオフィスを出て行った。オフィスの外では、大塚が入口で待っていた。冬城おばあさんが出てきたとたん、にこやかに迎えたが、彼女は鼻で軽く笑って袖を翻し、そのまま立ち去った。彼女が見えなくなってから、大塚はオフィスへ戻った。中では、真奈が悠々と椅子にもたれて座っていた。だが、大塚は不安そうな面持ちで声をかけた。「冬城家の大奥様がああやって会社に乗り込んできた後じゃ、しばらく穏やかにはならなそうですね……」真奈は落ち着いた声で言った。「表立っては手を出せないでしょうけど、陰ではきっと仕掛けてくるわ。ちゃんと監視させて。あの婆さんは策を弄するのが得意だから、私の不倫の証拠でも掴んで、冬城との離婚に持ち込む気かもしれな
「騒ぎを起こしに来たわけじゃないわ。ただ、あなたに話したいことがあるだけ」冬城おばあさんは体面を保とうとしながらも、目の前の真奈にはまだどこかおびえている様子があった。「そうですか。それならいいんですけど……次にまた大奥様が会社で騒ぎを起こされるようなら、今度は容赦しませんよ」真奈の冷ややかな一言に、冬城おばあさんは激怒した。「真奈!私はあなたにとっておばあさまにあたるのよ!まさか、私に手を上げようっていうの?」「まさか。手なんて上げませんよ。ただ――大奥様の借用証書は、今も私の手元にありますから。もし強制執行になったら……その金額、すぐに用意できるとは思えませんけど?」「あなた……」冬城おばあさんは怒りで言葉を詰まらせたが、何もできなかった。証文という弱みを真奈に握られている今、彼女にできることは、ただ黙って耐えることだけだった。「どうやら、大奥様もこれ以上騒ぎを大きくしたくないご様子ですね。では、さっき私が言ったこと――よく覚えておいてください。私の限界を、試さないでくださいね」そう言って、真奈は静かにエレベーターの再起動ボタンを押した。冬城おばあさんはどれほど不満があっても、今はもう何も言えなかった。ふたりはそのまま真奈のオフィスへと入った。室内を見回した冬城おばあさんは、じっと眺めたのちに口を開いた。「最上社長は、あなたをずいぶん気に入っているみたいね」「用件をどうぞ」真奈がソファに腰を下ろすと、冬城おばあさんも遠慮なくその正面に腰を下ろし、開口一番に言った。「今日は、あなたに司のためにMグループの内部情報を探ってほしくて来たのよ」「ほう?」それを聞いて、真奈は思わず笑った。「大奥様、どうしてそんなことを?」冬城おばあさんは平然と続けた。「ご存知の通り、最近冬城家はかなりの損失を出してるわ。あなたに言われたあと、私は家の帳簿を調べて、何人かの取締役にも確認したの。株価が大きく下がった原因は、すべてMグループが裏で手を回したせいよ。あなたの上司の最上道央なんてろくでもない男よ。表立っては司に敵わないから、陰で卑怯な真似をしてる」「やめてください」真奈ははっきりとした口調で冬城おばあさんの言葉を遮った。「余計な話はもういいです。私にどうしてほしいのか、はっきりおっしゃってください」「あなたと
真奈は机の書類を軽く整理しながら言った。「最近の私の仕事は、あなたに少し多めに見ておいてもらうことになるわ。特に難しいことはないから、いつも通りで構わない。商業面の判断は黒澤と伊藤に相談して。いちばん大事なのは、出雲をしっかり見張っておくこと。出雲家の動きはすべて、私に報告して」「かしこまりました」大塚がちょうど仕事の報告を終えたところで、オフィスの電話が鳴った。真奈が受話器を取ると、受付の声が響いてきた。「社長、冬城家の大奥様がどうしてもお会いになりたいとおっしゃっていて、私たちでは止められませんでした」「……何の用か、言ってた?」「それが……特にはおっしゃってませんでした」「上に上げないで。私がすぐに下りるわ」「かしこまりました」受付が電話を切ったあと、目の前でキラキラと宝石をまとった冬城おばあさんに向かって、丁寧にお茶を淹れた。「大奥様、社長はすぐにお越しになるそうです」「私はあの子の姑だよ。迎えに来るのは当然だろう」冬城おばあさんはゆったりと腰かけ、湯飲みに口をつけたが、一口飲んだところで眉をしかめた。「これはいったい何の茶だい?こんな質の悪いお茶を、Mグループはお客様に平気で出してるのかい?」冬城おばあさんの意図的な嫌味に、受付は無理に笑みを浮かべただけで、それ以上何も言えなかった。ちょうどその時、真奈が階段を降りてきた。清潔感のあるスタイリッシュなビジネススーツに身を包み、その一歩一歩が、自信と実力を兼ね備えた女性エリートそのものだった。冬城おばあさんは、真奈を頭からつま先まで一瞥すると、その目には露骨な不満が浮かんでいた。「遅すぎるわよ。うちの冬城家のしきたりでは、私が着く前に、玄関先で出迎えているのが孫嫁というものよ」その口調には、遠慮も配慮も一切なかった。だが、真奈も遠慮しなかった。無言で冬城おばあさんの手から湯飲みを取り上げ、受付の女性に差し出して言った。「大奥様は、こういうお茶がお口に合わないそうです。これからいらっしゃっても、お茶はお出ししなくて大丈夫です」「かしこまりました」その言葉を聞いて、冬城おばあさんは眉をひそめた。「真奈、それはどういうつもりかしら?」「別に深い意味はありませんよ。今日は突然いらっしゃったので、事前に何のご連絡もありませんでしたし。もしかして