フランスでは、かつての美談が細かく切り取られた形で広まり、安田家と三井家に対する中傷も数多く飛び交った。特に標的となったのは三井鈴だった。その理由は単純である。彼女が女性で、しかも離婚歴があったからだ。秘書がこの情報を耳にすると、上司の意図をそれとなく伺った。「帝都グループと東雲グループが新エネルギー資源の争奪戦をしてます。ここで一手仕掛ければ、大崎家がこちらに貸しを感じるかもしれません」雨宮栞里は鼻で笑った。「大崎家ごときに、私が恩を売ってもらう必要ある?」秘書は慌てて頭を下げた。「もちろん、雨宮家には及びません。ただ、三井家は……」今の三井家は、三井陽翔と三井鈴が中心に立っており、その影響力は彼らを凌いでいた。この業界で目立つ二代といえば彼らくらいで、そこに田中仁も加わる。雨宮栞里はまだそこまでの域には達しておらず、雨宮家はまさに後継者不在の過渡期だった。だからこそ秘書は、彼女にもっと名門との関係を深めるよう進言したのだ。「この件は放っておいて。私は陰で仕掛けるような真似はしない。三井鈴が耐え抜けるならそれは彼女の力、潰れるならそれも彼女の運命。落ちた相手に石を投げるなんて趣味じゃない」雨宮栞里が急ぎ足で尋ねた。「今日の座談会、田中仁は来る?」秘書は予定表を確認し、「通常通り出席です」田中仁のスケジュールは一切乱れず、まるで何事もなかったかのように平然としていた。「じゃあ私も行くわ」座談会も終盤に差し掛かり、彼と顔を合わせる機会はもう数えるほどしか残っていない。金融会議センターの前で、雨宮栞里と田中仁がちょうど鉢合わせた。彼女はあの晩の出来事などまるでなかったかのように笑った。「一緒に入る?」田中仁は可もなく不可もなく、黒のスーツを身にまとい、どこか人を寄せつけない静かな落ち着きを纏っていた。すべてを見通すような、確かな自信を湛えて。雨宮栞里は彼の後ろにぴたりと付き従った。だが、思いがけず三井鈴も今日、姿を現していた。三井陽翔に付き添い、水色のデニムワンピースに身を包み、髪を片側に編んでまとめ、ノーメイクのままでも会場の視線を集めるほどの美しさだった。手にはメモ帳を抱えていた。今日の彼女は三井陽翔のアシスタントとして、記録係を務めている。三井鈴は平静な面持ちで田中仁に目をやり、すぐに視線
星野結菜はまだ少し冷静さを保っていた。沈黙する三井鈴を見つめた。「何かあったの?」「何があったにせよ、人前であんな別れ方ってあり得ないでしょ!腹立つ。豊勢グループだろうが、田中仁だろうが、私は絶対に代償を払わせる!」真理子は怒りに駆られ、電話を手に取った。まるでかつて安田翔平と離婚したときのように。彼女が依然として無言のままでいるのを見て、真理子は戸惑い、身をかがめた。「浮気されたの?」「実は、私から別れを切り出したの」三井鈴は深く息を吸った。あのとき、自分が口にした言葉が現実になるとは思っていなかった。「もう、やめようって私が言ったの」「なんで?」「安田悠叶はまだ生きてる。浜白にいるの」真理子は思わず叫んだ。「まさか、あなたが浮気したんじゃないよね!?」彼女は額を押さえて立ち上がった。もしそうだとしたら、田中仁のあの行動も……それほど極端とは言えないかもしれない。「えっと……でもさ、あなた別にその人と連絡とってるわけじゃないでしょ?それなのに、なんで田中仁はそんなに気にするの?」そうよね、彼は一体何を気にしてたんだろう?三井鈴の心に何かがよぎり、思考がぐちゃぐちゃになった。彼女にはひとつの仮説があったが、それを深く考えるのが怖かった。「別れた直接の理由は、それじゃないの」彼女の別れに、田村幸だけはあまり驚かなかった。むしろ淡々としていた。「もともと土台がなければ、どんな恋愛もそのうち終わるものでしょう」星野結菜はグループチャットに「?」だけを送った。「私も三井助と別れたの」真理子は「!」を即座に打ち込んだ。「彼と女優のツーショット、妙に親密そうな写真が出回りそうになって、私が買い取って止めた」三井鈴は沈黙し、すぐにスマホを手に取り三井助に電話をかけようとした。そのとき田村幸が言った。「もちろん、それが別れた理由ってわけじゃないのよ」そんな出来事は、ただのきっかけにすぎない。なぜ本当に別れることになったのか、それを知っているのは、当人同士だけだ。「それで、これからは?」「仕事を辞めて、しばらく海外で勉強しようと思ってる。そのあいだはお願い、三井助には私の行き先を教えないで」三井鈴の電話は繋がらなかった。そのときようやく気づいた。自分はもう長いこと、三井助と連絡を取っていなかった。
「こんなに?」三井鈴はちらりと贈り物の山に目をやった。「これだけじゃありません。何人かの奥様方が、ここ数日お嬢様とお茶でもどうかと、お誘いのお話もありましたよ」その意図は誰の目にも明らかだった。祖父はご機嫌で笑った。「全部断っちまえ。うちの鈴ちゃんにはちゃんと恋人がいるんだから。仁くんはなかなかの男だぞ」その言葉を聞いた瞬間、三井陽翔が三井鈴を見た。彼女はふいに口を開いた。「じゃあアフタヌーンティーは、全部三井家でどう?」祖父は一瞬、表情が固まった。まったく意図が読めなかったのだ。「仁くんと別れたのか?」三井鈴は微笑を消し、静かに答えた。「お祖父ちゃん、私じゃないの。彼のほうから別れを告げたの」小林雪奈の来訪はとても和やかだった。昼食が終わると、そこからは三井鈴の時間。社交界の若手たちが次々と顔を出した。覚えている人も、初対面の人も、彼女は丁寧に対応した。まっすぐなロングヘアに、完璧な笑顔。「年齢で言えば、私はあなたをお兄さんと呼ぶべきですよね」離婚歴のある女性には「傷がある」などと敬遠していた若者たちも、実際に彼女を目にすればその魅力にあっという間に飲み込まれた。しかも、三井家と結婚でもすれば、将来の不安など一つもないと誰だってそう考えた。三井鈴も彼らの思惑には気づいていた。これは一種の賭けだった。一時間半が過ぎた頃、庭には囁き声が立ち始めた。「本当に綺麗だな、一目で忘れられない美人ってこういうことか。そりゃ田中仁も夢中になるわけだ」「でも本当に別れたって話、まさか問題でも?」「いや、飽きただけだろ。まあ普通の中古品なら要らないけど、田中仁が使った中古なら、俺も一回くらい試してみたいね」「……」彼らの遠慮のない言葉は、女性を完全に物として扱っていた。それを耳にした瞬間、三井鈴はカップを机に強く置き、ふいに顔をそらす。その視線の先には、ゆっくりと門前に停まるレクサスの車、彼女の胸がざわつく。車から降りてきたのは、スーツ姿の中年男性だった。手にギフトを提げ、丁寧に頭を下げた。「三井さん、私は豊勢グループ第一秘書の赤司冬陽と申します。田中社長の指示で、ささやかな贈り物をお届けに参りました。本日はご多忙につき、代わりに三井陽翔さんのご婚礼が円満でありますようにとの祝辞を賜っております」三井鈴は
「彼女、いつ戻った?」田中仁の問いに、愛甲咲茉の心は一瞬で晴れた。この一手、間違っていなかった!三井鈴の名はやはり彼の心の奥に深く刺さっている。名前を出すだけで、効果は抜群だった。「今朝、情報が出回りました。ただ、三井陽翔の恋人はとても控えめで、三井家も特に広めるつもりはないようです」控えめという意味は、家柄は三井家に比べてそう高くないということ。もし名のある令嬢であれば、すでに社交界中が騒いでいたはずだ。田中仁の脳裏に浮かんだのは、あの日ホテルで見かけた白いワンピースの女性の姿だった。……三井陽翔が小林雪奈(こばやしゆきな)を実家に連れて行くと決めたのは、本当に突然のことだった。当初は計画通りに動くはずだったのに、昨晩、ある愛情が静かに壊れていくのを見て、彼の中に得体の知れない不安が芽生えた。小林雪奈は不安そうに唇を噛み、目を泳がせた。「三井家は私を受け入れてくれるかな。あなたのお祖父さん、弟、妹、それから他にもたくさんの人がいる」その時、彼は彼女の前にしゃがみ込んで、優しく答えた。「三井家が見るのは、見た目じゃない。人柄だけだ」「弟たちは不在だけど、祖父と妹は家にいる。今日はただの食事だと思えばいいさ。な?」今こうして彼女の腰に腕を回し、懇願しているのが、あの三井グループの社長である三井陽翔だなんて、誰が想像できるだろう。メディアの前では常に冷酷無情、表情一つ変えず、利益しか映さないあの男が。だが、小林雪奈だけは知っていた。三井陽翔はそんな冷たい人間ではない。なぜなら彼と出会った時、彼は三井グループの社長などではなかったのだから。彼女は当時、三井グループの調査員として両家の共同研究に携わっていた。三井陽翔が新たな社長として表に出るその日、彼は突然心臓発作を起こし、道端で彼女に助けを求めた。「助けてくれ、誰かに追われてるんだ」そのとき彼の服はボロボロだった。小林雪奈は思わず眉をひそめながらも、同情心が勝って言った。「令和の時代にこんなこと?とにかく警察に行こう!」三井陽翔は彼女の手を強く握りしめた。「ダメだ!相手はチンピラなんだ。通報してもムダだ、あいつら慣れてるから」小林雪奈には彼がただ哀れで情けなく見えた。あんなに整った顔立ちなのに、どうしてこんなふうになってしまったのか。まさか三井陽翔が、そのま
田中陸は雲城市での入札に敗れ、成果なく戻った時点ですでに大きな失点だった。さらに帰国直後、安野彰人の事件が重なり、少なくとも一年や二年では挽回できないダメージを負った。汚職という大事件に直接関与していなかったとはいえ、関係者として名前が出ただけで、疑い深い田中陽大の下では影響を避けられない。そして田中仁のこの一手は、まさに一石二鳥だった。「母さんはまだ、お前が豊勢グループに野心を持ってないと思ってるようだが、彼女は見誤ったな」田中陽大は含みのある口調で続けた。「昨夜、三井陽翔が雨宮家でひと騒動起こしたそうだが、お前が関係してるらしいな。どういうことだ?」それを聞いたということは、雨宮鷹斗から報告を受けているに違いない。田中仁は応じる気もなく、「もうご存知なのでは?」とだけ返した。「雨宮家の長女はお前に惚れ込んでいる。三井鈴と別れるのも悪くない。お前らが別々の地にいることは、豊勢グループにとっても不利益だからな」田中陽大の語調は少しだけ柔らかくなった。「当時あの騒ぎがなければ、お前が会長職を外されることもなかった」田中仁は何も言わなかった。顔に血の気はなく、感情の反応すら見せなかった。ただ、「別れるのも悪くない」という一言だけが、胸の奥に鋭く刺さった。「三井家には、私から詫びを入れておく」執務室を出ると、入口に赤司冬陽が待っていた。「愛甲さんが面会を希望しています」田中仁は眉を上げた。「どう答えた?」「田中さんはお忙しく、今後もずっと多忙になるとお伝えしました」赤司冬陽はこの業界でも有名な口が堅く、空気が読める男だった。三年前には北沢家の長男の補佐を務め、その後身を引いてからというもの、誰も彼を引き抜くことはできなかった。そして今、彼はすでに豊勢グループに姿を現していた。彼が登場した瞬間、愛甲咲茉の役職は自動的に一段階降格となり、もはや田中仁の専属補佐ではなくなった。この対応に、田中仁は満足していた。だが予想外だったのは、愛甲咲茉が自ら執務室前に現れ、彼を待ち伏せしていたことだった。彼女はビシッとしたスーツ姿で、怒りと緊張、そしてかすかな哀しみを湛えていた。赤司冬陽が動こうとしたが、田中仁は手を上げて制した。「五分だ。言いたいことがあるなら、手短に話せ」愛甲咲茉は彼の性格を誰より知っていた。素
黒夜が深く沈み、落胆した女は車の後ろに身を潜め、三井陽翔に向かって静かに首を振った。声を出すなという合図だった。翌朝八時、豊勢グループの大会が開催された。「安野彰人の調査はすでに終了し、まもなく司法手続きに入る。関係した者たちも、すでに法の裁きを受けた」田中仁は会議の主席に座り、豊勢グループの状況をまとめて報告した。その後、彼はゆっくりと全員を見渡した。「何か質問は?」田中陸は今回の会議に姿を見せなかった。理由は体調不良。取締役や委員会のメンバーたちは、賛否どちらであれ、口を開こうとはしなかった。会議室の一番後ろでは、田中陽大が厳しい眼差しで会議の進行を見守っていた。すかさず、秘書室の第一秘書である赤司冬陽(あかし とうよう)が前に進み出る。「では、次の議題に移りましょう」PPTが点灯し、スライドには大きな文字でこう記されていた【豊勢グループ今後五年間の戦略計】テーマは非常に硬派。田中仁は席を立ち、二時間かけて最低限の要点を丁寧に説明し終えた後、水をひと口飲み、片手をテーブルについた。「発言をどうぞ」右手側には東南アジア支部の代表である品田誠也(しなだ せいや)が座っていた。彼はにこやかに口を開いた。「こんなに過密なスケジュールと計画、田中社長は豊勢グループを世界一にしようとでも?身体が持ちますかね?」一見称賛に見せかけた、皮肉だった。田中仁は正式には復職していない。あくまで臨時の管理職で、名目すらない状態だ。にもかかわらず、品田誠也はあえて「田中社長」と呼んだ。田中仁は意に介さず、淡々と返す。「父から監督役を任された以上、職務を全うするまでです。全力でやりますよ」「流風社との問題は解決したのかね?」「品田さん、知らなかったんですか?流風社はもう国際IPOに進んでますよ。問題なんてない、ただの誤解です」そう答えたのは赤司冬陽。にこやかに笑っていた。品田誠也は、分かったような分からないような顔で頷いたあと、すっと目を細めた。「君が口出す場面か?」たかが秘書が、偉そうに。その一言は、表向きには赤司冬葉を叱った形だったが、実質は田中仁へのあてつけだった。赤司冬陽が言い返そうとした瞬間、田中仁が手で制した。田中仁は淡々とした口調のまま応じた。「品田さんが安野と親しいのは聞いています。私に不満があるの
「だったら、私のことは兄さんじゃなくて、三井陽翔と呼ぶべきだな。もう過去のことなら」「兄さん」と呼んでいたのは、三井鈴の影響だった。田中仁の意識ははっきりしていた。少なくとも、ほとんど酔ってはいなかった。煙草を取り出し、火を灯しながら呟いた。「彼女の口から、もう続けたくないって、はっきり言われた。無理はできないよ」その一言が、彼の心を確かに傷つけていた。「私が知ってる田中仁は、そんな簡単に引き下がる奴じゃなかった」「仕事も人生も、簡単には諦めない。でも、もしそれが恋愛だったら?何年も踏ん張って、それでも一度も特別を感じられなかったら、兄さんならそれでも続けられるか?」真摯な問いかけだった。煙が田中仁の表情を曖昧に隠していた。彼は与えられるだけの愛を与えてきたと信じていた。独占するほどに、偏愛したつもりだった。だがあの日、寺で三井鈴と秋吉正男が肩を並べているのを見たとき、ようやく気づいた。一人で進めようとする恋には、限界があると。三井陽翔は眉を寄せ、その顔がふと目を閉じるのを見た。「私だって、疲れるんだよ」「菅原さんは、最近どうしてる?」しばらくして三井陽翔は問いを変えた。彼は田中仁の隣に腰を下ろし、そこにはもう、上に立つ者の傲りはなかった。「鈴のこと、まだ気にかけてるか?」三井家の両親は早くに亡くなり、兄妹はずっと田中陽大と菅原麗に面倒を見てもらってきた。中でも菅原麗は、特に三井鈴を可愛がっていた。「覚えてるだろ。あの人、いつも言ってた。鈴ちゃんは女の子だから、どれだけ優秀でも簡単じゃないってさ」三井陽翔はふっと笑った。「あれは本当に正しい。私たちがどれだけ彼女を愛しても、親がいないという事実は変えられない」「あなたもわかってるはずだ。あの子は芯が強いし、自立してる。ごまかしをしない、しっかりした性格。感情においても同じだ。誰かに優しくされたら、その何倍もの優しさで返そうとする。そうでなければ、あの年に浜白へ嫁ぐことなんてなかった」それを聞いた田中仁は、最後の一服を吸い終えた。「今の彼女はもう昔のような情熱を持っていない。もし私が結婚しようって言ったら、絶対に断るだろうな」だが、もしその相手が安田悠叶なら?その問いに、田中仁自身も確信が持てなかった。これが差だった。「一度失敗したんだ。なのにまた簡単に結
「じゃあ、私が飲むよ」田中仁は彼が何も言わないのを見て、グラスを仰いだ。リキュールが喉を焼き、胸の奥が熱く灼ける。「いい酒だな」三井陽翔は煽り酒を好まない。必要でなければ無理して飲むこともないし、ましてやこんな場で譲歩する男ではなかった。彼は静かに切り出した。「あなたが自分を壊すなら構わない。だが鈴を悲しませるようなことをするなら、私は黙って見てはいられない。ここに残るか、それとも私と帰るか。選べ」三井鈴の名前を聞いた瞬間、田中仁の手が止まり、次の一杯を注ぐ動作がやや乱暴になった。「悲しむ?まだ私のことで悲しんでくれると思うのか」席にいた者たちは皆、三井陽翔がここに現れた理由に気づいた。妹のためだった。雨宮鷹斗の顔色が一気に変わった。「三井さん、君のご家族は我々を何だと思っているんですか。まるで遊びの道具じゃありませんか?うちの栞里は正真正銘の御嬢さんです。今回の件、さすがにやりすぎではないですか」フランス中の人間が知っていた。雨宮栞里は長年田中仁を想い続けてきた。ようやく進展しかけていたところに、三井家が割って入ったのだ。しかし、三井陽翔はその言葉を無視した。「彼女から電話があったから来ただけだ」それだけで、三井陽翔の立場は明らかだった。彼女にだけは逆らえない。自分の出現さえも、三井鈴の頼みとあれば応じる。それは、ある意味での譲歩であり、同時に決定的な態度の表れでもあった。だが田中仁にとっては違った。彼の耳には、彼女が最初から他人の手を借りて動いているように聞こえた。彼はまた一杯を流し込んだ。「兄さん、帰ってくれ。豊勢グループと雨宮家には業務がある。私は残らなきゃならない」はっきりとは言わなかったが、雨宮家への最低限の顔は立てた形だった。三井陽翔の顔色は、今にも雨が降りそうなほどに暗かった。次の瞬間、雨宮鷹斗がまた酒を勧めようとしたそのときに、彼は即座に机を叩いた。「もう一杯でも飲ませてみろ!」彼は怒声を上げ、テーブルを叩いた。場は一瞬にして凍りつき、誰もが三井陽翔の怒気を察した。彼が本気で怒るのは滅多にない。だが、それが家族に関わることなら話は別だ。「あの……雨宮さん、すみません。家の用事を思い出して先に失礼します」「お、俺も、妻が呼んでまして……」「……」その場にいた人たちは、雨宮家を
車が遠ざかるなか、三井鈴は本を膝に乗せ、一冊ずつ丁寧にページをめくっていた。「三井さん、ご自宅に戻りますか?それとも帝都グループへ?」「空港に」運転手はルームミラー越しに驚いたように彼女を見たが、三井鈴の表情はいつも通りだった。「フランスに戻るわ」……フランスで雨宮家は相当にやっかいな相手として知られていた。家長の雨宮鷹斗は実業で財を成し、若いころは酒の席を這い上がってきた男だった。現在もその文化を忠実に守っており、雨宮家と商談をするには、まずは飲むことが条件だった。……その頃、田中仁は二日連続で雨宮家に泊まり込んでいた。三井鈴が流風社の汚名を晴らしてくれたおかげで、彼の負担は大きく軽減されたが、それでも財閥間の調整は彼の仕事だった。彼は命を削る勢いで酒を飲んでいた。誰に勧められても一杯も断らず、酔い潰れるまで飲み続けた。その様子に雨宮栞里も違和感を覚えた。賑やかな酒席の中、彼の隣でそっと尋ねた。「なにか悩んでるの?」シャツのボタンを数個開けた田中仁の首筋は赤く染まり、酒で膨れた血管が手の甲に浮かび上がっていた。彼は無言でグラスを回していた。酔ってはいたが、意識はまだはっきりしていた。「父はあなたに無理をさせていないし、今夜集まっているのは皆、金融管理局の顔なじみ。あなたの手腕は誰もが認めているわ。不安になることなんてない」雨宮栞里は、彼がいまだに高利貸事件の余波を気にしているのだと感じていた。田中仁は黙ったままだった。沈黙に気まずさを覚えた栞里は、彼の隣に置かれた上着を持ち上げ、身を寄せた。「秘書さんはどこ?私が支えるわ……」彼女の手がちょうど男の身体に触れたその瞬間、玄関の扉が外から勢いよく開かれた。現れたのは三井陽翔だった——部屋に入るなり目にしたその光景に、彼の表情が険しく変わった。「その手を離せ!」一斉に視線が集まり、誰もが驚いた。とくに雨宮鷹斗はすぐに立ち上がり、「三井さん、突然の訪問とは、ご挨拶が遅れて失礼しました」と丁重に迎えた。そこに立っていたのは、ただの若造ではない。すでに三井家のトップに君臨する男、三井陽翔その人だった。全国の財界でも彼に顔を立てない者はいない。雨宮栞里はとっさに手を引いた。田中仁の視線も、そこではっきりとした意識を取り戻した